でんでんむし@アーカイブス★むかしの人は言いました=その22 臨時特別連載「道歌」 [番外DB]
“正直であれ”という教えは、洋の東西を問わないのでしょうか。たいていの人が、正直といえば “ワシントンと桜の木”の逸話を思うことでしょう。でんでんむしもそうでした。道歌はすぐには浮かばなかったけど、この話はすぐに思い出した…。
で、ふと考えました。この話、ほんとにアメリカ人の間でもそんなに知られているのだろうか? あるいは、日本人向けにつくられたのではないか…。
そこまで疑いたくなるほどで、第一そんな以前からアメリカにサクラがあったのなら、日米修好で日本から贈られポトマックに植えられたサクラ(最初に日本から贈ったのはダメになって、いまのは二代目だそうですが、あれをみると日本のサクラと比べてもずっと美しい環境できれいに咲くのでちょっと凹んでしまいます)なんか、めずらしくもなんともなかったんじゃないか…。
でもね、長いこと生きてくると、つくづく「正直の大切さ」がわかってきますよ。ホントです。結局、それがいちばん楽でうまくいく秘訣なんですね。
そして、それこそが「身を軽く」して生きていくことにつながります。これってすごく重要なことのように思えます。
ひいては、極楽の道にも至る…ってなことをいうと、やっぱりこじつけで嘘くさくなってしまうかなぁ。
22 身を軽く…
正直の 神はやどると 頭から 足の先まで 無理非道すな
正直に 建った柱は 細くとも 羽ありもつかず 朽ちもせぬなり
正直に 人の心を 持つならば 神や仏の 守りあるべし
正直に 起きて守れば おのずから 神がみ我を守りたまうぞ
正直の 胸のうちこそ 浄土なれ 仏もあれば 極楽もある
正直の 杖を力に ゆくこそは 欲に目のなき 人にまされり
正直の 頭に宿る 神こそは 家繁盛の 元結なるべし
正直を 心にかけて ますかがみ かげひなたなく つとめ働け
身を軽く こころ素直に 持つ者は あぶなそうでも あぶなげもなし
世にあうは 左様でござる 御尤も これは格別 大事ないこと
世の中は 諸事おまえさま ありがたい 恐れ入るとは 御尤もなり
片寄らず 我が身は船と 心得て 時勢の風に 逆らわず行け
不理屈を いうていっぱし われひとり 理屈のように 思う世の中
降ると見ば 積らぬ先に 払えかし 雪には折れぬ 青柳の糸
降るままに 靡き伏しつつ なよ竹は なかなか雪の 折るべくもなし
真っ直ぐに 行けば迷わぬ 人の道 横筋交いに 行きて尋ぬる
嫁入りの その日のことを 忘れずば 婿姑に きらわれはせじ
西へ向き 十万億土と 思えども よくよく見れば 弥陀は目前
西ばかり 弥陀の浄土と 思いつつ みなみにあるは 誰も悟らず
極楽は 西にあれど 東にも 来た道さがせ 南にもあり
苦も楽も ただ打ち捨てて 何となく いきのおわるを 仏とはいう
念仏も うわの空では 後の世の ためにもならず 寝言同然
極楽は いづくのはてと 思いしに 家業精出す 出直しの門
極楽は はるけき程と ききしかど 勉めていたる ところなりけり
極楽は 十万億の 先ならで 誠の心 これが極楽
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でんでんむし@アーカイブス★むかしの人は言いました=その21 臨時特別連載「道歌」 [番外DB]
1963(昭和38)年に始まったNHKの大河ドラマも、還暦が近くなってきましたね。ちょうどこの放送が始まった頃からでしょうか、山岡荘八の『徳川家康』が経営に役立つ“経営者のバイブルだ”とか持ち上げる人があって、企業経営者の間で人気になったことから、出版界では大ブームが起こります。
そんなビジネスの端っこにぶら下がっていたでんでんむしは、ばっかじゃないのかと思っていたものです。若かったこともありますが、そういうものからしか教訓が得られないといわんばかりの動きに、追随する気にはなれませんでした。
さしものブームも終わって、講談社文庫で出てから、その全26巻を買って読んだものです。いやあ、とてもおもしろかったなあ。近年では中国で『徳川家康』がよく読まれて、またあちらでブームになったんだそうですね。こっちは『三国志』を読んでいるのに…。そんなふたつの国がいがみ合うなんてことは、ないようにしたいものですがねぇ。
戦国武将ブームは、その後も世を変え人を変えて相変わらず続いています。2014年の大河ドラマは「黒田官兵衛」ときましたね。徳川も秀吉も何回もやったので、もうぼつぼつこのへんにくるというわけですか。このあたり、結構さじ加減がむずかしく、あんまり有名でない小物では客がついてこないし、大物はだいたいやってしまったし…。
武将と道歌というのも、たくさんありそうですが、作者名が取れているため、さほど明確ではありません。もっとたくさんありそうですが、でんでんむしが知らないだけかもしれません。
有名なのは、初めのほうでふれた上杉鷹山がありますが、武田信玄の「人は城…」ですね。これはなかなか含蓄に富んでいるという点でも、秀逸といえるでしょう。
じゃ、官兵衛こと如水さんの道歌は…というと、そんなに都合よくはなさそうです。ただし、黒田如水の名言のようなものはいくつか伝わっていて、
「天下に最も多きは人なり。最も少なきも人なり。」とか、息子の部下指導に関して「おまえは時々、部下を夏の火鉢やひでりの雨傘にしている。」とか注意していたようです。
そういう点では、その内容に近い道歌もありますね。
21 人は情けと…
人は城 人は石垣 人は堀 情けは味方 あだは敵なり
人多き 人の中にも 人ぞなき 人になれ人 人になせ人
めしつかう ものの心を その主の めをかけぬこそ わかれはじめよ
主だにも 心まかせに あらなくに 使うる者を いかにせめけん
世にあれば 人も集まり きたれども おちぶれぬれば とう人もなし
おちぶれて 袖に涙の かかるとき 人の心の 奥ぞ知らるる
水鳥の ゆくもかえるも 跡たえて されども道は 忘れざりけり
客あれば 犬だに打たぬ ものなるに 科ありとても 人な叱りそ
ほめばほめ そしればそしる 山彦の 声にも人は 情けとぞしる
慎みは 朝夕なるる 言の葉の かりそめごとの うえにこそあれ
慎みを 人の心の 根とすれば 言葉の花も 誠にぞ咲く
何事も みつれば欠くる 世の中の 月を我が身の 慎みにみよ
世の中を 恥じぬ人こそ 恥となれ 恥じる人には 恥ぞ少なき
何事も 我をあやまり 順いて 負けてさえいりゃ その身安心
はしなふて 雲のそらえは のぼるとも おれがおれがは 頼まれはせず
おのが目の 力で見ると思うなよ 月の光で 月を見るなり
苦しみて 後に楽こそ 知らるなれ 苦労知らずに 楽は味なし
何一つ とどまるものも ない中に ただ苦しみを 留めて苦しむ
春雨の わけてそれとは 降らねども 受くる草木は おのがさまざま
一生は 旅の山路と 思うべし 平地は少し 峠沢山
タグ:道歌
でんでんむし@アーカイブス★むかしの人は言いました=その20 臨時特別連載「道歌」 [番外DB]
天文学の分野では初期の頃から、天体の運行についてはかなりのことを把握していたようです。種を蒔けば芽が出てやがて作物がなることも、季節が移りそれを繰り返していくことも、そしてそのなかで人間が産まれて生きてそして死んでいくことも…。
でんでんむしは、この悠久の時の流れに、刻みをつけてそれを数えあげて記録して、暦をつくったことこそ、人類の最大…かどうかは別にしても大変な発明であったと思っています。
物理学者の間でも、時間に関する研究は、なかなか難物中の難物なのではないでしょうかね。まして、素人においては、まったく理解できることがない。こないだもホーキング博士が出てくるNHK-BSの番組を見たけれども、やっぱり…。
ま、そんなややこしいことはおいといて、月日の経過と歳月の積み重ね、そして繰り返しながらめぐっていくそのなかで、天と地の間で、生きていかなければならないわれわれとは…。
あ、そうだった、ややこしくしてはいかんね。昔の人はこれとどう向き合っていこうとしたんでしょう。つらつら、眺めるだけでね。
時の過ぎゆくままに、この身をまかせ…。
20 月と日と…
昨日といい 今日と暮らして あすか川 流れて早き 月日なりけり
引き留めて 止まらぬものは 月と日と ながるる水と 人の命よ
若いとて 末を遥かに 思うなよ 無常の風は 時を嫌わじ
後の世と 聞けば遠きに 似たれども 知らずや今日も その日なりとは
夏草の おのが時とや しげるらん 霜にもあはむ 秋も思わで
朝起きて 夕べに顔は 変わらねど 何時の間にやら 年は寄りけり
明日ありと 思う心に だまされて 今日をむなしく 過ごす世の人
一刻の 未来のほども 計られず いかで一時を あだに過ごさん
今さらに なにおどろかん 神武より 二千年来 くれてゆく年
花は根に 鳥は古巣に 帰るとも 人は若きに 帰ることなし
米蒔いて 米が生えれば 善に善 悪には悪が むくゆるとしれ
徳は本 財は末とて 陰徳を 積めば陽報 ありとこそすれ
何事も 今日の楽しみ すぎぬれば 明日は必ず 苦しみとなる
水の中を 尋ねても見よ 波はなし されども波は 水よりぞ立つ
物食うて 遊び暮らした そのかわり 末は食わずに 駆け回るなり
我が為を なすは我が身の ためならず 人の為こそ 我がためとなれ
わがばかを ばかと心の つかざれば 人のばかをば そしる世の中
世の中に 蒔かずに生えし ためしなし 蒔てぞついに 運や開けん
麦蒔けば 麦草生えて 麦の花 咲きつつ麦の 実る世の中
(2014/04/23 記)
タグ:道歌
でんでんむし@アーカイブス★むかしの人は言いました=その19 臨時特別連載「道歌」 [番外DB]
“壁に耳あり 障子に目あり”と、“油断大敵”を諭す「道歌」です。ここらへんになると、もう道を教えるというより、浮世をうまく渡るうえでの心得のようになってきます。
実は、こういう処世の知恵的なものも「道歌」の大きな特徴といってよいでしょう。今ならば、人生相談の回答者がいうようなことだとか、いかにうまくやるかを教えてくれる自己啓発本の内容のようなものまで多くなってきます。
これらは、一見するとどうということもない、ごく平凡で当たり前のようなことを、ことさら言っているような感じもしないでもありません。
しかし、単純なことに真理があるのも事実で、改めて心に響くということもあるかもしれませんね。
「天知る地知る人の知る」こういう昔から言われてきたことをご存知ない人は、政治家とかになっちゃぁいけませんよね。
でんでんむしも、この項では最後の一首、おおいに自戒していかなければ、と思いました。
19 油断こそ…
悪しきこと 人は知らぬと 思えども 天に口あり 壁に耳あり
誰知ると 思う心の はかなさよ 天知る地知る 人の知るなり
壁に耳 石のものいう 世の中に 人知れずとて 悪しきことすな
いつとなく 見知る聞き知る 蚤の息 天に通うと いう例えあり
壁に耳 石のものいう 世なりけり 露ちりばかり 盗みはしすな
人知れず 暗きところで なす業も 世に白波の 立たでおくべき
垣壁も 人の目口と 思いつつ 見聞かんことを 語りはしすな
知るまいと 思う心の 愚かさよ 月日の眼 あきらかに照る
りょうけんし いかにかくすと 思へども ただよく人の しるは世の中
あこがれて 出てゆく後の 柴の戸に 月こそやがて 入り代わるらむ
油断より 小事大事に なるものぞ こころをつけよ 事の初めに
ゆだんすな いたずらものの 我が心 日々に直して よく使うべし
油断こそ 大敵なりと心得て 堅固に守れ おのが心を
ゆだんすな 身は鴛鴬の 仲なりと 淵瀬にかかる 人の心ぞ
ゆだんすな 比翼連理の 仲なりと 淵瀬に変わる 人の世の中
甘いかと 思えば渋が またかえり 油断をすれば 恥の柿の実
折りえても 心許すな 山桜 さそうあらしの 吹きもこそすれ
心せよ 蛍ほどなる 煙草の火 心ゆるせば 早鐘の音
小敵よ 弱き敵よと 油断すな あなどる故に 負けをこそとれ
束の間も 油断をなすな 一時が 千里の違いと なると思いて
用心の 良いも悪いも その家の 主ひとりの 了見にあり
世渡りは 浪の上いく 舟なれや 追手よきとて 心ゆるすな
わざわいの 門口なれば 油断なく 心の内の 慎みをせよ
大石に つまづくことは なしとても 小石につまづく ことな忘れそ
(2014/04/21 記)
でんでんむし@アーカイブス★むかしの人は言いました=その18 臨時特別連載「道歌」 [番外DB]
まことに人間とはややこしいめんどくさいものでありますが、多くの場合人が己が口から発する言の葉、ことばによっていろいろなもめごとの種が蒔かれてしまいます。では、よけいなことは言わずに、徹底的にただ黙っていればいいかというと、そういうわけにもいきませんよね。
また、ことばを尽くして真の相互理解に達することもあります。しかし、それはまた現実の世界では、滅多にうまくいきません。日常でもよかれと思っていろいろことばを多くすると、思わぬ副作用が生じたりすることもあります。
昔から人間というのは変わらないもので、「道歌」のなかでも人の言の葉、人の口端、人の口についてはたくさんの教訓を垂れています。
この項冒頭の一首などは、「なにもいわずに いよすだれ そのよしあしは」と二重のかけことばという歌作の伝統を踏まえながら、なかなかの教養をも示しているのです。
「伊予簾などかけたるうちかづきて、さらさらと鳴らしたるもいとにくし」(『枕草子』「にくきもの」の段)とか、「やをら、のぼりて、格子の隙あるを見つけて、より給ふに、伊予簾はさらさらと鳴るも、つつまし」(『源氏物語』の柏木の巻)などと、古来から名高い伊予産の簾を、さりげなく使っています。
現在でも、愛媛県上浮穴郡久万高原町の露ノ峰の標高700メートル付近の山腹に自生する笹を使って、町の天然記念物とする一方で、地域の高齢者が中心になってすだれづくりの伝統も守ろうとしているようですよ。「道歌」もなかなか勉強になります。
18 言わざるもまた…
世の中は なにもいわずに いよすだれ そのよしあしは 人に見え透く
浅き瀬は 波風高く 聞こゆれど 深き浦には 音はなきなり
人まえに 思案もなくて ものいうな 言いていわぬに おとることあり
何事も われ知り顔の 口たたき 詰めたる樽は 鳴らぬものかな
言うべきを 言わざるもまた 言わざるを 言うも道には かなわざりけり
善きことは 大いに広め 悪しきをば 見ざる聞かざる 言わざるぞよき
雑談に 心の奥の 見ゆるかな 言の葉ごとに 気を使うべし
つつしみを 人のこころの 根とすれば ことばの花も まことにぞ咲く
空言は ことに妄語の 罪ふかし 我が身もまどい 人もそこなう
月も日も さやかに照らす かいぞなき この世の人の うわの空言
むつかしや ねといくどいや 無用なる ことをばたずねき かであるべき
偽りの なき世なりせば いかばかり 人の言の葉 うれしからまじ
恐るべき 槍より怖き 舌の先 これが我が身を つき崩すなり
かりそめの 言の葉草に 風立ちて 露のこの身の 置き所なし
ご主人の 内のことをば 外に出て よしあし共に いうなかたるな
三寸の 舌で五尺の からだをば 養いもする 失いもする
たれ込めて 己にただせ 世の中の ほめる言葉も そしる声をも
虎に乗り 片割れ船に 乗るとても 人の口端に 乗るな世の人
人のこと 我にむかいて 言う人は さこそ我がこと 人にいうらん
人ごとを 我にむかいて いう人は さぞ我がことも 人にいうらん
世の中は 虎狼もものならず 人の口こそ なおまさりけれ
今日ほめて 明日悪く言う 人の口 なくもわらうも うその世の中
涼しいけりゃ 涼しすぎると 人の口 戸はたてられぬ 夏の夕暮れ
天地の 開けぬ先に 歌うらん 卵の中の にわとりの声
タグ:道歌
でんでんむし@アーカイブス★むかしの人は言いました=その17 臨時特別連載「道歌」 [番外DB]
理屈はわかるけど実際はね、理想と現実は違うしね、一面ではそれも正しいとは思うけど、まあしょせんはきれいごとだよね…。
あまり的を射ていると、人間誰でもそういう反応をしがちですね。「道歌」も、そのとおりかもしれないけど、なかなかそうはいかんよね、ということが多いことでしょう。
けれども、大切なのはその真実の一面なりとも知る、意識するということではないでしょうか。「道歌」の使い方は、その程度でいいのだろうと思えます。
人間関係や毎日の仕事勤めのなかで生じるごたごたや悩みは、いつの時代にもつきないものです。それを割りきって乗りきる呪文のひとつがこれだと、「道歌」は教えてくれます。
まあ〜るく、まーるく…。
自分の勤め役割をよくよく考えて、相手の気持ちになって、まろまろといけというのです。それもそうだな〜。
一首目と二首目は、まったく反対の視点から逆のことを言っていますね。
ところが、これ、どっちが正しいというのではなく、どっちも正しい…。
こういういうのも道歌には多く、それがまた世の中だと言っているようです。
もっとへそまがり向きには、世渡りは“狂言綺語*”の芝居だと思えというのですが、そこまでいかなくとも、ねえ…。でも「役」を演じるという意識も、ときには役に立つことがあります。
*狂言綺語(きょうげんきご・〜きぎょ)=道理に合わないはずれた語や表面だけ飾り立てた語。虚構ばかりで文を飾る小説・物語・戯曲などを卑しめる言葉。
17 円なれや…
まるなれや ただまるかれや 人心 かどのあるには 物のかかるに
まるくとも 一角あれや 人こころ あまりまるきは ころびやすきに
かどあれば 物のかかりて むつかしや 心に心 まろまろとせよ
つのという ものは心の 角をいう ことに女は こころ円かれ
あいあいの 返事一つで 天地も 人もわが身も 円く治まる
家内中 仲のよいのが 宝船 心やすやす 世を渡るなり
はじめより 嫁をいたわる 姑は わが身にも よく家も栄えん
世の中は 仲のよいこそ 仏にて 人をも助け わが身も安楽
世を渡る 道はと問わば とにかくに 夫婦睦みて 親子親しめ
和合せず 仲悪しければ 地獄なり 仲がよければ いつも極楽
つとめても また勤めても つとめても 勤めたらぬは つとめなりけり
器用さと 稽古と好きの 三つのうち 好きこそものの 上手なりけれ
つるべなは おりつあがりつ 働きて ふづとめはせぬ 非番当番
花になり 実になる見れば 草も木も なべて務めは ある世なりけり
笛吹かず 太鼓たたかず 獅子舞の 後足になる 人もあるなり
世渡りは 狂言綺語と 同じこと 上々も役 下々も役
人使う 身になればとて 使わるる 心となりて 人を使えよ
寒に耐ふ 梅も操の 高ければ 慕いくるらし 谷の鴬
慈悲の目に 悪しと思う 人はなし とがある身こそ なおあわれなれ
慈悲もなく 恩をも知らず 無道なる 人の心は 狗におとれり
他を恵み 我を忘れて 物事に 慈悲ある人を 仁と知るべし
わが恩を 仇にて返す 人あらば またそのうえに 慈悲をほどこせ
慈悲じゃとて 施すものは 虚栄心 受ける者には 増す依頼心
(2014/04/17 記)
タグ:道歌
でんでんむし@アーカイブス★むかしの人は言いました=その16 臨時特別連載「道歌」 [番外DB]
これまでご覧になったところで、すでにお気づきのことと思いますが、なんか似たような歌が多い、それもちょっと言い方を変えただけでほとんど同じことをいっている、というのもあります。
これは、元の資料にあるのをそのまま拾っていった結果なのですが、主に「道歌」を広めた媒体は紙媒体よりもやはり、口コミ、口伝が主だったからではないかと思われます。口伝えに伝播していく過程で、ちょっとずつ変わっていくことはよくあることですからね。だから、いくつか似たようなのができてくる。あ、もちろん紙もありましたよ。漢字やかなの使い方に不統一やおかしいところがあるかもしれませんが、それも紙でそのまま残ってきたものです。
以下の一首目と二首目は、似ているというより、もともとから意識して、裏返しのものを意図してつくったものでしょう。あるいは、誰かが元歌を洒落っ気でひっくり返したのかもしれませんが。このように、あとから別の人がそれなら…というのでつくっていたので、似たようなのが多くなるのかもしれない。
ともあれ、いかに悟ったようなことを言ってみても、みんながみんな坊主になるわけにもいきません。大半の庶民は、誰も彼もみんなビンボーで、それでも日々懸命に働いて稼がなければ、生きていけない…。
そういう厳しい現実のなかで生きる知恵を、「道歌」は貧乏神と競争して勝つことに見出したようです。
「稼ぐに追いつく貧乏なし」というわけですね。しかし、「明日は分限と なれる世の中」というのは、ちょっとどうなんでしょうかね。
当時の人が、これに納得できたとも思えないんですが、やはり最後の最後には「青天井に 地のむしろ」という悟りも必要だった、ということになりますか。
16 貧しきも…
朝起きの 家は朝日が 差し込んで 貧乏神の 入りどころなし
朝寝する 家は朝日が 取り巻いて 貧乏神の 出どころもなし
稼ぎなば 貧乏神は 裸足にて 追いつく隙は さらになからん
一日に 一時づつの 早起きは 月に五日の 長生きぞかし
気は長く 勤めはつよく 色うすく 食ほそくして 心広かれ
貧しくて 心のままに ならぬのを 憂とせぬのが 智者の清貧
貧しきも 富めるも楽も 苦しみも 夢でこそあれ 夢でこそなし
貧苦をも いとわず今日を 稼ぎなば 明日は分限と なれる世の中
貧乏の 棒もかせげば おのずから 振り回しよく なるも世の中
貧乏は すまじきものぞ すそ綿の 下から出ても 人にふまるる
福の神 祈る間あらば 働いて 貧乏神を 追い出せかし
不義にして 集めたくわう 銭金は 積もりて後に 身のあだとなる
金かねと 騒ぐ中にも 年が寄り その身が墓に 入相の鐘
見渡せば 富み貧しきは なかりけり おのれおのれの 勤めにぞある
はかなしや 朝見し人の 面影の 立つは煙の 夕暮れの雲
これもみよ 満つればやがて 欠く月の いざよう空や 人の世の中
咲かざれば 桜を人の 折らましや さくらのあだは 桜なりけり
わがいえは 青天井に 地のむしろ 月日をあかり 風のてははき
タグ:道歌
でんでんむし@アーカイブス★むかしの人は言いました=その15 臨時特別連載「道歌」 [番外DB]
広島が野球で有名になったのは、昭和の初め頃の中等学校野球大会(今の甲子園大会)で全国制覇した広島商業からで、“元祖4番でエース”の灰山元治や“元祖親分”の鶴岡一人らが活躍していた時代です。でんでんむしは叔母たちからそのことを聞かされていたのですが、“宮島さん”もこの頃からの応援歌だったはずです。
広島と野球のことになると脱線してしまう。切り上げて本題に戻ると、この鶴岡親分の名言として知られているものに、「ゼニはグランドに落ちている」というのがありました。主旨は、「プロならとにかく練習してゼニの取れる選手になれ」ということなのですが、これも実は鶴岡親分の100%独創というより、親分自身が若い頃に身につけたそういう世間の教訓を、ちゃんと理解していたところから生まれた名言であったと思われます。
「道歌」のなかで、これも数多い金銭に関するもののなかに、そのものの歌がいくつもあるのです。
これは最近知ったのですが、『グラゼニ』という野球漫画が今連載されてるんだそうですね。こういうことって、まったく古くなってしまうことがないのも、不思議です。この世の中に「お金」というものがある限り、変わらないのかも知れませんね。
でんでんむしは、酒もタバコもダメです。若い頃にはまだまだそういうつきあいが要求される時代で、そのためずいぶん嫌味を言われました。それならお金が残るだろうと…。そんなこたぁ、あるわけがございませぬ。それが今も昔も変わらぬ真理であることは、この最後の一首につきています。これは井原西鶴 の『世間胸算用』に出てくる名言とほぼ同じなので、それのパクリなのでしょうね。
15 金銀は…
世の中に 花も紅葉も 金銀も 与えてあるぞ 精だして取れ
苦にやむな 金は世上に 撒いてある 欲しくばやろう 働いて取れ
月雪も 花も紅葉も ぜに金も 我が身にあるぞ 働いてとれ
田や山に 金はいくらも 捨ててある 鍬で掘り出せ 鎌で刈り取れ
求むれば 求むるままに 月雪も 花も紅葉も 玉も錦も
ふめたたら たたらふめふめ ふめたたら 精さえだせば 金はわきもの
金銀は 世の宝なり たくわえて 人のためとも なすぞ尊き
世の中は 蝿取り蜘蛛に ふくろ蜘蛛 かせぐのもよく かせがぬもよし
一銭も そまつになさず 種とせば こがね花咲く 春に逢うべし
一銭も あだに使うな 一粒が 万倍になる ことを思えば
けんやくの 伝授というは ほかになし こらえぶくろの 紐のしめよう
算盤は 嘘をおかさず 無理させず これにまかせば 家内安全
金かねと やたらに金を かきこんで 金の重さに 腰が折れけり
ぜに金を 我がもの顔に 頼むなり おっつけ土と なるも思わで
金持ちと 朝晩すつる 灰吹きは たまるほどなお きたないと知れ
金貯まる 人の心と 灰吹きは たまるほどなお 汚くなるぞ
金持ちが あるが上にも 金銀を 増やしたがるを 貧人という
金銀を 使い捨てるも たわけ者 食わずにためる 人も馬鹿者
いつの世も 世間知らずの 義理知らず 情知らずが 金持ちとなる
金をのみ 欲しがる人ぞ おかしけれ こがねがめしの 代わりやはする
金ほしや 地獄の沙汰も 金次第 とはいえ金で ゆかれぬ極楽の道
火の車 つくる大工は なけれども おのがつくりて おのが乗りゆく
めでたやな 下戸の建てたる 倉もなし 上戸の倉も 建ちはせねども
タグ:道歌
でんでんむし@アーカイブス★むかしの人は言いました=その14 臨時特別連載「道歌」 [番外DB]
まあはっきり言って「お説教」がメインであることには違いないので、あまり「やったーぁ!」というような歌は出てきません。
我慢や辛抱や努力は懸命に説くけれども、そのかいあって大成功を収めてお金持ちになったり、立身出世できたとしても、それを称え褒める「道歌」はないようです。それは、身分制度の元では、そういう例はほとんどなかったからかな。
それは飛ばして、もう栄華のあとに必ずやってくるであろう、その次のことを教えてくれます。
「満つれば欠くる世の習い」の理(ことわり)を、コンコンと諭してくれるわけですね。
栄耀栄華もうたかただということ、頂点をきわめればあとは落ちるだけということ、それも確かに一面の真理には違いありません。これには、誰もがうなずける。
けれども、そういう歌をたてつづけに読んでいると、ひょっとして「道歌」は一握りの成功者ではなく、その他大勢のおちこぼれ、負け犬たちを慰めてくれているのだろうか…と、勘ぐってしまいます。
いや、その他大勢のなかにもある、小さな成功を収めた者に対する忠告もありますね。
油断するな、用心せよ、身を謹め、高慢になるな、わがもの顔をすな…とね。
14 栄える華と…
栄華とは 栄える華と 書くなれば 咲いて乱れて あとは散るなり
おごりぬる 人の栄華は あだばなの 早くも散りて 実はなりもせず
花を見よ 盛りのうちは 春ばかり つぼみも風に 落つる世の中
身代は 坂に車を押すごとく 油断をすれば くだりこそすれ
長者山 上りて奢る 道へ出ば もはや下れる 坂と知るべし
誰も見よ 満つればやがて 欠く月の いざよいの空や 人の世の中
上がりたり また落ちぶるる ものと知り 釣瓶の水も むざと使うな
家持ちが たな借りになる 世の習い 盛りの時に 用心をせよ
極楽の 夢が覚めれば 地獄なり 娑婆の栄華は 鬼の金棒
得たるとて 強いて過ぐすな その技を 隠せば光 いや増しにけり
たらちねの 親の残せし 形見なり いや慎しまん 我が身ひとつを
くらぶれば 長し短かし むつかしや 我慢の鼻の おきどころなし
人にただ まけじと思う 心こそ やがてその身の かたきなりけり
学問は 人たる道を 知るためぞ 鼻にかくるな はなが折れるぞ
高慢を 口では言えど 口ほどに ゆきとどかぬが 多い世の中
智慧のある 人ほどものに 自慢せず 能ある鷹は 爪をかくすぞ
世に誇る 天狗の面も つくづくと 裏より見れば 穴ばかりなり
世の中に せまじきものは 我はがお そらごとぬすみ しょうぶいさかい
(2014/04/11 記)
でんでんむし@アーカイブス★むかしの人は言いました=その13 臨時特別連載「道歌」 [番外DB]
考えてみれば、「道歌」で言っているようなことは、和歌の形式ではなくとも結構おなじみのものもあったりします。それは、ときに「ことわざ」だったり、「俚諺」だったり、「金言」「格言」だったりして、そういった形でも同じようなことを言ってるわけです。
それらはみんな、短い言葉のなかに、さまざまな教えと思いを込めて、伝えようとした結果といえましょう。
その意味では、「道歌」だけ…というわけでもないのですが、やはり「教えを説く」というメインテーマがはっきりしていること、数がたくさんあること、五七五七七の歌の形式で統一されていること、そのために人の口の端にのぼりやすく伝わりやすくなっていること、そんな特徴からやはり一ジャンルを形成していたのです。
つくった人のユーモアセンスもなかなか、というものも多いですね。
たとえば、この一首目…。これなんか、思わず笑ってしまいます。
「知らぬが仏」ということわざを引きながら、お釈迦様が王子様(つまり俗人)だった頃の「ゴータマ・シッタルタ」の名を、うまく利用しています。
二首目は、今でもよく言われる「叱るより褒めよう」だし、三首目は「聞くはいっときの恥、聞かぬは末代の恥」、四首目は「井の中の蛙」ですね。(すみません。この項、はじめのいくつかは10の項とダブっています。)
13 知らぬが仏…
何事も 知らぬが仏 しったとは いまだ凡夫の ときの名なりし
可愛くば 二つ叱って 三つ褒めて 五つ教えて 善き人にせよ
知らぬ道 知ったふりして 迷うより 聞いていくのが ほんの近道
井の中の 蛙と身をば 思いつつ 知らぬことをば ただ人に問え
人のため 身を惜しまぬは 仏なり 楽をしたがる もとはこれ鬼
下駄足駄 刻みかえれば 釈迦阿弥陀 かわればかわる ものにぞありける
聖人と いうは誰かと 思いしに おらが隣の 丘のことなり
目に見えぬ 風の姿を 月影に 映して見する 庭の呉竹
雲晴れて 後の光と 思うなよ もとより空の 有明の月
しら露を 玉と欺く あざむかぬ 蓮は見るに 任せたりけん
知るとのみ 思いながらに 何よりも 知られぬものは 己なりけり
はかなくも 消ゆるを露と 思うなよ どんなものでも 死んでゆくなり
欲し惜しや 憎や可愛やと 思わねば 今は世界が まるで我がもの
世の中に わがものとては なかりけり 身をさへ土に 返すべければ
何事も 知りたる顔の 人はただ 信を知らぬ 人というべし
何事も 目に見たことを 本とせよ 聞きぬることは 変わる世の中
おもうべき ものは身よりも 名なりけり 名は末代の 人の世の中
(2014/04/09 記)