番外:じいちゃんがこどもだった頃=孫たちに語る70(〜65)年前のことなどを(その2) [番外DB]
「人間一生のうちにこんなに変わるんだなぁ」と思うことがある。70年前に戦争が終わったときには、じいちゃんはまだ小学校へ行く前だった…。前の続きだよ。
・きものはきもの
この頃はまだ写真機(カメラのことね)を持っている家はなく、したがって写真というものが小学校の卒業アルバム以外はまったくないので、どんなものを着ていたのか履いていたのか、実はあまり記憶もないしよくわからないんだ。
学校へもみんな好き勝手な服装で行っていたと思うが、学生服というのも後にはでてきたし、靴もズック靴だったろうね。けどね、まだ小学校も始めの頃にはゲタやゾウリで通う子もたくさんいたね。
長靴も普通ではなかったから、雨の日も雪の日もゲタを履いて通ったこともある。ゲタで雪の道をあるくとね、歯の間に雪の塊がはさまって、ときどき脱いで、一本足で立ったままたたき落とさないといけなかった。
・食べもの
これがまた、よくおぼえていなくてわからない。いったい毎日どんなものを食べていたんだろうね。この頃は外食という習慣も店もなかったから、三度三度の食事って大変だったろうと思う。こどもは、用意されたもの出されたものを食べるだけだったし、じいちゃんの家には田んぼも畑もあったから、まあ恵まれていたほうなんだろう。都会の人は、この戦争の後には食べることではみんなとても苦労をしたんだよ。
まあ、粗食(そしょく:そまつな食事)だったには違いない。お米だけのごはんは「銀飯(ぎんめし)」といって、特別なときにしか食べられなくて、普通はお米と押し麦を混ぜた「麦飯(むぎめし)」だった。
お魚はあったけれど、お肉はめったに食べなかったかなあ。近所にもお肉屋さんがなかったから…。
・家電気水道
戦争が終わった後に住んでいた家は、畑の中に建つ木造の平屋建て。玄関と二畳の間に、八畳の座敷と六畳の部屋に台所の土間が続いていた。
電気はあったけど、ガスも水道もない。そういう暮らし、想像できるかな。
電気はもっぱら夜の電灯とラジオだけね。そのほかの電気器具というものは、まったくなかったんだ。だから、家の中にもコンセントというものもなくてね。天井からブラ下がっている白い傘を付けた電灯もせいぜい60ワットくらいの電球でほの暗い感じ。
松下さんが発明した二股ソケットからコードを垂らして、白熱灯電球をこたつの熱源にしていたけど、あれはわが家のじいちゃん(じいちゃんのじいちゃん)の発明だったのかなあ。
水道がないから、家々で井戸を掘って、それから手押しポンプで水をくみ上げて使っていた。
台所には流しと水瓶(みずがめ)と柄杓(ひしゃく)があって、土でできたかまどがあったから、これだけみると江戸時代とまったく同じだね。
・炊事かまど
かまどで煮炊きして調理するのも大変だよね。まず、火を起こすところから始めなければならないけど、これだって最初は燃えやすい小さくて細い木ぎれや紙などで火を起こし、それから薪が燃えるようにしなければならない。江戸時代にもあった付け木もまだあったけど、点火するのはマッチだったね。
火が燃えるには空気が必要だから、火吹き竹というもので、フーフーと息を送り込んだりする。煙がでるから煙突も必要だ。
かまどとは別に、やはり土でできた七輪というコンロもあって、こっちでは炭で火をおこし、やかんやなべなどをかける。
・風呂便所
お風呂は五右衛門風呂といって、鉄の大きな釜の下で火を燃やして湯を沸かしてその中に入る形ね。鉄が熱くなるから、底に板などを沈めてその上に入るんだ。
風呂も沸かすのがひと仕事だ。火を絶やさないように燃やさなければならないからね。じいちゃんも、よく風呂焚きをやったなあ。薪も燃やしたけど、不要品の焼却というのも兼ねていたんだ。
この頃はトイレなんて言葉はなかったから、便所というのが普通の呼び方だった。水洗もないから、みんな和式の汲み取り式。
どの家でもだいたい、北側の端っこにあって、手水という手洗いの水を入れた容器と手ぬぐいがぶら下がっていて、なぜがヤツデの木なんかが植えられていたり、ちょっとしゃれたところではつくばいなんかも置いてあった。
・部屋
部屋はとうぜんながら全部タタミを敷いた部屋で、部屋と部屋の仕切りは襖(ふすま)。縁側との仕切りは障子(しょうじ)。ほんとに日本の古い家って紙と木でできていたようなもんだね。ガラスの窓もあったけどね。
壁は、竹でつくった編み目に土を練って塗り込む塗り壁が普通。
タタミの部屋は、いろんな目的に使えるという点では便利だった。個室というような考え方は、この頃にはまだどこにもなかったね。
だから、小学校の終わり頃に、玄関脇の2畳の部屋をじいちゃんの勉強部屋ということにしてもらったときにはうれしかったのを覚えている。
関連リンク:
□20:ふるさとはと問われればそれはやはり「青崎」か?…=安芸郡府中町青崎東(広島県) [ある編集者の記憶遺産]
□21:山陽本線と国道2号線が青崎小学校への通学路…=広島市南区青崎1-2丁目(広島県) [ある編集者の記憶遺産]
□22:青崎小学校と貸本屋と東洋工業と…=広島市南区青崎1丁目(広島県) [ある編集者の記憶遺産]
2015/07/01 記
番外:じいちゃんがこどもだった頃=孫たちに語る70(〜65)年前のことなどを(その1) [番外DB]
それから日本が独立をするくらいまでの間、つまり小学校へ行っていた頃だな。じいちゃんが小さなやせっぽちで色黒のこどもだった頃のことを、話しておこう。今のきみたちの生活や周りのことと比べてみてごらん。
想像を思いっきり広げてみてごらん。君たちは体験していないことだが、じいちゃんは体験してきた70~65年くらい前のことを…。
・遊び
ひとりで家の周りの草や花や虫や、川や田んぼの小さな生き物を相手に遊ぶことが多かったかなあ。トンボやチョウやキリギリスなんかを取ったり…。もちろん、友達もいたし、近所のこどもたちが集まっては遊んだ。そういうときの遊びは、やはりかくれんぼやおにごっこ、その変形でかんけり(これはよくやった)などが中心だったが、少し大きくなると三角ベースやロクムシといった、ボールを使った遊びも多くなった。
ラムネ(ビー玉)やベッタ(めんこ)とか、釘立てなんて遊びにも熱中したなあ。それと、ニッサン(日月ボール)ね。
学校へ行くと、広い校庭をいっぱいに使って、団体でする遊び(駆逐水雷)とかSトンとか、それにやっぱりロクムシは流行ったなあ。
名前を聞いても、ほとんどは君たちの知らない遊びだと思う。
・小学校通学
じいちゃんの通った小学校は、少し遠かったけど、毎日歩いて通った。その通学路(今ではそういうがその当時はそんな呼び方もしていなかった)は、決められていたわけでもないので、いつも気まぐれで違った道、いろんなコースを通っていた。
その通学路では、国道2号線と山陽本線の線路に沿って、またそれを越えて行かなければならなかったので、国道を通る車や線路を走る汽車も、遊びの道具にしていたくらいで、途中には田んぼや畑もあったし、道草ばかり食いながら通っていたもんだ。その頃は、みんな大人たちも食べることに精一杯で、うるさいことは言われなかったし、まあほったらかしのようなもんだったんだろうね。
今から思うと危ないとすぐ禁止されるようなこと(たとえば、線路のレールの上をどこまで落ちないで歩けるかとか)も、平気でやっていたんだ。そう、線路に柵なんてなかったしね。
・汽車と馬車
その頃はまだ今のような電車ではなくて汽車ばかりで、客車も貨車も蒸気機関車が引っ張って走っていた。汽車が通る時刻は決まっているわけだから、それ以外の時間は危なくはないんだけどね。蒸気機関車が走るのをみるのは好きだったなあ。
国道も、通る車の数は少なかったので、交通信号機や横断歩道さえもなかった。乗り合いバスも走り始めていたが、初めのうちは本数も少なかった。荷物を運ぶにはまだ荷馬車や牛車も使われていて、のんびりとぽくぽく歩いていたし、国道にはそのウンチがよく落っこちていたけど、これはさすがに小学校の終わり頃には見かけなくなった。
バスはね、エンジンが前に突き出た形のボンネットバスというやつでね。町まで行くときにはこれに乗った。運転手さんの後ろに立って、運転するのをみるのがおもしろかった。今のようなワンマンやICカードではなく、必ず運転手さんのほかに車掌さんがいて、切符を売ったり回収したりしていたね。
アナウンスもないから、車掌さんが大きな声で停留所を告げていたんだ。バスはガソリンのニオイが独特だったような記憶があるけど、それも小学校の終わり後の記憶だろうね。
そうそう、バスと言えばこれも同じ頃だったと思うけど、一時期広島ではトレーラー・バスというのもたくさん走っていたね。運転車両の後ろに乗客車両がつながっていたけど、あれはなんだったんだろうと、今でも思出すことがあるよ。
広島の市内は市電(路面電車)が走っていたけど、それにはあまり乗る機会はなかった。
・道路
始めの頃には、国道もまだ未舗装(みほそう:コンクリートではない土)のところが残っていたくらいで、それから外れたすべての道が、土のままがむき出しのままだった。
そういう道路ばかりだったから、石ころが頭を出して隠れていたり、でこぼこで、雨が降るとあちこちに水たまりがたくさんできる。土が軟らかいところでは泥でぐちゃぐちゃのぬかるみになるので、そういうところを避けながら歩かなければならない。
下水などもなかったから、道は雨水の流れる道でもあったわけで、自然に道の中に川ができたりしていた。
続くよ。
2015/06/29 記
関連リンク:
□20:ふるさとはと問われればそれはやはり「青崎」か?…=安芸郡府中町青崎東(広島県) [ある編集者の記憶遺産]
□21:山陽本線と国道2号線が青崎小学校への通学路…=広島市南区青崎1-2丁目(広島県) [ある編集者の記憶遺産]
□22:青崎小学校と貸本屋と東洋工業と…=広島市南区青崎1丁目(広島県) [ある編集者の記憶遺産]
番外:与論島・伊平屋島・伊是名島=与論町・伊平屋村・伊是名村(鹿児島県・沖縄県)沖縄県と鹿児島県の県境はどこですか? [番外DB]
どうも、写真はメモ代わりという程度にしか考えていないせいもあって、もともといい写真を撮ろうとか、撮りたいとかいう気持ちもないのだが、与論島の写真を遠望でもいいから入れようとしたら…。あらら、なんともかんとも使える写真が1枚もない。
望遠レンズであれば、ちゃんと捉えられたのだろうが、肉眼で見えている島が写真にうまく写っていないのは、自動で広角になっているからだろうか。
もうちょっと写真にも、技術を磨いて(というほどではなくても、マニュアルくらいきちんと読んで…)ちゃんとしなければならないのかもしれないが、それもいまさらめんどくさいし…。ま、でんでんむしの写真へのこだわりはそんな程度で、まったくどうしょうもないレベルです。
与論島の西40キロに位置する伊平屋島と伊是名島のほうは、なんとかその横にいくつもの小山を並べたような姿が写ってはいたのだが。
与論島には島の東南端にチヂ崎という岬がひとつだけある。
伊平屋島には、島の北端の田名岬と南端の米岬のふたつがあり、伊是名島にも、打鼻、ゴハ崎、城崎とみっつある。
これらの岬まで行けるかどうか、はなはだ心許ないので、とりあえず見えるところまできたという記念に、番外項目をつくっておく。
前項で述べたように、与論島は鹿児島県で、かつて復帰前には北緯27度線が“国境”であった。では、現在の県境は、どうなっているのだろうか。
ネット地図では、それを明確にしている情報はない。そもそも陸上の県境と違って、海上の県境に厳密な線引きをする必要性があまりないからかも知れない。
検索でいちばんに出てくる情報が “Yahoo! 知恵袋”で、「鹿児島と沖縄の県境せんはどこですか」という質問に対して、「鹿児島県奄美諸島の世論島南端と、沖縄島北端の辺戸岬の中間です。」(ママ)というのが“ベストアンサーに選ばれた回答”というのだから、これもまったくどうしょうもないレベルである。
復帰前の27度線の境界線が、現在の県境になっているのであれば、それは辺戸岬と与論島の「中間」線ではないはずである。それにもうひとつの問題は、やっぱり、みんな誰もが硫黄鳥島のことを無視しているということだ。
実は、沖縄県の北端は辺戸岬でもなければ、伊平屋島でもない。伊平屋島北端の田名岬から、北北東に約100キロ近く北上した海上に浮かぶ小さな島があり、そこが沖縄県の北端、島尻郡久米島町字硫黄鳥島なのだ。そこが島尻郡伊平屋村ではなく久米島町というのも問題だが、それはとりあえずおくとして…。
鹿児島県沖永良部島(爆発した島とは違います)からは北西に60キロ、同じくその北の徳之島西岸からは西へ64キロも離れている硫黄鳥島を領域に取り込むために、沖縄県と鹿児島県の県境は、与論島西沖の海上からまっすぐ北へ100キロ以上も伸びていかなければならないのだ。
それを示すネット地図情報は見当たらないので、手元にある小学館と平凡社の日本大地図帳を参照してみた。すると、小学館日本列島大地図館(1990年)のほうは県境明記がなかったが、平凡社の日本大地図帳(2006年八訂特別版)ではこのようになっていた。
どういうわけか、左右の見開きで、左と右の県境表示が、まったく異なっている。
左ページ上のほうは、北緯27度線を明確に意識した表記になっている。
だが、右ページのほうは、“与論島と辺戸岬の中間”という広く流布している俗説をそのまま写し取っているような線引きだ。しかも、その異なる県境表示が、見開きの左右に置かれているというのは、なんともかんとも、ナヤマシイねえこれは(笑)。
海の上の県境だから、そんなにもめることもないのだろうが、北緯27度線を県境とすると、与論島側にとってはいささか不都合なこともある。そこで、復帰後の県境を実質的に中間に置き直したが、それはあくまで便宜上のことで、正しくはあくまでも27度線ですよ…と、この矛盾する表記を両論併記で並べた見開きページは、そんなふうに言っているようにもみえる。
さて、そこで…。
薩南諸島へも、いずれなんとかして行きたいものだが、ここでは沖縄の側からみた歴史的な重要事項として、留意しておかなければならないことがある。
本土の人間は、今ではほとんど誰も気にもとめてないが、琉球はかつては立派な独立国であり、大陸と交易し琉球王朝のもとに栄えていた。第二尚氏王統の時代1571(元亀2)年には、奄美群島の北部までもその勢力圏においていた。
ところが、1609(慶長14)年に薩摩藩の侵攻を受け、尚寧王はその武力に屈し、首里城を開城して薩摩藩の実質支配下(名目上は王朝は存続)におかれることになる。このときから、奄美諸島は薩摩藩に取りあげられてしまう。その諸島のなかで、硫黄鳥島は現在は無人島になっているが、当時は硫黄を産出する重要な島だった。その硫黄鳥島だけは、特別に琉球に残した。それは、硫黄が中継貿易で重要な産品であり、それを薩摩が取りあげても自身が直接中国や東南アジアと貿易をすることはできなかったからだろう。そう考えれば、この島と奄美の諸島の線引きを、わざわざ不自然な形に残したことの説明はつく。
あくまで、琉球王朝を形ばかりだが対外的には残し、それを窓口にした貿易の利益を搾取するというのが、薩摩が行なった琉球処分だった。搾取に苦しむ王府は、財政破綻をつくろう手段として、今度は八重山などに対しては人頭税など過酷な租税を搾取することでカバーしようと逆にされる側からする側に回ってしまう。
沖縄県と鹿児島県の県境は、少なくともそこまでは理解したうえでないと、論じられないということである。
▼国土地理院 「地理院地図」
沖縄地方(2015/04/04 訪問)
番外:東北の岬めぐりのまとめに「三陸の地質年代表」をつくってみた [番外DB]
そして、その記念にここで三陸の特徴ある地質を理解するために、地質年代表をつくってみた。
だいたい、「何億年前…」なんていわれたって、さっぱり実感としてつかめないものだ。それを理解するためには、自分でなにかものさしをつくってみるのがいちばん効果的なのである。
こうしてまた、悠久の時の流れのなかに、自分のイメージを重ねておき、想像を膨らませることができるだろう。それは、何億年前でも数十年前でも、結局は同じことで、今を生きているわれわれが常にそれを意識し反芻してこそ、生きた歴史になるのだろう。
実は、年表もそんな思いでつくっているわけで…。
▼国土地理院 「地理院地図」
東北地方(2014/11/04〜07 訪問)
番外:ナゾは深まるばかりSo-net「地域」ブログランキング・2015年初頭の定点観測(So-netブログの七不思議19) [番外DB]
ここ毎年、地域ランキングの観察を続けているのは、自分のランクがどうとかではなくて、So-netがそのあちこちいたるところで表示している「ランキング」なるものの摩訶不思議さに惹かれてのことだった。
いったいぜんたい、このランキングとやらは、なんじゃろか?
もちろん、最初にSo-netに質問してみたのだが、ランキングの算出基準・計算根拠などは非公開で教えられないという。ならば、公開されている情報だけでも並べて比較検討することによって、なにかわかるのではないか、というのがこれを始めた動機であった。
始めてみると、なにかわかるどころか、ますます疑問が膨らんできてしまったのである。基本となるはずのアクセス数などが公開されていないので、どうしょうもない面もあるのだが、それはそれとして、ここには知りたがり屋を引きつけてやまない、わけのわからなさ故のおもしろさがある。
前項の「七不思議18」では、この「でんでんむしの岬めぐり」ブログ内の各記事項目ごとの「アクセス数」と称されるもののデータをまとめていたが、今度はそれが属しているテーマ(ブログ共通テーマ)である、「暮らし・健康」の「地域」の「ブログランキング」に限ってのまとめである。
ひきこもりでんでんむしは、他のブログ徘徊もしないので、nice!集めもしないし、SNSもやらない。RSSはよくわからないが、だいぶ前からSo-netの読者になる登録ができなくなっている。どうしたらいいのかわからないし、面倒なのでほおってある。なので、広いネット世界をごく狭くして生きている。ほかのことは知らない。もっぱら、この狭い限られた「地域」の世界でのみ棲息している。だが、他のテーマをちょっとだけ覗いてみたことがあって、それは七不思議の13「ひきこもりがちょっと外の世界に出てみたら」 として記録していた。
とにかく、相変わらずでんでんむしの棲息地域は「地域」のみなので、以下あくまでその範囲中心のハナシである。
さて、2015年元日の早朝現在では、「地域」のランキングはこんなことになっていた。
すでに何度か説明していることと若干重複するが、初めてみるという人のために、ざっと説明すると、まず左端の欄から過去のランキングと2015年のランキングを並べてある。常連というか、だいたい25のランキングに入ってくるのは決まっていて、面子ががらがらと入れ替わるようなことはないようだ。それでも今年の新登場は6件。データを公表していないものが4件。
公開されているデータは「nice!」の数と「記事数」しかないので、それがわかるものについて拾っていて、一記事当たりの「nice!」の数を算出している。それから「up」の欄は前月(ここでは2014/12の記事投稿数)で、更新頻度の見当がつく。
最後の欄の◎印は、そのブログが「地域」ブログへちゃんと投稿しているものについている。つまり、ブログ共通テーマ「地域」のランキングに示されている「nice!記事>>」の「最新」「デイリー」または「アクセス記事>>」の「最新」「デイリー」に登場するもの、あるいは「「新着記事>>」の「新着」に上がってくるものである。(念入りに見たつもりだが、落ち漏れがあったらご容赦。あるいは、ずっと昔にはあったよというのも、ここでは無視。)
そのほか、「人気急上昇「地域」ブログ」というランキングもあるが、ここに上がっているのは25ランキングと同じく「地域」への投稿の有無を前提としていないので、これもここでは無視する。
拾える公開データが限られているため、「nice!」の比較くらいしかできないのだが、その結果として、どうもSo-netでは更新数や記事数よりも、「nice!」がランキングを上げるいちばん大きな要素になっているらしいことが、傾向としては明確に推測できる。なかには、「nice!」数がさほど多くないが上位にあるのもあるが、だいたいは一記事当たり100以上のものは、そのランクアップへの貢献度が高いとみてよかろう。
また、「地域」欄の◎印は、これが案外重要なことだと思うのだが、そのブログが果たして「地域」のランキングにのっかる妥当性があるか否か、それを問うことになるはずである。表に見えないところでなにかがあるとしても、見える部分でしか判断のしようがないので、ここでは「地域」に新着、投稿などがあるものをもって、「◎」とした。
すると、「◎」はランキングの25のうちたった11しかない。半分以上は、なにが「地域」ブログなんだか、どこが「地域」なんだかわからないということになっている。でんでんむしは、密かにこれらを“不在地主”と呼んでいる;(^o^);;。もしかして、それは個人的な思い込みに過ぎないのか?、いやそうではあるまい!、と自問自答しながらやっているが、「地域」に投稿があることが、そこをベース(本拠地・本籍地)にしているということであり、「地域ランキング」というからには、それがまずランキングに参加する基本条件であるはずである。(どうして、「地域」にまったく投稿がないものがランキングだけに上がるのか、どうしてこういうことになるのかについても、これまでに縷々推測をしてみてはいる。)
2013年の定点観測、「番外:2013年初頭の定点観測:“「地域」ブログランキング” へのソボクなギモン(So-netブログの七不思議11)」では、なんと“ランキング25のうち3分の1以下しかない”という状態だったので、それからみればいくらか改善しているともいえる。(これは他のテーマでも同様かというとそうではないらしく、どうやら「地域」だけの特殊性のようにみえる。「七不思議の13」参照。)
それにしても、「新着」などをみていると、地域ブログってこれだけしかないのか?、という思いがしきりである。ランキングの分母は2700を超えているはずなのに、いつも決まった限られたものしか現れず、割とバラエティに乏しいリストになっている。これもわからんなあ。
また、「管理トップ」には「アクセスランキング」(総合か?)とか、「総閲覧数」とかの数字もあるのだが、これは本人が公開しない限り、外部からはわからない。
たまたま、これを公開したりする人がいたりして、それはそれで興味深いのだが、その「ランキング」がでんでんむしのそれよりは下のほうなのに、地域のランキングではどんと上位にランクされているということもわかったりする。ますますもって、ナゾは深まるばかりなのだ。
しかし、おもしろいねえ曽根風呂は…。ついついのぼせてしまうよ。
(2015/01/01 記)
番外:「閲覧数」「訪問者」「ページビュー」などの変動はどうして起こるか:観察研究その6(So-netブログの七不思議18) [番外DB]
したがって、ここでこんなグラフをつくったりして、お馬鹿なことをやっているのも、それ自体をおもしろがって楽しんでいるに過ぎないのであって、アクセス数やランキングなどを気にしてのことではない。
■「ブログレポート」がいう「アクセス数」は「ページビュー」のこと
So-netブログ事務局から送られてくる「ブログレポート」《後編》では、前月と前々月の「アクセス数」という数字も通知されてくる。この「アクセス数」という数字の実態が具体的にナニをもって示されているのかもよくわからなかった。(たとえば「管理トップ」でいう「総閲覧数」や「アクセス解析」でいう「訪問者」・「訪問者数」ないし「ページビュー」とどういった関係にあるのか?)
だが、とりあえず「ブログレポート」がいう前月と前々月の「アクセス数」というのは、「アクセス解析」の「日別&ランキング」の「アクセス数」の「ページビュー」(月計)のことだとわかった。(しかし、それでもなお、その「アクセス」の具体的な態様までは想像できないのだが…。)
そこで、とりあえず2013年と2014年分について、月別の「ページビュー」をグラフにしてみて、その凸凹と書き込みの内容とを照合してみた。
2年分の「ページビュー」の月別推移には、かなりのアップ・ダウンがあるが、それと記事内容を結びつけてなにかを導き出すのは、ほとんど意味がないように思われる。それと無関係とも思えないが、それに理屈をつけるのはやはりむずかしい。
■「訪問者」と「ページビュー」が大幅にダウンして
以上の月別の「ページビュー」は、日別の集計であるが、今度は「アクセス解析」から日別の「訪問者」と「ページビュー」という数字に注目してみよう。
今回の不思議は、この数値が、2014年の秋口から目立ってダウンしてしまった、ということである。それを2013年1月から2014年の12月までまとめて、2013年のグラフと2014年のグラフの2枚にしてみると、次のようになった。(今度は日別の集計なので、同じ「ページビュー」のグラフもだいぶ違って見える。とくに上のアクセス数は横幅が2年分、下のページビューは1年分なので要注意。)
上の薄茶色が「ページビュー」、下の濃い渋茶色が「訪問者」として示されていた数字の推移を表している。その減少は急激にとも言えるが、長いスパンでグラフにしてみると、むしろ長期低落傾向に入っている、というべきだろう。
日別「訪問者」と「ページビュー」をまとめて2年分見ると、時期によって多少の凸凹はあるが、なべて一定の水準を維持しながら推移してきたようだと言える。もともと、そんなに極端に大きな変動はなく、だいたいいつも一定のレベルを保っていた。
そんななかでも、2014年の春から夏にかけては大きく伸張してひとつのヤマをつくっていた。それが、2014年の秋口から突然ダウンを始め、ここ2年間の最低水準にまで落ち込んでしまった。訪問者数は、ついに500を割ってしまうという状況が続いていて、今では多かった頃の水準からは半分以下になっているのだ。
2014年も一部、毎日更新をしていた時期がある。それをグラフではオレンジの点線で示してみたが、どうも毎日更新を続けているからアクセスが増えるということもなさそうである。
現に、秋口からのベース・ダウンは、その毎日更新の最中から生じているので、記事投稿数が影響しているとも言えない。
これはいったいなんだろう。
「そりゃお前のはおもしろくないからだよ」というのは、ナシね。
それは急におもしろくなくなったわけではなく、おもしろくないとしても急におもしろくなくなったりしたわけではない。最初からおもしろくないわけなので、ここで落ち込んだ理由の説明にはならない。
取りあげる岬の地域のせいでもなさそうだ。継続性の原則を崩すような変動は、どうして起こるのだろうか。
So-netブログが、これらの数字の意味と算出方法を、もう少しちゃんと納得のいく説明をしてくれないかとも思うのだが、環境の背景となっている、検索のシステムや条件などの変化も含めてどうもその算出方法や根拠のほうに、なんらかの事情があったのではないかと勘ぐりたくもなってしまうのだが…いったいどう納得すればいいもんだろうか。
(2014/12/31 記)
番外:「過去3カ月間でアクセス数の多い記事ベスト3」と項目別アクセスのナゾ:観察研究その5(So-netブログの七不思議17) [番外DB]
なかには、「お前そんなこともわからんのか」という程度のこともあろうが、ソネブロの説明は全般的に不得要領で、無造作に使われている言葉の意味すらでんでんむしにはわからないことが多い。でんでんむしに理解できないことは、まず普通の多くのユーザーにとっても同様ではないかと思われる。
なんでも知りたがり屋のでんでんむしが、今回はブログ経緯の記録の意味も込めながら、So-netブログでは表出するすべてがランキングになっているが、その算出根拠・要素(これもソネブロは公開していない)の中でも基本中の基本であるはずと想像される「アクセス数」(この用語の定義も実はよくわからなかったのだが、これは次項で)についての疑問である。
これには、ユーザーは主に、「ブログレポート」と「アクセス解析」ふたつの情報がそれを知るよりどころとなる。
■「過去3カ月間でアクセス数の多い記事ベスト3」の移り変わり
So-netブログ事務局からは、毎月「ブログレポート」が送られてきて、その《後編》では、「過去3カ月間でアクセス数の多い記事ベスト3」というのが、データ抜きで順位によって示されている。
いつも、ふ〜んと言って見過ごしているが、それは無関心なのではなく、いくら見てもそれ以上なにもわからない、なるほど!というところがない、だからなんなんだ! なんでやねん!と言いたくなるからである。
今回、最近のメールをほじくり出して、2014年3月分からの「ベスト3」を並べてみると、このようになった。
2回以上ベスト3に上がっているものは色分けした。こういうところまで1位2位というのが、いかにもランキング好きなソネブロらしい。「過去3カ月間」ということは、ダブっていることになるのだろうか。どちらにしても、傾向としてどの記事のアクセスが多かったかを知ることはできる。
ただ、どうしてそうなっているのかはわからないが、それはSo-netでもわからことないのだろう。
この期間限定でいえば、「月島界隈」の51番「消えてしまった石川島…」(桃色)が6回もベスト3に並んでいる。それも、3月に上がっていていったん姿を消してまたぶり返している。随分息長くアクセスが続いているということになりそうだが、これはなんだろうか。
次に多いのは、「石垣島だより」の「捨て石とマラリア…30」(空色)の4件だが、3件の「229 亀ノ島鼻…」(肌色)についてはそれと同じ三重県の伊勢鳥羽付近の項目が前後して並んでおり、箱根駅伝の予選会方式でいえば「230 神前岬」(黄色)「228 崎山岬」(みかん色)と合わせれば団体戦勝利と言える。
色のついていないのは、それ単独ということだが、緑色の「159 雄美岬・猿多岬」の項(薄緑色)これについては後述)はこれまでずっと当ブログでは最多アクセス数をたもってきた項目である。一時的にせよ、横須賀の走水の岬(薄紫色)のアクセスが急増するのも、不思議なことだ。伊豆大島の「番外:地層切断面」(灰色)については、ある出版社からこの写真を使いたいという依頼があった時期と符合はしているがそればかりとは思えない。
全体的に見ると、この欄の半分以上は「番外」項目で占められており、メインテーマである「岬めぐり」の項目が半分もないというのは、やはり個々の岬についてはマイナーな興味であって、さほどの広い関心を集められていないとみていいのだろうか。
とにかく、なぜこの項目が…?というところ、その理由や背景は、知りたいと思ってもなかなかわからない。もともと不特定多数の浮動票の動きなど、そうそうわかるものではないといえばそうだが、明らかに偏った動きを数r背景には、なんらかの原因があるはずである。「229」項のページには、その情報を求める追記もしてみたのだが、反応は皆無だった。
こういうところに上がる項目には、新しい項目はまずない。全部ある程度昔に書いたものである。よほどブーム的な現象がない限り、時間の経過とともに積み上げられていくのがアクセス数、それは基本だろう。
だが、なかにはいくら時間が経過しても、アクセス数が積み上がらないという不思議な項目もある。
この「でんでんむしの岬めぐり」の「記事管理」のリストから、項目別に「閲覧数」(これも具体的にはどういう数字なのか、「アクセス数」と同じなのか違うのかも不明)という数字を拾ってみた。(数字は2014/12中旬現在)
その結果、ブログの全項目でアクセス数の多いものと、少ないものをピックアップしてみると、以下のようになる。
まず、その少ないほうから…。
■「閲覧数」が1000未満で少ない項目
ここに拾ってみたのは1000未満の項目で、それも近年の項目では当然たくさんあるので、2006(平成18)年あたりから以前のものが中心になる。結果では意外なこともある。
最下位の「019 御浜岬」などは、経過年月からいえばもっとも古い部類に属していて、しかも場所としても伊豆半島西海岸の戸田(へた)という、富士山がきれいに見える割と有名なところである。ただ、場所は知っていても、岬の名前を知らないから検索の対象にもならない、ということは考えられる。また、「017 納沙布岬」や「008 野島崎」のような、かなり一般にも名も知られているはずの岬が、まるで不人気である。こうなると、さっぱりわからない。
岬めぐりでは、ほとんどの岬が誰も知らないような場所で、したがって検索でもあまり上がってこないところが多い。つまり、このブログ自体が、当初から極めてマイナーな性格をもっている。
それにしても、年月を経過してもいっこうにアクセスが増えないのは、どうしてなのだろうか。
もちろん、「そりゃお前のはおもしろくないからだよ」とか突っ込みは自由だが、その周辺の他の項目と比べてもまったく伸び悩んでいることの説明にはならない。どうやら、こういう項目には初速からのなにか不運のようなものがあるようにも思えるのだが、やっぱりどうしてかわからない。
■「閲覧数」が4000以上の多い項目
次に多いほうのリスト。ここでは4000以上のものを並べている。これを見ると、確かに最初の投稿記事「001 地蔵崎」もなんとかランクインしているが、時間の経過だけが決め手にはならないということも明らかだ。その項目がよく見られる、なんらかの事情がそこにはあるようだ。
前述のように、このリストではこれまでトップを維持してきた「159 雄美岬・猿多岬」の項が、その座を「月島界隈」の「51 消えてしまった石川島…」に明け渡している。
前者については、佐伯さんの「居眠り磐音江戸双紙シリーズ」人気によるものであることは疑いがない。だが、石川島のほうはどうなんだろう、いったいなんなんだろう。どこかでなにかにリンクされたとかいうのが、最も考えられるが、そういうのは一過性とおもわれるが、これはもう随分長く続いている。
これも内容云々は、とりたててどうということもないので、まず関係ないし、それが有名な岬だから閲覧数が多いということにはならないのである。18番目に「041 長崎鼻」があるが、その隣にあるはずの超有名な岬である犬吠埼は、閲覧数4000のリストには入ってこない。(因みに「042 犬吠埼」は閲覧数1,569でしかない。)
しかも、このリストでは上位にあるのがほとんどメインの岬めぐり以外の番外項目などであって、架空の岬である「159」を除けば、実際の岬では鳥羽の亀ノ島鼻と三浦半島の燈明崎と雨崎というマイナーな岬、それに和歌山の城ヶ崎(ここは多少は曰くがあって有名かも)がベストテンにランクインしているだけである。
こうしてリストも見ると、ますます不思議が増大してくる。(このあたりはソネブロの不思議と言うより、ブログというものの不思議さ、というべきなのであろう。)
(2014/12/30 記)
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