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□06:戦後のベストセラー第一号と“本といえば貸本屋”という時代のこと [ある編集者の記憶遺産]

 その頃は、本を買うという発想もお金も、まだなかった。本をたくさん並べた本屋というものがまず身近にないだけでなく、こどもが小遣いで買うような本もまた存在していなかったのだ。
 もちろんそれは、戦後の広島の青崎の周辺のことだといえばいえるかも知れない。よく、有名人がこども時代を回顧して、家には全集がずらりとあって…というような話をしたり書いたりしているが、そういう恵まれた環境もどこかにはあったのだろう。だが、おしなべて当時の日本の現実は、ほぼ青崎周辺と変わらなかっただろう。
 出版の歴史のなかでは、戦後を象徴するできごととして、『日米会話手帳』のエピソードが、語り継がれてきた。
 終戦後すぐにこの本(といっても、うすっぺらいものだったが)をつくって伝説的ベストセラーにしたのが、誠文堂新光社の小川菊松という人である。それらはすべて、後にご本人が書かれた本を読んで知ったことではあるが、今では知る人もない貴重な証言と思われるので、その部分を紹介しておこう。

 しかし、昭和二十年八月、いよいよ重大発表があるということになると、誠に残念でもあり、くやしくてたまらなかった。十五日、私は丁度所要があって房州に出張していて、ラジオから流れ出るあの天皇陛下のお言葉を聞いていたのは岩井駅であった。これを聞く多数の人々とともに溢れる涙を禁ずることはできなかったが、帰京の汽車の中で考えついたのは「日英会話」に関する出版の企画だった。関東大震災の直後ヒットした、「大震大火の東京」当時のことを思い出し、いろいろと方策を練りながら帰って来た。社に帰り着いて見ると倅誠一郎を始めとして、加藤芝、高安達治両君の三人が浮かぬ顔をして戦勝のみぎり飲もうと取ってあった酒を飲んでいる。皆が虚脱状態にいるのだ。その間に割り込んだ私は、しばらくして「どうだ。日米会話の手引きが必要じゃないか」といったものだ。三人は全く驚いていたようだった。事実、皆の頭には、ただ終戦になったことだけが駆けめぐっていて、これからそうしようかまでも考えられていなかったあのだろう。それが当然なことで、私の頭の動きはどうかしているのかも知れない。事実、私のように永い間、出版一途に生活し、しかも出版を時期にマッチさせることをもって最大の快事と考えているもののみの頭の働きであったかも知れない。
 以上の話はその後、新しく入って来る社員に伝わり、それがまた社外の人人にも伝って行ったらしく、今では一つの伝説のようになっているが、それは次のようにおもしろく変形している。丁度、陛下のラジオ放送があったとき、私は倅誠一郎とその他の社員三人と共に、当時ラジオを備えてあった電話交換室で放送を聞いていた。そして皆と一緒に涙を出して聞いていた私が、陛下のお言葉が終り、皆がやっと顔を上げた瞬間に「どうだ。早速日米会話の本を出そう」といったというのである。なるほど話としてはこの方が面白いし、また人の噂などというものは、こういう風に伝って行くものなのであろうと思った。

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 (小川菊松著『出版興亡五十年』470ページ 誠文堂新光社 昭和28年刊)
 確かにこの写真にあるうすっぺらい本のことは、そのとき周辺の誰かがもってきたことがあったらしくて、その現物を見たという記憶は、ぼんやりとながらあるのだ。
 32ページのちゃちな本を出すのはどうかという社内の慎重論を押しのけて、初版30万部も刷るというのが、当時の印刷や紙の状況を考えればとても大変なことだと思われるが、結局360万部を売る記録的な売れ行きとなった。ただ、それは例外的な社会現象だったからで、広島のはずれまで、その現物がやっと届いたくらいで、普通の生活のなかで本が話題になるようなこともなかった。
 そんな時代の「本」といえば、まず貸本屋だった。NHKの朝ドラ『ゲゲゲの女房』で、その存在を初めて知ったという人もあるだろうが、青崎地区では貸本屋が小学校の校門前にあった。
 そこには、おとなの本もあったのだろうが、マンガ以外は眼には入らなかった。水木しげるのように、貸本屋向けにマンガを描く作家も、たくさんいたのである。
 借賃がいくらだったのか覚えていないが、とにかく工面できる限りの小遣いでマンガを借りてきたのは、小学校も高学年になってからだろう。その頻度は、使えるお金に制約されるので、手当たり次第というわけにはいかない。自然、数あるマンガのなかから選ばなければならないが、でんでんむしの好みは、宇宙とかロケットとか、そういったテーマのものだった。そんななかに、手塚治虫の作品もあったと記憶している。
 そのマンガの中身はほとんど忘れているが、断片的ながら核シェルターのようなものまであったのと、その貸本屋の娘が同級生にいて、児童会でチクられたことだけは、よく覚えている。
 当時の児童会では、「流行歌は歌わないようにしましょう」などという決まりをつくったりしていたので、そうした流れの延長だったのだろう。『ゲゲゲ…』にも、貸本が悪だと糾弾する人々が現われるが、それは戦争に負けても戦時中の“とんとんとんからりんの隣組的感覚”は、民主主義のなかに変質しながらも広く浸透していて、容易に消えることではなかったということではないだろうか。
 アメリカ兵(たまに豪州兵)がジープでそこらを走り回ったり、国道二号線を進駐軍の車両が行き交う時代も長く続いたが、「そうだ! これからは英語だ。英語を勉強しなければ…」と思ったりするような大人も、そういったことを示唆してくれるようなことも、でんでんむしの周辺には唯の一人もおらず、なにごとも起こらなかった。
 今思えば、原爆という歴史上まれな災厄のあとでも、こどもの目には、いたって平和な時間が流れていたようにしか見えなかったのが、なにかふしぎなくらいである。
dendenmushi.gif(2010/06/19 記)

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