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□09:広島のそろばん塾と国道二号線のローマ字と青小の開かずの図書室 [ある編集者の記憶遺産]

 当時の小学校の授業で、何を学び、どんな成績だったのか、よく覚えていない。きっと、そんなに目立つこどもではなかったし、そんなに成績がいいというほどでもなかったのだろう。
 小学校の6年間は、とにかく遊ぶのが忙しい毎日で、まだ周辺にたくさん残っていた自然(というより、それしかなかった)を相手に、なにかしら遊んでいた。今時分であれば、夏草のあのむせかえるような草いきれのなかで、草も花も虫も、そしてでんでんむしやかえるなど手当たり次第すべてのものが、遊び相手になり得た。
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 勉強などにうるさくいう親もいなかったし、習い事や塾とも遠かった。
 とはいえ、そろばん塾だけは盛んで、通っているこどもも結構いた。そろばんができれば、それは将来の仕事にも役立つという、世間の共通認識があったらしく、広島商業の珠算の先生などは、確かラジオ番組をもっている有名人だったような気もする。ラジオでそろばんをどう教えるのか、それもよくわからないのだが…。
 これも、流行りみたいなもので、なんとなく自分も行かなければ悪いような気がして、ほんの少しの間だけ通って「9級」の免状をもらってやめたことがあった。当時、学校で買ったそろばんは、ひどく雑なつくりで珠もすらすらとは動かないようなシロモノだった。
 そろばんだけでなく、鉛筆やクレヨンの芯にはガリガリ引っかかるものが入っていたり、紙は藁半紙という通り、ワラの切れ端が混ざっていたり、黒っぽい粗悪なものしかなかった。
 平凡な小学校生活で、どんなことを習ったのか、ほとんど覚えていないのだが、ひとつだけローマ字を習い始めたことは、ある思い出と重なっていて忘れられないことだった。
 ローマ字は、4年生くらいのことだろうか、たまにしか習う機会はなかったが、これが忘れられないのは、自分たちの知っていることばが、ABCでも表現できて読めるということに、とても興味を覚えたからだ。これは、おおげさにいえば、ひとつの異世界への扉を開けるような気がしたのだろうと、後付けの理屈がつく。
 安芸郡府中町のでんでんむしの家から広島市立青崎小学校までは、改めて計ってみると約1.5キロほどの道のりで、大人の足で歩けば30分はかからない。小学生は、当時はかなり遠く感じたその道を、ゆっくりと時間をかけて歩いて通う。
 あるとき、通学路の国道二号線に沿ってぽつんとあった古道具屋の前に、ピカピカの見たこともないような乗用車が停まっていた。茶色と白の車の後ろには、習いたてのアルファベットが並んでいる。最初は「M」でその次が「E」だ。これは「め」だな。あれ、次は「R」で「C」…? ローマ字では読めんじゃないか。「めく…る?」と声に出して苦心しているところへ、古道具屋から出てきた上品できれいなそしてまた見たこともないような服装のアメリカ女性が出てきて、こちらに向かって笑いかけながらひとこと、「Mercury…」といって車に乗り込んだ。
 どぎまぎして、どうしていいかわからないで立ちつくしていたでんでんむしを残して、マーキュリーは広島の方向へ走って行った。first contact は一瞬のうちに終わってしまった。朝日新聞が『ブロンディ』を連載していた頃のことだろう。
 日本の国語は、井上ひさしが『国語元年』で書いているように、明治維新のときに大きな骨格ができたが、戦後のGHQによる日本語いじりという危機もあったらしい。ローマ字教育もそれと関連があったのかも知れないが、そういう時代を背景にして、“日本の国語をローマ字にせよ”と主張する運動があった。かと思えば、“イヤ、ニホンゴハ スベテカタカナニ”という議論も、大まじめにされていた。
 相変わらず、本とは縁遠い毎日であった。青崎小学校にもいちおう「図書室」というところがあるらしかった。そんなうわさは聞いていたので、あるとき意を決して探索に乗り出した。そこに行けば、貸本屋に行かなくてもすむではないか。
 当時のこどもの感覚では、同じ学校内でもいつもの決まった教室への出入り以外に、あちこち歩き回るということはしないものだった。
 階段の踊り場のような、中二階のようなところにくっついていた小部屋がそうらしかった。行ってみると、学校の怪談になりそうな薄暗い小階段の奥に確かに「図書室」と黒板に白文字の表札が架かっていた。おそるおそる、その扉を開けようとしてみたが、その部屋には鍵がかかっていて、誰も入れないのだった。
dendenmushi.gif(2010/07/25 記)

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□08:独特の雰囲気があった『譚海』もたまにみるくらいだったが… [ある編集者の記憶遺産]

 戦後の雑誌ブームというのは、今ではよほどの研究家でなければ、その全貌を知ることができないくらい複雑である。こども向けの雑誌でも、それは同じことで、とにかくいろんな雑誌が出たり消えたりしていたが、そのなかでちょっと異色なのが『譚海』という雑誌であった。
 これは博文館が大正時代に創刊したもので、頭に小さく「少年少女」という文字もくっついていたらしいが、それはあまり記憶になく、もっぱら『譚海』とだけ呼んでいた。戦前は、岡本綺堂、長谷川伸、山本周五郎、海野十三、横溝正史、大佛次郎といった作家が寄稿していたという。しかも、山手樹一郎が編集長をしていて、自分も覆面作家として作品を発表していた、という話もある。戦後のそれも、多少変質した部分もあったのだろうが、山岡荘八、小松崎茂、山中峯太郎、サトウ・八チロー、高木彬光、島田一男、山田風太郎といった人たちが、執筆陣に名を連ねていたのだから、大変なものであった。
 ただ、この雑誌もたまに“物々交換貸借”でやっと手に入るくらいだったから、読者というほどでもなく、こどもだからあまり作家にも興味がない。問題は、おもしろいかおもしろくないかだけである。『譚海』はおもしろかった。けれども、とびとびにたまに見るだけだから、続き物では話がわからない。作品と作家で、記憶しているものは、『譚海』に限ればあまりない。
 さらに、でんでんむしが知っていた『譚海』は、いつの時代のどこが出したものだったかさえ、よくわからないのである。なぜなら、博文館自体が経営危機に陥り、1948(昭和23)年には組織が変わっているからである。その流れを汲む新社が、現在まで日記に特化して続いてはいるが…。
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 いろいろ調べてみても肝心の出版社がそういう事情だから、なかなかわからなかったのだが、「少年・少女名作漫画劇場」というページを見つけた。どうやら、“昭和の旅人”さんという個人のコレクターがつくっているらしいが、ここには昔の雑誌や漫画などがたくさん並んでいた。ここの「少年誌」のところを見ると、戦後の昭和24年〜29年の『譚海』は、「発行所 文京出版」となっていた。
 なにか、独特のおどろおどろしい雰囲気をもった雑誌編集の味が、なんともいえなかったという記憶がある。
 もっとも、それは『譚海』に限らず、少年雑誌一般にも共通するところがあり、怪談実話、西洋怪談などが幅をきかせていた。怪談でも冒険でもない奇妙な味のある読み物を“ミステリー”として広めた、後にはSFの普及にも努力した江戸川乱歩が、こども向け探偵ものを育て養う土壌がふつふつとしていた。
 少年雑誌のネタで多いのは、ほかに今でいう雑学的な断片的な知識が、めちゃくちゃに詰め込まれていた。世界の七不思議とか、驚異の恐竜の話とか、雪男をみた男の話とか、世界でいちばん大きな花とか、人を食う貝の話とかが、おもしろおかしく書かれていた。
 そんな記事のなかで、どの雑誌だったか不明だが、ひとつ鮮明に覚えているのは、ENIACのことを書いた記事だった。そこには、それから数十年経って電子計算機というものが、人の口の端に上り始めたときに示された、なにやら箱のような機械のようなものが並んだ部屋に人が立っている、あの写真が使われていたのだった。
 町には紙芝居の打つ拍子木が鳴り、『黄金バット』が人気を集めていた。夏の夜には、小学校の校庭に高い竹が二本立てられ、その間に白い布が張りめぐらされ、美空ひばりの『悲しき口笛』が上映された。
dendenmushi.gif(2010/07/23 記)

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□07:『のらくろ』と貸本屋で借りたマンガ以外の本『ヒキガエルの冒険』 [ある編集者の記憶遺産]

 田河水泡の『のらくろ』の記憶も重要だった。なにしろ、一時期はチャンバラまで禁止されたのだから、犬に擬人化されているとはいえ、もろ旧日本軍そのものの『のらくろ』も、おおっぴらに店先に並んでいたわけではなかったように思われる。
 誰かがこっそりと所蔵しているのを、回し読みしていたような気がするのだが、そういう秘やかな楽しみがよけいに興をそそった面もあった。『のらくろ』のすばらしさは、デザイン的なセンスが、表紙や背や見返しや扉や、しっかりした造本のすみずみまで行き渡っていたことで、そういう感想は後年のものであるとしても、当時からのらくろ自身の階級がだんだん上がっていくのが、とても印象に残っていた。
 もうひとつ、『のらくろ』で忘れられないのは、歩いたり走ったりしたことを示す、独特の“砂ぼこりマーク”である。なるほど、このように描けば、移動していることがわかるんだと学んだ結果は、後に他の学校の先生がきて行なわれた研究授業の対象になり、グループで発表する掲示の中に、バスが走っている様子を描くのに、のらくろ方式を採用した。教室の後ろに並んだ見学の先生が、それを指して話しているのをたまたまみて、秘かに得意だったという記憶もある。
 貸本屋でマンガばかり借りていた頃から少し後になると、マンガ以外のものも借りるようになる。そんな本のなかでなぜか忘れられないのが、『ヒキガエルの冒険』という本だった。雑誌以外で、はじめて文字を読むことで物語を楽しむという経験をしたのが、この本だったのかも知れない。
 小学校前の貸本屋からは、足が遠のいていたのは当然である。なにしろ、そこの娘に「○○君は、よくマンガを借りに来られますが、勉強をしたほうがよいと思います」などと言われたのだから…。うまいぐあいに、より家に近い国道二号線の広島市と船越町の境付近にも貸本屋ができていたので、『ヒキガエルの冒険』は、そこで借りたものであった。
 もうひとつ、この本はあるいは別の理由で記憶に残っていたのか。たとえば、返却期限を過ぎて延滞金を取られたとか、そんなことがあったような気もするが…はっきりわからない。
 それに、この本を書いたのが誰か、どこから出ていた本かといったことも、さっぱり記憶がないのでわからなかった。
 ところが、ずっと後年になっていつも定期的にこどもの本を買っていたとき、そのなかに岩波書店が出した新刊(1983)で石井桃子訳『たのしい川べ』というのがあった。これを読んだときに、「これはあの『ヒキガエルの冒険』と同じ話ではないか」と思ったのである。事実、そのサブタイトルが同じだった。
 これはケネス・グレーアムの「THE WIND IN THE WILLOWS」の邦訳で、E・H・シェパード(ミルンの『クマのプーさん』の絵の人ですよ)のさし絵が、またすばらしかった。
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 その本は、今でもあるが、岩波書店が手をつけるずっと前に、邦訳がどこかから出ていたということになる。
 それで調べてみたら、戦前にも中野好夫の訳で白林少年館出版部というところから出ていた。そのうえ、戦後すぐ(1945)にも『ヒキガエルの冒険』という題で石井桃子の訳本が出ていることがわかった。このときの出版社が、英宝社ということもわかったのである。
 戦後すぐ『日米会話手帳』と同じときに、こんな本が出ていたということに、改めて驚くが、どうやら、でんでんむしが貸本屋で借りてきて、はじめて物語を読む楽しさを体験した本というのは、この英宝社版だったようだ。そして、この版権がその後に岩波に渡ったということらしい。
 ケネス・グレーアムという人は、確かコナン・ドイルと誕生日が同じという時代の人で、イギリスにその後も伝わる豊かな自然のなかで生き生きと動き回る主人公たちが繰り広げるこどものための物語の伝統を守り残した人といえる。
 この物語が、永く記憶に残っていたのは、自分たちの身の回りにもいる小動物たちの物語であったことと、その舞台と同じような自然のなかで転げ回っては遊んでいたからかもしれない。

dendenmushi.gif(2010/07/21 記)

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□06:戦後のベストセラー第一号と“本といえば貸本屋”という時代のこと [ある編集者の記憶遺産]

 その頃は、本を買うという発想もお金も、まだなかった。本をたくさん並べた本屋というものがまず身近にないだけでなく、こどもが小遣いで買うような本もまた存在していなかったのだ。
 もちろんそれは、戦後の広島の青崎の周辺のことだといえばいえるかも知れない。よく、有名人がこども時代を回顧して、家には全集がずらりとあって…というような話をしたり書いたりしているが、そういう恵まれた環境もどこかにはあったのだろう。だが、おしなべて当時の日本の現実は、ほぼ青崎周辺と変わらなかっただろう。
 出版の歴史のなかでは、戦後を象徴するできごととして、『日米会話手帳』のエピソードが、語り継がれてきた。
 終戦後すぐにこの本(といっても、うすっぺらいものだったが)をつくって伝説的ベストセラーにしたのが、誠文堂新光社の小川菊松という人である。それらはすべて、後にご本人が書かれた本を読んで知ったことではあるが、今では知る人もない貴重な証言と思われるので、その部分を紹介しておこう。

 しかし、昭和二十年八月、いよいよ重大発表があるということになると、誠に残念でもあり、くやしくてたまらなかった。十五日、私は丁度所要があって房州に出張していて、ラジオから流れ出るあの天皇陛下のお言葉を聞いていたのは岩井駅であった。これを聞く多数の人々とともに溢れる涙を禁ずることはできなかったが、帰京の汽車の中で考えついたのは「日英会話」に関する出版の企画だった。関東大震災の直後ヒットした、「大震大火の東京」当時のことを思い出し、いろいろと方策を練りながら帰って来た。社に帰り着いて見ると倅誠一郎を始めとして、加藤芝、高安達治両君の三人が浮かぬ顔をして戦勝のみぎり飲もうと取ってあった酒を飲んでいる。皆が虚脱状態にいるのだ。その間に割り込んだ私は、しばらくして「どうだ。日米会話の手引きが必要じゃないか」といったものだ。三人は全く驚いていたようだった。事実、皆の頭には、ただ終戦になったことだけが駆けめぐっていて、これからそうしようかまでも考えられていなかったあのだろう。それが当然なことで、私の頭の動きはどうかしているのかも知れない。事実、私のように永い間、出版一途に生活し、しかも出版を時期にマッチさせることをもって最大の快事と考えているもののみの頭の働きであったかも知れない。
 以上の話はその後、新しく入って来る社員に伝わり、それがまた社外の人人にも伝って行ったらしく、今では一つの伝説のようになっているが、それは次のようにおもしろく変形している。丁度、陛下のラジオ放送があったとき、私は倅誠一郎とその他の社員三人と共に、当時ラジオを備えてあった電話交換室で放送を聞いていた。そして皆と一緒に涙を出して聞いていた私が、陛下のお言葉が終り、皆がやっと顔を上げた瞬間に「どうだ。早速日米会話の本を出そう」といったというのである。なるほど話としてはこの方が面白いし、また人の噂などというものは、こういう風に伝って行くものなのであろうと思った。

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 (小川菊松著『出版興亡五十年』470ページ 誠文堂新光社 昭和28年刊)
 確かにこの写真にあるうすっぺらい本のことは、そのとき周辺の誰かがもってきたことがあったらしくて、その現物を見たという記憶は、ぼんやりとながらあるのだ。
 32ページのちゃちな本を出すのはどうかという社内の慎重論を押しのけて、初版30万部も刷るというのが、当時の印刷や紙の状況を考えればとても大変なことだと思われるが、結局360万部を売る記録的な売れ行きとなった。ただ、それは例外的な社会現象だったからで、広島のはずれまで、その現物がやっと届いたくらいで、普通の生活のなかで本が話題になるようなこともなかった。
 そんな時代の「本」といえば、まず貸本屋だった。NHKの朝ドラ『ゲゲゲの女房』で、その存在を初めて知ったという人もあるだろうが、青崎地区では貸本屋が小学校の校門前にあった。
 そこには、おとなの本もあったのだろうが、マンガ以外は眼には入らなかった。水木しげるのように、貸本屋向けにマンガを描く作家も、たくさんいたのである。
 借賃がいくらだったのか覚えていないが、とにかく工面できる限りの小遣いでマンガを借りてきたのは、小学校も高学年になってからだろう。その頻度は、使えるお金に制約されるので、手当たり次第というわけにはいかない。自然、数あるマンガのなかから選ばなければならないが、でんでんむしの好みは、宇宙とかロケットとか、そういったテーマのものだった。そんななかに、手塚治虫の作品もあったと記憶している。
 そのマンガの中身はほとんど忘れているが、断片的ながら核シェルターのようなものまであったのと、その貸本屋の娘が同級生にいて、児童会でチクられたことだけは、よく覚えている。
 当時の児童会では、「流行歌は歌わないようにしましょう」などという決まりをつくったりしていたので、そうした流れの延長だったのだろう。『ゲゲゲ…』にも、貸本が悪だと糾弾する人々が現われるが、それは戦争に負けても戦時中の“とんとんとんからりんの隣組的感覚”は、民主主義のなかに変質しながらも広く浸透していて、容易に消えることではなかったということではないだろうか。
 アメリカ兵(たまに豪州兵)がジープでそこらを走り回ったり、国道二号線を進駐軍の車両が行き交う時代も長く続いたが、「そうだ! これからは英語だ。英語を勉強しなければ…」と思ったりするような大人も、そういったことを示唆してくれるようなことも、でんでんむしの周辺には唯の一人もおらず、なにごとも起こらなかった。
 今思えば、原爆という歴史上まれな災厄のあとでも、こどもの目には、いたって平和な時間が流れていたようにしか見えなかったのが、なにかふしぎなくらいである。
dendenmushi.gif(2010/06/19 記)

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□05:本とはおよそ縁がない暮らしで付録が楽しみだった雑誌は盆と正月くらい [ある編集者の記憶遺産]

 原爆で家を焼かれたので、府中町のこども時代は、本というものとはおよそ縁がない暮らしだった。考えてみれば、妻を失い、家財も何も一挙に失ってしまって、食べるのがやっとという生活を余儀なくされ、おまけに遠く南方の戦地へ送られたらしい息子は遺骨でも帰ってこない。
 祖父のそのときの落胆は、いかばかりであっただろうか。
 70年は草木も生えないといわれた原爆の地にも、草が芽を出し、バラックが立ち並び、再び人が戻ってきても、盛業だった左官業を再開することもせず、結局、わずかな家作で暮らし、畑を耕すニワカ百姓になるという道を選んだ。
 復興広島には欠かせない仕事だったのだから、すぐに戻って弟子を集め、事業を再開すれば、たちまち広島屈指の建築業くらいになっていたかも知れないのに…である。
 自分も一家を構え、こどもを育てるようになってから、また人生の岐路に立ちあったときなど、折りに触れてこのときの祖父の心境を、なぞりながら推し量ってみる。すると、悲しいまでの諦観というか達観が、おぼろげな輪郭として浮かび上がってくるのだった。
 とにかく、そんなわけだったから、家に本などあるわけもなく、また買ってもらえるようなものでもなかった。
 ただ、盆と正月には少しばかりの小遣いやお年玉がもらえる。それで学年別学習雑誌を買ってくるのが、精いっぱいだった。その雑誌と付録で、とりあえず半年間楽しむわけである。半年経つと、次の雑誌が買える。
 雑誌には必ず三大付録とは五大付録が、ときには七大付録というのまであって、これがまた楽しく遊べる。これは、日本独特のものなのか、現在にもそれは引き継がれている。考えてみれば、こうした雑誌とその付録こそが、でんでんむしのいちばんの友であり、遊び相手だったような気もする。
 小学校時代を通じて、そんな状況は変わらず続いたが、やがて雑誌は『小学○年生』から、『少年』や『少年画報』『少年クラブ』へと変わっていく。
 雑誌の付録にもいろいろあったが、カメラはまだ高価で、とても一般的ではなかった時代、記憶に残るのはピンホール・カメラと日光写真だった。そのほかでは、『少年画報』の付録だったと思うが、“法隆寺パノラマ模型”というのも忘れ難い。まだ見たこともない法隆寺へのイメージは、これを組み立てていく作業のなかで、大きくふくらんでいった。
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 このシリーズの□01、□02で紹介した東京国際ブックフェアの来場者は、前回を2万人以上上回る8万7,449人(前回6万4,844人)で、34.8%も増加したという。7月8日から11日まで、東京・江東区の東京ビッグサイトで開かれていたこの催し、業者来場日の初日と2日目については、前回より8,000〜1万人近く増加しており、「一般的に展示会では考えられない増加率(主催者)」だった。
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 もちろん、その理由もはっきりしていて、ことしは直前までiPadの登場に刺激されて、電子書籍関連の報道が相次いでいたことがあって、業界関係者がいつもに増して数多く訪れた結果であろう。
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 でんでんむしが、雑誌の付録のピンホール・カメラや日光写真で遊んでいたのは、小学校の半ばくらいであったろうから、1950(昭和25)年としてみる。すると、iPadで遊んでいる今、それから60年しか経っていない。還暦でひとまわりするだけの間に、でんでんむしの遊び道具もずいぶん高級になったものである。
dendenmushi.gif(2010/07/17 記)

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□04:スミ塗りこそしなかったが教科書は「本」にはなっていなかった [ある編集者の記憶遺産]

 本との出会いで、よく語られるのが“教科書”である。これは、家に本があってもなくても、本が好きでも嫌いでも、誰でも公平に経験する本との遭遇である。
 教科書が本といえるのかどうか、そんな屁理屈はどうでもいいのであって、最初にそれをもらった一年生が、おかあさんに自分の名前を書いてもらうなどは、なかなか思い出のなかで絵になるひとこまでもあろう。
 なによりも、知識や人間として必要なことを教えるものとして、教科書は本というもののもつ本質のある一部を、確実に明確に示している。
 数年の違いで入学した従弟たちの教科書や、自分のこどもたちの教科書や、いろいろな時代のいくつかの教科書を、それぞれ感慨をもって見送ってきた。
 当然のことながら、これも時代を映すわけで、でんでんむしが小学校(厳密に言うと国民学校か?)に入学したのは、戦争がやっと終わった翌年のことで、食料と物資の不足で誰もが生活に困窮していた。
 敗戦後、学校では教科書にスミを塗らされ、先生の言うことも180度変わってしまった…というようなことを、いろんな人がいろんなところで話したり書いたりしていたので、よく読まされ聞かされた話として知ってはいた。だが、でんでんむしは、その直後に小学校に入った一年生なので、スミを塗る教科書すらなかった。
 それが一年生の始めだったのか、途中だったのか、あるいは一年生では間に合わず二年生からだったのか、記憶が定かではないのだが、あるとき教室で大きな紙を配られた。
 がさがさいわせながら、それを先生の指示に従って、慎重に折り重ね畳んでいく。最後に袋になったところに竹製の物差しを差し込んで、切り開いていく。それが、でんでんむしが初めてもらった教科書だった。
 それにしても、後年、自分の仕事でも、これと同じような作業をすることになろうとは、思いもよらなかった。
 同じ昭和21年であっても、地域的な違いもあっただろう。
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 夏は、しきりに昔のことが想われる季節でもある。原爆で生家を失ったということは、そこで、自分の一生が大転換せざるをえなかったわけだが、こどもはそんなことは思いもしない。
 祖母は家の外にいて数日後に亡くなり、家の下敷きになりながら奇跡的に生き残った祖父や叔母たちと広島の隣町の府中町というところで暮していたでんでんむしが通ったのは、広島市の東のはずれ、青崎という地域にある小学校だった。
 そういえばここも「崎」のつく地名なのだが、青いこんもりとした山が、一塊、広島湾の東の端に突き出している、そんな場所だった。小学校は、青い山の内側にあった。
 最近のニュースでは、マツダの工場内での事件であの暴走車が走り回った、その暴走ルートのすぐそばに、青崎小学校はあった。
 ほかの人のことはあまり関心もないのでよく知らないのだが、この学校の卒業生で一番の有名人はといえば、広島カープが育てた野球選手のひとりであろう。なぜか今は縦じまのユニフォームを着ているが、彼を教え育んだのもこの小学校であったという。
 広島を離れていたからということもあるし、広島カープを応援していても選手個人には特別思い入れもないので、そのこともまったく知らなかったのだが、その選手の父親とは、青崎小学校と青崎中学校では、でんでんむしと同窓だったのだ。
 そういえば、テレビで野球を見ながら、“金本”という名前も同じだし、似てるなあとは思っていたのだが…。
 その教科書にどんなことが書いてあったのか、それもさっぱり覚えていない。
 けれども、原爆が落ちる前から、教科書がどんなものかは知っていて、それは記憶にある。そこには、「サイタ サイタ サクラガ サイタ」も、「ハナ ハト マメ」も残像があるから、それらは叔母達の教科書だったのだろう。
 学齢前のその当時から、金釘流のカナ文字が書けたのは、今考えるとおそらく叔母の遊びとして、そうした教科書でカナ文字を教え込まれたからなのだろうと思われる。
dendenmushi.gif(2010/07/15 記)


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□03:自分が初めて出会った本と「こどもがはじめてであう本」は… [ある編集者の記憶遺産]

 かつて、ある人から聞いた話だが、息子の婚約者の家に行ったところ、その家には本というものの存在がまったく見えなかったので、この結婚は絶対にうまくいかないといって破談にさせた、という人があった。伝聞だから、ディティールは不明である。
 その家を家捜ししても一冊の本すら発見できなかったのか、たまたま通された応接間に、これ見よがしの本棚をおく趣味がなかっただけで、別に図書室があったのかも知れないし…。
 だが、これは妙に説得力のある話だ、とそれを聞いたときに思った。「つり合わぬは不縁の元」というのとは、またちょっと違うなにかを含んでいるし、差別というのでもないが、この世の中には本などなくても不自由なく生きられるという人も実際大勢いて、それが悪いということもできない。
 つまりは、『この世の中には、本がなければ生きられない人と、本などなくても生きられる人と、二種類ある』ということになるが、それにも時代という背景を抜きにしては考えられない。
 原爆で焼けたでんでんむしの生家は、広島の中心で左官の棟梁の家であった。内弟子も数人抱えた、大きな家だったような記憶はあるが、もちろん図書室もなかったし、事務所のようなところはあったので、本棚くらいはあったかも知れないが本が並んでいたような記憶もない。
 幼児期の記憶を懸命に辿って、本の姿を追い求めても、それは浮かび上がってこないのである。
 ただ、厚い板紙のおそらくは講談社絵本のようなものを見た記憶はあるのだ。その見開きのページのいくつかは、今でも鮮明に覚えている。
 戦時色や皇国史観に彩られたそれらのページは、時代が時代だから、荒波を行く軍艦のそばに逆紡錘形の水柱が立っているところとか、背嚢に銃剣をもった兵士が青竜刀を振り回す弁髪の兵を倒すところとか、立てた弓の先に光る鳥がいて辺りに鋭い光線を発しているところ…といったものであった。
 自分が初めてかかわった本としては、前項で手塚治虫の『新宝島』をあげたのだが、これは自分の意思が加わってのことであって、実際に初めて出あった本といえば、そんなものだったし、その頃はそれがまず普通のことだったのだろう。
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 「こどもがはじめてであう絵本」という謳い文句は、そんな自分自身の記憶と結びついたからか、実に訴求力に富んでいると感心した記憶がある。
 それまで、ディック・ブルーナのことはまったく知らなかったが、その絵と色彩の単純さと驚くほど明確な線が、なんとも新鮮で、これが石井桃子の訳で福音館書店から初めて日本に紹介されたときに、すぐ全巻箱入りセットを買ってしまったのは、そうした自身の追想のなかの本と、おおいに関係があったと、今にして思う。
 実はその色は原著とは少し違いがあったというので、今年原版の色彩で新装版を出した福音館書店のホームぺージでは、「2010年は、うさこちゃんが生まれてから55年の年です」とある。
 そうか、あれからもうそんなに経つのか…。いや、そんなわきゃないな。それは日本にはじめて紹介された年からではなく…。

dendenmushi.gif(2010/07/13 記)

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□02:電子書籍への想い・はるかな道「東京国際ブックフェア」つながりで… [ある編集者の記憶遺産]

 最初に本というものと触れ合った原点は、人によりさまざまなものがあり、それぞれに貴重な思い出とつながっていて、しばしそのことを頭の中で泳がせてみるだけでも、ふしぎになんとなく幸せなひとときが流れていくはずである。
 でんでんむしの場合は、なんといってもマンガであり、それも今年のNHK朝ドラで意外なブームを呼んでいるといわれているゲゲゲの“貸本屋マンガ”そのものであった。
 手塚治虫の『新宝島』を、つてのつてを遠くまで辿って物々交換条件でやっと借りてきて、わくわくしてコマを追い、ページをめくった時期と、それはほぼ符合する。手塚治虫自身も、貸本マンガをたくさん描いていたはずなのだが、東京国際ブックフェアでもでんでんむしが縁のある出版社のブースの隣には、虫プロダクションのブースがあり、ベレー帽の手塚さんが見守っていた。そこで自分の記憶に間違いがないかどうか、聞いて確かめておこうと思っていたのに、この日もすっかり忘れて帰ってきてしまった。 だが、とにかく今はiPadでダウンロードしたアプリで、手塚治虫マガジンを読むことができる。
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 ブックフェアの二日目は、出展社の開くセミナーのなかから、二つに参加した。ひとつはオンデマンド印刷に関するもので、ひとつはePubに関するものであった。
 これも、でんでんむしの本に関わる遠い原点から始まって、現在にまでつながっているテーマなのである。
 歴史的にみると、人類の三大発明として「火薬」、「羅針盤」とともに名を連ねている「活版印刷」は、グーテンベルクが、ワイン絞り機の原理から発想したといわれており、ゆったりとライン川が流れるマインツの町にグーテンベルクミュージアムを訪ねたときの感激は、いまだに色あせない。そのときに記念に買ってきた、お土産用にそこで印刷した42行聖書の1ページでさえ、あれから35年も経った現在でも、色あせることなく鮮やかなのである。
 グーテンベルク以前の「本」はというと、ウンベルト・エーコの『薔薇の名前』を連想してしまうが、教会の奥深くに隠された羊皮紙を束ねたものであったのだから、活版印刷によって本は初めてそのクビキを解かれた、ともいわれる。
 印刷というのも、大量に安くというメリットの裏返しに固定費の高止まりというデメリットを抱えたシステムなので、個人で少部数で安価にというニーズには、フィットしているとは言えない。それを埋める軽印刷も、いろいろな方法が登場してきた。そのなかでも、ガリ版印刷くらい長く広く普及したものはない。宮沢賢治は本郷で筆耕のアルバイトをしていたというが、これもただ字が書ければいいというものでもなく、ガリを切るという特殊技能者も、各職場や学校などに多数存在した。(ヤスリの上に置いた原紙の蝋を鉄筆で削り取って、インキをつけたローラーで紙に転写するという基本原理は、“プリントごっこ”とおなじだ。)
 でんでんむしの叔母が、このガリ切りの技能者で、家でアルバイトをしていたので、こどもの頃からそれで遊んでいた。自分でガリ版の新聞をつくって、近所に配ったりしていたのは、中学生の頃だった。
 それが、近年のオンデマンド印刷につながっているのは、マスメディアの役割と必要性を認めたうえで、その対極にある少部数印刷の自由な道を、なんとか確保しておくべきだという自身の信念による。
 ガリ版については、エジソンの発明と家に今も大事にとってある堀井謄写堂の謄写版の違いと関連など、いくらでもネタがあるのだが、それらは雑誌『本とコンピュータ』でおなじみだった、津野海太郎氏の『小さなメディアの必要』にも詳しい。
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 この本にも、ブックフェアでのボイジャー萩野氏のセミナーで、再会した。T-Timeで .Bookに書き出しているのだ。再会といえば、iPad以降、いくつか懐かしい名前に再会する機会が増えているのだが、『iPodをつくった男』大谷和利氏の名前もそうだ。
 二日目のもうひとつのセミナーは、「ePUBと世界をつなぐT-Time」という題名に魅かれて並んだ人が大勢いた。会場に入れないで帰った人も相当いたようだが、おそらく入れた人にしても期待したような内容ではなかったと思う。
 例によって三省(経産・総務・文科)はじめさまざまな思惑がからんで、実用的な規格統一もできていないePubについては誰も多くを語ることができないのかも知れないが…。
 ボイジャーでは、『理想書店』というアプリを無料でApp Store に上げ、多数の電子書籍販売に乗り出したようだが、これにも長い間培ってきた T-Timeが、やっと陽の目をみたというところだろう。だが、アプリの評判は必ずしもよくない。確かに面倒であるし、iPadになっていないじゃん、結局Safariなの、といった感想はある。ここでも講談社の京極夏彦『死ねばいいのに』が iTunes Store よりも高い値段で売られている…と思ったが、あれはタイムセール価格だったのだろうと気がついた。
 予想通り、電子書籍の販売拠点はかなり大幅に拡大しそうである。ただし、でんでんむしは、紙の本をPDFにしただけのようなものは、この一時期だから認められる商品に過ぎないと思う。
 若い人が多いそのセミナーなかでは、でんでんむしは最高齢の部類に属する。この歳でePubをどうこうしようというのは、かなりの無謀といえる。でも、まあ言ってみれば、単なるヤジウマの域は出ないのでご心配には及ばない。
 HTMLについてはインターネット以前からハイパーテキストに興味があったし、Hyper Cardが出た翌年(1988)には、「My Book」という絵本をメタファにイメージしたスタックをつくった。それをおもしろがって当時出た専門雑誌に紹介記事を書いてくれたのが、大谷氏だった。
 その後、エキスパンドブックをはじめ、さまざまなハイパーメディアの長い試行錯誤を重ねてきて、今日の電子書籍にやっとつながってきつつある。それを最初に明確に意識できたのが、富田倫生氏が苦心された『青空文庫』を、iPhoneで読んだときだったと言える。
 著作権の切れた、かといって買ってまで読む気はないようなたくさんの作品(富田氏はそれらを“商業出版の枠組みにものらず、アーカイブという着地点も得られない「漂流作品」”という。)を、ダウンロードして読めるのはとても楽しいことで、でんでんむしはそれだけでもiPadの使い道はあると、きわめて安易な満足ができるのである。
 佐野眞一氏もでんでんむしとほぼ同感だったらしいことは、一日目の基調講演のなかで、「iPadを最初に持ったときにはちょっと重いと思ったが青空文庫を大量に入れて持って歩くと軽いと思うようになった」と述べていたことからも理解できる。
 とりとめのない話に終始したが、先に書いた 553 文庫鼻=高知市春野町甲殿(高知県)iPadの届く日に文庫への想いやらなんやら と合わせて今回の東京国際ブックフェアの感想を見ていただけると、ありがたいのだが、どうせ人様の役に立つようなことではないからムリにはお勧めしない。(さすが So-netだから、SONYのことを書くときにはこれでも気をつかっているつもりだが、それまで訪問してくれていた人がiPadについて書いたとたんにぱったりこなくなると、なにが気に障ったのだろうと悩んだりもする。)
 iPadについては、5月末に「めもり猿人」さんから「So-netはJAVAのせいでしょうか、iPadのSafariから写真のアップロードができないみたいですね。結構、これ致命的かと思ってたりします。」というコメントをいただいていた。これについては、でんでんむしも試してみたが、So-net以外でもできない。つまり、iPadにはブログに写真などをアップロードするなど、普通のネットブックと同じことを同じようにやらせようと思っても、今のところはできないのである。iPadが他の書籍リーダーと異なるのは、コンピュータであってコンピュータではないというのは、こういうことだろうが、時間が解決する問題もあろう。
 ともあれ、高校生の頃から、「日本語をタイプライターを打つように書くことができないだろうか」という夢をみていたでんでんむしが、時代の流れのなかでMacintoshにめぐりあい、日本語化とともにDTPの実践を進めてきた。
 そしてまた、でんでんむしが原爆で家を焼かれたときに、その敵国アメリカではバネバー・ブッシュという人が「メメックス」という構想をまとめて論文を発表していたという事実を知ったときの衝撃! それが、度重なる製品の発売に先駆けてコンピュータというものにユーザとして、その黎明の当初から関わってきたことにつながる。そうした、一連の個人的another storyも、今の時点に集束してほぼ語ることができそうな気もして、とにかくこの機会に備忘メモを残しておこうと考えた。
dendenmushi.gif(2010/07/11 記)

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□01:“電子書籍元年”の「東京国際ブックフェア」(本が二割引で買えるよ)とiPad [ある編集者の記憶遺産]

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 もう現役を退いてから長いので、こういうイベントにも久しくご無沙汰していたのだが、今年はある出版社の社長がつくってくれた縁ができたおかげで、「出展社のVIP」待遇で、初日の基調講演と午後の専門セミナーに参加することができた。
 基調講演は、『本コロ』(『誰が本を殺したのか』)でこの業界にしっかり食い込んでご意見番の地歩を固めている佐野眞一氏による、「グーテンベルクの時代は終わったのか」というものであった。その演題に“どんなことを話すのだろう”という興味があって申し込んだのだが、同様の関心を持つ人が多かったらしい。申し込みが殺到して、広いメイン会場に入りきれない人のために特設会場まで設けられるという大盛況だった。
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 午後の専門セミナーは、たくさん分散して開かれているなかから、グーグル株式会社の村上会長と、Googleブックス担当者による「Googleブックスの進化と出版」と、株式会社ボイジャーの萩野社長による「何のためのデジタル 出版とは誰のものなのか?」という二つの抱合わせプログラムを選んだ。こちらも、ちょうどタイミングを合わせて発表した「グーグルエディション」の取材を兼ねた報道関係者を含めて、大勢の人で会場は埋められていた。
 だいたいにおいて、講演やセミナーで得られるものというのは、よくよく考えてみると、さほどのことはないのが普通である。それはこれまで何十となくそういうものを経験し、また自分自身も台のうえから演じる立場に立ってみたことから、はっきりしている。ただ、ひとつその利点があるとすれば、“臨場感”のようなものであろうか。
 ほんとうになにかを知りたければ、本を読むほうがはるかに目的にかなう場合が多いはずだろう。
 しかし、今やその「本」をめぐる環境に大きな転機が訪れようとしており、そのためにこそ今年の「東京国際ブックフェア」も盛り上がっている?のかもしれない。
 もともと、ブックフェアが半分、残り半分は電子機器メーカーやソフトウエアなどの「デジタルパブパブリッシングフェア」で、それがなければ出版社だけではこんな大規模なイベントにはなり得ない。今年からはおまけに「教育ITソリューションEXPO」もくっついたので、相対的にブックフェアの色が薄まってしまうのもしかたがない。
 それに、“電子書籍元年”と騒ぎ立て(何度目かね?)られている今年は、デジタル機器メーカー側もそれに合わせた出展内容があって、もちろんiPadもキンドルも会場のあちこちでたくさん並べらている。
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 それに関しては、萩野氏(この人には、パイオニアでレーザーディスクをやっておられた頃からの一方的な思い入れがあった)の話を聞いていて感じたことがあって、ほんとうはそれについて書かなければならない。
 しかし、今日もまた朝一から会場へ出かけたいので、時間がなくなってきた。それについては、項を改めることにしたい。なんでiPadなのか、看板に偽りありになってしまうのは、そういうわけ。
 「東京国際ブックフェア」は昨日から始まって、2010年7月11日(日)まで、他の二つは土曜日まで、東京は有明の東京ビッグサイトで開かれている。
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 とくにブックフェアのほうは土日が一般公開日で、出展している本は新刊でもなんと「二割引」で買うことができる。ただし、出展している出版社は限られているので、欲しい本があるかどうかは、保証できない。
 これは、定価販売を金科玉条にしてきた出版社としては、書店の手前もあってあまり大きな声で宣伝するわけにもいかず、ほとんど知られていないので、情報提供しておこう。
 昨夜の7時のNHKニュース7の番組ガイドには「▽あなたはどちら?紙の本VS電子書籍」という記述が堂々と掲載されていた。おそらくは、ブックフェアにひっかけてのニュースなのだろうが、NHKがこんなことを言ってもらっては困る。あんまりひどいので見る気もしないでんでんむしは、裏番組のBSフジの『善徳女王』のほうを選んでしまう。
 マスコミがどうしょうもないのは、今に始まったことではないが、こういう煽り方や問題意識でごちゃごちゃいうのは、いいかげんやめてほしいものである。

dendenmushi.gif(2010/07/09 記)

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