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でんでんむし@アーカイブス★むかしの人は言いました=その32 臨時特別連載「道歌」 [番外DB]

 齢を重ねてきたでんでんむしが、今振り返ってみる心境は、冒頭の一首につきるようであります。
 ほんとうに、これまでなんとか生きてこられたのが不思議で、奇跡のようにさえ思えます。いいかえれば、いくつもの幸運に恵まれてきた…。もちろん、そうではない理不尽な目にあったことも数知れず、不運もまたたくさんあった…。
 直接的な意味でも、あのときもしこうだったら自分は今こうして生きてはいなかっただろうという体験も、何度かしている。“死線を越えて”というのは死語ではないのです。これは、誰にもあることかもしれませんが、でんでんむしのその体験で記憶に残るものは、20歳になるまでの間にあったできごとばかりです。
 いろいろな人にも出会いました。そして多くの人と別れてきました。人が人生一生のなかで触れ合う人の数は、いったいどのくらいになるのでしょう。持ちつ持たれつのこの世の中、通りすぎていく人は多けれど、最後に残るのは…。
 ひねくれて、自分ひとりで生きていくようなことを口走ってみたところで、そんなことができるわけもない。世間というものから「一人離れて 保つべしやは」です。
 でんでんむしは、過ぎてきた帰らぬ昨日のことは、思ってみてもしかたがない、過去を振り返るのはつまらんことだという考え方には同調できないのです。今日のこともおもいつつ、「帰らぬ昨日 しらぬ明日の日」も同時に考えながら、残された日々を過ごしていきたいものだと愚考しております。

kokoro.jpg
32 mark.jpg らぬ昨日しらぬ明日の日…

年を経て 浮き世の橋を 見かへれば さても危うく 渡りけるかな

人は皆 持ちつ持たれつ 世をわたる 一人離れて 保つべしやは

心から 流るる水を せきとめて おのれと縁に 身を沈めけり

咲く花を 歌によむ人 ほむる人 さかせる花の もとを知れかし

咲くもよし 散るも吉野の 山桜 ただ春風に 任せてぞみん

桜花 けふこそかくは におふらめ 頼みがたきは 明日の夜のこと

三度炊く 飯さえこはし 柔らかし 思うままには ならぬ世の中

死ぬるのみ 一大事かは 人はただ 生ける間ぞ 一大事なる

万能に 足りてももしや 一心が 足らぬと役に 立たぬ世の中

人皆の 選ぶが上に 選びたる 玉にも傷の ある世なり

人をのみ 渡し渡して おのが身は 岸に上がらぬ 渡しもりかな

差し当たる 今日のことのみ 思えただ 帰らぬ昨日 しらぬ明日の日

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dendenmushi.gif(2014/05/17 記)
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でんでんむし@アーカイブス★むかしの人は言いました=その31 臨時特別連載「道歌」 [番外DB]

 ものごとは常に、さまざまな立場や角度から、いろいろに見方はわかれます。それだけでなく、認識の主体が変われば認識の対象さえも変化するという唯識(人間の5感に加えて自覚的意識、それに無意識の末那識と阿頼耶識の8種類の識)のものの見方が、大乗仏教にはあるそうです。
 むずかしいことはわかりませんが、世の中のあらゆる存在が、8種類の識でしかなければ、あらゆる存在は常に主観的なものであり、客観的ではありえない…といったところでしょうか。冒頭の、
 手を打てば 下女は茶を汲む 鳥はたつ 魚寄り来たる 猿沢の池
という歌は、それをあらわしているんですね。
 でんでんむしも、これは知っていましたが、この歌にはこんなにたくさんのバリエーションが流布していたとは…。ちょっと変えただけじゃないか…といってしまえばそれまでです。しかし、それだけ多くの人の関心を集めていたということでもあるわけで、これはばかにできないと思います。
 ちなみに、猿沢の池も不忍池でも広沢池でもよさそうですが、これだけは変わらない。それは、この池の上にある興福寺こそは、唯識の法相宗本山だったからでしょう。
 こういうふうに、たいていの歌は、なんとなく主旨は理解できると思うのですが、なかにはこの歌の意味を解説しろと言われると、実は正直なところどうもよくわからない、うまく説明できない微妙なのもあるんですよ。

kokoro.jpg
31 mark.jpg を打てば…

手を打てば 下女は茶を汲む 鳥はたつ 魚寄り来たる 猿沢の池

手を打てば 鯉は寄り来る 鹿は逃ぐ 下女は茶を汲む 猿沢の池

手を打てば 鳥は飛び立つ 鯉は寄る 女中茶を持つ 猿沢の池

手を打てば 下女は茶を持ち 鳥は逃げ 鯉は餌と聞く 猿沢の池

手を打てば 仲居返事す 鳥逃げる 鯉は集まる 猿沢の池

手を打てば 鯉は餌と聴き 鳥は逃げ 女中は茶と聞く 猿沢の池

手を打てば 魚は集まる 鳥逃げる 下女は茶を酌む 猿沢の池

手を打てば 鹿は寄り来る 鳥は飛ぶ 下女は茶をくむ 猿沢の池

山川の 末にながるる とちがらも 身をすててこそ 浮かぶ瀬もあれ

河水に 流れ流るる ちから藻も 身を捨ててこそ 浮かぶ瀬もあれ

みる人も みらるる人も うたたねの 夢幻の 浮き世ならずや

木に竹の 無理はいうとも そこが親 いわせて桶屋 たが笑うとも

憂きことは 世にふるほどの 習いぞと 思いも知らで なになげくらん

うつせみの もぬけのからと 身はなりて 我もあらばこそ ものおしはせめ

夏蝉の もぬけて果てる 身となれば 何か残りて ものおじをせん

惜しむとて 惜しまれぬべき この世かは 身を捨ててこそ 身をも助けめ

なぜさすり 大事にするも 手あぶりの つめとうならぬ うちでこそあれ

顔くせを 常にたしなめ とがなくて 世ににくまれて なににかはせん

Dmtfuji.jpg

dendenmushi.gif(2014/05/15 記)
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でんでんむし@アーカイブス★むかしの人は言いました=その30 臨時特別連載「道歌」 [番外DB]

 若い頃、映画に少しばかり興味を抱いていたことがありました。その頃は、まだ麻布霞町付近も“西麻布”とかいうへんてこな街になってしまう、ずっと前です。青山の墓地下を都電が走っていて、その線路脇にはシナリオ作家協会のシナリオ会館がありました。そこの付属のシナリオ研究所に通っていた頃、小津安二郎や溝口健二や木下恵介などが活躍していたのですが、小津監督の『東京物語』(1953:脚本 野田高梧・小津安二郎)は今でも多くの人がベストにリストアップする名作です。でんでんむしがとくに感心したのは、セリフがすべて日常に使われている、ごく平凡なものばかりで成り立っていることでした。ムリなセリフはひとつもない。
 当時からずっとおじいさんだったんだ…という笠智衆と東山千栄子の老夫婦が、東京のこどもたちと嫁のところを訪ね、尾道への帰りに寄った大阪の三男の家での二人の会話は、深く永くこころに残りました。

  「おなごの子ぁ嫁にやったらおしまいじゃ」
  「幸一も変わりゃんしたよ あの子ももっと優しい子でしたがのう」 
  「なかなか親の思うようにゃぁいかんもんじゃ……」 
  「欲を言やぁ切りゃぁなぁが まぁええほうじゃよ」 
  「ええ ほうですとも よっぽどええほうでさぁ わたしらぁ幸せでさあ」 
  「そうじゃのう…… まぁ幸せなほうじゃのう」 
  「そうでさ 幸せなほうでさぁ……」

kokoro.jpg
30 mark.jpg とりて見よ…

上見れば 及ばぬことの 多かりき 笠見て暮らせ おのが心に

上見れば 及ばぬことの 多かれど 笠ぬぎてみむ およぶ限りを

下見れば 我に勝りし 者はなし 笠とりて見よ 天の高さを

上見れば ほしいほしいの 星だらけ 笠着て暮らせ おのがこころに

急がずば 濡れざらましを 旅人の 後より晴れる 野路の村雨

散りぬれば 後は芥に なる花を 思い知らずも 惑う蝶かな

ころころと 転げやすきは 人心 転げぬように 心して持て

もののふの 矢走のわたし 近くとも 急がば回れ 瀬田の唐橋

きっぱりと 埒の明きたる 世の中に 埒を明けぬは 迷いなりけり

われという その角もじを 折りつくせ 迷い悟りも 忘れ抜くほど

あめあられ 雪や氷と へだつれど とくれば同じ 谷川の水

雪氷 雨やあられと へだつれど 落つれば同じ 谷川の水

Dkamome.jpg

dendenmushi.gif(2014/05/13 記)
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でんでんむし@アーカイブス★むかしの人は言いました=その29 臨時特別連載「道歌」 [番外DB]

 反省だけならサルでもできる…そんな文句が流行ったときがありましたね。そのお猿さんたちの“軍団”も、ついに解散したようですが、こういうことが流行ると「反省」という言葉が、かなり軽くなって使いにくくなってしまうのがなって困りますね。
 ほんとは「反省」だけでもしたほうが、しないよりはずっといいんだろうと思いますけどね。
 「論語読みの論語知らず」のでんでんむしですが、冒頭の一首がその「学而編」をネタにしてひねっていることくらいはなんとかわかります。
  曾子曰 吾日三省吾身 為人謀而忠乎 与朋友交言而不信乎 伝不習乎
 「曾子曰く、われ日に三たびわが身を省みる。人の為に謀りて忠ならざるか、朋友と交わりて信ならざるか、(孔子に)習わざるを伝えしか。」
 一日に三度、三点までとは言わないまでも、朝起きた時くらいはちょっと考えてみて…。うん、それならできるかもしれんと、実はちょっとその気になって習慣化しようとしたこともありました。
 それで? まあ、それは書かないほうがよいでしょう。でもね、朝目が覚めたときには、しばらく頭をあれこれ遊ばせて…。そんなことをこころがけていた、そういう頃もありました。

kokoro.jpg
29 mark.jpg りみて…

暁の 寝覚めになりと 思いみよ 日々に三たびは 省みずとも

奢ったり 遊んだりした 仕返しに 難儀な年の 尻がくるなり

釈迦もまた あみだも元は 人ぞかし われもかたちは 人にあらずや

人のただ よかれと思う いさめごと 耳に入らぬぞ 愚かなりける

人我に 辛きも人を とがめずて 我が身の悪き 影とこそ知れ

道の辺の 草にも花は 咲くものを 人のみあだに 生まれやはする

若きとき 学ばぬ悔いを かみしめる 奥歯なきまで 身は老いにけり

我が宿に やしないおける 犬だにも うち罵りて 責めじとぞ思う

我が善きに 人の悪しきは なきものぞ 人の悪しきは 我が悪しきなり

世の中の 人をあしとも 思うなよ 我だによくば 人もよからむ

こころよく 人事いわず いんぎんに 慈悲ある人に 遠慮ある人

仁は海 義は高山の 姿なり 誰もかくこそ あらまほしけれ

馴れ馴れて いかに親しき 仲なりと 心にふだん 礼をわするな

掃き掃除 礼儀配膳 何事も じだらくにせず 清くととのへ

気もつかず 目にも見えねど 知らぬ間に ほこりのたまる 袂なりけり

なき物を 仕出す宝の 手を持ちて ただおく人ぞ 愚かなりけり

水壺の 水はいつでも 清けれど わが不精から ためる水垢

夜遊びや 朝寝昼寝に 遊山好き 引っ込み思案 油断不根気

悪いとは 知りつつ渡る ままの川 流れて淵に 身を沈めけり

借りるときは 頭の上に いただけど 返さぬ傘は 足下にあり

Dhanseisaru.jpg

dendenmushi.gif(2014/05/11 記)
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でんでんむし@アーカイブス★むかしの人は言いました=その28 臨時特別連載「道歌」 [番外DB]

 収集した「道歌」は800もあったので、それを並べるのに、どうしようかと迷いました。作者別にもできないし、時代順にもできない。ならば、似たものを集めてグルーピングするしかなかろう…。
 そういう結論にはなったものの、もともとバラバラとできてきたもので、最初から方針やカテゴリがあったわけでもないので、これもかなりテキトーなくくくり方にならざるを得ませんでした。
 たとえば、“今日限り”というニュアンスでまとめようとしたこの項も、一期一会的な意味もあり、千里の道も的なものもあり、一念岩をも的なものやチリも積もれば的なのまで、さまざまにあります。それも、前のグループに入りそこねたような、そんなのがここには吹き溜まりのように集まってしまいました。
 先のことはわからんとはいいながら、なるようになるというのはやめて、日々懸命に生きることを積み重ねていくことが肝心。ひょろひょろした苗木もいつしか大木になるのは、なんとすばらしいことでしょうか。
 前にも出てきたのでダブっていますが、一方で、新渡戸稲造の『武士道』に、忍耐と良心をもって災禍困難に抗し耐えよというのが武士道だとして引かれている、終わりの一首のような強力な自己犠牲の心情に共感するところもありました。これは、山中鹿介(この人は「我に七難八苦を与え給え」で有名な尼子の重臣です。)が作者とする説が、“鹿之介”という講談本で広まった名とともに一般に定着しているようですが、実際はどうなんだろう。でんでんむしは、ちょっと疑問符をつけています。おそらく、七難八苦が有名になって、そういう人ならこの歌も…ということになってしまった?
 ま、そんなこんな、なんでもありのくくりになってしまいましたが、それでも、だらだらとたくさんの歌を並べてみても、読みにくいことこのうえないですからね。ま、この程度で勘弁してくだされ。

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28 mark.jpg 日を限りの…

今日限り 今日を限りの 命ぞと 思いて今日の 勤めをばせよ

苦と楽の 花咲く木々を よくみれば 心の植えし 実の生えしなり

小石をも よけてそろそろ はびこりて 木の根はついに 岩をわるなり

千万石 積み重ねたる 米の山も ひとつひとつの 俵よりなる

千里ゆく 道もはじめは 一歩み 低きよりして 高く登りつ

長命を 祈らぬ人は なかりけり まこといのらば 朝起きをせよ

なるように なろうというは 捨て言葉 ただなすように なると思えよ

花見とは 稲の花見が 花見なり 吉野初瀬は そのうえのこと

身にもてる 玉と雖も 磨かずば あたら光の 世には知られじ

身にもてる 心の玉の くもりなば ふみ読むわざも 甲斐やなからん

丹精は 誰知らずとも 自ずから 秋の実りの まさる数々

実るほど 稲はうつむく 人もまた 高き身とても 奢らぬぞよき

昔蒔きし 木の実大木と なりにけり 今蒔く木の実 後の大木ぞ

憂き事の なほこの上に 積れかし 限りある身の 力ためさん

Dtenthi.jpg

dendenmushi.gif(2014/05/09 記)
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でんでんむし@アーカイブス★むかしの人は言いました=その27 臨時特別連載「道歌」 [番外DB]

 どうも「諦観」というのは“あきらめる”ということと同義だから、あまりよいイメージがない。ならば「達観」というのはどうでしょうか
 これには、自分なりの生き方、人生観というものをちゃんと組み立てたうえでの、身の処し方、対応の仕方、日々の暮らし方というものが見えてきます。
 「道歌」のなかには、そういったものを示唆しているものも、結構あるような気もするのです。当然、内容や表現が今の時代には合わないものも多いのですが、そこにはやはり変らぬ人間の、世の中の見方が根底にあり、おのずからそれへの対処法も、言わず語らずに浮き彫りになってきます。
 天があり、地があり、その端境に人が生きている…。そういうスケールでみるとまた違った見方も生まれてくる…。
 でんでんむしが若い頃に読んで気に入っていた道歌のなかには、冒頭の歌もありました。これなんかね、ぶらぶらと暮らしているようでも、ちゃんと胸のあたりには締めくくってあるでしょ、というのがとてもおもしろく、同時にある種の哲学(おおげさかな)が感じられます。
 最後のもいいなあ。稲作の作業というのは、ほんとうに農業の基本であり、試練もかいくぐっていく辛抱が必要です。水が出るかもしれんし、嵐が来るかもわからない。だが、ただ “今日の勤めに 田草取る”というのも、人間の生き方そのものであるように思われてきます。

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27 mark.jpg つちと分かれし…

ぶらぶらと 暮らすようでも ひょうたんは 胸のあたりに 締めくくりあり

人はただ まめではたらく こそよけれ ああままならぬ 浮世次郎兵衛

人はただ まめで四角で 柔らかく 豆腐のように 変わらぬがよし

我が身だに 我がままならぬ 世の中に 思うままには ならぬ世の中

舟と水と 仲良くてこそ 世を渡れ 心の荒き 浪風ぞ憂き

行く水に 身をばまかせて 人のため いそしみめぐる 水車かな

水車 みずから臼の みずからは することも知らで 米やしらげん

わが性の 人にかくれて 知られずば たかまのはらに 立ち出でてみよ

悪いこと 人は知らぬと 思うなよ 天に口あり 壁に耳あり

すまば澄め にごらば濁れ 月影の 宿らぬ水の あらばこそあれ

天地と 分かれし中の 人なれば 下を恵みて 上をうやまへ

世の中は 人の上のみゆかしけれ うらやむわれも うらやまれつつ

口ひとつ 過ごす鶏さえ 七つ起き 人と生まれて 朝寝するとは

生業を 勉むる道の 奥にこそ 黄金花咲く 山はありけり

春くれば 夏くるものを 拵えて 今日一日も あだにくらすな

春日から 夏秋の冬の ことをせば 時にあわねど 時にあうもの

この秋は 水か嵐か 知らねども 今日の勤めに 田草取るなり

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dendenmushi.gif(2014/05/07 記)
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でんでんむし@アーカイブス★むかしの人は言いました=その26 臨時特別連載「道歌」 [番外DB]

 どうも「道歌」のなかを一貫して流れているのは、「諦観」であるような気もします。庶民の味方として、社会の底辺にいる大勢の一般人のこころの指針ともなってきた「道歌」も、しょせんはたんなる「歌」に過ぎない。
 それも、名歌というわけでもなく、どちらかというと狂歌にも近い。
 そういう生活に苦しむ庶民に、なにか具体的な現世利益を提供したり、力を貸したりするわけではない。
 せいぜいがとこ、こころのなぐさめになればよい、癒やしになればよい…。それくらいのことは、つくるほうも、それを受けるほうもわかっていたのでしょう。それでも、力になることはある…。
 それでも、短い歌のなかに、少しでも苦しい自分のこころの支えになり、わずかでもこころが癒されることがあれば、それで充分だった…。
 人の道を教えるほかには、そういう庶民への労りと慰めが、大きく比重を占めていたように思えるのです。
 もちろん、半ば自然発生的な「道歌」 では、誰かが方向を決めて指示をした、カリキュラムのようなものがあったとは思えません。それなのに、こういうひとつの傾向を示しているのが、またおもしろいですね。

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26 mark.jpg きことは…

哀れとも うしともいわじ 陽炎の あるかなきかに 消ゆる世なれば

いづくにも 心とまらば すみかえよ ながらへぬれば 元のふるさと

憂きことは 世にふるほどの ならいぞと おもいも知らで 何嘆くらん

憂きことも 知らで千年も 経る田鶴の 清き心に ならへ世の人

鴬が 法華経を説くと いうならば 雀は忠忠 烏は孝孝

美しき 花に良き実は なきものぞ 花を思わず 実の人となれ

おしなべて 心ひとつと 知りぬれば 浮世にめぐる 道も迷わず

思えただ 満ればやがて 欠く月の 十六夜の空や 人の世の中

聞けや人 忠とあしたに 雀の子 孝と夕べに 鴉鳴くなり

暗きより 暗き道にぞ 入りぬべし 遥かに照らせ 山の端の月

ここもうし かしこもうしと 嫌うなよ いずこも同じ 秋の夕暮れ

心より よこしまに降る 雨はなし 風こそ夜半の 窓を打つらめ

聞きしより 思いしよりも 見しよりも のぼりて高き 山は富士が嶺

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dendenmushi.gif(2014/05/05 記)
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でんでんむし@アーカイブス★むかしの人は言いました=その25 臨時特別連載「道歌」 [番外DB]

 とかく凡人はどうしようもないもので、わかっちゃいるけどやめられない…というものがあるようです。
 さあ、そうくれば、なにはおいてもまずは色と酒…。
 これについても「道歌」は、当然取り上げているだろうと思ったのですが、案外に数はあまり多くないのです。それに続くはずのギャンブルについては、集めた限りでは、これというものが見当たりません。時代劇なんかでは、賭場の場面なんかしょっちゅう出てくるんですが…。
 「色」については、もっぱら “うわべの皮にまどわされるな”という、ほとんどその一点に焦点があたっているようです。うーん、これはなんでしょうかね。男女の交際もあまり機会もなく自由でなかった時代では、とりあえず外見だけしか…ってことでしょうか。
 「酒」についても、“百薬の長”という決まり文句はあっても、ほとんどといっていいくらい、これを諌めるものはない。せいぜい慎めというくらいです。これは、酒についてはそもそも最初から“悪い”という考えはなく、一定以上に容認するという理解を示しているのかな。ま、それは今とオンナジか…。
 俗にいう“飲む・打つ・買う”も、それ自体を取り上げることが「道歌」の道から完全にはずれるという判断が、どこかにあったのでしょうかね。
 それよりも、よき友をもつべきであるとか、同じつるみむすぶならよきことにかかわれとか、すぐにフォローするほうが重要、というわけかな。

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25 mark.jpg と酒と…

身を忘れ 十重も 廿重も 迷いけり 一重の皮の 美しきには

気も知らで 顔に化かされ 嫁とりて あとで後悔 すれどかえらず

色という 上べの皮に はまりては 世を渡らずに 身を沈めける

老いたるも 若きも同じ 上皮の 色に我が身を 出し抜かれつつ

女郎花 匂うあたりは 心せよ 色香に道を 忘れもぞする

迷うなよ 美人というも 皮一重 醜婦も同じ 皮のひとえに

百薬の 長たるゆえに かえりては また百病の もととなる酒

慎めや 鏡は姿 見すれども 酒は心の 内を見すれば

空渡る 雁の一行 見るにつけ 世にうれしきは 友にぞありける

よき事に むすびてわるき 事はなし 麻の中なる 蓬見るにも

堅けれど 砕くに易き 瀬戸物の 心を知れば ふれぬこそよき

よい仲も 近頃疎く なりにけり 隣に倉を 建てしより後

勇の字は マことの頭 田けき腹 力あふるる 姿なりけり

世の中の 親に孝ある 人はただ 何につけても 頼もしきかな

利口ぶり 言葉多きと 片意地と 短気不律儀 嘘にてもすな

若きこと 二度はなしとて 楽するな 年は寄りても なぐさみは金

世の中の 人のためとて 身を削る 鰹節こそ 味の王なれ

Dhanasyoubu.jpg

dendenmushi.gif(2014/05/03 記)
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でんでんむし@アーカイブス★むかしの人は言いました=その24 臨時特別連載「道歌」 [番外DB]

 “使い勝手のよい言葉”というのがあって、その代表格であった「がんばってね」「がんばろうね」というのが、「がんばらなくていいのだ」とか「がんばろうとするのがいけない」いった主張(これも特定の事例についての話がじわじわ拡散して)がどんどんハバを利かせてきて、最近ではだんだん使いにくくなってきましたね。
 相手の不運や不幸をいたわり思いやる言葉としては、「気の毒」というのはなかなか便利な、使い勝手のよい言葉です。
 これも汎用性は高いのだけれども、考えてみるとこの言葉、当事者以外同士で使うにはいいのだが、当の不運や不幸の本人相手に向かって直接言うには「お」をつければ使えるけど、多用はできない。
 「毒多き 毒の中にも 気の毒は なにより毒な ものでこそあれ」という道歌で初めて気がついた…。こういうことも結構多いのです。
 これは他人が気の毒なのではなくて、自分自身の「気」の「毒」に当てられている、ということを言っているのですね。そこに気がつかなければならない…。
 そうか、そうだった。三木鶏郎の作詞作曲で宮城まり子が歌った歌にもありました。「目の毒 気の毒 河豚の毒 ああ 毒けしゃいらんかネ〜」。
 人間の発する毒で、いちばん警戒すべきは「欲」だと、昔の人はわかっていました。
 そして、それこそがすべての「争い」の元であることを…。

kokoro.jpg
24 mark.jpg   いは欲…

欲深き 人の心と 降る雪は 積もるにつけて 道を忘るる

どんよくの 心を種に 植えおきし こがねの花は 散りやすきなり

落ちて行く 奈落の底を 覗き見ん いかほど欲の 深き穴ぞと

おのが身の 主人を知らで 欲という いたづらものに まかすあぶなさ

兄弟の 中も互いに 敵となる 欲は激しき 剣なりけり

欲深き 人の心と 降る雪は 積もるにつけて 道を離るる

おそるべし 欲のほのほは 激しくて 我が身も家も 人も焼くなり

物事の 一つかなえば また二つ 三つ四つ五つ むづかしの世や

毒多き 毒の中にも 気の毒は なにより毒な ものでこそあれ

世の毒は 口から入れど 気の毒は 目から鼻から 耳からも入る

仮の世の 仮の宿りの 仮垣に なわばりをして 長短とは

兄弟が 田を分け取りの 争いは たわけものとや 人のいうらん

あらそいの 握り拳も 開くれば 可愛いと撫でる 同じ手の先

あらそいは げに山びこの こだまかや わが口故に 先もかしまし

あらそわぬ 風に柳の 糸にこそ 堪忍袋 ぬふべかりけれ

ありという 人に地獄は なかりけり なしと思える 人にこそあれ

じひもなく 情も知らぬ ものはただ 人の皮着る 犬とこそ見れ

Dhanaikada.jpg

dendenmushi.gif(2014/05/01 記)
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でんでんむし@アーカイブス★むかしの人は言いました=その23 臨時特別連載「道歌」 [番外DB]

 重森完途(カント=東福寺などの作庭家として有名な重森三玲(ミレー)が父)の本を読んで日本庭園に興味をもったのは10代の終わり頃で、さっそく京都の名園めぐりに出かけたものでした。竜安寺にもそのときに初めて行ったのですが、なんか有名な石庭よりも印象に残ったのが、裏庭の東の隅に置かれていた小さな蹲(つくばい)でした。
 「知足の蹲」といわれるそれは、お釈迦様の教えのひとつを具現化したものだったのですが、えらくそれに感銘を受けたものです。以来、「吾唯足知」はでんでんむしの座右の銘となったのですが、何度目かに竜安寺へ行ったときに見た蹲は、なにか様子が変でした。置いてある位置が、最初に見たときと違うのです。方丈の北側の外回廊の角にあるので、「こんな場所では、第一つくばいの役目を果たさないではないか」と思ったものです。
 その写真が探し出せないので、竜安寺のホームページを見てみましたら、その位置はやはり方丈の裏庭の中央で、しかもその説明は、よく探さないとわからないほど目立たないものでした。
 得意の勘ぐりを働かせてみるに、お寺としてはさして重視していないが、団体客などが集まって覗きこむのに都合が悪いので、廊下に集まって覗き込むのに便利なように場所を移したのではないか…。
 お寺としては、それで充分に事足りた、ということでしょうか。
 それとね、これ気に入ったのは、もうひとつ「吾」と「唯」と「足」と「知」に共通する「口」を中央の方形の水面にしてしまうという、なんとも洒落た遊びごころ…。うまいなぁ…と思ったものでした。

Dtisoku.jpg

kokoro.jpg
23 mark.jpgるを知る…

たることを 知るこころこそ たから舟 世をやすやすと 渡るなりけり

事足れば 足るに任せて 事たらず 足らせ事足る 身こそ安けれ

乏しかり 時を忘れて 食好み このみの多き 秋の山猿

道ならぬ 物をほしがる 山猿の 心からとや 縁に沈まん

千畳の 座敷持ちても なにかせん たった寝床は たたみ一枚

千両箱 富士の山ほど積んだとて 冥土の土産に なりはすまいぞ

身を思う 心は身をば 苦しむる 身を思わば 身こそ安けれ

身のほどを 知れと教えし 伊勢の神 今もわら屋の 宮にまします

身を知らば 人の咎にも 思わぬに 恨み顔にも ぬるる袖かな

思うこと ひとつかなえば またひとつ かなわぬことの あるが世の中

事足れば 足にも慣れて 何くれと 足がなかにも 猶嘆くかな

足る事を 知りからげして 身を軽く 欲の薄きに 福と寿はあり

破れたる 衣を着ても 足ることを 知ればつづれの 錦なりけり

むりなりと 思いながらも いいかかる 性を性にと するは人かは

成功を 急げば無理の 出るものぞ 無理のないよう 無理のないよう

思うべし 人はすりこぎ 身は杓子 思いあわぬは われゆがむなり

姑めの 杓子当りが ひどければ 嫁ごの足が すりこぎとなる

何事も 時ぞと思え 夏来ては 錦にまさる 麻のさ衣

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dendenmushi.gif(2014/04/29 記)
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タグ:道歌
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