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52 相生橋。…といえばどうしても広島を想ってしまうのだが元来はおめでたい名前なので [月島界隈]

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 川べりの隅田川テラスとその上の土手と道と、そして両者をつなぐ斜面からなる石川島公園を南に向かって通り抜けると、目の前に現れるのが相生橋である。対岸の越中島は、元は広い葦の原だったようだ。その土地に目を付けた陸軍の練兵場になっていたそこは、今ではヤマタネなどの倉庫や都営住宅が並んでいる。石川島側のテラスのふちには、鋼矢版の囲いがしてあって、水生植物の再生実験が行なわれているような形跡がある。
 越中島と月島の間には、小さな船のような形をした島が横たわっている。こういう場合のお約束のように、その名は「中の島」だが、川の中央ではなく越中島よりにあり、しかも陸と橋と島が一体になって、そこは公園になっている。
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 何の気取りもない、素朴な鉄骨の枠組みが特徴的なフォルムが印象的なこの橋は、その構造についてトラスがどうとかの説明板もあるが、しろうとの悲しさでどこがエライのかよくわからず、覚えていない。現在の橋に架け替えられたのは、1998(平成10)年のことである。
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 前にもちょっと紹介したが、月島と佃島が渡し船以外で初めて本土と結ばれたのは、この橋の開通(1903(明治36)年)によってであった。最初の橋は、もちろん木の橋で、このときは中の島も名実ともに島で、これを利用して月島側の長めの橋と越中島側の短い橋と、大小二本の橋ができたのであった。
 橋の開通と、ほぼ同時にやってきたのは水道管。でんでんむしが当時を知るわけはないので、これらはすべて月島図書館で仕入れた資料による知識と記憶であるが、東京湾にできた埋立地では、交通事情もさることながら、井戸がないので飲料水には不自由していたらしい。なにしろ、水桶を積んだ小舟が隅田川を渡って、水を売りにきたというのだから…。
 お向いさんの“本土”越中島や深川も新興の埋立地だったのだが、深川のほうはその頃は結構繁華な場所だったらしい。富岡八幡などの門前町で文字通り市をなす状況だったと思われる門前仲町から、橋の拡幅工事が終わって路面電車が線路を延ばしてきたのは1923(大正12)年。橋にもいろいろな歴史とドラマがある。
 大震災はその2か月後、燃えた船が橋に流れてきて全焼してしまう。月島は、それから3年以上もの間、またしても“離島”になってしまう。震災復興事業で掛け替えられた隅田川の橋は多いが、この橋はその第一号だった。
 石川島の先端に当たって二手に分かれた隅田川も、東の流れはこの橋までである。この橋から下流は、豊洲運河ということになるらしい。橋の袂にある川の標識は、“ここまでが隅田川”ということを、やけに強調しているように見える。
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 橋の東側、越中島には海洋大学の広い敷地があって、川寄りには帆船「明治丸」が保存されている。かつては灯台を巡回するのが仕事だったこの船は、その後は練習船として活躍した。今ではなにかの重要文化財のはずである。
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 おや? なんか変…。
 三本マストが高くそびえているはずなのに、それがほとんど目立たない。いったいどういう事情で、マストをちょん切ってしまったのだろうか。重要文化財になんちゅうことすんじゃい!
 以前は、佃側から見ても、それが高々とあったのだという証拠に、ちょん切られる前の写真も…。(“なんでも物知りの”ChinchikoPapaさんがブログでくださったコメントによると、「明治丸」は海洋大学が修理中であったが資金難になり、補修作業が中断しているとのこと。マストがちょんぎられたままになっているのはその関係らしい。)
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 「相生」という名は、地名としても全国各地にある。なかでもいちばん有名なのは、兵庫県の相生市であろうが、ここの命名の由来はかなり特殊である。なんでも「おお」が元の呼び名で、たまたま城主の海老名氏が相模の生まれであったところから、この字が当てられたという、複雑骨折のような由来による。
 神奈川県には海老名市があるので、鎌倉時代の守護地頭として播磨へ派遣された鎌倉武士の一族なのであろうが、こういう例は数多く、それがその後の日本の骨格を形成したような趣がある。当時の社会的な事情を考えると、これは相当大変な意思決定に基づく社会改革であったといえる。
 その文脈のあとで述べるには、かなり飛躍しているし、同列に論じることではないながら、民主主義の現代に生きる人間が災害を乗り越えるに思い切った手も打てず、あまりにももたもたしているようにみえてしまう。
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 この変な例を別にすると、だいたいは「相生の松」が象徴し、謡曲の「高砂」も元は「相生」であったように、夫婦が長く睦まじくあるという意味の賀字・雅語の類いである。もちろん、この相生橋も最初の架橋が大小二本の橋であったところから、夫婦橋の意でつけられた命名である。茶碗でも箸でも名刺(これだけは最近少なくなりましたが)でも、オトコが大でオンナが小と決まっていた。この頃はそれですんなり決まったが、昨今では逆の場合もあり異論も多かろう。
 広島生まれのでんでんむしは、同じ名前の広島の三角洲の中央にあるT字形橋のことに、どうしても想いが流れていくのである。
 本川という川を横断しながら、中央から南に向かってやはり中の島とも呼ばれた中洲島にもかかるその橋は、上空から見ても目立つ形で、それが原子爆弾の投下目標になったといわれている。でんでんむしの生家は、その橋から1.7キロほどのところにあった。
dendenmushi.gif(2011/05/03 記)

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51 消えてしまった石川島。いうなれば佃島に庇を貸して母屋をとられたかわいそうな島なの? [月島界隈]

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 前に石川島という島について、「いまはその名もほとんど残っていない」と48項の見出しに書いていた。というのは、佃島の北側一帯は、今の住居表示では「佃二丁目」となっている(佃一丁目は“百間四方”といわれた旧佃島の狭い範囲だけ)。今は「リバーシティ21」とも呼ばれる、かつては佃島とは別の島であった地域全体がそうなのであって、つまりは「石川島」という名は、現在の地名としてはどこにも残っていないわけである。
 古くは「鎧島」といわれたこの島は、隅田川が運んできた土砂が堆積してできた中州だったのだろう。ただ、浮世絵版画にはただの砂洲ではなく、山らしきものが描かれているので、小さな島があってその先に砂洲が延びていったと考えられる。その南西側の端っこの砂洲を、おそらくは鎧島の土も使いながら埋め立て広げたのが、佃島である。将軍家光の代に、“石川五右衛門”ならぬ“石川八左衛門”が鎧島を拝領したので、そこが石川島と呼ばれるようになったのだという。石川島は、鬼平などの時代小説でおなじみの“人足寄せ場”という労役場があったことでも知られ、明治期には海軍の重要施設としての役目も果たした。
 こうしてみると、佃島に庇を貸して母屋を乗っ取られたようなもので、かわいそうなのは石川島じゃありませんか。
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 パリ広場の突端から相生橋にかけては、「石川島公園」という名がある。高層マンションの下には「石川島資料館」がある。佃島小学校・佃中学校(これも小学校のほうが先で、あとからできた中学校は「佃島中学校」にするには憚りがあったわけであろう)の南には「石川島播磨重工業健康保険組合病院」というのもある。
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 今に残る「石川島」は、そのくらいであろう。ただし、病院は少し前に「IHI東京病院」と看板を変えた。石川島資料館は、ひさしぶりに覗いてみると震災後は閉館になったままであった。
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 その名が消えたのは、石川島播磨重工がそもそもの発祥の地であるここから撤退したことが、いちばん大きな要因になったのであろう。資料舘と病院だけじゃ、どうしようもありません。
 1853(嘉永6)年に、ここに水戸藩が造船所がをつくり、これが後に石川島造船所となり、さらに1939(昭和14)年頃から造船所の主力は、豊洲に移転する。海軍がここを中心に使うようになったことと、関係があったのかもしれない。豊洲に移った石川島造船は、播磨造船と合併して石川島播磨重工業となり、現在では「IHI」が社名になっている。なんか、安売り旅行会社か電気釜みたいな名前だなあ、などといってはいけません。こっちのほうがはるかに由緒ある略称なんですからね。
 メザシの土光さんも、この会社の出身であった。最後まで残っていた佃工場が閉鎖されたのは、1979(昭和54)年であった。
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 石川島公園には、かつてここで日本で初めて蒸気式軍艦が建造されたことを記念する標識が立てられている。
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 でんでんむし得意の憶測だが、石川島を消して佃に地名を統一するにあたっては、「佃島」とするには百間四方に限定されるようで抵抗があったわけで、「島」をとって「佃」とするのは、足して二で割る妥協案だったような感じもする。小学校と中学校の名前が違うのも、そうしたいきさつをしのばせているようだ。
 石川島とは直接関係ないのだが、石川島散歩で時間に余裕があれば、ちょっと立ち寄ってみるとおもしろい場所がある。中央大橋あたりでついでに書いておけばよかったのだが、書き忘れていたのでここで紹介しておこう。
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 中央大橋の南詰め、橋に向かって右手にガラス張りの建物がある。ここは共同通信社の研修センターかなにかだが、その1Fに全国の地方紙を集めて閲覧に供しているスペースがある。
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 地方紙だから、送られてくるのに多少時間がかかり、その日の新聞は無理だが、全国各地いろいろな地方の新聞が見られる、これはなかなかおもしろいですよ。 (手前のテラスと茶色い椅子は、隣の中華レストランのもの)
dendenmushi.gif(2011/04/29 記)

●関連リンク(求む情報提供)
番外:2013年前半のブログレポートまとめ:「消えてしまった石川島。」はなぜか消えないで…(So-netブログの七不思議12)

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50 佃・月島の北端の岬。隅田川を分ける先っちょから永代橋を望むと [月島界隈]

 このブログは、岬をめぐるのがメインテーマなのだが、いろいろな経緯からここしばらくはサブテーマのほうにばかり、傾斜してしまっている。月島界隈も、ぐるっとひとまわりが終わるまで、あともう少し続ける予定である。
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 この項は、地形だけでいうなら岬にこじつけてもいいくらいで、佃・月島の北端にちょつと尖って突き出た先っちょである。
 この先っちょの上の一帯にも、パリ広場とかいうほとんど無意味な名がついているのは、例の友好河川がらみだがこれも当事者の自己満足だけのことでしかなく、ここを歩く人の何割がその名を知っているかといえば、決して多くはあるまい。
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 隅田川が永代橋をくぐって流れてきて、石川島にあたって、ふたつに分かれる、ちょうどその分水嶺のようになっているが、本流は上流に向って左、西を流れる。右の東側も、越中島に沿ってこの先の相生橋までは隅田川なのである。「メッセンジャー」も見送るこの場所は、水面が広く開放されていて、ちょうど正面に永代橋のアーチを眺める。
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 隅田川がまだ大川と呼ばれていた時代、四番目にあたる架橋は、現在の位置よりも少し北、豊海橋で日本橋川を越えたところ付近で行なわれた。この橋は、新開地深川を結ぶという点で地理的な要衝でもあったし、江戸を代表する橋として名高い。やはりここでも、祭りの人出で溢れる橋が落ちて、多数の犠牲者が出たという記録もある。
 物語りにも多く登場するが、でんでんむしはひょんなことから平岩弓枝の『御宿かわせみ』を読み始め、とうとう明治維新になるまでつきあってしまったが、その主人公たちにかかわる宿があったとされるのが大川端で、今の永代橋の下流右岸にあたる。大川端町という町名も消えてしまって、新川一丁目となっているが、ここを歩くと小さな堀割りがあったところにお稲荷さんだけが残っている。新川側も佃公園より木は若いが、サクラの並木が中央大橋まで続いている。
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 先日、そこを歩いていたら、こんな立て札が立っていた。
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 そして、ちょうど水上バスの新鋭船「ひみこ」が通りがかるところだった。
 ひとつの島になっている佃と月島では、ここが最北端。
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 突端の半分はウッドデッキになっていて、半分は石を敷いて満潮時には水をかぶるようになった親水設計である。大きな木もなくて陰翳に欠け、明るいがいささか殺風景ではある。たまに、ここから釣糸をたれている人を見かける。足場はいいのだが、あまりいいポイントではあるまい。おそらく...。このときは、潮が引いていたので、昔に撮った満潮時の写真も…。
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 ジョギングや散歩、犬をつれた人、などで賑わうこの付近に、新しく加わったポイントが、みんなの注目を集めている東京スカイツリー。
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 先ごろの地震で、先っちょが折れ曲ってしまった東京タワーの気持もよくわかる。このニュースを読んだとき、Macintoshのことをすぐに連想したものだ。彼等は、ユーザーがぼちぼち新製品情報を気にしたり、切り替えを考えようとしたりすれば、必ずといっていいほどどこかしら具合が悪くなってしまうのだ。これは「Macが拗ねている」のだと理解を示しているのだが…。
dendenmushi.gif(2011/04/25 記)

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49 中央大橋。レインボーブリッジと同じ日にひっそり(?)と開通したへそまがり大橋 [月島界隈]

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 隅田川とセーヌ川が仲良くするとは、どういう方法や意味や意義があるのかよくわからないが、友好都市というのがあるんだから友好河川があってもいいじゃないか、というわけで(か?)隅田川がパリのセーヌ川と友好河川となったのは、1989(平成元)年のことであった。当時、佃二丁目の高層マンション群も次々とできていたが、交通の便ははなはだよくなかった。
 ちょうどこの頃、知人がこの高層マンションに住んでいて、ものめずらしさに見学しに訪問したことがある。北向きの窓のテラスは、かなり高い塀でカバーされていたが、そこから覘くとちょうど眼のはるか下で、中央大橋の工事が進んでいた。
 東京の都市計画では、この新しい街と霊岸島を結ぶ道路を計画しており、この道路を道路たらしめるのは、ひとえに中央大橋の開通にかかっていたわけである。
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 当時は隅田川でいちばん新しい橋ということでもあり、セーヌとの提携に因んでというタイミングもあった。そういう背景でか、この橋は「フランスのデザイン会社が設計した」のだという。中央大橋を取り上げたネット情報は多く、そのいずれもが判で押したようにそう書いている。ウィキペディアがそう書いているので、どうやらそれの孫引きらしい。せっかくなら、と思って調べてみたが、デザイン会社の名もデザイナーの名もわからない。
 名称不明のデザイン会社やデザイナーは、向うは向うでジャパネスクに配慮したのか、その結果支柱のてっぺんには兜のイメージを取り入れることになったのだろうか。石川島の古名が鎧島だったので、橋は兜にしたという説もあるが、どうなのだろう。そういう情報まで提供してこのデザインになったのだろうか。
 日本好き・スモウ好きでもあったパリのシラクから市長からは、東京都に友好の印として、フランスの彫刻家オシップ・ザッキン作の「メッセンジャー」という彫像が贈られたりして、なかなか華やかな、気合いの入った橋だった。もちろん予算も気張っていたはずである。
 そんなこんなで1993(平成5)年に竣工、8月26日に開通式も華やかに行なわれたはずである。
 中央区としての誤算(?)は、港区のレインボーブリッジと開通式の日がかぶってしまったことであろうか。いかに華やかに演出しようと、いろいろな面でレインボーブリッジとは張り合っても勝負は見えている。
 テレビニュースも新聞記事も、平等公平でないことを基本的たて前とするマスコミは、レインボーブリッジ一色で、中央大橋を取り上げたものはほとんどなく、あったとしてもごく小さな扱いでしかなかったのではなかろうか。
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 中央大橋が、へそを曲げたのはそのためではなく、設計の当初からである。佃二丁目と新川二丁目を結ぶ道路のなりゆきから、角度を変えなければならない。そこで、橋の中央、隅田川の上で、ゆっくりとカーブしているのだ。へそが曲がっているというとそうではないというかも知れないが、へそから曲がっているのは確かである。
 広い歩道と車道の間にはコンクリートの箱を並べて植栽が施されていたが、昨夏の猛暑でみんな枯れてしまった。
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 「メッセンジャー」もそのカーブのあたりの橋桁付近に置かれているが、こいつは何をどこへ届けようとしているのか、永代橋のほうの川を向いているので、橋からでは背中しか見えない。
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 中央に支柱があって、そこからワイヤーで吊り下げる形式の橋は、あちこちにずいぶん増えた。
 新川側の橋の下は、長いことホームレスのねぐらになっていたが、中央区もどうにか退去させることに成功した。
 この橋も、橋桁は石川島播磨重工業の製作である。佃大橋のところで、「橋の地産地消」だと書いたのだが、中央大橋のときには、もう石川島播磨は石川島になく、横浜工場でつくったのだ。
 その橋桁の下には、永代橋がすっぽりと収まっている。
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dendenmushi.gif(2011/04/22 記)

 へそまがりでんでんむしは、前にもSo-netのここが変ということをいろいろ書いていたが、相変わらずで、実はもうどうでもよくなっている。昨日も5時間近くアクセスできないでいたが、その時間帯の訪問者・閲覧数は見事に0になっていた。

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48 石川島と佃公園。人足寄場があった石川島は明治以降は造船基地だったがいまはその名もほとんど残っていない [月島界隈]

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 住吉神社の裏をカギ型に流れている堀は、北東隣に位置する石川島と境をなしている。今の住居表示では、佃二丁目となっているそこは、林立する高層マンションを中心として、なぜか「リバーシティ21」という通称もある街の整備が進められてきた。公園や小中学校やショッピングセンターや郵便局もある。ちなみに、小学校は「佃島小学校」で、中学校は「佃中学校」である。

 四角い佃一丁目は、家康がそこを摂津の漁師たちに与えたということになっているが、最初からこんな好都合な平地の島があったわけではない。実質的には、彼らが自身で埋め立ての作業から携わったとみるべきであろう。
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 埋め立てとなると、その土はどこからもってきたかが気になるが、それは隣接する石川島からというのが妥当だろう。
 当時からそう呼ばれていたとは思えないので、川中島などと呼ばれていたとみるのも当然だろう。では、いつ頃から石川島という名前がついたのか、それもよくわからないながら、江戸中期にここに人足寄場が置かれた頃には、石川島は佃島とは明確に区別されていたようだ。時代劇ファンにはおなじみだろうが、人足寄場とは労役場であったらしい。そういえば、直接は関係ないけど「鬼平」こと長谷川平蔵が、少年時代を過ごしたのは、石川島対岸の鉄砲洲であった。
 東京都中央区も、土木部では佃島の成り立ちについては、本能寺説をとっているようで、掲げられている説明板にもその旨明記され、その図面上では、石川島と佃島をつなぐのは、東にあった小さな橋ひとつだったようだ。
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 また、この図面では、石川島のなかには、いくつもの水路(入江)が描かれている。こうした地形は、後に明治期になると海軍の基地になったり、造船所ができたりすることと、無縁ではないだろう。
 この説明板によると石川島の南端に灯台ができたのは、かなり後のことらしいので、それまでどうしていたのだろうと思ったりするが、いわゆる江戸湊の中心は、まさしく佃島・石川島と霊岸島と亀島川沿いの付近一帯であったと考えられる。亀島川水門の右、新日鉄のビルの南には、江戸湊の記念碑として金色の錨のモニュメントがある。また、そのつながりがあってのことだろうが、東京港の潮位標も霊岸島の南端にある。(写真右の逆三角形の構築物がそう)
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 六角二層の灯明台は1866(慶応2)年、石川島人足寄場奉行清水純崎が隅田川河口や品川沖を航行する船のために油絞りの益金から人足の手で寄場南端に常夜灯を設けた、という。
 佃公園が整備されたのは、平成元年のことで、隅田川テラスの上にできたモニュメントは、浮世絵などに残されたものから復元されているというが、これは六角ではなくて四角。もちろん灯台としてではなく、その下はトイレである。
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 サクラが高層マンションの下の土手を彩る頃、隅田川を行き交う水上バスのビュースポットになる。ここには、「隅田川とセーヌ川友好河川」を記念するものもいくつかある。いろんなことを考えるもんだね。これがセーヌならシテみると佃はシテ島だね。
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 マンションの提供公園と空地、それに隅田川テラスとが一帯となって、石川島をぐるりと回る水辺の散歩道は、なかなかすばらしいもので、でんでんむしお気に入りのコースでありましたよ。
dendenmushi.gif(2011/04/19 記)

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47 住吉神社例大祭。ことし(2011)は3年に一度の祭りにあたるがあの大幟がみられるのかどうか [月島界隈]

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 住吉神社の例大祭は、3年に一度、8月の始め頃に開催される。でんでんむしも月島に棲息中、三度もこの祭りを楽しんだ。ちょうど今年平成23年は、大祭の年に当る。三社祭は中止、東京湾の花火も中止というが、ここはどうするのだろうか。三社祭よりは遅いうえに、なにしろこちらは3年に一度なので、やることになるのだろう。だが、それでも祭りをやるとすれば、どこでどう配慮しながら祭りをやるのか、今ごろ佃の氏子や神主も悩んでいるのだろうか。
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 もともとは、家康以来の経緯によって、四角い佃島の氏子で始まったが、月島の造成が進むにつれて、住吉神社の氏子とその範囲も膨らんでいった。
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 その祭りがある年には、早くからさまざまな準備が始まる。7月になると堀から大幟の柱などを掘り出して、佃煮屋の丸久の裏に横たえて乾かす。祭りのシンボルともいえるこの大幟は、別に深い穴を掘って立てているようにも見えない。ロープで張ってはいるが、木材を組んで立てているそれだけで力学的に安定している(らしい)。それだけで大丈夫なのかと、ちょっと不思議ながら気になる。
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 祭りのスケジュールを織り込んだポスターがつくられ、町内ごとに神輿や法被などの点検もしなければならない。もちろん、寄付を集めにまわらなけばならない。町内あちこちでは御旅所といわれる神輿巡行の休憩所のやぐらが組まれ、葦簀(よしず)が張りめぐらされる。竹が立てられしめ縄が張られ、軒軒には祭礼提灯が揺れる。
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 これは、日本中がどこでも同じ夏祭りの風景である。
 家々に掲げる提灯が、地域によって異なることに気がついたのは、前回の祭りのときだったか。獅子頭がねり歩く一丁目の提灯は赤く、堀の向こうの二丁目は確か青だった? 月島は確か白かった…?。
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 祭りは、地域の人々のつながり、その強さを如実に表すものといってもよい。住吉神社の大祭にかける佃島の地元の人の熱意や努力は、たいていではないが、それも遠く先祖から連綿と受け継いできたものと思える。そういう背景があれば、45項の震災のときの古老の語りぐさも、なんとなくそういうこともあるかと納得できるような気もする。
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 それにしても、佃にしても月島にしても、祭りとなるとよくあれだけの人が集まってくるなあと感心する。それが、日常的にそこらに住んでいるようにはとても思えないのも、不思議といえばいえる。
 さて、どうしますかねえ、今年は…。

dendenmushi.gif(2011/04/15 記)

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46 住吉神社。全国に600もある住吉神社のひとつだが佃のはちょっとめずらしいこともある [月島界隈]

 佃島がそもそもどのようにしてできたかについては、44項でも勝手な解釈を展開していた。いまさらいうまでもなくでんでんむしはドがつくしろうとで、知っていることといえば、あちこちに公表されている情報をつなぎ合わせて、ああそうなのか、と思っているだけのことである。
 そこで、一般に言われていることでも、つじつまの合わないことや、よくわからないことが多く、そんなこんなの感想やらなにやらを取り混ぜて感想を書いているに過ぎない。
 家康と摂津佃村の関係についても、あちこちの情報をつなぎ合わせてみても、なかなか納得というところまで到達できないでいた。
 ただ、本能寺のとき説にしても、そうではないいつか住吉参詣のとき説にしても、共通するのは、神崎川を渡るときに摂津佃村の漁師たちが船を出して、家康一行を助けたということである。なぜに、大坂でも西のはずれで川を渡らなければならなかったかという点でも、源家の五公を祀った「摂津多田の廟(今の池田市の多田神社)に参詣のため」という理由が共通している。本能寺説では、実際にはそこに行かないが敵方の監視の目をくらますために、という筋書きになっている。
 このとき、佃村の庄屋だった森孫右衛門とその一族の名前が出てくる。今の大阪市の地図を見ると、なかなか興味深いのは、摂津の佃村の地理的な状況が、後に彼らが移り住むことになる佃島と似ていることだ。ちょうど前項で掲げた明治初期の東京湾の地図で南西に延びる砂洲が描かれているが、摂津の佃村もこうした川中島にあった。考えてみれば、川を渡るということは、当然対岸もあるわけである。対岸の協力もなければ、安全とはいえない。神崎川中洲にある佃村の対岸が、大和田村であった。
 この人たちが、家康に連れられて、江戸に行ったらしい。その時期については、やはり「家康江戸下向の折(家康と同時に江戸入り)」という説明が主流であるが、それにも納得いかないことも多々あるので、そんなことをごちゃごちゃ書いていたわけである。
 たまたま、でんでんむしと同じSo-net「地域ブログ」で、いつも内容のある書き込みを続けておられるChinchikoPapaさんが、これに関してご自身の見解を自身のブログでコメントしておられたので、その転載の許可をいただいた。それをまず、ご紹介しょう。

◇ChinchikoPapaさんのコメント
Chinchiko Papalogより転載)
 「再校江戸砂子」(享保年間)によれば、佃島は佃村や大和田村の漁師が日本橋小田原町へやってきたころは、安藤家の抱え屋敷が建っていたようですから、少なくとも関ヶ原の戦前後は安藤家の所領と思われ、初めて大川の“川中島”に住んだのはおそらく安藤家(と家人)の人たちですね。
 湊を含めた、本格的な築垣普請は正保元年(1644年)2月ですけれど、佃島の住吉社が建立されたのは正保3年6月29日(住吉社伝)ですから、おそらくこの普請が、攝津の漁師たちとその子孫が佃島へと移り住んだ時期とシンクロしているのではないかと思います。
 それまでの彼らは、住吉社ともども日本橋小田原町にいたわけで、佃島(この名前もまだありません。安藤島とでも呼ばれていたのかな?)は“川中島”として存在していました。小田原町に在住していたとき、彼らは盛んに住吉社の分社化活動を行なっており、安藤家を含めたいくつかの大名屋敷で勧請されてますね。それが機縁で、川中島の安藤家と元・大和田/佃村の人たちが親しくなったのかどうかまでは、わかりません。
もっとも、考古学的な発掘調査までは不勉強で押さえていませんので、古墳時代には国内最大クラスの拠点港だった浅草湊ともども、川中島(佃島)にも人が住んでいた遺跡がすでに発掘されているのかどうか・・・。有名な佃島の井戸掘りとともに、なにかの痕跡が見つかっているのかもしれません。
 親父は一貫して、子供のころから「天安」贔屓でしたが、わたしは「丸久」ファンです。nice!をありがとうございました。>dendenmushiさん
by ChinchikoPapa (2011-04-06 11:12) 


 なるほど! と思うことがあった。日本橋は小田原町で始まった魚河岸との関連である。佃村(と川をはさんで隣村の大和田村)の人々ははじめは日本橋周辺にいたのだ。住吉神社の社伝でもまったくふれられていないことだが、それをキーワードにして探ってみると、だんだん筋道がみえてくるような気がしてきた。
 安藤家の存在も、摂津の渡し船のときから関わっていたようで、その名が「安藤対馬守の命令で漁民三十余名が江戸に出て白魚漁をはじめる」というような記録もあり、家康の意向を受けて摂津以来、佃村の担当窓口だったのかもしれない。
 神崎川を渡すのがきっかけでできた家康と摂津佃村と大和田村の縁が、それだけで終わることなく続いたのは、当初は漁業よりも軍事的な役割や戦には欠かせないロジスティクスなどの軍役面で効用があったからだろう。当然、大坂冬の陣、夏の陣でも、川筋を縦横に使って活躍したことが想像できる。そんなことがあっての江戸行きだったのだろう。江戸行きを家康下向と同時にするというのは、若干の事実もあったろうが、できるだけ古くからの関わりを強調したいという後世の思惑がからんで言い伝えや記録になっていることが多く、現に魚河岸の発祥についても同様のことがあり、時系列にならべて見ると、おかしなことが頻発する。
 江戸下向に同行したという森一族も、当時はまだ関東にはなかった漁法をもって優位にあり、幕府御用の魚を扱ううちにその残りを江戸市中で売りさばく権利を得る。徐々に魚市場の形成のなかでも大きな役割を果たすようになり、その一族のうちの一派は後に霊岸島に拠点をもつ御船手組の手先として、海賊対策の手伝いをしたかもしれない。そうして、佃島へつながっていった、ということも充分に考えられる。
 摂津から江戸に移住してきたとき、人々は自分たちの氏神様と一緒にやってきた。それはごく自然のことであった。それは、摂津では田蓑神社ともいわれ、神功皇后が三韓征伐の帰途、摂津国西成郡田蓑島(現在の大阪市西淀川区佃=神崎川河口に近い中洲)で海の神である住吉三神(底筒男命、中筒男命、表筒男命)を奉ったとされる由緒ある神様と神社であったというから、いずれは大阪の住吉神社の流れを汲む分社であったのだろう。
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 現在、摂津の佃にあるのは、住吉神社ではなく田蓑神社である。これの名称についても家康がらみの説話があるが、神職も一緒に江戸に行ったことになっているので、そのときからすでに住吉神社だったのか、それとも正保3年以前は田蓑神社として江戸にあったのかも、どうもよくわからない。
 住吉神社は全国で600も数えられるというから、それ自体の希少性はないが、正保3(1646)年に現在地に改めてできた佃島の住吉神社は、住吉三神と神功皇后に加えて、恩人である徳川家康を祀っているのも、めずらしくはないかもしれないがそれらしいところである。
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 鳥居には金網で保護された住吉神社の扁額が掛かっている。これは有栖川宮幟仁親王の筆によるものだそうで、陶製の扁額というのはなかなかめずらしい。
 最も古い埋立地だった現在の佃一丁目の堀の角にある神社は、よく散歩の度に前を通っていた。別に氏子でもなんでもないけれど、この世には人知の及ばぬ存在があってほしいと思うので、あえて八百万の神さまを無視したり粗末にするという精神はない。いつも、散歩道の二の鳥居のところを通るときには、足を止めて一礼をすることにしていた。
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 佃の住吉さんでは八角の神輿もあるけれど、特筆に値するのは大幟であると思う。なにしろこれは安藤広重の『名所江戸百景』にも描かれていて、これが佃の町内に6本も立つと、それは大変壮麗なものなのである。
 その柱とそれを抱いて支えるための木材が、堀に埋めてあることは前にも紹介した(42 佃小橋の項参照)。大幟は、いまでは3年に一度の例大祭のときにだけ掘り出して立てられる。
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 広重『名所江戸百景』佃島 住吉の祭


dendenmushi.gif(2011/04/11 記)

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45 月島の歴史=その4 佃の祭りの前に震災や空襲のこともちょっとだけ書いておかないと [月島界隈]

 佃と月島の歴史を考えるために、もう一度明治の埋め立てが始まる前の地図を示しておこう。これは、以前そのために筑波の国土地理院にわざわざ出かけて、昔の地図のコーピーを入手していたものである。これと、前項の北斎の『富岳三十六景』の佃島のリンクを合わせみて、昔の佃島を想像してみたい。
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 この後、月島一号地、二号地と埋め立てが進み、人が増えていくが、まず関東大震災という大災害がそこを襲う。その直前の地図がこれである。
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 そしてまた、いささかダブりぎみではあるが、歴史=その4として、これも以前に書いていたページからの転載である。

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 1-4 月島は震災で焼けたが…

 だんだん石川島で働く人の住居が増えてきた…

 相生橋の架橋が急がれた理由は、月島にも水道をひくためでもありました。人工の埋立の島には水道がなく、舟で来る「水売り」に頼っていた月島では、なかなか人口も増えず町づくりも進まなかったからです。しかし、橋もでき水道も引かれ、石川島造船所も活発になると、周辺に関連の工場も増え、造船所関係で働く人の住居として最適な地でもあったので、だんだん人口も増え、石川島とともに発展してきます。
 よく「火事とけんかは江戸の華」なんて無責任なことをいいますが、確かに江戸時代には何度も大火があり、そのたびに町づくりがやりなおされたという歴史があります。明治の半ばに埋め立ててできた月島には、江戸時代はありませんでした。以前もんじゃを食べに来た知人が「さすが江戸の下町の雰囲気ですね」なんていうから、「残念ながらここらは江戸時代は海だったよ」というとしらけていました。ただ、無理にそう思いたいならすぐ隣の佃は江戸時代から漁師の島としてあったからね、とフォローにならないフォローをしました。

 震災で焼けた月島と焼け残った佃

 江戸の大火は経験しなかった月島が、大きな災厄に見舞われたのが、関東大震災でした。大震災の時の火事は大変なものだったようです。明石町の方の火が月島に飛び火して、月島全域が燃えてしまったのです。家だけでなく焼死者もたくさん出て、なかには川を渡って逃れてきたのに月島で力つきた人もあったのでしょう。月島川に架かる月島橋の北詰、やかたぶねのそばに慰霊碑があります。古老たちが話した記録によると、このとき佃は全住民が消火活動に当たり、それ以上の大きな被害をくい止めたのだそうです。月島は全部燃えたのに佃は燃え残った、この違いはどうして起こったのか。
 当時、月島の住民はほとんどがよそから移り住み借家人として暮らしていたのに対し、佃のほうはそれこそ江戸時代から代々暮らしている、その意識の違いだった、というのです。おもしろいというと語弊がありそうですが、なるほどと思ってしまいます。
 もうひとつなるほどという話が伝わっています。時代はくだって、太平洋戦争の東京大空襲です。このときは、月島・佃は空襲の被害をあまり受けずに終わっています。このため戦後もしばらくは古い戦前の町並みがそっくり残っていました。いまはもうかなり変わっていますが、それでも路地の裏にある古い長屋風の建物のなかには、戦前からのものもあるかもしれませんね。で、なぜ空襲で焼け残ったのかというと、これが単なる偶然ではないというのですね。明石町は外国人居留地だったという歴史をもっていて、アメリカ公使館がいまの聖路加病院の近くにありました。このため、アメリカの爆撃機もこのあたりの爆撃を避けたというのです。明石町と月島は隅田川はさんで離れてるんだから…とも思いますが、高いところから無差別に爆弾をばらまいた当時の空襲では、なるほど明石町を避ければ月島だけ狙うということもできなかったのかもしれません。
 関東大震災では明石町から飛び火をもらって焼けた月島が、東京大空襲では明石町のおかげで爆撃からまぬかれた、というわけです。

 でもほんとなのかしらね?

(2003/7) (2011/04/08 転載)

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 戦前の地図で、辿ることができるのは、ここまでだった。空襲のときには、晴海や豊洲の埋め立ても終わっていた。

dendenmushi.gif(2011/04/08 記)

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44 佃煮と佃島と。そのそもそもの由来にははっきりしないことも多いのだが [月島界隈]

 「田の字」を平たくしたような区画の中央を、佃小橋から隅田川方向に向かった突き当たりが、佃の渡しのあったところにあたる。佃の渡しについては佃大橋のところですでにふれたが、堤防の下の空地にその碑と中央区が立てた案内板がある。
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 その脇、新装改築されてモダンな店構えになった佃煮屋「丸久」の前には、北條秀司の句碑がある。「雪降れば 佃は古き 江戸の島」というのは秀句とはいえないのかもしれないが、花柳章太郎とともに佃島や隅田川を愛してよく船に遊び、その結果が『佃の渡し』という新作に結実する。それが新派の舞台として新橋演舞場で上演されたのは1957(昭和32)年のことだと、その碑には書いてある。
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 1859(安政6)年の創業以来伝統の味を誇ってきた「丸久」が店を新しく建て替えたのは、古い前の建物の耐震性に問題があったためと自分のページで言っている。この店ができたのは幕末なので“佃煮御三家”のなかではいちばん新しい。佃大橋寄りの通りには元祖「天安」と本家「佃源田中屋」が並んでいる。こちらは、創業174〜200年といわれているから、それぞれ創業1837(天保8)年と1811(文化8)年。
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 佃煮が佃島の名産として始まり、それが全国的に広がるのは、参勤交代のさいの江戸土産となったためという説が有力らしい。
 では、そもそも佃島にはいつから人が住むようになったのか。
 これはもう、徳川家康が摂津佃村の漁師33人を連れてきて、ここに住まわせ白魚漁などの漁業特権を与えたのが始まり、というのが定説になっている。
 ところが、江戸にも漁師はたくさんいただろうにわざわざ摂津佃(今の西淀川区あたりとされる)から連れてきたのはなぜか(どういう理由で)、それがいつか(その時期)については諸説あって、必ずしも明確でない。
 家康と摂津佃村との関係については、その理由に言及していない情報が多いのだ。理由らしきことにふれている情報にも大きく二説あって、ひとつは「本能寺の変の直後、急きょ岡崎に引き上げようとする家康を船を出して助けたから」という説で、もうひとつは「住吉神社への参詣のおり摂津西成郡佃島の漁師が漁船で家康の一行を渡したのが縁で」というものである。
 でんでんむしなどおもしろがりは、当然前者の説をとるわけだが、これも史実かどうかの確証はない。確証はないが、こっちのほうが話としてはるかにおもしろい。『徳川実紀』で調べようとしたが、どうもよくわからない。山岡荘八の『徳川家康』を読み返しても、野伏せりや一揆の百姓に遭遇する場面や知多で船で渡る場面はあるが、佃島の話は出てこない。おそらく、なんらかの史料の切れっぱしでもあれば、山岡荘八もフィクションといえどもこれを使わないわけはないから、これもつくり話の類いなのか。
 因みに、「天安」もでんでんむしと同じ少数派の前者説である。中央区などは変なことを書いて突っ込まれても困ると、なぜかはさっぱりわからないボカシ派である。
 時期も、本能寺の変なら1582(天正10)年で明らかだが、後者説では「家康入府と同時」とするものが多いが、特定はされていない。家康が江戸に入るのは1590(天正18)年、小田原攻めの後だから、そんな多事多難な慌ただしいときに、わざわざ摂津の漁師などまで連れてくる、そんなことをするだろうか、という疑問もある。
 一説では、佃煮も摂津の佃村で家康が食して、それが気に入ったので江戸に連れてきたという、まことに無邪気なものまである。
 でんでんむしは、いずれにしても、摂津の佃村から呼び寄せたのは、家康入府時ではなく、その後江戸の町づくりが始まってしばらくしてから、旧恩に報いてやろうという余裕ができてから、と考えるほうが理屈に合っていると思うのである。
 江戸開府から佃煮屋が創業するまでには、なにしろ200年もの時間差があるのだから。
 さらに、佃島の成立も記録では1645(正保2)年に島に隣接する洲の埋め立てが終わり、その翌年に佃から奉じてきた自分たちの氏神様に東照権現を奉斎して住吉神社ができることになる。もし、入府のときに一緒にやってきたというなら、彼らはそれまで55年間もの間、佃島以外の江戸のどこかで暮していなければならないことになる。それが佃島に最初から住み着き、55年後に洲の埋め立てができて、そこに移住したということも想像できるが、そのようなはっきりした記録もないらしい。
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 こんなぐあいに、歴史の不確かなことは数多く、一般にそうだといわれていることでも、にわかに信じるに足ることは少ない。
 確からしいことは、家康以来この佃島が政権とのゆるいながらも特別な関係によって、漁業から始まって後には海運などに渡って、ある種の特権を受け、江戸の町づくりのうちでも江戸湊の形成という港湾上で意味をもっていたのではないか、ということである。

●葛飾北斎「富嶽三十六景」武陽佃島

dendenmushi.gif(2011/04/06 記)

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43 佃天台子育地蔵尊。なぜこんなところにこんな不可思議な空間が生まれたのだろう [月島界隈]

 佃小橋の手前、袋小路になった堀のそばに、小さな社があるのはお稲荷さんで、その前に住宅と住宅の間に挟まれた細い路地がある。その幅は、わずか数十センチで、通常であればそこへよそ者が入って行くのははばかられる。だが、その路地の南東側(どちらかというと、こちらのほうが正門らしく、アーチも設けられている)には赤い幟が二本はためいており、北西側にも看板がぶら下がっていて、「佃天台地蔵尊」の入口であることを示しているので、誰でも入って行ってよいのである。
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 路地のなかほどには、お地蔵さんが祀られているが、これが普通のお地蔵さんではない。黒い板のような石に線画でその姿が彫られている。線刻の地蔵像というのはめずらしい。
 これが、なぜこのような場所にあるのか、それについての確かな説明、詳しい由来は、どこにもないようである。
 ただ、江戸中期の正徳~元文年間に、地蔵菩薩を厚く信仰した上野寛永寺崇徳院宮法親王が、自ら地蔵尊像を描いて江戸府内の寺院に地蔵尊造立を促したという言い伝えと、地蔵比丘といわれた妙運大和尚がこの宮が描いた地蔵尊を写して全国の信者に八萬四千体石地蔵尊建立を発願したという話がある。
 佃の天台子育地蔵尊には、天台地蔵比丘妙運の刻銘があり、これこそその拝写された地蔵の姿そのものではないか、といわれている。
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 けれども、ここは寺院でもなく、地蔵堂があるわけでもない。佃の四角い島に隣接して、漁のための船着き場だったと推測される場所である。佃島の東南側の海に面して小舟が蝟集し、帆柱を林立させているそのさまは、広重の描き残している浮世絵版画などからも、充分にうかがえるのである。
 幼くして世を去ったこどもを慰霊し、こどもの無事な成長を願う地蔵が、ここにあるのはおおいに謎含みであるが、佃島に暮らす人々が、代々これを守って今日に伝えてきた事実に変わりはない。
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 地蔵の前には、一抱えもあるイチョウの大木の幹がでーんと立っている。ネット情報でこの佃天台地蔵を取り上げたものは数多いが、そこでよくあるイチョウの説明が「屋根を突き抜けてそびえている」といった描写である。
 へそまがりは、こういうところにもひっかかってしまう。タケノコではないのだから、そうではあるまい。
 第一、この場所にできた当初の状況から想像してみると、地蔵の周りに家が建ち並ぶようになって、イチョウごと今のように取り囲んでしまったのだろう。もともとそうして残された空間には屋根はなく、お堂もない。屋根のような天蓋のような覆いはあとから付け加えられ、周囲の家の壁が自然にお堂のような祠のような形態に整えられていったのではないか。
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 イチョウはその過程でも切り倒されることなく、大切に保護され、今ではその幹の周りに合わせて造作が施され、このなんとも不可思議な空間をつくることになった。そう考えるのが、どうもしっくりくる。
 祠の向かい側には、薄暗い路地に面してきれいに整えられた民家の玄関らしい入口もあって、地蔵とともに暮らしてきたここの人々の心情にふと思いをはせる。人々の子を思う自然な気持ちの深さが、この地蔵をここまで残してきたのだろう。
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 確か、以前の東京の地図には、この場所も明記されていたような記憶があるのだが、現在ネット地図を席巻しているZENRINソースの地図では、完全に無視されている。
 しかし、それはかつてこのイチョウをなんとかの記念樹に指定しようという沙汰があったのを、丁寧にご辞退したというここの人々にとって、むしろ望ましいことなのであって、テレビクルーがどやどやとやってきたりするのも迷惑なことだろう。
 これから先、東日本の太平洋岸では、あちらこちらに新しいお地蔵さんができることになるのかもしれない。人の悲しみは、深ければ深いほど、それを肩代わりすることはおろか、共有することすらも決してできない。ただ、やさしく見守ることしかできないのだ。
dendenmushi.gif(2011/04/01 記)

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