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□29:ふるさとは遠きにありて思ふものそして…=広島市・安芸郡府中町(広島県) [ある編集者の記憶遺産]

 考えてみれば、飛行機よりもその歴史は浅い。ラジオ放送が始まって100周年には、まだ数年ある。確か1925(大正14)年、そんなもんなのである。
 記憶にあるラヂオ(あるいはラヂヲか)は茶色い木目の四角い箱だった。二つか三つのつまみダイアルと、くりぬきの穴にはざらっとした布が張ってあり、その奥にはスピーカー、周波数のパネルもあったような気もするが、あまりよく覚えていない。局は一つ(第二放送あったかな)なのだから、どのみちこれを見る必要はなかった。「National国民受信機」と書かれた小さなラベルのある裏板を開けると、真空管が二三本心細く光りながら、小さく唸っている。
 残念なことには、このラヂオで8月15日の放送を聞いた記憶がないのだが、「街頭録音」「のど自慢」「君の名は」「話の泉」「二十の扉」などといった大人の放送もよく聞いていた。なかでもいちばん気に入っていたのが三木鶏郎の「日曜娯楽版」だった。これは遠慮会釈のない政治批判・社会風刺のコントショーだったのだが、時の政府に睨まれてその圧力で潰されたという、いわく付きの番組として放送史に残ることになる。そんなことは知らず、毎週日曜日を楽しみにしていたが、反骨皮肉へそ曲がりの精神は、実はこのときにその大本があったのかもしれない。
 また、「浪花演芸会」の落語に漫才、そして祖父の聴く浪曲や講談にも耳を傾けていた。
 そして、もちろん夕方の子供番組には、外で何があってもその時間に間に合わせて放送を聞きに急いで帰ってくる。それが、当時のこどもにとっては欠かせない、大切な暮らしの時間なのであった。「鐘の鳴る丘」そして「笛吹童子」に始まる一連の「新諸国物語」や、「おらあ三太だ」「一丁目一番地」などのいわゆる「連続放送劇」は、刺激の少ない地方の町外れの子供にとっては、唯一の娯楽であり知識であり、想像を広げられる夢の世界でもあった。
 しばらくして、民間放送が始まり広島でもラジオ中国で広島カープの試合を放送するようになると、ラジオにかじりついてスコアブックをつけたりもした。
 「ラジオ歌謡」は聴いても、この当時第二放送でやっていたらしいクラシックの番組やみんながよくいうFENを聴くような環境ではなかったのが、今頃なぜか悔しい惜しいような気がする。鉱石ラジオのキットを、少年雑誌の広告の通販で買って組み立てて、水道管をアースにしてかすかに聞こえたときの喜びも、そこからさらにラジオ少年に進化させるまでではなかったのも、なぜか今頃になって残念な気もする。
 それは、ラヂオの放送が始まってから、間に戦争と敗戦を挟んで、たった二十数年のことだったのだ。
         ◇         ◇
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 オレンジと緑のツートンカラーの“湘南電車”が、発祥の地である東京駅から姿を消してもう十数年になる。それは、1950年に初めて登場した車体塗装の先駆けだったのだ。それまで汽車や電車の色といえば、濃い茶色のようなブドウ色のような地味な色と決まっていた。
 そこに登場したのが、目にも鮮やかな配色の湘南電車で、国民の戦後復興に向けた期待にもつながったという意味で、このカラーはただ単なる「電車の色」ではなかった。
 中長距離初の電車として、東京=沼津間で運行を始めた80系で採用されたこの色は、「警戒色のオレンジとその補色の緑」だったというが、そもそも郊外電車というものがなかった(市電の延長で走る宮島線はこれに該当しない)当時の広島の中学生でさえ「ミカンと葉っぱの色」だと思って、その沿線の風景を想像していた。
 見たこともなく、もちろん乗ることもかなわない湘南電車は憧れの対象だった。四角い箱ではなく、流線形とまではまだいっていないが車両先頭の運転台にちょっと斜めに角度がついたスタイルと、オレンジ色と緑色とに塗り分けられた車体は、大きな夢につながっていた。
 模型店のウインドウの中に、そのキットを見つけて、どうしてもそれを作ってみたくなった。プラモデルなどというものは、まだなかった時代、模型といえば木製の部品を削り加工して、組み立てて塗装するソリッドモデル(結果的に電車の場合は中空になるのでサーフェスモデル(中空図形)なのだけれども)だった。その吹き付け塗装だけを、店に頼んでいた。
 塗装ができて引き取りに行った日は、春も浅い冷たいかなりの雨が降っていた。風呂敷に大事にくるんで片手に抱え、片手に傘をさして銀山町(かなやまちょう=この字でこう読む地名は全国でここだけだ。まあ、いってみれば広島の兜町)の並びにある勧業銀行広島支店の石壁に沿って歩いているとき、大きな水たまりを跳んだつもりだったがよけ切れず、「しもうた!」と思ったたときにはもう遅い。水の下に隠れていたふたのない深い雨水升に、どっぷりはまってしまっていた。やれやれ、困った。下半身ずぶぬれで…。
 そのとき、通りかかった背広姿のおじさんがすぐ手を貸してくれて、建物の地下に連れていってくれた。そこは、銀行の食堂らしかった。昼下がり昼食時間はとうに過ぎていた。おじさんは、そこにいたおばさんに一言二言いうとすぐに消えた。おばさんたちは、とんだ災難だったと気の毒がって、ストーブにあたれ、ズボンを脱いで絞って乾かせと、しきりに世話をやいてくれた。風呂敷も広げてみたが、模型は壊れていないし、木製だからぬれたくらいはどうでもなかった。
 そして、うどんをつくって、体が温まるからとすすめてくれた。ありがたくいただいた、そのうどんのおいしかったこと…。
 世慣れない中学生は、そのときのおじさんやおばさんに、ちゃんとお礼をいえたのかどうか、思い出すとときどき気になる。その後社会人になってから、勧銀には口座を開いた。預金残高はわずかだが、いまもその銀行の口座は持っていたりする。銀行の名前は、何度も変わった。
 湘南電車のソリッドモデルの塗装に、なぜ自分で刷毛で塗らずに、わざわざ店に頼んでまで吹き付け塗装をしようとしたのだろうか。より本物らしくしたいためだったのだろうが、いま思えばそれも不思議なのだ。そのときは、なぜかどうしても、そのオレンジと緑の色は、そうでなければならぬような気がしていたのだ。
 それは、意識しないまま、湘南電車への憧れが、東京への都会への憧れにつながっていたのだろうか。 
         ◇         ◇
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 幼年期に刷り込まれたことは、一生残るものがある。茶色写真のなかの一枚には、タスキをかけマイクを握って選挙演説しているおじさんがいた。「広島に復興の希望の灯をともすプロ野球チームをつくりましょう」と。その人が立つ大型トラックの荷台の横には、「谷川昇」と書いた幕が下げてあった。その人の尽力は大きかったと聞いているが、一人の力ではもちろんない。二リーグ分裂にともなうチャンスに、広島の大勢の人の努力によって、広島カープは生まれることができた。当然ながら、大人もこどももみんな例外なくカープファンになった。
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 小学校の時には担任の先生が、軟投技巧派のエースの名前と同じで、教室で騒ぐこどもにチョークを投げて「ピッチャー長谷川!」とふざけたり、中学校では資金集めのために、選手の写真とサイン入りのビニール風呂敷が売られたりした。
 球団創設直後から始まり、その後も絶えることなく続く長い苦難の道を、ファンもあるときは貧者の一灯のタル募金で支え、万年最下位争いをしていて、一番高い目標が「勝率五割」だった田舎の弱小球団を、どこにも負けない誇りと情熱をもって応援し続けてきた。
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 それは、市民の熱狂的な応援の工夫にも表れ、昔から内外野のスタンドのさまざまな名物を、他に先駆けて編み出してきたのである。ラッパのおじさんは軍隊ラッパを鳴らしていたが、今はトランペットのコンバットマーチになった。相手がアウトになるたびに鐘を鳴らして囃すのも、今ではどこの応援団もやっているが、カープ応援団の創作だった。
 ラッキーセブンに風船を飛ばすのも、カープファンが始めたのだが、これについてはでんでんむしも少しだけからんでいる(つもり)。始めの頃、風船は青や黄色や赤などさまざまな色が入り混じっていた。これはやはりカープの応援用を強調するためには、色を赤に統一したセットで風船を売るようにすべきではないか、その気になれば簡単にできることだ…と、いつもラジオの実況中継を聞いていたRCCの「インターネットスタジアム」に書き込みをした。その翌年から、カープの風船は赤に統一された。
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 いまさらなのだが、野球というゲームは、実によくできていて、誠におもしろい。ストライクを投げれば狙い打ちもされやすいし、ボールを投げれば打たれにくいが、スリー・ストライクでバッター・アウトになり、フォア・ボールでランナー一塁になる。スリー・アウトで攻守をチェンジし、表と裏で一回になり、それを九回まで繰り返す。ホームランで一点になり、いい当たりでもアウトになり、いい当たりでなくてもヒットになる。コントロールミスだろうがわざとだろうが投手が打者に当てればペナルティが科せられる、打者が塁に出てランナーとなって後続打者のヒットで進塁し、ベースをぐるりと一回りしてくれば得点となる…。
 こういった野球の基本ルールそのものも、なにやら人生というゲームの一端を暗示しているような部分もあり、これにさらに個々のプレーヤーの磨かれた技術や判断、それに監督の采配や作戦が加わって、よりゲームとしての複雑性を増していく。「筋書きのないドラマ」という陳腐な形容にも、異論をはさむ余地がない。ゲームだから、勝ったり負けたりするのも当たり前、単にシロかクロかではなく、要は最終の率の争いである。そしてなによりも、とにかくなかなか思うようにはならない…。
 新しい球場が広島駅にも府中にも近いところにでき、原爆ドームの向かいにあった市民球場はもう取り壊されてしまった。大事なことは、みんな野球に教わった。よくある慣用句でまとめれば、そういうことだった。
 いまは、広島東洋カープは、根無し草のように風に吹かれているでんでんむしと、ふるさとをつなぐ、唯一の紐帯なのだといってもよい。
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         ◇         ◇
 でんでんむしのふるさと、青崎の、小中学校時代の記憶を掘り起こそうとすれば、あれこれきりがない。
 若さ故の過ちも数限りなく、少年時代のはじめから胸にトゲさすことばかりで、苦い思い出もたくさんある。 
 中学の教科書にもあったのか、室生犀星のあの有名な詩の一節がどうしても浮かんできてしまう。ふるさとからも肉親からも見捨てられた金沢生まれの詩人は、それでもその名前にふるさとの川の名から一字をとっている。そのふるさとに抱いた感情とはまるで別物で、とても「異土のカタイとなるとても」といった固い覚悟もない。だが、その冒頭のフレーズは妙にしっくりとなじんで居座ってしまう。
 
   ふるさとは遠きにありて思ふもの
   そして悲しくうたふもの
   よしや
   うらぶれて異土の乞食となるとても
   帰るところにあるまじや

▼Google Map
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dendenmushi.gif(2013/02/11 記)

「ある編集者の記憶遺産」は、これでいちおう終わりです。この続きは、「思い出の索引」年表に引き継がれています。

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□28:やはり東洋工業とバタンコのことは欠かせない記憶…=安芸郡府中町新地(広島県) [ある編集者の記憶遺産]

 東洋工業は、松田重次郎が創業し、松田恒次が伸ばし、松田耕平がみとった。戦前から、コルクやさく岩機などの製造をやっていたが、発展の基礎を築いたのは、なんといってもバタンコの製造で、これが後に自動車メーカーへと成長していく源となった。“バタンコ”というのは、やはり説明も必要だろうか。三輪トラックのことである。前輪が一つで、これにスクーターのハンドルのような大きいのが直結して、方向を決める。同時にこれが駆動部分で、運転者はエンジンの後ろにまたがるようにして乗る。その横には小さな助手席がついている。後輪の上には四角い荷台がついていて、主に荷物を運ぶためのトラックである。オートバイのように、足でスターターを強く蹴ると、バタバタとエンジンが起動する。
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 東洋工業では、これを戦前からつくっていた。広島市の東の端にあったため、原爆による直接被災をかろうじてまぬかれた工場で、終戦の翌年からはその生産を再開し、それから10年後には累計で20万台を数えた。バタンコは、各地で「バタバタ」とか「オート三輪」とか呼ばれ、戦後復興に大いに貢献した運送手段だった。ダイハツやくろがねもあり、ほかにもみずしま?といったメーカーもあり、東洋工業(ブランド名=マツダ)の独占とはいえなかったが、とにかく一世を風靡した車だったのである。
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 青崎中学校に通っていた頃、印象に残るできごとがあった。いわゆる企業城下町という意味では、何ほどのこともなかったが、その中学校には、お膝元だけあって、東洋工業で働く社員工員の子弟も多く、当時は彼らは地域のエリートのこどもだった。地元の有名大企業という意識はそれなりにあり、工場見学にも行ってバタンコの製造ラインを見たことがある。
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 どういういきさつがあってかは知らないが、東洋工業が一台の中古バタンコを、中学校に寄贈してくれたのである。さっそく「自動車部」なる部活もでき、湿地を生徒みんなで土を運んで埋め立ててつくった校庭を、バタバタと走っていた。中学生で免許もないのに…? こども心にも、「ほーかぁ。ええ会社いうなーそういうこともするんじゃのう」と思った記憶がある。
 当初は吹きさらしだった運転台にも、屋根がつきドアがつき、前輪丸出しでカクカクとしたデザインも丸みを帯びたスタイリッシュなものに変わっていった。
 それらの製造工程の一部は、周辺にできていた下請けの工場でもつくられていて、でんでんむしの“わが谷は緑なりき”の下流の線路近くにも、そうした工場が拡がっていた。工場から油膜の虹色を反射する排水が、小さな川にも流れ出し、イトウナギもいなくなってしまう。
 東洋工業が三年連続でトヨタ・日産を抑えて、自動車生産台数でトップを守ったこともあるが、巨大化した恐竜が絶滅するように、大型化したバタンコの最期はあっさりとやってきた。が、それを契機にした東洋工業は“R360クーペ”で小さな四輪メーカーに転身を図る。
 ほんとうに今から見れば、小さくてまるっきり遊園地の乗り物のような車であったが、偉大な四輪自動車なのである。1960年に発売されたこのクーペこそが、日本人が初めて“自分で買える”と思った車だといえる。一般に、その数年前に出ていたスバルがそうだといわれるが、30万円という価格の点で、これこそが日本の庶民でも車が買えるという夢を広く実現させ、モータリゼーションの黎明を引き寄せ牽引したことは確かだ。
 R360クーペが出て、広島の町でもたくさん走るようになった頃には、もう広島のイーストエンドを離れていた。地元だったという以外に、何の接点もなかったが、その後の画期的なロータリーエンジンの不運や、企業買収などさまざまな荒波に揉まれ変貌していった東洋工業には思い入れがあり、つい身びいきになる。
 やっぱり車を買うならマツダだな、といっても、免許をもたないので車もいらないし買わない。
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 東洋工業は社名もブランド名のマツダに変わり、経営も松田家の手から離れた。その間、工場は黄金山の南の海へ拡大し、大きな自動車輸送船が宇品工場に接岸するようになり、猿猴川には4本もの橋ができ、高いバイパスが広島湾の東端をよぎるようになった。苦労しつつも、いちおう世界にも進出する四輪メーカーとしての歩みを続けている。
 いまの地図でみると、マツダの本社があるところは、安芸郡府中町新地となっている。鹿籠(こごもり)や桃山には覚えもある。だが、新地とはこれまで聞いたこともない地名だ。全部が東洋の敷地だったから、一般に周知していなかっただけなのだろうか。

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dendenmushi.gif(2013/02/10 記)

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□27:こどもの頃ほしかったものは写真機と万年筆で… =広島市(広島県) [ある編集者の記憶遺産]

 こどもの頃ほしかったものは、写真機と万年筆であった。今では物欲はないほうだと自信を持っていえるが、こどもはそうではない。あらゆるものに飢えていて、ほしいものはたくさんあったような気がするが、たいていそれが満たされることはなかった。なかでも、この二つは、のどから手が出るほどだったが、やはり手にすることは叶わなかった。
 写真機は、長い間憧れではあった。手が届かないカメラとも写真とも違うが、日光写真というのも流行った。雑誌の付録にカメラと溶かして使う現像・定着液がついたということもあったが、そんなもので写真がうまく撮れるわけもなかった。いちばん確かに成功したのは、ピンホール・カメラだったが、これもホントのカメラとは違う。
 中学生の終わり頃だったか、当時いちばん安いスタートカメラというおもちゃのような、固定焦点のボックスカメラが初めて手にしたカメラだった。結局、一時ブームになった二眼レフカメラは、どうもこれは格好があまり美しくないので敬遠し、本格的なカメラはだいぶ後に給料をちゃんともらえるようになってからだった。DPEも自分ではやらなかったし、その後もちょっとだけ芸術的写真に志向したことはあったが、それ以上写真に大きく引き込まれることはなかった。
 小学生の頃は、敗戦直後とあってろくな筆記用具はなく、鉛筆は削りにくく芯はガリガリして折れやすかった。当時の鉛筆はトンボでも三菱でもなく、いいほうで丸いマークの「地球鉛筆」か三角のマークの「コーリン鉛筆」だった。
 万年筆を買えたのは、中学生になってからだった。
 その前に、小学校4〜5年生の頃だったか、NHKラジオのクイズにハガキを出して、その賞品に金色に輝く細身のシャープ・ペンシルが送られてきたときには、ものすごくうれしかった。
 ずっと後になって知ったことだが、この胴を回せば鉛筆の芯だけがするすると出てくる画期的な筆記用具は、早川電機工業の創業社長早川徳次が発明したのだった。その縁を大事に感じて、自分で初めてレコードプレイヤーを買うときは、シャープのを買っていた。
 かつては“目のつけどころがシャープでしょ”で、飛ぶ鳥も落とす勢いだった電機会社は、その名を社名にしてきた。が、どこで目のつけどころを間違えたのか、まさかこんなことになるとは、早川徳次さんも想像できなかっただろう。
 中学生になって買った万年筆というのは、修学旅行で京都の旅館に泊まったときだった。あれは西陣辺りの旅館だったような気がするが、夕食が終わった頃を見計らって、そういうこども相手に商売にやって来るおじさんがいた。荷台にたくさんの引き出しケースを積んだ自転車を旅館の前の道路に止めて、ケースを引くとそこにはさまざまな色のピカピカの万年筆が、ズラリと何段も並んでいた。
 値段がいくらだったかは覚えていないが、中学生が修学旅行にもってくるお小遣いで充分買える金額だったのだろう。うれしくなって緑色のを喜んで買ってしまった。たまにもれてくるインキを拭き取りながら使っていた。
 現在では、手書きはもっぱら150円のボールペンであるが、そもそも自筆で文字を書くということが、極端に少なくなってしまった。その理由ははっきりしている。そもそも下手な字を書かなくてもいい、それが動機と狙いの一つでもあったのだが、コンピュータを使うようになったからだ。
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 もちろん、万年筆ももっている。その一本は、商売柄ちゃんとしたものも持っていないと具合悪かろうと、今から40年も前に初めてヨーロッパに行ったときに自分へのお土産に奮発した黒い「モンブラン」。もう一本の茶色いのは、20年くらい前にそれまで勤めた会社を辞めるとき、同じ職場の若い人たちから餞別にともらった大事な記念の品で、知る人ぞ知るという名品、イニシアル入りの鳥取の「万年筆博士」のものである。
 インキにカッコつけるやつはペリカンがいいとか、アテナでないととかいっていたが、でんでんむしはもっぱらパイロットインキだった。このインキ。月島にいたとき、朝潮橋のナナ文具の棚の奥に一つだけ残っていたのを見つけて、当時の値段シールのままの60円で買ってきたものだ。
 相変わらず、字はうまくなっていない。第一、日常まるで書いていないのだし、“にっペンのミコちゃん”(これもこの頃きかない)をやったわけでもないので、うまくなっているわけがないが、今更カッコつけてみてもしかたがない。字が下手でも、なんの臆することもない。
 そういえば、中学のときには、漢字の書き取りテストで居残りをさせられて、先生からおこごとをもらったことがある。この頃からもう既に充分にへそは曲がっていたので、漢字の効率的でないことに問題を感じていた。だから、これを覚えなければならないということ、それをテストすることに割り切れないものを感じていたのだ。
 外国の映画では、タイプライタをぱちぱちやって手紙も原稿も書いているのに、書き取りでは対抗できんではないか。漢字も記号なら(ほんとはそれだけではないけれど)、そのうち機械でできるようにならなければ…。そうなれば、字が下手なのも問題でなくなる…。きっと…。
 そんな思いをずっと引きずっていたのが、後年まだわけのわからないうちから、日本語も漢字も使えないマイコンの黎明にいち早く飛びついて、それに乗っかってずっと今日まで至る伏線になっているので、中学生といえどもバカにしたもんでない。

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dendenmushi.gif(2013/02/09 記)

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□26:学校から団体で映画鑑賞に行ったそういう時代の記憶に残るものは…=広島市(広島県) [ある編集者の記憶遺産]

 映画への憧れのようなものは一般に広くあったが、まだまだそれは身近な娯楽とは言いがたかった。それを埋めるように、幻灯機というものや16ミリフィルムというものもあるにはあった。だが、それも持っている家は極めて限られた。それでも誰かがどこかで借りてきて、近所のこどもを集めては映写会のようなものが開かれたりした。
 また、戦後何本かつくられた広島の原爆をテーマにした映画のロケが広島で行なわれたことがあった。そんなときには、エキストラに動員されたこともある。映画『ひろしま』のときだったか、東洋工業の構内を使ったロケがあり、近くの学校ということで大量動員がかかった。しかし、できあがった映画には誰ひとり写っていなかったりして、みんなで大笑いした。
 映画のいちばん古い記憶は、原爆が落ちる前に市内の映画館で見たぼんやりしたもので、がくがくちまちまと動く画面には、ドタバタの喜劇のようなものが映っていた。チャップリンやキートンのフィルムだったのだろうか。その次は、向洋駅前近くにあった向洋銀映で見たのだろうと思うが、内容はよく覚えていない。同時上映の添え物ではミッキーマウスのようなマンガ映画があったように記憶している。
 戦後しばらくの間は、各地で夏の野外に幕を張っての映画会の催しがよくあった。これは無料で、青崎小学校の校庭でも、青崎東の鉄道アパートの広場でもあった。そこでは、三益愛子の母物だとかまだ小さな美空ひばりなどが映っていたのを覚えている。テレビが出る前だから、なにかそういう娯楽をみんな求めていたのだろう。
 学校の講堂で幕を引いての映写会もたまにあったが、小学校の高学年くらいからは学校から団体で映画鑑賞に行くこともあった。中学になっても視聴覚教育の設備はまだ整っていなかったので、市内の映画館の一回目の上映前に特別に封切り映画を上映してもらう映画鑑賞は年に何度かはあった。確か、20円くらい払っていたのではないだろうか。
 そんな小学校から中学校時代に映画鑑賞で見た映画は、もちろん教育的配慮から作品は選ばれていてディズニー映画も多くあったが、そのなかには歴史的にみても記念すべきものもあった。
 最初に見た長編マンガ映画(アニメという言葉はまだなかった)は、1947年に発表のイワン・イワノフ・ワノ監督の『せむしの仔馬』で、実写とはまったく違う幻想的なシーンのはしばしを、いまでも思い出すことができる。
 ではアニメはソビエトのほうが先行していたかというと、そんなことはない。日本での公開は1950年と『せむしの仔馬』より後になったが、ディズニーの長編映画第1作目であった『白雪姫』の衝撃も大きかった。これは歌の楽しさ、アニメの動きの楽しさを、おおいに発揮していて印象的だった。なによりも驚くのは、これが戦前にはもうできていて、世界では初のカラー長編アニメとして、1937年には公開されていたということだ。ただ日本とドイツ(確かそうだったはず)だけは、戦後だいぶ経ってからの公開となった。
 これにもいろんな説があったが、これから戦争をしようとする相手国がこんな映画をつくる力をもつ国だとわかれば、厭戦気分を煽りかねないから、当時の軍部が輸入上映を禁じたのだという。あるいは、ナチスも同じように考えたものだろうか。後年、確かにそのとおりの感想をもったので、それにも説得力がある。
 それから少し間をおいて、1958年公開の『白蛇伝』は、大川博制作の東映作品、日本で最初のカラー長編漫画映画であった。アニメ技術はディズニーにはまだ差があったが、東映アニメはその後の日本アニメを牽引し発展に貢献する。でんでんむし的には、この映画こそが日本人が初めてパンダという動物の存在を意識した最初ではなかったかと、そういう意味でも記念碑的な作品だったと思っている。
 アニメ以外にもいろいろな映画を、この早朝映画鑑賞会で見たが、そのなかでどういうわけで選ばれたか、とくに記憶に残っている作品に『黒い絨毯』というのがあった。主演がチャールトン・ヘストンとエリノア・パーカーという1954年のハリウッド映画だが、軍隊蟻という初めて見るアマゾンの自然とアメリカの美人女優が、強く中学生に印象づけられたのだろう。
 後で映画サークルの仕事をするようになって、いろいろ勉強して知ったのだが、この映画の制作者は、実はSFマニアの間では少々有名な人で、『地球最後の日』『宇宙戦争』『タイム・マシン』『謎の大陸アトランティス』といったでんでんむし好みの路線で、特撮の技を発揮したアニメ(パペトゥーン)作家でもあったジョージ・パルだった。
 当時は、日本で公開されても、広島まで来るのは少し遅れた。ジェームズ・ディーンの『エデンの東』は話題作で、これはもう団体鑑賞ではなく、一人で観に行った。それがまだ中学生のときか高校生になってか、よくわからない。それが上映された八丁堀の「文映」という映画館は、立錐の余地もないほどの超満員で、とても座るどころではない。座席の後ろに立って、人と人の頭の間から見るようで、途中で気分が悪くなって出てしまった。
 それからだいたい5〜8年後くらいに、洋画邦画ともに観客動員も作品の質も、日本では映画の黄金時代といってもいい時代を迎える。その後に迫りくるテレビ時代の足音も聞きつつ…。
 その頃、広島の繁華街のあちこちにたくさんあった映画館を、いまの地図で探そうとしてみても、ひとつも見つけることはできない…。と思ったら、ひとつだけ「東劇ビル」というのが昔と同じ場所にあった。映画館もあるのだろうか。


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dendenmushi.gif(2013/02/09 記)

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□25:記憶に生き続ける先生のことと『菊と刀』のこと…=広島市南区堀越町(広島県) [ある編集者の記憶遺産]

 いまになって自分の努力不足を棚に上げて、みぐるしい言い訳と自己弁護をするなら、中学校では国語や社会の先生には恵まれたのに、なぜ英語や数学の先生には恵まれなかったのだろうと…。中学のある時期、尊敬できない先生のおかげで、英語を自分で見切ってしまった。それでも当時、一人で悩みつつあれこれ考えたのだが、自分で勝手な性急に過ぎる結論をだしてしまった。 
 なんでも先生のセイにするのは、間違っている。だが、それがいちばん納得しやすい理由になることも事実である。近頃では、いじめに自殺に体罰に、学校で起こるいろいろな事件まであって、先生もなかなか大変だ。
 あえて極端で勝手な言い方をさせてもらうが、ニュースで知る校長先生・教頭先生や教育委員長といった人たちは、いかにも当事者能力も世間知もなさそうに思えて、いらいらしてしまう。あの学校の先生たちは、いったいどんな先生だったのだろう…。いったんことあると、そうした世間の眼にさらされ、おまけに退職金を減らされないうちに辞めようとすれば、寄ってたかって叩かれる…。
 先生を職業に選ぶというのも、結構覚悟がいることだろう。
 誰が言ったのかは忘れたので、情報価値は半減するのだが、「お前が何を仕事にしてもいいが、人を教える教師と人を裁く裁判官にだけはなるな」と父親に言われた、という有名人があった。無名人のくせに「なるほど、そういうもんか」と、これにはいたく感じ入って、それだけを真似してきたので、職業選択ではまず一番にそのどちらも除外された。
 そこまでストイックになると、ほかの仕事もやりにくくなりそうだが、先生というのはまた特別で、こどもが最初に日常的に接する、親以外の大人であり、他人である。しかも、最初から教えてもらうという受動的立場にいるから、一応そのすべてを受け入れている。それでいながら、だんだんと好きな先生嫌いな先生が、ちゃんとふるい分けられ峻別されていくのである。しかも、目上だしとりあえず先生なのだから、一応は尊敬しなければならない、ということさえもはや通用しなくなった。
 考えてみれば、やっぱり敬遠するに越したことはない、ヤバイ職業なのかもしれない。
 「忘れ得ぬ人々」などというテーマでは、よく学校の先生が登場するのも、無理からぬところであって、感受性の豊かなやわらかな心に、そっと足跡を残していった先生のことは、いつまでも忘れない。
 その頃は、先生も学区内に住むのが当たり前のようになっていて、現在の住所表示では堀越町にあった青崎中学校の先生は、その多くがその周辺に居住または間借りしていて、よく先生の家までいくというこどももあったようだ。何人か、生徒としても気になる先生はいた。
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 当時、中学の教科には「職業家庭」という、いかにもどうでもいいような科目があって、実際週一回あるかなしかのほんとうにどうでもいい(と学校も教育委員会も思っていたらしい)時間があった。その担当の先生がK先生といって、温厚そうなメガネのおじさんだった。通訳あがりの英語の先生と同じく、うわさでは正規の教師ではない臨時だとか言われていたが、事実はよく知らなかった。
 そのK先生の授業が、とても気に入っていて、毎回楽しみだった。心待ちにした授業などというのは、後にも先にもこれだけだったが、これが型破りな授業(それが授業といえるとして)で、およそ教科書などは一度も使わない。今なら教育委員会やいわゆるモンスターペアレントがやり玉に上げるかもしれない問題教師である。
 たとえば、あるときはいきなり「寒ブナの釣り方」というのを、何週かにわたって講義してくれる。ただの釣り方ではなく、寒ブナの生態まで含めて、まるでそのときは自分も冬の冷たい小川に糸を垂れているかのような、また自分がフナになったような気分になって、わくわくした。
 また、あるときは「日本海海戦で連合艦隊はいかにして勝利したか」というテーマで、これが微に入り細にわたって何週か続くのである。こんなおもしろい授業はない。みんなも興味津々だった(と思いたい)。K先生に教わるわれわれのクラスは、司馬遼太郎の『坂の上の雲』を知る何十年も前に、あの本の図版にもある「東郷元帥のT字型戦法」(その頃は「T」だと思い込んでいたのだが、どうもこれは「丁」だったらしい)の一部始終を、中学の教室の黒板で教わっていたのである。
 あるときの授業で、K先生は黒板に大きく『菊と刀』と書いて、中学生でもこれくらい読まなきゃだめだ、と言った。それで、図書室で借りて無理して読んだ(つもりになった)。
 現在では講談社学術文庫に入っていて、その評価をめぐってもさまざま論議があるが、1948(昭和23)年に『菊と刀』社会思想社版が出たのは、原著刊行からもまだそう間がない頃で、当時の日本のインテリには大きな影響を与えたらしい。
 数年後、改めて文庫版を自分で買って読み直した。思えば、これも日本が敵を知らず己を知らぬまま、いかに無謀な戦争にのめり込んでいったか、という嘆きに拍車をかけるものであるが、敵は戦争前から日本についてこれだけの情報を集め分析していた、ということがわかるだけでもすごい本だったのだ。いまではこれに対する批判も盛んであるが、当時の読者は素直に、初めて自分の姿を姿見に写して見るような気分に襲われたに違いない。
 ルース・ベネディクトのこの本は、日本研究の古典であり、以来今日まで書店の店頭から消えたことはない。それどころか、これがまた新装版になって近年やたら平台で目立っていたので懐かしかった。
 考えてみれば、中学生にこれを読めというのもずいぶん無茶な話で、当時の新制中学の生徒にわかるようなレベルではない。だが、本というのはわかる本、おもしろい本だけ読んでいてもダメなのであって、背伸びして読むものでもあるということを、K先生はあわせて教えようとしたのではないかと、いうような気がしている。
 お陰で、広島の本通りに出かけて行って、広文館や金正堂で背伸びして本を買うことを覚えた。といっても、お金があるわけではないから、並んでいる本だけ見て、買うのはいつもいちばん安い★一つの岩波文庫くらいだった。
 K先生は、次の春が来る前に不慮の死をとげられた。みんなで葬儀に参列してお別れをした。これまたうわさ好きのあいだでは、酔っぱらって川へ落ちたとか、いろいろ言われた。いや、きっと先生は、川の寒ブナの様子を見ようとして…。
 「ものごとを知る喜び」を教えてくれたその授業は、始まったときと同じように、いかにも唐突に終わってしまった。

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□24:初めて泳ぎを覚えた海と初めての部活で印刷所へ=広島市南区月見町(広島県) [ある編集者の記憶遺産]

 中学校へ入って最初の夏休み前に、水泳教室があった。まだ諸事万端不如意な時代だったから、泊まりがけで遠くへ行く臨海学校のようなしゃれたものでもなかったし、プールなどというものは、まだどこにもなかった。ただ、先生と上級生に引率されて、学校のグランドの目の前の山を越えて、蛎殻の散らばる海岸へぞろぞろと歩いていっただけである。広島湾に面した小さな浜は、さしづめプライベートビーチではあったが、いまの地図ではそこも埋め立てられ、月見町という町になっている。
 その水泳教室で、まず教わったのは六尺褌の締め方から。海水パンツもなかったのだ。すでに泳げる子もいて、体操がすむとそういう子達は沖に浮かんでいるかきいかだまで泳いでいく。でんでんむしはまだそのときは泳げない子のグループだった。泳げない子への教え方はかなり乱暴なもので、上級生の背中につかまって、背の届かない沖へ数メートル連れて行かれる。すると、そこでいきなり上級生が潜ってしまうので、つかまるものがなくなってしまった。当然身体は沈んでいく。あわてて水を呑んでしまい、必死でばたばたして岸をめざそうとした。その日が、曲がりなりに水泳を覚えた日だった。
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 泳げない時は、干潮で干潟が現れたところで、小魚を追ったりして遊んでいた。泳げるようになってからは、その遊び場の楽しさが、何倍増にも広がったことは、いうまでもない。今度は満潮で潮が満ちてくる時を計って、泳ぎに行く。新聞を広げてイのいちばんに見るのは潮時表で、それによって夏の一日のタイムスケジュールが決まる。
 もっぱら夏の遊び場であった海田川と的場川の河口辺りには、戦時中は潜水艦の修理をしていたというドックの跡もあった。
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 瀬戸内海では、干満の差がかなり大きい。干潮時には、遠く広島湾のあちこちに広がるかきひびの棚が姿を見せ、川は小さな流れとなって砂地を蛇行した。ドックの跡は、干潮時でも泳げる場所だったが、それが満潮時には、その河口でも水深が3〜4メートルにも達する。さらに深くなるドックの跡は、飛び込み専用だった。
 いま、地図を見ると、広い入江があったところは埋め立てられ、それに続く的場川も随分肩身が狭くなっているようだ。それに瀬野川(海田川)と的場川が流れる河口付近には、埋め立て地が伸びて、泳ぎを覚えた海も全部埋め立てられて、そこらには月見町という名前がついている。だが、驚いたことに、そのドック跡の形はいまも四角い水面として描かれていた。
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 日本製鋼所の南部は、広島市中央卸売市場になっていた。その海の沖には、広島呉道路と高速2号線、高速3号線と、何本もの高架のバイパスが海の上を走っている。湾の奥は両側が埋め立てられて、西側は埠頭、東側は工場団地になっていた。狭くなって深い入り江のようになった湾には、Mapionでは広島湾でなく海田湾という別の名前までついている。その高いところを、海田大橋という橋がひとまたぎしている。
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 十何年か前、所用があって広島に久しぶりに帰った。狭くなった海田沖の湾を横切るバイパスを走るバスの窓から、初めて泳ぎを覚えた海を探してみたが、どこを見ても見知らぬ海だった。透き通るような川に潜って見た、水と砂と光の織りなす川底を思った。あの、きれいでふしぎな世界は、もうないのだろう。
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 中学校に入ってもうひとつ新しい世界が開けたのが、いまでいう“部活”である。テニスはやってみたかったけど実現せず、結局やったのは新聞部と文芸部。予算がないので、一年に一度出せればいいほうだったが、顧問で新任のS先生が熱心で、先生の宿直の休日に宿直室に集まって、わいわいやっていた。たいして必要もないのに、広島の印刷所に出張校正に行こうと言い出したのもS先生であった。思えば、まねごとの編集をして、印刷所に出入りするようになったのは、この頃から始まっていたわけだ。
 また、ホームルームのT先生や国語のM先生の指導で、演劇のまねごともやった。文化祭では広島城の南の公園内にあった児童文化会館で、ブレヒト劇をやったりしたのもいい思い出になっている。中学校3年のときには、先生が「これなら山本安英を招待してもいい」といった最強メンバーとで、木下順二の「夕鶴」を上演する予定になっていた。与ひょうを演じることになって稽古をしていたが、なぜかこの年は文化祭が土壇場で中止になった。理由は知らなかったか忘れたかして、わからない。
 学校の行事というのは、当時は半ば強制的にやらされるものだけれど、後々になってみると、それが非常によい体験になり、おおきな糧になるということが多い。
 初めて泳ぎを覚えた海からすぐ南の似島で、高校の臨海で泳いだ遠泳とか、宮島街道を16キロ走ったマラソンなどもそうだった。が、それらのどれもが先生の情熱に支えられていたことは、疑う余地がない。
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□23:いまはなきイースト・エンドの青崎中学校と図書室…=広島市南区堀越3丁目(広島県) [ある編集者の記憶遺産]

 国道2号線の下に流れた川は、日本製鋼所広島製作所の正門前付近まで、広い入江になっていた。現在の地図で見ると、旧国道2号線の南、日本製鋼所の工場の北西寄りに逆三角形に見える場所があるが、そこが、かつてはその入江だった。砂と泥が混じったような干潟が、潮が満ちてくると満々たる海面に一変する。日に二度ずつそれを繰り返しながら、川は広島湾の東に注いでいく。その川の名前が的場川だということは、近年になってネット地図を見るようになって初めて知ったくらいで、当時は誰も川の名前など知らず、気にもしていなかった。
 この川は、魚釣りのためのエサにするゴカイをとるのに、好適な場所だったし、ハゼもよく釣れる川だった。それに、今思えば、かなり重要なことだったが、当時から岡山では天然記念物に指定されているので有名な、カブトガニがたくさんいたのだ。
 広島湾の東奥には、もうひとつみんなが海田川と呼んでいたが、実は正式名称は瀬野川という比較的大きな川が流れ込んでいる。
 日本製鋼所広島製作所の工場は、この瀬野川と的場川の間に、かなり広い敷地があったが、戦後長い間こどもたちが海遊びに通う工場内の土手の道すがら、赤さびて崩れかかった鉄骨や破れた窓ガラスがそのままに見えていたものだ。
 うわさでは、戦時中は大砲もつくっていたという広い工場は、戦後は鍋釜までつくってしのいだという。同じくうわさでは、機関銃もつくっていた東洋工業は、戦後その技術をさく岩機に転用した(あるいはさく岩機が先で機関銃になったのかもしれない)ものだろう。
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 広島市立青崎中学校は、右岸の日本製鋼所の工場設備で、多くが遊休になっていたらしい建物や敷地の一部も使って開校されていたようだ。川が当時の広島市の東端だったから、文字通りの“イースト・エンド”にあった。
 その言葉を知ったのは、これもうわさでは進駐軍の通訳だったという中学校の英語教師が、盛んにそれを連発していたからだ。それが、ロンドンの貧民街を象徴する用語だと気がついたのは、だいぶ後になってからだった。だが、その教師の口ぶりやいかにも軽蔑的な態度から、決していい意味で使っているのではないことは充分わかった。
 中学校のグランドは、小さな新校舎一棟前の一部を除いて、入学当初は崖の下の湿地帯で、しばらくは生徒も先生も、全校あげてのモッコ担ぎで土を運び、たくさんのカエルの住み処を奪いながら、埋め立て作業に精をだしていた。
 そんなくらいだから、設備も万事に整っていなくて、工場施設の一部だったおんぼろの旧校舎は、冬は寒く夏は暑かった。それでも、ピアノが一台置かれた音楽室と図書室と小さな売店があったのは立派なものだ。なにしろ、中学校のある場所は、人家のある場所からも少し離れた、使っているのかどうかわからない工場の建物と山と畑に囲まれていて、近くには店もなかったから、パンなどを売る売店は必須設備だったのだ。
 旧校舎の一階の端の一部屋があてられていた図書室は、こんどは開かずの間ではない。三方の壁面にずらりと並んだ本棚と本は、中学に入って初めて見た異世界への扉だったといってよかった。
 そこで読んだ本のなかでは、よく記憶に残っているのが片っ端から読んだ講談社の「少年少女世界名作全集」と岩波書店の「岩波少年文庫」である。細かいことは忘れたが、図書室で行なう授業もあって、そのときに先生がまだめずらしかったカメラを持ってきて、クラスの男の子全員が図書室の前で本を手にして撮ってくれた貴重な写真がある。
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 女の子は別に撮ったのだろうが、この頃広島では中高一貫の私立女子校がいくつもあって、そちらに通学する子も結構あったので、女子のほうが人数は少なかった。
 記念切手ほどの小さなセピア色の写真は、いまとなってみれば、その時代を切り取った重要な証拠写真となった。
 それというのも、この図書室はもちろん、青崎中学校そのものが、とうの昔になくなってしまったからである。そのときにはもう広島を離れて久しかったので、どういういきさつがあったのかも知らないが、おそらくは長い仮住まいに決着をつけたということなのか。青崎中学校は廃校になって、生徒や先生たちは猿猴川を遡った大洲にできた、新しい大洲中学校へ引っ越していったという。
 青崎中学校というイースト・エンドの母校は、永遠に失われたのである。
 いまの地図で、その中学校のあった場所を探してみると、それとおぼしき付近は日本製鋼所の寮などの施設で埋められ、グランドの南にあった崖の一部は描かれているものの、その上の山はすべて向洋新町という住宅街になっていた。
 「青崎」という名のおこりではないかと、勝手に決めていた広島湾の東端に張り出していた山もなくなった。その崖をなぞるようにして、いまは新しい国道2号線が走っている。
 いつだったか、粗大ゴミのなかに講談社の全集が数冊捨てられていた。あまりの懐かしさに、持って帰って大事にとっておいた。
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 だが、後年、岩波文庫で『三銃士』や『モンテクリスト伯』『ロビンソン・クルーソー』などを読んでいて、この全集がいかに“超訳”であったかを知ることになるのだが、未知の世界へ誘ってくれた功績を損なうものではない。

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□22:青崎小学校と貸本屋と東洋工業と…=広島市南区青崎1丁目(広島県) [ある編集者の記憶遺産]

 広島市の東のはずれ、といっても今のではない。合併に次ぐ合併で、現在の市域は拡大しているが、昔は太田川のいちばん東の支流である猿猴川(えんこう(カッパ)がわ)の東岸は、青崎というちょっと広くて大きい岬のような地形をなしていた一部を除いて、すぐ安芸郡府中町になる。広島市立青崎小学校は、猿猴川の下流左岸にあった。当時は、広島市でいちばん東の端っこになる。
 府中町の小学校は、南部にはまだなかったので、われわれ府中町南部のこどもは、市境を越えて学区外から通学していたことになる。学校の白い四角い敷地は、昔のままで変わらないように地図でみえているが、それを囲んでいた猿候川に通じる堀割の水路はなくなっている。
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 青崎小学校の図書室は前にも書いたように名ばかりの開かずの間だったので、小学校時代の本との縁は、高学年になった頃に、校門前の家が始めた貸本屋が主であった。
 大人のための貸本もあったのだろうが、こちらは棚にぎっしり並んでいるマンガしか目に入らない。『ゲゲゲの女房』でよく知られることになったが、この頃はマンガ作家も貸本向けに描いていたのだ。そんななかでも、とくに気に入っていたのが「虫」のマークがついた手塚治虫の本で、片っ端から借りた。といっても、わずかな小遣いのなかで許す範囲という限度があった。
 手塚治虫は、この少し前に『新宝島』というマンガで、鮮烈な印象を残していた。それまでの『のらくろ』や『タンクタンクロー』といったマンガにない魅力があった。映画的なシーンのつくりかたをした、いまや伝説となっているこの本は、苦労して苦労して借りてきた。借りてきたときはもうぼろぼろになっていた。
 この頃、貸すといっても誰もただで貸してはくれない。物物交換である。だから、相手が読んでいない本や雑誌を、こちらも提供しなければ借りられない。そういうルールが、いつのまにかなんとなくできあがっていた。
 そのかわり、親友でなくても顔を知っていれば誰とでも取引は成立したのである。だから、口コミでもれてくる情報をつてに、遠くの方まで自転車を飛ばして借りに出かけるということもめずらしくなかった。
 その後、光文社の雑誌『少年』で『アトム大使』が始まったのは、小学校も6年生になった1951(昭和26)年のことだった。
 小学校の門前には、よく露天の店が出ていた。こども相手に針金細工のゴム鉄砲を売るおじさんから、畑の作物を並べるおばさんまで、さまざまだった。いま思えば、日々の暮らしの糧を得るのに、大人たちはみんな大変な苦労をしていたのだ。
 そんななか、学区の親たちで比較的恵まれていたのが、勤め人と呼ばれていた東洋工業や日本製鋼所の工場勤めをする人々だったろう。こどもの間でも、「うちはトーヨーじゃけん」というのは、自慢にできた。エリートという言葉もサラリーマンという言葉もまだなかったが、青崎小学校のすぐ近くの隣から、もう東洋工業の工場だった。
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 東洋工業(現:マツダ)は、国道2号線と猿猴川に挟まれた、ウナギの寝床のような南北に長い土地に、会社とその工場があったのだ。現在は、昔はなかった何本もの橋が、猿猴川の下流域に架かっているので、その橋を渡って眺めると、工場のバックには府中町の北東の外境界にもなっている呉婆々宇の山塊が連なっている。
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 工場の大半は広島市に属しているが、たまたま本社の建物があるところは、広島市ではなく府中町なので、この小さな町の税収にも貢献している。そのため、合併ばやりの今でも、周りがぐるりと広島市になった今でも、府中町だけは安芸郡府中町のままである。
 朝と夕暮れの向洋駅は、列車で通勤する大勢の人であふれていた。マイカー通勤など、誰にも想像できない時代のことである。
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□21:山陽本線と国道2号線が青崎小学校への通学路…=広島市南区青崎1-2丁目(広島県) [ある編集者の記憶遺産]

 国鉄の幹線のなかでも、複々線はそう多くないのだと、機関区か何かの見学に行って知って、なにやら誇らしく思えたものだったが、広島〜海田市間は、山陽本線と呉線が合流し並行する区間なのだ。
 その線路もまた、小学校と家を往復する通学路の一部だった。今から思うと、のんきな時代であった。線路に柵などなく、誰でもどこからでも自由に歩いたり横断したりした。
 上りの汽車が、向洋駅を出発すると、次の駅である海田市まで、大きく二か所のカーブがあり、その間の線路のレールの上を、落ちないようにバランスをとりながら、どこまで長く歩けるか、それが毎日の挑戦課題だった。
 レールの間の枕木上を歩くこともあったが、この間隔が微妙で、こどもの足でも、一つずつでは狭過ぎる、二つ飛びにすると広過ぎる。それに、よくちり紙と一緒に落とし物も落ちていたので、注意が必要だった。
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 汽車の本数も、そう多くはなかったのだろうが、それでも幹線で複々線である。旅客列車のほかに、貨物列車も走る。日本が戦後の復興路線を走り始める、まさにその助走から勢いをつけはじめた6年間、この線路を歩いていたことになるので、だんだんと本数も増え、貨物列車の長さもだんだん長くなっていった。
 ワムとか、トラとか、トキとか書かれた、貨車の記号を読んだり、車両の数を数えたり、汽車もまた遊びのネタになる。格好つけたがる汽車通学の生徒たちは、客室内には入らないで、デッキから身を乗り出すようにしてぶら下がっていた。
 が、なんといっても、あのダイナミックな蒸気機関車の動きには、魅了された。黒い煙と白い蒸気を吐きながら、大きな音を響かせて走る姿は、まさに命あるもののように見え、いつも汽車が来ると、それが過ぎるまで見送っていた。
 動輪が三つのものと四つのものがあることはわかったし、正面のライトのところに枕のようなタンクをつけたD51とそれがないC62の違いはわかったが、それ以上に興味も知識も発展しなかったのは、やはりぼんやりした小学生だったのだ。
 そんなぼんやりした小学生にも、はっきりした忘れ得ぬ記憶がある。
 あれは、小学校に入って二年目くらいのことだったろうか。当時は貴重だった、白い紙が一人に一枚配られた。それにクレヨンで赤い丸を塗りつぶし、端にご飯粒を塗って笹竹に巻き付ける。それを手に手にもって、全校生徒が行列してでかけたことがある。
 行った先は、自分の通学路である線路脇の土手だった。そこに整列して、待つうちに金ぴかの縁取りと日の丸をぶっちがいにつけ(ていたと思う)た機関車が、いつもよりおごそかにやってきた。
 そう思えたのは、それまでの先生たちの緊張ぶりが、こどもにも伝わっていたからだったのだろう。居並ぶこどもたちが手製の旗を振る前を、菊の紋章のついた窓に並んだ二つの影を乗せたお召し列車が、いつものような音をたてて、通り過ぎていった。
 終戦の翌年、東京・神奈川から始まった天皇巡幸は、昭和22年の秋の終わりには、被爆地広島を巡っている。
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 断るまでもないが、国道2号線は大阪から下関まで続く。ここでいうのはそのごく一部、広島〜海田市間だけのことである。
 これも当たり前だが、昔は結構広い大きな道だと思っていたが、二車線しかなく歩道の余地もないほどで、大きなバスやトラックが行き交えば、それだけで圧迫感がある。シャッターが降りたままの沿道の家や店も、いやがうえにも侘びしさを増す。
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 青崎と呼ばれるこの辺りには、小学校へ通い始めた頃は、まだほとんど店らしい店も数軒しかなかった。小学校を卒業する頃には、倍以上に店も増え、電気屋、散髪屋、魚屋、八百屋、クリーニング屋、自転車屋、薬屋などがここに軒を連ねていたと思う。
 この一角を過ぎる辺りには、かき打ち場(水揚げしたかきの殻を取る作業場)が、二三軒並んでいた。それからさらに東へ行くと、人家もまれになり、寄り添うように続いてくる山陽本線と並行している。
 どちらが先でいつできたのかは知らないが、山陽道も中国縦貫道もまだできる前、この二本のバイパスができるまでは、とにかくこの旧国道2号線しか、広島と東側を結ぶ道はなかった。現在は、国道2号線は青崎小学校の南側にできたバイパスにその名もとられてしまったので、いささか寂れた感じがする通りになってしまったが、当時はこれが唯一の大動脈で、この道が東へ向かう道、東から広島に入る道だったのである。
 小学校へ通うときから、この道をてくてくと、歩き始めた。当時は国道2号線も、車などはめったに通らない。信号機もひとつもない。その馬力の元が排泄物を盛大に撒き散らしながら、荷馬車はのんびりとパカパカと往来していた。
 ときどきは、この荷馬車の荷台に飛び乗って、通学した道である。こののどかな、白い道にもまた、通り過ぎたいくつものシーンがある。
 平野というものがなく、関東や関西のように、郊外電車が発達しなかった広島では、山間を縫うようにしてバスが走る。だから、今でも市街の真ん中にバスセンターがある。
 確か、小学校の社会科見学で調べた記憶によると、営業用の路線バスが、日本でいちばん最初に走ったのは広島なのだ。
 国道2号線は、俗に青バスと呼ぶ広電バス、赤バスの広島バス、ツバメマークの国鉄バス、芸陽バスに呉市営バスといったバス会社のバスが走る一大幹線道路だった。
 最初は、背中にストーブのようなものをくっつけたガタガタの木炭自動車で、それからガソリンのにおいと木の床にしみ込んだ油のにおいが懐かしいボンネットバスが走った。さらにリアエンジンになって前が平べったくなってシートがふかふかになったバスで…。
 そうだ、トレーラーという運転席と客席が分離したダックスフンドのようなバスが走っていた時期もある。
 高校時代には、これらのバスと抜きつ抜かれつの競争しながら、自転車で通学していた時期もあったが、いったい、何度この道を往復したものだろうか。
 これもまた数年前に、久しぶりに従兄弟の運転する車で、この道を走った。沿道のたたずまいが、記憶する昔の景色を浮かび上がらせ、そして戸惑わせる。
 バイパスのほうを通る車が多いので、交通量は減り、渋滞は緩和されたらしいが、すっかり寂れたとしか形容のしようがない景色に、複雑な想いだけが走っていく…。
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 いま思えば、当時の山や川の風景を撮った写真も、小学校時代の写真も卒業アルバム以外には1枚もない。それは、まだ普通の家では「写真機」を持っているところが、まったくなかったからだ。それは、青崎小学校へ通う6年間を通じていえることであった。なにしろ、小学校では校庭に並ばされて、頭から噴霧器でDDTをかけられていた、そういう時代だったのだから…。
 山陽本線の線路と国道2号線を通る通学路は、いま計ってみると1.5キロほどしかないのだが、当時はこれがかなり遠く長い道のりに思えた。もちろん、いまのように通学路が指定されているわけでもなく、毎日勝手気ままに経路を変えたりしながら、道草も適当にくいながらの通学だから、6年間も通えたのかも知れない。
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□20:ふるさとはと問われればそれはやはり「青崎」か?…=安芸郡府中町青崎東(広島県) [ある編集者の記憶遺産]

 原爆が落とされる前までは、臨時の避難疎開先で仮住まいだった場所は、その後十数年間にわたって、多感な少年期を過ごす場所となった。生まれた家はもうなく、広島市内に戻ることはなかったので、さまざまな思い出や、生活の舞台となった広島郊外のそこは、まさしく「ふるさと」そのものとなった。
 よく「お国はどちらですか?」とか、「出身はどこ?」とか聞かれるが、そういうときの「広島です」という答えは、場合によっては昔の「安芸の国」というような広い地域をイメージしてのこともあるが、だいたいはいつもこの広島県安芸郡府中町の、それも南東の端っこぎりぎりの地域を念頭においてきたように思う。

 人家が十数軒立ち並ぶ谷間の北側を、ぐるりと取り囲むようにして裏山が続いていた。その山に入会権というようなものがあったのかどうか知らないし、第一所有者がいるなんて、気にもしていなかった。
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 標高はせいぜい50〜60メートルほどで、山というよりほとんど丘のようなものだったが、雑木林とところどころ畑もあった尾根は、結構複雑にでこぼこしながら、船越峠を越えて呉婆々宇(ごさそう)山に連なる山塊の南端であった。小さな山からでもどこからとなく湧きだし流れだす水流を伴う。尾根と尾根の間にわずかに広がる谷間には田圃がつくられ、ドジョウやメダカやオタマジャクシが群れていた。
 秘密基地をつくったり、宝物を隠して地図をつくるなど、わが物顔に遊び場にしていたその山では、山桜やピンクのツツジや白いアセビが咲く春にはツクシやズボナなど野草摘みが楽しめた。松林を鳴らして抜ける風が涼しい夏は、無数のホタルが谷間を飛び交う。そして、秋は紅葉の間に何種類ものキノコやドングリ、ヤブツバキが彩りを添え、下草が枯れてノウサギの糞が目立つようになる冬は、野山で落ち葉かきに精をだした。
 松の落ち葉や枯れ枝を掻き集める落ち葉かき兼タキギ拾いは、ガスはおろか水道さえもまだなく、もちろん電気炊飯器もない時代、台所の煮炊きや風呂を沸かすのに欠かせない。それは、こどもの重要な仕事でもあった。
 小さいながら川は水量も豊富で、戦後の台風のときなど、記憶にあるだけでも二度にわたって道になっていた土手が決壊し、辺り一面が大洪水になったこともある。どこからこんなにと思うくらい、常に花崗岩のさらさらした川砂を運んでいる。この砂を掘り上げて堰き止める。一時的には下流が干上がるが、水の増加に砂のダムが耐え切れなくなると同時に、今度は堰を崩すと、水は勢いをつけて一気に川を下る。そんな川遊びもよくした。
 イトウナギと呼んでいたうなぎの幼魚やハゼやゴリ、フナなどの小魚を追うのも、オニヤンマやキリギスやセミを追うのも、夏の日課だった。ヘビもカエルもそこらじゅうにいて、それらもみんな遊び仲間だった。
 田圃のイナゴをたくさん捕まえては串刺しにして、これを火で焼いて食べると香ばしくておいしかったが、そんなことをしていたのはわれわれくらいだったのだろうか。今ごろになって、気になる。
 戦後の一時期は、食用ガエルと呼んでいたウシガエルやスズメからノウサギやテツドウグサまで、なんでもかんでも食べられるか否かが、最も重要なテーマだったのだが…。山には、野鳥もたくさん飛んで鳴いていたが、バードウォッチングなどという高尚な発想はどこにもなく、当時雑誌の広告を賑わしていたのは、空気銃やカスミ網の宣伝だった。
 とくに長い夏の日の夕暮れは、涼み台にみんな集まって、降るような星空を見上げるのも楽しい。急降下を繰り返してエサを追うコウモリが一仕事終えると、こんどはその川のそばにある湿地の草叢には、ホタルの灯りが点滅し、どうかすると家の中にも紛れ込んでくる。網戸などというものは、まだどこにもなかった。麦を刈り取った後の麦わらを編んで、ホタル篭をつくった。カギになった雁の群れが何度も空をよぎって飛んでいくようになると、川の茂みも黄色く変わる。
 少し大きくなると、祖父の畑仕事を手伝わされた。最初は遊びを制限されるのでいやいやだったが、だんだん田畑の農作業にも興味がわいてきた。高校くらいになると、自分で草花や菊の栽培に熱を入れるようになる。
 川沿いに南へ下っていくと、川幅はだんだん広くなり、国鉄山陽本線の複々線の線路と踏切がある。だが、その踏切に警報器や遮断機がつく前のことしか知らない。この線路を西へ行くと向洋駅で、東へ行くとそれより少しだけ遠い海田市駅があり、ここで呉線に分岐している。唯一変わっていないのは、この線路だけだろう。
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 さらに下ると、国道2号線(旧)にでるが、当時は誰もが単に「国道」といっていたので、2号という番号があることなど知らなかった。国道を西へ行くと青崎で、東へ行くと船越。川筋からちょうどこのあたりまでが、広島市と安芸郡の境界だったが、現在では船越も広島市安芸区になって、安芸郡府中町だけが広島市域に取り囲まれて残っている。
 国道の南には、川が注ぐ入江があって、満潮の時には線路付近まで海水が上がってきていた。そこから広島湾の海までは、1.2キロほどだ。この川にも的場川という名前があることは、数年前に地図でその表示を見て初めて知ったが、現在はその川も両側から埋め立てられて随分肩身が狭くなっているらしい。
 こどもの頃は、向洋駅もはるかに遠い先であったが、小学校はその駅の南にある広島市立青崎小学校まで、毎日通わなければならなかった。そこらは広島市青崎または「東青崎」で、川の流れていた谷間は現在の住居表示では安芸郡府中町「青崎東」。
 「青崎」は、猿猴川の河口左岸に、大きく張り出していた青い岬の一部だったともいえるのだった。
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 もうそこを離れ、縁もなくなってしまって数十年が経つので、その地域は大きく変貌し、もはや昔の面影はどこにもない。十数年か前に訪れたときには、駆け回っていた野山は、全部住宅地になり、そこには柳ヶ丘という名前がついていて、その北の端は山陽新幹線の府中トンネルの出入り口になっていた。町の境界になっていた川も、もう暗渠になっていた。
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 広島を出た後に、何度かそこを訪れることがあっても、そのたびに言いしれぬ寂しさと情けなさと、哀れさ悲しさで胸がつまるばかりになってしまうのだった。それがかえって足を遠のかせ、ふるさとはだんだん遠く、おぼろげになっている。
 いまやその実体はどこにも存在しないふるさとは、ただ自分の記憶のなかだけで、かすかな残像としてころがしてみるイメージにすぎない。そして、それがあったからこそ、その後数十年の都会生活ができたような気もする。
 そんな記憶を辿って、いま少し以前に書いていたものも引っ張り出しながら、情報整理の意味をかねて収録していきたい。


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dendenmushi.gif(2013/01/27 記)

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