□04:スミ塗りこそしなかったが教科書は「本」にはなっていなかった [ある編集者の記憶遺産]
本との出会いで、よく語られるのが“教科書”である。これは、家に本があってもなくても、本が好きでも嫌いでも、誰でも公平に経験する本との遭遇である。
教科書が本といえるのかどうか、そんな屁理屈はどうでもいいのであって、最初にそれをもらった一年生が、おかあさんに自分の名前を書いてもらうなどは、なかなか思い出のなかで絵になるひとこまでもあろう。
なによりも、知識や人間として必要なことを教えるものとして、教科書は本というもののもつ本質のある一部を、確実に明確に示している。
数年の違いで入学した従弟たちの教科書や、自分のこどもたちの教科書や、いろいろな時代のいくつかの教科書を、それぞれ感慨をもって見送ってきた。
当然のことながら、これも時代を映すわけで、でんでんむしが小学校(厳密に言うと国民学校か?)に入学したのは、戦争がやっと終わった翌年のことで、食料と物資の不足で誰もが生活に困窮していた。
敗戦後、学校では教科書にスミを塗らされ、先生の言うことも180度変わってしまった…というようなことを、いろんな人がいろんなところで話したり書いたりしていたので、よく読まされ聞かされた話として知ってはいた。だが、でんでんむしは、その直後に小学校に入った一年生なので、スミを塗る教科書すらなかった。
それが一年生の始めだったのか、途中だったのか、あるいは一年生では間に合わず二年生からだったのか、記憶が定かではないのだが、あるとき教室で大きな紙を配られた。
がさがさいわせながら、それを先生の指示に従って、慎重に折り重ね畳んでいく。最後に袋になったところに竹製の物差しを差し込んで、切り開いていく。それが、でんでんむしが初めてもらった教科書だった。
それにしても、後年、自分の仕事でも、これと同じような作業をすることになろうとは、思いもよらなかった。
同じ昭和21年であっても、地域的な違いもあっただろう。
夏は、しきりに昔のことが想われる季節でもある。原爆で生家を失ったということは、そこで、自分の一生が大転換せざるをえなかったわけだが、こどもはそんなことは思いもしない。
祖母は家の外にいて数日後に亡くなり、家の下敷きになりながら奇跡的に生き残った祖父や叔母たちと広島の隣町の府中町というところで暮していたでんでんむしが通ったのは、広島市の東のはずれ、青崎という地域にある小学校だった。
そういえばここも「崎」のつく地名なのだが、青いこんもりとした山が、一塊、広島湾の東の端に突き出している、そんな場所だった。小学校は、青い山の内側にあった。
最近のニュースでは、マツダの工場内での事件であの暴走車が走り回った、その暴走ルートのすぐそばに、青崎小学校はあった。
ほかの人のことはあまり関心もないのでよく知らないのだが、この学校の卒業生で一番の有名人はといえば、広島カープが育てた野球選手のひとりであろう。なぜか今は縦じまのユニフォームを着ているが、彼を教え育んだのもこの小学校であったという。
広島を離れていたからということもあるし、広島カープを応援していても選手個人には特別思い入れもないので、そのこともまったく知らなかったのだが、その選手の父親とは、青崎小学校と青崎中学校では、でんでんむしと同窓だったのだ。
そういえば、テレビで野球を見ながら、“金本”という名前も同じだし、似てるなあとは思っていたのだが…。
その教科書にどんなことが書いてあったのか、それもさっぱり覚えていない。
けれども、原爆が落ちる前から、教科書がどんなものかは知っていて、それは記憶にある。そこには、「サイタ サイタ サクラガ サイタ」も、「ハナ ハト マメ」も残像があるから、それらは叔母達の教科書だったのだろう。
学齢前のその当時から、金釘流のカナ文字が書けたのは、今考えるとおそらく叔母の遊びとして、そうした教科書でカナ文字を教え込まれたからなのだろうと思われる。
(2010/07/15 記)
にほんブログ村
コメント 0