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□08:独特の雰囲気があった『譚海』もたまにみるくらいだったが… [ある編集者の記憶遺産]

 戦後の雑誌ブームというのは、今ではよほどの研究家でなければ、その全貌を知ることができないくらい複雑である。こども向けの雑誌でも、それは同じことで、とにかくいろんな雑誌が出たり消えたりしていたが、そのなかでちょっと異色なのが『譚海』という雑誌であった。
 これは博文館が大正時代に創刊したもので、頭に小さく「少年少女」という文字もくっついていたらしいが、それはあまり記憶になく、もっぱら『譚海』とだけ呼んでいた。戦前は、岡本綺堂、長谷川伸、山本周五郎、海野十三、横溝正史、大佛次郎といった作家が寄稿していたという。しかも、山手樹一郎が編集長をしていて、自分も覆面作家として作品を発表していた、という話もある。戦後のそれも、多少変質した部分もあったのだろうが、山岡荘八、小松崎茂、山中峯太郎、サトウ・八チロー、高木彬光、島田一男、山田風太郎といった人たちが、執筆陣に名を連ねていたのだから、大変なものであった。
 ただ、この雑誌もたまに“物々交換貸借”でやっと手に入るくらいだったから、読者というほどでもなく、こどもだからあまり作家にも興味がない。問題は、おもしろいかおもしろくないかだけである。『譚海』はおもしろかった。けれども、とびとびにたまに見るだけだから、続き物では話がわからない。作品と作家で、記憶しているものは、『譚海』に限ればあまりない。
 さらに、でんでんむしが知っていた『譚海』は、いつの時代のどこが出したものだったかさえ、よくわからないのである。なぜなら、博文館自体が経営危機に陥り、1948(昭和23)年には組織が変わっているからである。その流れを汲む新社が、現在まで日記に特化して続いてはいるが…。
tankai.jpg
 いろいろ調べてみても肝心の出版社がそういう事情だから、なかなかわからなかったのだが、「少年・少女名作漫画劇場」というページを見つけた。どうやら、“昭和の旅人”さんという個人のコレクターがつくっているらしいが、ここには昔の雑誌や漫画などがたくさん並んでいた。ここの「少年誌」のところを見ると、戦後の昭和24年〜29年の『譚海』は、「発行所 文京出版」となっていた。
 なにか、独特のおどろおどろしい雰囲気をもった雑誌編集の味が、なんともいえなかったという記憶がある。
 もっとも、それは『譚海』に限らず、少年雑誌一般にも共通するところがあり、怪談実話、西洋怪談などが幅をきかせていた。怪談でも冒険でもない奇妙な味のある読み物を“ミステリー”として広めた、後にはSFの普及にも努力した江戸川乱歩が、こども向け探偵ものを育て養う土壌がふつふつとしていた。
 少年雑誌のネタで多いのは、ほかに今でいう雑学的な断片的な知識が、めちゃくちゃに詰め込まれていた。世界の七不思議とか、驚異の恐竜の話とか、雪男をみた男の話とか、世界でいちばん大きな花とか、人を食う貝の話とかが、おもしろおかしく書かれていた。
 そんな記事のなかで、どの雑誌だったか不明だが、ひとつ鮮明に覚えているのは、ENIACのことを書いた記事だった。そこには、それから数十年経って電子計算機というものが、人の口の端に上り始めたときに示された、なにやら箱のような機械のようなものが並んだ部屋に人が立っている、あの写真が使われていたのだった。
 町には紙芝居の打つ拍子木が鳴り、『黄金バット』が人気を集めていた。夏の夜には、小学校の校庭に高い竹が二本立てられ、その間に白い布が張りめぐらされ、美空ひばりの『悲しき口笛』が上映された。
dendenmushi.gif(2010/07/23 記)

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