でんでんむし@アーカイブス★むかしの人は言いました=その31 臨時特別連載「道歌」 [番外DB]
ものごとは常に、さまざまな立場や角度から、いろいろに見方はわかれます。それだけでなく、認識の主体が変われば認識の対象さえも変化するという唯識(人間の5感に加えて自覚的意識、それに無意識の末那識と阿頼耶識の8種類の識)のものの見方が、大乗仏教にはあるそうです。
むずかしいことはわかりませんが、世の中のあらゆる存在が、8種類の識でしかなければ、あらゆる存在は常に主観的なものであり、客観的ではありえない…といったところでしょうか。冒頭の、
手を打てば 下女は茶を汲む 鳥はたつ 魚寄り来たる 猿沢の池
という歌は、それをあらわしているんですね。
でんでんむしも、これは知っていましたが、この歌にはこんなにたくさんのバリエーションが流布していたとは…。ちょっと変えただけじゃないか…といってしまえばそれまでです。しかし、それだけ多くの人の関心を集めていたということでもあるわけで、これはばかにできないと思います。
ちなみに、猿沢の池も不忍池でも広沢池でもよさそうですが、これだけは変わらない。それは、この池の上にある興福寺こそは、唯識の法相宗本山だったからでしょう。
こういうふうに、たいていの歌は、なんとなく主旨は理解できると思うのですが、なかにはこの歌の意味を解説しろと言われると、実は正直なところどうもよくわからない、うまく説明できない微妙なのもあるんですよ。
31 手を打てば…
手を打てば 下女は茶を汲む 鳥はたつ 魚寄り来たる 猿沢の池
手を打てば 鯉は寄り来る 鹿は逃ぐ 下女は茶を汲む 猿沢の池
手を打てば 鳥は飛び立つ 鯉は寄る 女中茶を持つ 猿沢の池
手を打てば 下女は茶を持ち 鳥は逃げ 鯉は餌と聞く 猿沢の池
手を打てば 仲居返事す 鳥逃げる 鯉は集まる 猿沢の池
手を打てば 鯉は餌と聴き 鳥は逃げ 女中は茶と聞く 猿沢の池
手を打てば 魚は集まる 鳥逃げる 下女は茶を酌む 猿沢の池
手を打てば 鹿は寄り来る 鳥は飛ぶ 下女は茶をくむ 猿沢の池
山川の 末にながるる とちがらも 身をすててこそ 浮かぶ瀬もあれ
河水に 流れ流るる ちから藻も 身を捨ててこそ 浮かぶ瀬もあれ
みる人も みらるる人も うたたねの 夢幻の 浮き世ならずや
木に竹の 無理はいうとも そこが親 いわせて桶屋 たが笑うとも
憂きことは 世にふるほどの 習いぞと 思いも知らで なになげくらん
うつせみの もぬけのからと 身はなりて 我もあらばこそ ものおしはせめ
夏蝉の もぬけて果てる 身となれば 何か残りて ものおじをせん
惜しむとて 惜しまれぬべき この世かは 身を捨ててこそ 身をも助けめ
なぜさすり 大事にするも 手あぶりの つめとうならぬ うちでこそあれ
顔くせを 常にたしなめ とがなくて 世ににくまれて なににかはせん
(2014/05/15 記)
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