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42 佃小橋。昔の四角い佃島を取り巻く堀に架かる小さな赤い橋とその下に注目 [月島界隈]

 現在の住居表示による地名では、佃大橋・初見橋・朝潮大橋を結ぶ有楽町線が通る通りから北東側のすべてが佃(「島」はついていないことに注意)で、これが一丁目から三丁目に分割されている。
 佃一丁目と二丁目の区分け線引きの仕方をみても、旧佃島の特殊性と、それがだんだんと埋め立てで広がると同時に周辺とくっついてきた歴史を彷彿とさせている。
 月島駅から北へ向かってマンションの間を縫って行くと、斜めの道が交差し、三角になった公園のような空間があるが、ここで路地の流れが微妙に角度を変えている。ここが一丁目と二丁目の境界である。人が一人やっと通れるような細い路地の隙間に祠があったりするのも、古くて長い間の人の営みを思わせる。
 この、堀の東のワンブロックだけが一丁目に含まれているのは、どうやらこの付近が船着き場であり、旧佃島と一体不可分であったからではないかと思われる。
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 そこからすぐに赤い欄干の橋が架かっている堀がある。この堀が、江戸時代からの最も古い佃島の小さな四角を描いていた。隅田川につながって「コ」の字型になって旧佃島をつくっていたこの堀も、東京オリンピックのときに佃大橋を通すため、その堀の南側を埋め立てられてしまった。
 この佃小橋の通りが、旧佃島の中央で島を二分する比較的大きな通りになっており、その突き当たりが、佃の渡しがあったところになる。
 ここでは、先を急がず、橋の上から堀の中に注目してみたい。
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 白い立て札が堀の中に立っている。
 この立て札を、読んでみよう。
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 佃島の住吉神社の祭礼に使われる大きな木柱が何本も、この堀の中に埋められている、というのである。木材の保存には、水底の土中が適しているということを、昔の人も知っていた。何十年だか何百年だか、毎回祭礼の度にこれを掘り出しては、大きな幟を立てて祭りを営んできたのである。
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 そんなことを思うと、なんとなく心強くなる。人間のたゆみない営みは、さりげなくも案外しぶとい。いかなる困難にも常に向き合って、とにかくなんとかしていける…。
 佃小橋の南側、袋小路の行き止まりになってしまった堀の周辺には、サクラの木も多い。これもまた、去年のサクラの写真を引っ張りだしてきた。
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 今年のサクラは、いろいろ時節を慮っているのか、まだ花の時期がやってこない。だが、遅れても必ず咲くことだろう。
dendenmushi.gif(2011/03/27 記)

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41 初見橋とはどこのこと。地下鉄月島駅の上にあるムーンアイランドタワーは月島一高い [月島界隈]

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 月島機械の前のエレベーターでL字型の地下通路に潜ると、壁面にはもんじゃ屋の広告などもあったり、組合のもんじゃマップなどもあって、他所から地下鉄でやってきた人がそれを見ていたり、待ち合わせをしていたりする。そう、ソースの違いもあるよね。こちらはブルドックだが、広島ではオタフクだ。並べてみると、共通点がありそうななさそうな…。
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 東京メトロ有楽町線と都営大江戸線の駅が接近して交差しているので、L字の角にあたるところでは、朝夕はかなりの人でごった返す。有楽町線のほうは、この先豊洲の駅に向かって、二つの運河の下をくぐっていかなければならないので、月島駅も比較的深い。対する大江戸線も、後発なのでどこでもいちばん深いところを潜っているのだが、ここではさほどでもないので、あるいは先発の有楽町線の上を通っているのだろうか。
 大江戸線の改札口の壁面には、月をモチーフにしたらしい装飾があるが、これを見て“月島の名は観月の名所だったから”というところまで想像する人は少ないだろう。hatumibashi07.jpg
 それでも、駅から地上に出たところにそびえる高層マンションの名が“ムーンアイランドタワー”だといわれると、「そのまんまやんけ」と関西弁で軽く笑える。こういう場合、やっぱ関西弁でないとあかんわ。“月島”の名の意識のしかたにも、いろいろあるようだ。まあ、名前などは、単なる符号・記号に過ぎないのだからどうでもいいといえば言える。
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 月島でいちばん高いこの建物、2002年にできたものだが、地上38階のUR賃貸のタワーマンション。家賃もかなり高いらしい。
 木村カエラが、今のようにブレークする前に、テレビ神奈川の番組に出ていたのを見ていたことがあるが、そのとき本人が「うちは月島」といっていたから、まさか長屋ではないだろう。あるいはこのへんに住んでいた可能性も高いと、またまた勝手な憶測を広げていた。
 ムーンアイランドタワーの前の清澄通りの中央分離帯には、「初見橋」という名前が、はっきりと大きな標識で示されている。
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 初見橋、どこやねン? いや、ここはもう関西弁でなくてもいいだろう。
 それがいつのことなのか、調べが行き届かず定かでないが、もちろん東京オリンピックよりも、さらにずっと前のことであろう。佃島が四角い堀の外側にも展開し、その南に月島一号地が造成されたあと、新佃島と月島が地続きになった。それまでは、佃島と月島の間にも掘割があって橋で結ばれていたのだろう。その橋の名こそが、初見橋だったのだろう。
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 ところで、この青い標識塔。同様のものが、東京都内のあちこちに(それも決まって中央分離帯に)かなりの数が残されているはずである。
 でんでんむし得意の推測では、これは昔の都電の停留所とその名を示したものではないか、と思っている。
 佃島・月島が初めて“本土”とつながったのは、相生橋で、その開通を待って路面電車が門前仲町から水道管とともに渡ってきたことだろう。
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 初見橋が架かっていたであろう交差点の上を、東京マラソンランナーが走る陸橋が通っているのだが、その名は「新月陸橋」だそうである。うーん、“新”の意味がいまひとつ…。
 その向こう側は、佃2丁目と3丁目。月島機械のある佃2丁目にもマンションがやたら増えているが、おもしろいのはその名前が、ほぼ例外なく“月島”を名乗っていることだ。
 たとえば、「ソルシェ月島」「ファミール月島」「セザール月島」「パークアクシス月島」「ライオンズタワー月島」「クレストフォルム月島」「ガーデンハウス東京月島」…。これらはみんな月島ではなく佃にある。
 もちろん、不動産物件としては最寄り駅を明確にしたほうがいいという事情もあるのだろう。

dendenmushi.gif(2011/03/12 記)

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40 旭倉庫と月島機械と。佃大橋の工事で佃の南西の堀は埋められてしまったので [月島界隈]

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 佃大橋の月島側と佃側には、それぞれテラスに通じる階段があって、堤防を越えられる。月島側には少し下流に月島一丁目児童遊園にもテラスへの階段がある。この付近は、堤防の内側も遊歩道が整備されていて、かなり古いサクラの並木があるのだが、マンションやビルの工事の度に、それが少しずつ短くなっているような気がする。
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 去年はまだこれくらいあったのだが…。soko&kikai02.jpg
 ここから佃大橋にかけては、比較的大規模のビルなども並んでいて、その端に旭倉庫がある。これは隅田川の対岸からでも目立つ大きな看板が立っているので、一般にも名前だけはよく知られている。(この写真は、やはり数年前のものです)。
 スペインクラブという一部では有名らしい店も、その倉庫だった建物の一角にある。今はもう使われなくなった倉庫の一部を利用したらしく、トラックの荷台の高さに入口がある。それも敷居が高い(文字通り)理由の店で、昼間しか、それも一度しか行ったことがないままになってしまった。中に入ると、広い空間の壁面いっぱいに、ベラスケスの模写が描かれていて、全体的な雰囲気とともに、なにやら場違いなところにいるようで、圧倒されるような気がした、という記憶がある。
 旭倉庫は、大正時代に薬品や染料などの貿易関係者によって発起されたというが、勝ちどきにある月島倉庫(こちらは戦後すぐの設立だが)とともに、この新開地が江戸湊の流れをくむ東京の港湾施設にも利用されてきたことがよくわかる。
 昭和50年代の終わりから、旭倉庫は不動産事業に進出していて、今では月島の倉庫機能は小さくなっているらしいが、前からよく聞いていたあることと、ここはどうも深く関わりがありそうなのだ。
 それは、音楽関係者の間では、録音などのスタジオが月島にあって、よく使われている、という話である。ラジオを聞いていて、ミュージシャンなどが話しをするなかに、ぽろっとそんな話がでてきたりする。なんどかそんな情報を耳にし、それを覚えていただけだが、具体的に旭倉庫がそれとどう関わっているのか、この付近のどのビルにそんなところがあるのか、今もってまったく不明である。
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 佃大橋からの道は高架となって、月島と佃の間を通り抜ける。西仲通りの北端が、その陸橋の下の交差点になり、その角にはそこだけ異質な感じで説教所なるものが残っている。その向かいのマクドナルドの2階へは、iPadが発売されたときに、無線LAN(WiFi)を試すのが目的で入ったことがある。
 そのときも、この説教所の屋根を、ふしぎな気分で眺めていたのだが、そこで改めて気がついたのは、月島にはお寺がないということであった。いや、ないことはないのだ。長屋の一区画を超えない程度の、よく見ると確かにお寺の表札が出ている、というようなところが、あるにはある。
 佃島の古い住民の先祖の多くは、築地本願寺の檀家である。なにしろ本願寺を築地に移すときにも、船を出してまだ不確かな地盤を埋め立てる手伝いまでしたというから、浅からぬ縁である。そんなことともこの説教所は、どこかでつながる因縁があるのかもしれない。
 マクドナルドの2階から交差点の佃側を見ると、横断歩道を渡ったところが月島機械である。
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 前に、月島四丁目付近では鉄工機械の工場などもあったと書いたが、月島機械が創業したのも四丁目のほうで、それが明治38年であるというから、埋め立てが終わってしばらくしてもう進出していたことになる。現在の佃に本社を新築移転したのは、昭和45年のことである。
 月島は、長屋ばかりではなかった。倉庫と機械工業は、月島の歴史のうえで、重要なものだった。月島機械にしろ、月島倉庫にしろ、もともとは月島だったからそう名乗っていたものが、片方は佃へ移転し、片方は倉庫のある場所は変わらないのに地名の方が勝ちどきに変わってしまった、というわけだ。
 陸橋が佃大橋と朝潮大橋をつなぐ下を、東京メトロ有楽町線が走っている。この橋を架け、道を通すときに、実は佃島も南西側の堀を埋められて月島と地続きとなり、昔からの小さな四角い佃島は、オリンピックがやってくる前に姿を消していた。かつての掘り割りの上を、高架の道路が走り、その下は駐車場になっていて、なんとも中途半端な空間が残されている。
 昭和55年には新富町まできていた地下鉄有楽町線が、そこから隅田川を渡り、新富町=新木場間へと延伸されるのは昭和63年からのことだった。その工事にさいして、さすがにそのオリンピック道路で埋め立てられた掘り割りの下をもぐりたくはなかったのだろう。
 そんなわけで、有楽町線は佃大橋の南に少しずれたところで隅田川をくぐり抜け、掘り割りのあった場所をよけて月島駅で高架下に戻っている。月島機械前の高架下には、月島駅への通路につながるエレベーターがある。この付近から、有楽町線は道路の下に戻っている。
dendenmushi.gif(2011/03/09 記)

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39 佃大橋。東京オリンピックのときに大急ぎでつくったが斜めになっているのはそのせいではない [月島界隈]

 比較的平坦な東京マラソンのコースでも、佃大橋の上り坂は30キロを過ぎてからふたつの難関のひとつである。自動車道は新大橋通りから南東に進んだところから、橋に向かう道は分離され、明石町と湊の間を上り始める。歩行者は階段を登り、自転車用には橋の南側の両袂にスロープが設けられている。
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 おそらくは、この橋が船の航行のネックにならないようにという配慮であろうか、水面からの高さは勝鬨橋に合わせている。だからだいぶ離れたところから上ってこなければならないのだ。
 写真で見ているとほとんどわからないが、地図で見るとよくわかる。この佃大橋、隅田川の上を斜めに渡っているのだ。そんなん別にめずらしくないじゃろという人は、隅田川で斜めに架かっている橋がほかにあるか、探してごらん。
 いつも真正面よりも斜めからものごとを見るのが好きなでんでんむし好みである。ただ、上流に白い支柱とワイヤーの中央大橋などは、橋真ん中でカーブしているのだ。佃大橋と中央大橋と、どちらがよりひねくれているか、にわかに判断できまい。
 この橋ができたのは、1964(昭和39)年の夏。東京オリンピックの開会までになんとか間に合った。オリンピック関連事業では唯一の架橋だったというのだが、はて…。ではこの橋が、東京オリンピックの会場のどこかとつながっていたのかといえば、どうもそうでもないようだ。豊洲でボート? ありえません。いまでこそ、おしゃれを売りにしているが、豊洲などは当時は工場と倉庫ばかりで大型トラックが黒い煙を吐きながら走っていた。要は、日本橋の上にフタをして高速道路を走らせた、首都道路網づくりの一環であったらしい。
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 堂々4車線の広い橋だが、たまたま車がいない写真ばかりになってしまった。これは、明石町の聖路加ガーデンタワーの前のテラスから眺めたところ…。次は、橋の上から勝鬨橋方面を見たところ…。おまけに、なんだサクラが咲いているじゃないか。
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 そうです、これは昨年、一昨年の写真なのです。
 引っ越し。くたびれました。
 それで、片づけがまだすんでおらず、メインマシンを新川に移したので、写真データがあっちこっちのまま。何台かあるマシンの性能にも違いがありすぎて、サーバーの使い分けもまだ思うようにならず、ブログ用の写真も揃えられないでいる。
 まあ、ぼちぼちやることになりますので、移転前のように毎日ペースの復活はむつかしいので、気ままなマイペースになりますが、よろしくお付き合いください。
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 佃大橋、もうひとつ忘れてた。これも橋の下の写真がないので、入れられないでいるが、工法として鉄の箱を渡してその上に車を走らせるような構造になっている。
 2年半ぐらいの工期で完成させたのも、そのせいかもしれないが、これはまったくのあてずっぽうの素人考えなので、間違っているかも知れない。
 この鉄の箱と橋をつくったのは、地元の石川島播磨重工業の佃島工場。なんと、いわば“橋の地産地消”なのですじゃ。これもめずらしいね。
 もうひとつ、特筆すべきは、佃の渡しが、この橋の開通式の当日をもって廃止されたということ。つまり、昭和39年夏までは、東京の銀座からもそう遠くないところに、渡しがあったということ。
 前項にコメントを寄せていただいた「風太郎さん」のように、渡し賃とともにその渡しに乗っていた記憶が定かという生き証人もたくさんご健在であろう。
dendenmushi.gif(2011/03/04 記)

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38 今日の東京マラソンも月島を通る。だがもう引っ越ししたので見物できない [月島界隈]

 青梅から完全にもぎとってしまった市民マラソンの王座(そんなものあるのか?)を、わずか1〜2年で不動のものにした東京マラソンは、これはもうマラソンというより、新手のお祭りといったほうがよかろう。
 去年、佃大橋の上でそれを眺めていて、そう思ったが、そのマラソンコースは、月島も横断していく。ちょうど、佃大橋から朝潮大橋の間を北西から南東へ走っていくのだが、高架になった自動車道を走るので街の景色は見えないし、街の人もランナーが見えるのはふたつの橋の上だけなのである。
 おまけに、この高架の下の通りは、月島と佃の境界線である。めんどくさいことを言えば、ランナーが走る側は佃であって月島ではないかも知れない。
 月末を前に月島の仕事場を引っ越した。今年のマラソンは見物できないので、去年の写真を入れようかと思ったら、メインのコンピュータを同じ中央区だが隅田川を中央大橋で越えた新川の新しい仕事場スペースへ運んでしまったので、間に合わない。が、そんなことはどうでもよかろう。
 月島最後の日は、あまり寒くはなかったが、小雨がぱらぱらするときもあって全体にどんよりと暗い日だった。今年のサクラまで待っていると、引っ越しもシーズンになってしまうので、その前にカタをつけてしまおうと、思い切ったのだ。春一番が吹く前に…。
 ワンルームで、家財がたくさんあるわけでもないのに、引っ越しはそれなりに大変。
 長年の間に積もっているごみを整理して、要らないものを全部捨てて身軽になって帰るという懸案課題も、不充分なまま。結局、時間切れで未整理のままの資料や書類を段ボール箱に詰め込んで、自宅にもって帰ることになってしまった。
 片づけられないわけでもないし、モノが捨てられないわけでもないが、かといって「捨てる技術」だとか「断捨離」だとか、至極当然わかりきった当たり前のことを、もっともらしく得々と言う本が出たり持ち上げられたりすると、苦々しい気分になる。何を捨てて、何は捨てられないか、それを決めるのはオマエではないのだ、とでも言いたくなる。
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 それでも、何度かに分けて、中央区の粗大ごみ回収を申し込んだ。インターネットから申請し、品目・数量から料金を計算し、その金額分のシールを買ってきて貼って、決められた日に回収場所に出しておくと持っていってくれるというシステムは、これまでも利用したが、なかなかうまくできている。帰った自宅のある街でも同じようなことを始めたので、かなり普及しているのだろうか。それなのに、そういうルールも無視して、ガスレンジやテーブルなどを、一般ゴミに出して知らん顔をしているのは、いったいどういう人間なのだろうか。インターネットができなくても、ほかの方法もあるはずだろう。
 ルールとはなったものの、なかなかめんどうで負担になりすぎてその仕組みに乗りきれないのが、家電リサイクルとコンピュータ製品のリサイクルのシステムである。
 要らなくなった冷蔵庫と、もう長いこと部屋の隅に処分ができず放置されたままになっていたブラウン管式の古いディスプレイなどは、ネットで盛んに広告をしている不用品回収業者に見積もりを依頼した。
 中央区と同じような値段で済むとは、もちろん思ってはいなかったが、予想外に高いものについた。それでも、自分で申請して、金を払って、梱包して、発送するという、「文句があるならやってみろ」とでもいいたげなあのリサイクルシステムを使わないで済む代償だと考えれば、納得がいくというものである。
 引っ越しには、何かとパプニングもあるうえに、問題が積み残しになってしまう。
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 今回の引っ越しで、どうやら一番最後まで尾を引きそうなのが、ほかならぬSo-net である。
 月島を引き揚げることで、接続会員ではなくなったわけだ。しかし、帰る自宅にはすでに、ケーブルテレビがあって、これを機会に自宅の通信環境を一元化して、無線LANにしたので、プロバイダとしてのSo-net を継続する意味もすきまもない。
 ただ、このブログは続けたいので、コース変更の手続きをしてほしいと、10日前にハガキを出しているのだが、いまだにウンともスンとも言ってこない。
 ハガキなんぞ出さなくても、電話で言えばすむでしょ、ネットですぐできるでしょうと、誰でもそう思いますよね。ところがねえ…。 そうじゃないんだな、これが。電話なんか何回かけてもぜったいつうじないからね。

dendenmushi.gif(2011/02/27 記)

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37 月島の「川向こう」。堤防を階段で越えると正面に見える隅田川右岸は江戸の出島だった [月島界隈]

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 月島ができる前は、築地・明石町・佃島・越中島のすぐ沖は、佃島とお台場がぽつぽつと浮かぶ海だった。
 浜離宮の隣は、いくつかの広大な大名屋敷があったところで、松平越中守の下屋敷にあった浴恵園など、庭園に海の水を取り入れた汐入りの庭もあったことが、明治2年の絵図にも記されている。離宮のすぐ隣には大きな入江のような地形も見える。
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 幕末に咸臨丸でアメリカに渡った勝海舟らが活躍した幕府の軍艦操練伝習所があったのは、波切神社の東側いまの市場駐車場ビルのあたり。維新後の一時期は、そこには文明開化の象徴の一つでもあった、築地ホテルという大きなホテルができていた。
 この地一帯は、維新後は海軍省の所有になって、多くの海軍施設ができる。場内には海軍の発祥地の碑も建っている。
 江戸時代、いまの中央区(築地・銀座・日本橋・八丁堀・新川など)一帯自体が、家康が江戸の町づくり計画で、神田の山を取り崩して海岸を埋め立ててできた町並みであった。そのため、川(というより堀割運河のようなものだったろうが)でかなり細かく区切られていた。いまその川は、そのほとんどが道路や公園やビルになっていて、神田川と日本橋川・亀島川しか残っていない。
 聖路加タワーや聖路加看護大学がある明石町のあかつき公園のあたりは、広めの入江になって江戸湾とつながっていた。
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 おそらくちょうど長崎の出島を連想したであろう幕府は、このあたりを外国人居留地にした。早くにはシーボルトも住み、江戸時代蘭学発祥の地となった。アメリカ公使館もこの地に永くあり、石造のプレートなども残されている。
 また、運上所(税関)も、いまは料亭治作のところにでき、その関係でか、日本で最初に電信の交信が行なわれたのもここであった。
 石川島の北側、江戸時代の埋立地新川はいまより少し小さく、その分隅田川の河口がもっと広くひらいていた。中州のあたりもまだ川で、大川の名にふさわしく、ここでは現在の倍くらいの川幅になっていた。永代橋はいまの橋より少し北側の箱崎町にあって、深川を結んでいた。
 越中島は深川とは橋で細長く、つながる文字通りの島であったが、その島に沿うようにして堆積ができ、明治になったころには軍の調練場になっていた。
      ●
 前に書いていた「晴月佃勝豊散歩」では、こんなことも書いていた。そこでは別項目に譲ったのでふれていないが、月島対岸の明石町には、中津奥平藩邸があり、そこで蘭学の灯火が光を放ち始めたという歴史のひとこまも忘れてはなるまい。聖路加看護大学の斜向かいの交差点の真ん中には、「解体新書」の碑と並んで福沢諭吉の碑も建っている。 公使館の名残の石は、聖路加タワーの隅田川側にも置かれている。

dendenmushi.gif(2011/02/23 記)

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36 月島の隅田川テラス。スーパー堤防ではないようだが高い堤防が月島を守っている [月島界隈]

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 昨日の問題の答えは、「荒」である。アラ、そうだったのね。
 ここを歩くときは、いつも朝と決まっていた。午後などにはまず歩かないが、ということはでんでんむしが歩くときはいつもここは日陰になっていたわけだ。といいつつ、さりげなくいい写真がないことの言い訳をしている。月島の北西側を流れる隅田川は、実は荒川だったのだ。
 いつだったか、一度、隅田川の全川筋を数日がかりで全部歩き通してみたことがあった。このときの記録もどこかにはあるはずなのだが…。ともかく、東京の人でも、隅田川がどこから始まっているのか、はっきり意識している人は少ない。
 北区の志茂5丁目といってもピンとこないが、東京メトロ赤羽岩淵駅の北東に位置する岩淵水門から、隅田川は始まっている。河川管理のプロの意識では、これがあくまでも荒川の本流であって、みんなが「荒川」といっているのは、あとから付け替えられた「荒川放水路」のことなのである。
 でんでんむしの記憶でも、昔の地図には必ず「荒川放水路」と明記してあったが、近頃では単に「荒川」となっている。前項の堤防に埋め込まれたプレートをみても、少なくとも昭和38年までは、河川管理上はこの隅田川は「荒川」だったわけである。
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 この堤防は人の背丈の倍はありそうで、公園から数段上ったところから、階段を越えて初めて隅田川が見えてくる。階段を下りたところが隅田川テラスというある種の緩衝地帯、遊水池のようになっている。平時には、ここは格好のジョギングコースや散歩道になっているわけだ。こうした堤防を越えられる階段は、公園のある数箇所に設けられている。
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 例の仕分けでは、あまりにお金がかかり過ぎると指摘されていたが、“スーパー堤防”というのも、隅田川の流域の数箇所で進められていた。ここの堤防は、それほどの余裕はないが、川と住宅地の間に貴重な空間を生み出している。
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 三丁目児童遊園から続く階段を上るとすぐ正面に、聖路加タワーが聳えている。
dendenmushi.gif(2011/02/22 記)

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35 月島三丁目児童遊園。1−1は公園として残した知恵は今思うとなかなか偉大であった [月島界隈]

 朝潮橋から月島図書館のある区民センター、マテバシイの並木、旧日本最古の交番を経て、真っすぐ月島を横断する道は、清澄通りから南東側では二丁目と四丁目の境になっていて、北西側では一丁目と三丁目の境になっている。その道を突き抜けて、隅田川にぶち当るところが、公園になっている。
 道は一丁目と三丁目の境なのに、その突き当たりは三丁目1−1。三丁目はここから始まっている。わたし遊園も通りの行き当たりが公園になっていたのだが、朝潮運河側ではそういうものはなく単に行き止まりになっている。隅田川側では堤防の内側にもうワンブロックにマンションなどが並んでいる。主な通りが隅田川に向かうところは、そこには家を建てさせず、公園にして空間を残したわけである。
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 これは、一見どうということはないようにも思える。月島自体がハモニカ長屋の住宅密集地であれば、そんなことは当然すぎるくらい当然の配慮であったかも知れない。
 だが、今、その公園の隣でも中規模のマンション開発が進んでいるのをみると、ここを公園にして、誰もが好きなときに隅田川の河岸に出られるようにした、ということのありがたさを、ひしひしと感じてしまう。
 公園というものは、ただこどもが遊ぶだけではない、より大きな意味をもっているが、中央区では月島のこれらの小さな公園を、たいした遊具があるわけではないのだが、「児童遊園」と呼んでいる。
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 月島の住人は、狭い日当たりの悪い路地の間に競うようにして大小の鉢を並べ、草花などを育てている。そうした個々人の行為と、いかにも手入れが行き届いた公園の間に、なにかギャップがあるような気もする。
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 マンションの工事で、どうやらここにあった古い桜並木も、かなり伐採されてしまったのか。
 公園を抜けて隅田川の高い堤防に行き当たると、これまで気がつかなかったが、プレートが堤防の壁に埋め込まれている。ああ、残念。最初の文字がツタの葉に隠れて読めません。さて、問題です。ここにはなんという字が隠れているのでしょうか。
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 ヒント:漢字一文字です。
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dendenmushi.gif(2011/02/21 記)

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34 月島もんじゃ焼き屋。こどもの駄菓子から始まって今や東京のメイブツになったとはいえ… [月島界隈]

 つい先日、みぞれまじりの寒い宵の口、東京駅八重洲南口から出て、明石町を経由して勝鬨橋を渡り、深川車庫へ行くバスに乗っていた。 前の席に座った若い女性が、運転手さんに尋ねている。もんじゃ通りに行くにはどうしたらいいかというのだ。運転手さんは、最初は勝どき駅前で降りて、亀戸行きのバスに乗り換えるコースを教えようとしていた。いやいや、それよりも、勝鬨橋南詰で降りて、交番の角を左に曲がって西仲通りをまっすぐ行けばそのほうがはるかに早いのに…。そう思っていたら、運転手さんも考え直して、ちょっと歩くけどこっちのほうがいいと教え直していた。
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 どうやら、その女性は遠くからやってきて、もんじゃなるものを食してみようという、酔狂な考えに取りつかれてきたらしい。月島といえばもんじゃ。今では誰でもそういう連想をするくらい、立派な東京名物のひとつであると認識されてきたらしい。
 だが、最初に断っておくと、でんでんむし自身は個人的にこの食べ物にはあまり感心していない。だから、もんじゃ屋には数回数軒は入ったことがある程度で、人様にお勧めするような情報提供や、もんじゃのうんちくを語ろうというにも、その資格を欠いている。したがって、鉄板の上の写真を撮ろうなどとは毛頭考えない。
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 もともとはこどものためのおやつ間食として、路地裏の駄菓子屋の店先に鉄板を置いて焼くようなものだった。“もんじゃ焼き”の語源も、そのときこどもたちが文字を書くようにたらして遊んだ“文字焼き” といったところからだという。
 こどものおやつだったという点では、広島のお好み焼きと同じであるが、広島出身のでんでんむしとしては、どうしてもそれと比べてしまう。それが、もんじゃに対しては辛口にならざるを得ない唯一の理由である。
 広島のお好み焼きは店の人が焼いてくれるが、月島のもんじゃ焼きは客が自分で焼く。店としては手間がかからないンだから、もっと安くてもよさそうなものだが、今ではこどものおやつどころの値段ではなく、しかもアルコール類を提供することが不可分となっている。
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 月島のもんじゃ屋は、西仲通りだけでなく、そこから路地を入ったところや別の通りにもあって、その数70とも80ともいう。ブラッド・ピットがお忍びで食べにきたという伝説がある店などは土間の雰囲気など、昔の駄菓子屋もんじゃの延長にあるようだ。
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 でんでんむしが月島にやってきた9年前には、西仲通りには気の利いた喫茶店やブリ刺し定食のうまい食堂などもあったのだが、間もなくそれらがすべてもんじゃ屋になってしまった。月島では、もんじゃ以外でうまいものを食べさせる店は、まずほとんどない。もちろん下戸のでんでんむしのいうことだから、知らないだけである。
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 月島の有名店も、ネットでは超有名なアンコウ鍋のほていさん、テレビがくると必ず写す牛もつのげんき、清澄通りの居酒屋魚仁(ここは吉田類の「酒場放浪記」に登場した)など、などいくつかあるけれども…。あ、ほていさんはね、何度かお客さんを連れて行きましたけどね。
dendenmushi.gif(2011/02/20 記)

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33 西仲通り商店街(もんじゃ通り)。三角屋根?アーケード通りは月島のシンボル [月島界隈]

 月島のメインになる通りは、清澄通りを中心にしてほぼ左右対称に引かれている。両側の川に近い通りが「河岸通り」。その内側が「仲通り」。その西側の通りだから「西仲通り」なのである。地下鉄の有楽町線の改札を西に出た7番出口の階段を上ったところから、西仲通り商店街の1番街が始まり、まっすぐ4番街まで続くこの通りは、130余の商店が軒を接して並んでいる。
 ここに商店街が(組織として)できたのは、1946(昭和21)年、終戦の翌年のことである。その後1960(昭和35)年からは、歩道と車道を分け、歩道の上にはアーケードを設置する工事が行なわれてきた。
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 現在でも、この通りを歩くと、アーケードの上につけられた三角の屋根飾りが、まず目立っていて、個々の店をつなぐシンボルのようになっている。シーズンには、ここに電飾もピカピカする。
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 その三角屋根のさらに上を見ると、そこにはおそらくはアーケードができる以前の通りのイメージを残しているようだ。月島には戦前からの建物もまだ残っているが、古い看板建築のような趣をもつ店は、上に残った看板とは違う商売をしているところもあれば、古い看板と今の商売が変わることなく続いているところもある。
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 「月島西仲共栄会商店街振興組合」といういかめしい名前の商店街加盟の店舗のうち、約半分弱が飲食店である。通称「もんじゃ通り」といわれるこの通りは、まさしく月島のもうひとつの中心であり、その通りのなかの中心が、旧交番が建っている交差点なのである。
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 この通りではさまざまなイベントも定期的に行なわれ、草市などは屋台なども並んで、古き下町の風情を偲ばせてくれる。もちろん佃住吉神社の例大祭には、神輿を出して練り歩く。これは毎年やるのは大変なので本祭は三年に一度の行事になっている。
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 中央区が進める新しいお祭りもあったりして、高円寺などから先輩を招いて阿波踊りをやったときも、この通りは主要な舞台となった。
dendenmushi.gif(2011/02/19 記)

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