□19:昭和20年・広島の夏の日=その7 キノコ雲も街を焼き尽くした火も消えてからもピカドンの死者は続き… [ある編集者の記憶遺産]
14■キュウリと焼き場
どのくらいの時間が経ったのか。井戸に一時身を避けた祖父は、周囲の火が少し下火になるのを待って、祖母を探しに出かけた。そして、名のみが残る病院の跡で見つけた。誰かが祖母をそこまで運んでくれたらしいが、病院の機能はないに等しい。祖父は祖母を引き取って背負い、また戸板に乗せて、やっとのことで府中町まで引っ張ってきた…。
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それが、8月6日当日中のことなのか、翌日にまたがってのことか、よくわからない。
祖父が原爆の話をしたことはなかった。その話を、もっとちゃんと聞いておけばよかったのにと、今になって思うのは、このときのこともある。
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その当時、避難する人でごった返す市の周辺郊外では、どこでも同じような光景が繰り広げられていたのだろう。生き延びたものは、とにかく郊外へと逃げ出した。広島市に隣接し、府中町の南はずれに位置する外新開でも、市内から逃げてきた人で溢れた。
府中町と広島市青崎付近の山陽本線の沿線には、鉄道教習所、鉄道官舎、国鉄アパートなどの施設が並んでいたが、それらの空間も、かろうじて辿り着いた瀕死の火傷者でたちまち臨時の収容所になっていた。広い講堂のようなところにも廊下にも、軒先にもたくさんの人が横たわっていた。
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近辺に医者がわずかにいても、大勢の人を充分に治療手当てすることは、医薬品もない状態で、まったく望めなかった。組織的な救援の手は、まださしのべられていなかった。
多くの人は、ただそこで命が尽きるのを待つだけ、という状態が続いていた。
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祖母も、火傷のためその直後からほとんどずーっと、意識不明のような状態であったようだった。その時には、貸家が使えるようになっていたらしく、その一室に寝かされた祖母は、口をきくこともないまま、石のように横たわったままでいた。
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マスコミが発達していない時代では、今でいう口コミ、ウワサが虚実を取り混ぜて、すべての情報を運んでいた。
誰いうともなく、「ピカドンの火傷にはキュウリをすりおろして湿布をするとよい」といううわさが広まった。
そこら中の畑からキュウリがなくなり、国鉄アパートから辺り一帯どこへいっても、キュウリおろしの独特のにおいが立ちこめた。
もちろん、祖母にもキュウリの湿布をしたが、その甲斐はなかった。
被爆から7日目に、祖母は息を引き取った。
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府中町字外新開の山を、東隣の船越町のほうに入ったところに、大きな竹薮があり、その奥にみんなが“焼き場”と呼んでいた火葬場があった。
祖母もここに運んで火葬にしたが、なにしろその混乱ぶりときたら、こどもの目にも明らかで、異様だった。次から次へと運ばれてくる死者の火葬は、ほとんど工事現場さながらで、片っ端からそこらに穴を掘り、どんどん処理していく。
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ところが、薪が充分でない。死者が薪をかついでくるわけではないから、薪不足で充分に焼け切らず、黒焦げになったままのものもある。
それでもかわまず、また新たな遺体のために、場所を空けてやらなければならない。半焼けの黒い頭蓋骨を黒い灰と一緒に掻きださなければならない。祖母のように棺に入れられてくるのはまれで、ほとんどは急造の担架のようなものや、梯子などにのせられて、ごろんと穴のなかに転がされる。そのようにして次々とやってくる。
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あの日から、かなり長い間、来る日も来る日も、焼き場に続く土手の道は人の列が行き来し、その奥からあがる煙は絶えることがなかった。
キュウリも底を尽き、そのにおいが消えた後も、人を焼くにおいだけは長くあたりに充満した。
15■石の表面を溶かす光
それまでの空襲は、グラマンのような艦載機が飛んでくるか、サイパンからB-29などの爆撃機が編隊を組んで飛来し、多数の焼夷弾を高高度から目標施設に落としていく、というのが普通だった。
防火演習なども行なわれ、早いうちにある程度消火作業などをして、なんとか延焼を食い止めることが唯一の対策であり課題だった。しかし、東京大空襲などからは、目標などというのではなく、無差別にばら撒かれる絨毯爆撃が行なわれるようになっていた。ひとつの爆弾から燃える油が四方八方へ飛び散る式の焼夷弾が使われて、消火作業も追いつかないで、被害を拡大した。
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原爆は、それまでの爆弾とは多くの点で異なっていた。まず、たった一発で広い範囲に深刻な被害を及ぼす。その爆発のエネルギーの半分はものすごい爆風となって街をなぎ倒した。それと同時に、高温の熱線と放射線が人も家も焼き尽くした。
その閃光は、一瞬にして鉄も花崗岩もガラスも溶かした。
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広島に、いたるところに残されていた、原爆被害の証拠物件は、復興の過程でだんだん消えていったが、比較的後々まで現地に残されていたものに、電車通りに面した銀行の開くのを待ってか、石段に腰掛けていた人の影が、熱線によって石に焼き付けられていた跡があった。
いまは、それは原爆資料館にあるそうだが、きっとその影も薄れていることだろう。
寺町にあった菩提寺の墓は、その閃光によって、御影石の墓石はそのツヤを失い、触れば崩れるようにヒビ割れし、角が落ちて丸くなっていた。
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戦争の悲劇には限りがない。太平洋戦争では「本土決戦」を叫ぶ軍部をかわして、ぎりぎりのところで「終戦という名の敗戦」でやっと幕を引くことができた。
だが、それもあまりに遅く、昭和20年の終戦の年だけでも、東京大空襲、沖縄戦、各地方都市空襲、そして広島・長崎、さらに外地に放置された人々を含めて、実際に前線に赴いた兵士だけでなく、多くの一般市民が犠牲になった。
この悲劇をもっと早く、終わらせることはできなかったのか、そう思う人が大勢いても当然である。
16■原爆ドーム・負の世界遺産
「ピカドン」。原爆のことは、広島ではその後ずーっと一般にそう呼んだ。ピカッと光ってドンときたからである。張本勲さんのことを、前に書いたのは、彼もテレビでそう話すのを聞いて、これぞ広島の人ならではの「ピカドン」だなと思ったからだ。
毎年、広島カープの試合日程は、8月6日のホームでの開催を避けるようにして組まれるが、この日は何度も「宮島さん」が歌われた。それは2012年8月5日、マツダスタジアムでの広島対阪神戦の始球式に、現役時代に着ることはなかったCarpのユニフォームを着て、張本さんが登場した。彼も、長いこと被爆者であることを公にしないでいたが、テレビで若い人が原爆なんて知らないというのを見て、積極的に原爆を語るようになった。
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ニュース(2005年の)によると、被爆後外国から最初に調査に入ったのは、アメリカ軍ではなくスターリンの指示を受けたソ連の駐在武官二人だった、という。二人は、8月の20日頃に、広島から長崎に入っていた。早くもそれが戦争のための兵器というより、世界戦略のカードであったことを証明していた。
彼らは、大きな爆弾が落ちれば、相当大きな穴が開いているはずだと予想して広島にやってきたそうだが、案に相違して見渡す限り真っ平らで、穴などどこにもなかった。
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いわゆる爆心地は、太田川が本川と元安川に分岐するあたりとされている。川がつくる中洲をつなぐためT字型をした相生橋がかかっており、その東詰めに爆心地を記録する原爆ドームがある。
爆心地なのに、この旧産業奨励館のレンガ造りの建物のドームが崩れ落ちずに残ってきたのは、猛烈な爆風も真上から受けたために、倒壊しなかったのだといわれていた。
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たった一発の新型爆弾で、ピカッドーンと一つの街を消し去る。その目的からすれば、この爆心地、投下地点の選び方は、理にかなっていた。三角州のほぼ中央で、県庁も市役所もお城も護国神社もデパートも新聞社も繁華街もすべてほぼ半径一キロ程度にすっぽりと入り、しかもその周辺のデルタに広がる木造民家の八割方は、確実に影響下に入る。
爆心地は、そういう位置取りにあった。
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原爆ドームが世界遺産になったというニュースを聞いたときには、ちょっと意外な気がした。「ええっ? 世界遺産?」という違和感があったのだ。しかし、「負の遺産」としては初めての指定だったといわれてみれば、なるほど、そういうのもありかも知れんと思う。
ところが、世界唯一の「負の世界遺産」をもつことになった日本も日本人も、その意義を充分に理解し、世界にアピールできているか、世界唯一の被爆国というポジジョンを生かした役割を果たしてきたかというと、どうもそれは…。
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戦後しばらくして、爆心地に近い場所に、一軒の土産物屋ができた。
主に、訪れるアメリカ軍の兵士などを相手に、原爆の記念品を売る店で、そこの主人が自らの身体中にできたケロイド(被爆した人の身体に残る火傷痕)を見せる、というのが話題になっていた。
当時から、そのことにも批判があったが、その人はその人なりに自ら背負わされた負の遺産を生かしていたのだ。
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長い間「じぜんじのはな」だと思っていたが、どうやら「ぜ」ではなく「せ」であったらしい。「慈仙寺の鼻」と呼ばれた中洲の岬は、ちょうど相生橋がかかる中洲の突端あたりを指し、ここにお寺があった。もちろん、ピカドンで一瞬に消えた。
そこにも大きな土饅頭の供養塔ができ、いつの頃からか自分の中ではそれが転じて、河畔一帯に咲いていた「慈仙寺の花」に同化されていた。
それは、毎年その日の訪れを告げる「きょうちくとう」の花である。
17■焼け跡に立って
2005年に朝日新聞で、被爆四日後の広島の写真というのが公開されたことがある。被爆直後の写真というのも、そう種類も多くはないが、瓦礫の広がる被爆後の写真は、ただ見れば単に荒涼とした風景で、それを見て、そこで繰り広げられた、凄惨な状況を、具体的にイメージすることができるという人は少ない。
それは、その閃光と爆風と劫火を生き抜いた人が少ないからであり、今にそれを伝える材料も、どんどん風化しているからである。
人は誰も、他人の体験を、自分の体験として100%理解することはできないのだ。
「想像できる」という、人間のもつ優れた能力をフル回転させなければなにもわからず、させればやっとその悲惨さの百分の一程度が理解できる。
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焼け跡写真の左の端には、ちょこんととんがった山が見える。あれは、広島湾に浮かぶ似島(にのしま)にある安芸の小富士と呼ばれる山で、標高278メートルしかないが、肉眼ではもっと大きく、比治山、黄金山と並んで広島のどこからも見えていたランドマークのひとつである。
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焼け跡の中央には数棟、かろうじて全崩壊を免れたいくつかビルの残骸がある。これらは中国新聞社、福屋百貨店、そして後に原爆ドームと呼ばれる産業奨励館などの建物の残骸だったはずである。
爆心地からは直線距離にして、1600メートルも離れてはいない。焼け跡の写真でいうとわたしが生まれた家は、安芸の小富士と残った残骸の間にあたる。もし、そこが写った写真があったとしても、場所を特定することは不可能だ。なにしろ、目印になるものがほとんどないのだから…。
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火が消えると間もなく、すでにそこにはないはずの家の様子を見に行く祖父について、府中町から南竹屋町まででかけていった。
猿猴川河畔の東洋工業の建物などは、残っていたが、それを過ぎてから先は何かに洗われたように見通しがよかった。
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見渡す限り、瓦礫というより、焼けた瓦が行儀良く敷き詰められて並んでいるような感じがした。
それは、道だけが白々と開けていたからだろう。その感じは、被爆四日後の写真にみるのと、まったく同じだった。
元宇品や似島が、手を伸ばせば届きそうなすぐそこにあった。
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道幅は、両側の建物が倒れてかなり狭まっていたのだろうが、通行には支障がなかった。まだ、人が大勢駆けつけて、組織的な救援や復旧にあたるという時期でもなかったようで、人影もまばらだった。
広島全体が、まだショックで茫然自失状態だったような感じがした。もちろん、それは後から思ったことである。
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南竹屋町に近づくと、道端に赤い小型トラックが止まっているのが、小さな山のように見えた。赤いというのは、焼けただれて赤くなっていたのだろうか。タイヤもフロントガラスもなく、ただうつろな目をした残骸となってうずくまっている。
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家があったと思われるところには、あの「宮島さん」を歌っていた風呂場の厳島神社のタイルだけが、一部ぴょこんと焼け跡の中に飛びだして目立っていた。
焼けた瓦を一枚また一枚とめくっていくと、粘土細工のいたずらのように、溶けてぐにゃぐにゃに変形したガラス瓶など、生活の用具がでてきた。
そういうもののいくつかを、祖父は持って帰ったらしく、数年は府中の家の庭先にごろごろしていたが、いつの間にかなくなった。
■
これが不思議で、偶然といえばそれもできすぎていて、つくり話のように聞こえるかもしれないが、事実なのだ。
たまたまわたしが瓦をめくったところで、それらに混じって、家で遊んでいたおもちゃが、焼けてぐしゃぐしゃになってでてきたのを自分で発見した。
この家を守る役には立たなかったが、あのブリキの戦闘機と消防自動車だった。
■
当時、「ピカドンの跡には70年間は草木も生えない」といわれた。
今、いくつもの慰霊碑があちこちに点在する平和公園はじめ、広島の街や川縁には、緑が茂っている。100メートル道路に植えた、ひょろひょろの苗木も大木に成長した。焼け跡の写真からは、想像もできないほど、街は復興した。
だが、南竹屋町に再びわが家がよみがえることはなかった。
(完)
(2005-08- 記・2012/08/07 So-net 改筆採録)
□18:昭和20年・広島の夏の日=その6 8月6日あの巨大な極彩色の雲の下にこそ… [ある編集者の記憶遺産]
11■もう67年前になる今日のこと
夜中に、身体中が痒くて痛い。泣きたい気持ちもあったが、我慢した。
明け方近かった。顔中、身体中が腫れ上がるようにカブレていた。昨日のめずらしいぶどうのような実は、広島でいうカブレ、ウルシの実だったのだ。
■
リヤカーを出す時間がきたが、これではとても南竹屋町まで連れてはいけない。そう判断した叔母は「今日は広島はやめて、日なたに出ずに日蔭でおとなしゅう遊んどりんさいよ」と宣言した。
■
67年前も、朝から快晴で、早くも強い陽射しが照りつけていた。日の当たるところに出ると、顔がちりちりと痛い。やっぱり叔母の言うとおりだ。
痒みをこらえて家の蔭にいると、爆音が聞こえてきた。
飛行機だ!
■
表に出て見上げると、絵に描いたような青い夏空に、銀色に光るきれいな飛行機が朝日を背にして東から飛んできた。大きい飛行機だった。きらきらと輝くその飛行機は、爆音とともに悠然と近づいてきて、そして頭の真上を過ぎていく…。
■
家の西側にある丘の向こうに消えようとする機影を、もっとみたい。なぜか銀色の飛行機に引き寄せられるようにそう思った。
そして、日なたに向かって数歩走り出した、その瞬間。
辺りが真っ白い世界に変わった。すべての色が消えた。
と思うまもなく、強烈な音が響き渡り、衝撃を受けた身体は、宙に舞い上がり、次の瞬間には地面に転がっていた。
何が起こったのやらもわからぬ目の前に、爆風で家の玄関のガラス戸が倒れて砕けた。ほんの数センチの差で、ガラスを頭から被らずに済んだ。
■
西の丘の向こうに、雲がにょきにょきと盛り上がる。
よくみると、かなりの勢いで沸き出してくる雲は、赤や青や黄色や茶色や、いろいろな色が混ざっていた。
極彩色のようにもみえた雲の巨大な柱は、たちまちに天を突き、見上げるにも首が痛くなるほどに迫っていた。そして、その先端は丸く傘のように開いていて、見上げる顔と頭の上を覆った。
■
だが、そのときその雲の柱の下でなにが起きていたのか、それを想像する力はなく、雲とともに沸き上がる得体の知れぬ恐怖に、泣きわめくことしかできなかった。その後のことは、ほとんど覚えていない。
ただ、自分はどこからきたのかを問うとき、充分な説明はできないながらも、案外この雲の下からきたのかもしれない、と考えることがあるのだ。
12■理不尽な仕業の理不尽な結末
この日の記憶も、はなはだ曖昧で、断片的だが、以下は記憶ではなく、後に記録を読んで知ったことだ。
ボーイング社製の長距離戦略爆撃機B−29の名は、前にもちょっとだけふれたことがある東京大空襲で日本人にも知られるようになり、空襲を受けた各地では、まぎれもない“鬼畜米英”の象徴そのものとして映ったことであったろう。
■
ナチスのゲルニカ爆撃で2000人が犠牲になったときには、アメリカ大統領を始め国際世論が非難した。しかし、その数年後にアメリカ自身が行なった、東京やそれに続く各地方都市の無差別爆撃で、そして広島・長崎の原爆で、何十万の一般市民を殺戮したことについて、国際的・外交的にその責任が問われたことは一度もない。ゲルニカにはピカソがあり、広島にはピカソがいなかったからばかりではないだろう。
東京裁判がどうの戦争責任がこうのという話も、もう何度も蒸し返されているが、戦争というもともと理不尽な仕業の結末は、やはり理不尽なままに終わるものだ。戦争というものが、そういうものなのだ。
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B−29に対して、防空防衛能力はほとんどなかったと思われる。なすがまま、されるがままというのが、当時の広島の状況だったらしい。広島駅裏の山にも比治山にも、その他あちこちにあったはずの高射砲陣地は、高高度でやってくる爆撃機にはなんの役にも立っていないし、迎撃する戦闘機の姿もなかった。
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広島に来たアメリカ軍機は、原爆を抱いてやってきたB−29エノラ・ゲイだけではない。その前には気象観測の偵察機が来て下調べをしている。“朝早く警報がでて、それが解除になった後に、ピカドンが落ちた”という証言が多数あった。そして、科学観測のための装置を装備した二番機も一緒に飛んでいた。その後は別の飛行機が飛来して、ご丁寧にも投下後の写真撮影までしている。
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とことん用意周到に準備された原爆投下は、とことん計画されたとおりに行なわれた。高度約9,600メートルで東から侵入し、投下目標地点である相生橋の手前約5,600メートルのところで爆弾を切り離し、途中で落下傘が開くとそのまま西に流れ落ちる。機は真っすぐ進むと、爆発地点に入ってしまうため大きく旋回したと記録はいう。
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これも計算どおりなのだろうが、目標地点の上空約580メートルに達したところで、世界で初の原子爆弾は炸裂した。その下には、街と人と暮らしがあった。
音は光より遅いので、人々の五官には、ピカッとしてドンと感じられた。多くの人にとっては、それを五官が感じる間もなかったであろう。だが、その方が五官で苦しみを感じながら死んでいった人より、まだましだった、と言えるのだろうか。
■
その爆発の瞬間に、ピカドンは直径280メートルの大きな火の球を生み出した。その火球の“中心温度は100万℃、表面温度5000℃”だったと推定されている。
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爆発の数秒間、強烈な熱線を放出して輝いた。このとき地上に照射された熱線は、爆心の直下では約3000℃だったという。これで、屋根瓦の表面が泡立った。
高温は、周囲の大気を超高圧で膨張させ、衝撃波を生じた。それは瞬時にあらゆる建造物を破壊し、強烈な爆風が吹いた。その風速は、爆心から500メートル地点では、秒速約280メートルであったといわれている。
火傷を負った被災者でまだ命あるものは、みな水を欲しがったという。
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水ヲ下サイ
アア 水ヲ下サイ
ノマシテ下サイ
死ンダハウガ マシデ
死ンダハウガ
アア
タスケテ タスケテ
水ヲ
水ヲ
ドウカ
ドナタカ
オーオーオーオー
オーオーオーオー
天ガ裂ケ
街ガ無クナリ
川ガ
ナガレテヰル
オーオーオーオー
オーオーオーオー
夜ガクル
夜ガクル
ヒカラビタ眼ニ
タダレタ唇ニ
ヒリヒリ灼ケテ
フラフラノ
コノ メチヤクチヤノ
顔ノ
ニンゲンノウメキ
ニンゲンノ
(原 民喜『原民喜詩集』から『水ヲ下サイ』)
■
その日からその年の暮れまで、つまり昭和20年の間だけで、当時の広島市の人口のおよそ三分の一にも相当する、約14万人の人が亡くなったといわれている。
13■運がいいとか悪いとか…
それでも、爆心地から少し離れたところで、わずかながらあちこちに生き延びた人は、ほんのちょっとした偶然によって、しばらく命をとりとめることになる。
偶然が生死を分けるということは、平常時でも例がないわけではないが、このとき広島の街では、いたるところにそれがあった。
■
戸外にいた人は熱線を浴びて、一瞬のうちに炭のようになったり、皮膚や肉が焼けただれ、建物の中にいた人は押しつぶされた。
倒れた家の下敷きになって、身動きならないまま焼死した人も多かった。
放射能被害がどうのこうのというのは、それからまた後のことで、この災厄を、偶然なんとか生き延びた人の何割かは、その後原爆症で長い苦しみを味わいながら死んでいくことになる。
■
夏の朝は早い。いつものように、比治山の被服支廠にでかけていた下の叔母は、場所が爆心地から少し離れていたこと、建物がレンガ造りの頑丈なものであったこと、などによって助かった。
比治山が直接の爆風を遮って、ここから東側では比較的被害が少なかったようだ。それでも、ガラスの破片を浴びて、血だらけになって、混乱の中を歩いてやっと府中に逃げてきた。
「黒い雨」は、広島中心から北西部にかけてのことで、どうやらこちら東側では降らなかったようだった。その話は、聞かなかった。
■
南竹屋町の家の中にいた祖父は、倒れた家の下敷きになった。祖父は持ち前の豪胆さもあったろうが、やはり運がよく、どうにか火が回って来る前に自力で這い出すことができた。
そして、辺りがすぐ猛火に包まれると、家の前にあった井戸の中に梯子を降ろし、それに掴まって身を沈め、猛火と焦熱をなんとか避けた。
井戸の周りには物置きや蔵などもあったが、そこが密集地ではなく、多少の空地があったことが幸いしたのだろう。
■
祖母は、運が悪かった。
たまたま、この日の朝は、近所の知り合いの家に用があるといって、ちょうど出かけたところだった。途中の路上で熱線を浴び、半身に大火傷を負って倒れた。
(2005-08- 記・2012/08/06 So-net 改筆採録)
□17:昭和20年・広島の夏の日=その5 広島原爆の日が何日か知っている人は4割もいないという [ある編集者の記憶遺産]
9■畑小屋のあったところは
広い入江は潮が満ちて光る。潮が引くとカニが体操をする。その北の端からは、小さな川が国道2号線を越え、山陽本線を越え、さらに奥に北に、曲がりくねりつつ細く延びる。それに沿った道を行くと、東西を低い山の連なりに挟まれた畑や田圃がどこまでも続く。
その谷あいの入り口近く、安芸郡府中町字外新開、いかにもという地名をもつそこには、府中町の南の外れもいいとこで、小さな川の向こう側は船越町という隣町で、山と田畑の間に十数軒の家が散らばる。
川が岩で段差をつくるところは、自然の洗い桶のような凹みができ、洗濯物から大根まで、人々のあらゆるものの洗い場になっている。さらに川は赤土の採れる山や段々畑の山を過ぎ、どんどん細くなっていくが、やがて田畑の広がりがなくなると山の薮の中に消えてしまう。
■
それを取り囲んでいる山の高さは数十メートルほどしかないが、自然の雑木林というか、タブなどの常緑樹や名も知らぬ潅木が生茂る、広葉樹林帯の特徴をもつ。
冬はヤブツバキが、春はヤマツツジやアセビが咲き乱れ、夏は松林を抜ける風が涼しく、無数のホタルが飛び交い、秋はズルタケ、ソウメンナバなどと勝手に呼んでいたキノコが、ドングリと紅葉の間に無数に生える。これらのナバはキノコ汁になる。
■
疎開した安芸郡府中町外新開は、そんな場所だった。だが、広島と行ったり来たりの忙しい疎開生活では、そういう自然の環境を楽しむような余裕は、誰にもなかった。もちろん、現在では宅地化の波に呑み込まれ、その面影はどこにもない。
ときどきは、米軍機がくるというので、山の斜面に掘った防空壕に避難しなければならない。夜には南の呉の方角で、盛んに爆撃を受けているらしい光がまたたき、遠い音がした。
■
府中町の山の間の小さな谷の畑小屋を出て、山陽本線の踏切を越え、国道2号線に出ると、青崎の東洋工業へ向かう昇り坂がまず最初の難所。それから大洲の橋を渡ると下るが、また今ではマツダスタジアムに近い蟹屋町の昇りがあった。的場の交差点を回ると鶴見橋を目指して南に下る。
それがだいたいのコースだったように思う。叔母は一人で、荷台に二人のこどもを乗せたリヤカーをこいでいく。今なら猿猴川(えんこうがわ)に架かるいちばん南の橋を渡れば、ほぼまっすぐ南竹屋町まで行けるので、もっと楽だったろうに。
10■風化はもうすでに
さて、ここで問題です。
広島に原爆が落とされた日が、いつかを知っている人は?
全国でウソだろっ38%。 (T_T)
20代ではマジッすか22%。 (-_-#)
ほいじゃが広島でも74%じゃけん! (>_<)
(数字は2005/8/4放送のNHK TV『クローズアップ現代』の放送データによる) この数字は、2005年のものだから、今だともっと下がるのだろう。
■
そうか。いまからもう、67年も前(上記放送時は60年前)のことになるのだ。100年も経てば、経験者もいなくなり、歴史の箱の中にしまい込まれてしまうのだろう。
日本のいちばん暑く長い夏は、このようにして始まり、このようにして過ぎていったのだ。
●昭和20年7月17日 米英ソ首脳会談、ポツダム宣言発表。
●昭和20年7月28日 鈴木首相ポツダム宣言を「黙殺」と談話。
●昭和20年8月6日 広島に原爆が投下される。
●昭和20年8月8日 ソ連が対日宣戦布告。ソ満国境を越え参戦。
●昭和20年8月9日 長崎に原爆投下。
●昭和20年8月14日 御前会議でポツダム宣言受諾を決める。
●昭和20年8月15日 終戦の詔勅ラジオで放送される。
●昭和20年8月30日 マッカーサー総司令官、厚木飛行場に到着。
●昭和20年9月2日 ミズーリ号艦上で降伏調印。
●昭和20年9月11日 GHQが戦争犯罪人39人の逮捕を命令。
日本人はすべて、この長い夏のことを、歴史の事実としてもっと知らなければならない。
■
当時まだ小さなこどもにとっては、どれもあずかり知らぬことであり、その意味も背景も理解できぬことであった。この頃のことはほとんど覚えていない。8月15日の記憶も、ほとんどない。いくつかのシーンだけが、焼き付いたように残っているだけだ。
■
67年前の今日、叔母は「明日は広島へ行くけぇね」と、従兄弟とわたしに告げると、リヤカーの準備を始めていた。
いつも広島へ行くときには、夏の暑い陽が照りつける前に南竹屋町へ到着するように、早起きして5時には出発するのだ。
その日、わたしはよく行く小さな探検に出かけた。川の洗濯場の上には、なにやら小さなブドウの房のようなものがぶら下がっている。これは新発見、初めてみるめずらしいものだ。それをたくさん収穫し、それとホウセンカの花でつくった色水を材料にして遊んだ。
(2005-08- 記・2012/08/05 So-net 改筆採録)
□16:昭和20年・広島の夏の日=その4 米軍機が撒いていった警告ビラをみた祖父はこどもたちを疎開させた [ある編集者の記憶遺産]
7■撒かれたビラは単なる脅しではなかった
三本松の前に、人が集まっている。中心に立っているのはサーベルを下げた軍人で、人々が手にビラをもっている。そのビラなら、空から大量に降ってくるのを見た。なにかのお祝いのようにきれいに、それは賑やかに華やかに舞い降りてきたものだった。
もちろん拾ってみた。紙は薄くてぺらぺらしていたが、軽くて丈夫そうで、別の世界から降ってきたもののようだ。
ビラには、下手くそな字と絵が描かれていた。いろいろな図柄があったようだが、ひとつだけ覚えている。その絵柄には、家が赤い炎を上げていて、その上には大きな飛行機が覆いかぶさっていた。それは、とくべつ広島だけに向けた内容なのか、それとも各都市に撒かれたものと同じものなのか、わからなかった。
■
そのビラだが、井伏鱒二が『黒い雨』で書いているところでは、次のようなくだりがある。
『ふと僕は、先月の上旬か中旬ごろ敵機の落して行った伝単の文句を思い出した。「いずれ近いうちに、ちょっとしたお土産を広島市民諸君にお目にかけたい」という意味のことが書いてあったそうだ。』(新潮現代文学2)
これを読むと、そのビラは明らかに広島に向けた警告だったことがわかる。原爆について、アメリカ軍がそれとなくにおわせ、伝単(ビラ)で予告したことは、はずれなかった。
それは、予告というより確かな警告だったのだが、その意味をまともにありのままに想像できる日本人は、当時あまりいなかった。
■
第一、こんなビラを、いったいなんのために、アメリカ軍は撒いたのだろう?
無益な抵抗を続けている敗残兵に投降を促すためのビラなら、自軍の兵士の損傷を避ける意味もあろう。だが、このビラには、なんの意味もない。危ないから早く逃げろ、といっているわけでもない。
あるとすれば、自分たちの優位性を誇示し、“お前達の命は俺達の自由にできるんだぞ”と勝ち誇った見得を切っているに過ぎないのだ。
■
だから、こんな一見ふざけたようなビラを見ても、受け止め方は一様にはならない。こりゃあ危ないと思って具体的な行動を起こした人と、それほどのことではないと無視しなにもしなかった人と、だいたい二つに分かれた。
祖父は、前者であった。
■
祖父はこれを見て、広島に万一のことがあった場合を考えた。そして、夫を招集された上の叔母とそのこども(つまりわたしの従兄弟)とわたしの三人を、府中町字外新開の畑小屋に、疎開させることにした。
8■リヤカーに乗って“疎開”
五歳児の記憶というのは、かなりまだら模様をしている。
はっきりと覚えていることもたくさんあるが、その前後の出来事やそれとの関係性についての記憶は、あやふやになっている。 祖父の意思決定は、素早く迷いはなかったようだった。府中町の畑には貸家もあったが、そこに上の叔母と従兄弟とわたしの三人が住めるようにしようという計画だったらしい。
しかし、それまで待たずに、急いで畑の片隅にあった小さな小屋に、三人を疎開させた。
■
南竹屋町の家と府中町の畑小屋は、直線距離にすると5キロ足らずであろう。だが、猿猴川があるため、広島駅に近い方をぐるっと回っていかなければならない。
大正橋という橋が一番南の橋だったが、記憶ではこの橋は戦後は焼け落ちて、人が一人やっと通れるくらいの仮橋になっていたように思う。『黒い雨』でもこの橋の名前が出てくるが、ちゃんと渡れているように書かれているので、どうもいつ落ちたのかわからない。
■
それに、昭和20年の夏には、市電はともかく、ガソリンを使う一般の交通機関はほとんど機能していなかった可能性がある。木炭自動車の乗合いバスが走っていたような気もするが、それに乗った記憶がないし、それは戦後のすぐのことだっかもしれない。
国道を自転車の横に荷台の車が取り付けられるようになったリヤカーで、行き来するのだ。さすがにこういうものも、いつからかなくなってしまっている。
■
この荷台に、まだ歩けるようになって間もない従兄弟と五歳のわたしを乗せ荷物も載せて、叔母がひたすら自転車を漕いでいくのだ。
荷台には、二人のこどもが乗り心地がいいように布団も敷かれていて、飲み物も大きな容器に用意されていた。その味も、ときどき記憶に甦るのだが、それが麦茶だったかミカン水のようなものだったのか、定かでない。
■
畑小屋は、ほんとうに農作業のための道具を収納している物置きで、その片側には二畳ほどの畳も敷いてあった。そこに三人が寝泊まりする生活は、そうして始まった。
煮炊きは叔母が、小屋の前に七輪を出して行ない、“田舎の生活”がものめずらしかったわたしと従兄弟は、日々新たな経験をして遊ぶのが仕事だったが、ハイジのような…というほど牧歌的な毎日だったわけでもなかった。
■
そんな生活は、あくまでも仮住まいなので、必要な物資などを運ぶのと、祖父母に孫の顔を見せるのと両方で、十日に一度くらいは、南竹屋町にまたリヤカーで帰り、一二泊してまた府中町へ戻るといったことを繰り返していたのだ。
ただ、それでは、あまり疎開の意味もないのだが…。
(2005-08- 記・2012/08/04 So-net 採録)
□15:昭和20年・広島の夏の日=その3 宮島さんの神主がおみくじ引いてもわからない [ある編集者の記憶遺産]
5■南竹屋町と千田町
あなたの場合、いったい「一番古い記憶」というのは、何歳くらいの時のものだろうか。おそらく、誰もはっきりとは「何歳何年のこれ」と特定はできないだろう。
わたしの場合も、そうなので、古い順に並べることなどできない。だが、それらの断片のいくつかは、すべて南竹屋町の生家とその周辺でのことだった。
■
アスベストのニュースで、解体作業の映像が流れると、三本松の「角屋」が強制疎開で引き倒されていたことを、あの土壁のにおいとともに思い出してしまう。散歩で体操をしている人たちをみると、「間(はざま)酒店」の前の広場で、ラジオ体操をしていた光景が浮かんでくる。
それらを、こんなところにいちいち書いてもしかたがないのだが、今にその記憶の証拠物件が残っているのをみると、なんともやるせない。お医者さんの「東儀さん」は、子孫のどなたかが継いでいるらしく、今も医院の看板が出ている。
■
「千田小学校」も、今もそこにあるのが不思議な気さえする。その入り口には石の門柱があり、兵隊さんの歩哨所があった。防火訓練や金物供出の記憶がある千田小学校には、原爆の記憶を留めようという努力をしてきたらしく、いくつかの痕跡を今に残している。この門柱も昔のままのような気がする。
校門の横には、被爆したクスノキが今も葉を茂らせていた。
運搬手段は、もっぱらリヤカーであり、大八車である。人力車は今でも浅草や鎌倉にごろごろしているが、大八車はなくなった。時代劇によくでてくる大きな二輪車で、主に荷車の用途である。リヤカーにも、説明がいるだろうか。これは自転車の横に車の付いた荷台をつないだもので、オートバイのサイドカーのようなものだ。
■
その大八車に、さまざまな金物をいっぱいに積み込んでいる。それを引いて押して、千田小学校の校庭まで運んで行く。そうして、集められた金属類が、みるみる山のように積み上げられていく。
各家庭から供出させた金物を、兵器や資材に再利用するためである。
別の日、千田小学校の校庭ではまた別の行事が行なわれていた。
もんぺ姿に手ぬぐいを頭に巻いた女の人たちが、ご近所総出で何列かになってバケツ・リレーをやっている。その先には燃え盛る火炎がある。掛け声とともに、必死の消火訓練は、迫力があった。
■
小学校の前には川が流れていて、橋には低い石の欄干があった。平野橋というのがその橋の名前だったというのも後から知ったその橋も川もないが、その頭の丸い石は、小学校のなかにちゃんと保存されていた。だが橋の名前は、今の京橋川にかかる四車線の大きな橋にそれを譲ったらしい。
高い金網に囲まれていた「広大(当時は別の名前だったが)のグランド」にもよく行った。今、そこに広大はないが、グランドと敷地の跡は、やはり金網のフェンスに囲まれている。
■
数年前に、わざわざこの町を訪ねて、そこらを歩いてみたのだ。生家があったとおぼしき場所には、それを特定するなにものもない。家の前には畑が広がり、その向こうには広島のシンボルのひとつでもあった比治山が見えていた。今、畑はなく、比治山も建物の陰になる。
ただ、家の前から三本松と呼ばれていた神社の祠(これも後から知ったが、お稲荷さんだった)まで、広い坂道があったと思っていた。
今見ると、道は広くもなく、坂も記憶の傾斜よりもだいぶ緩い。三叉路の真ん中にあった三本松のほこらも、ビルの下のわずかな隙間に押し込められていた。
6■生家での記憶
■
生活の場は、足が折り畳みできる丸いちゃぶ台を囲むお茶の間で、そこに集う何人もの人の影があったが、あまりよくは覚えていない。
電気は白色ガラスの笠に、後知恵では松下幸之助が考案した「二股ソケット」がついていた。ラジオは、神棚と同じ鴨居の高さにあり、これも「ナショナル受信機」だったらしいが、ここでラジオを聴いたりした記憶は、ほとんどない。
だが、蓄音機はよく聴いた。ピックアップの先はゲンコツのように丸く重い。鉄筆の先のような針をつけて、分厚いレコード盤にのせる。箱の横に手回しのハンドルがついていて、これを回さないと回転が落ちて、音が「る〜〜ん」と変になる。
■
夜は、二階の部屋で寝ていたのだろうか。電気の笠には、ふろしきのような布が巻き付けてあるので、薄暗い。怖い夢もよく見る。
昼は、怖くない。二階の部屋には祖父が手造りの石造りの柵で囲まれたテラスがあり、そこから比治山が正面に見える。
比治山の右横辺りには、何をするものか何のためかはよくわからなかったが、飛行船がよく浮かんでいた。
それを眺めながら、着物を着た女の人と一緒に歌う。“見よ 東海の 空明けてぇ〜 旭日高く…”
女の人は母ではない。もうそのときに母はいなかったので、それは叔母たちだった。
■
祖母の記憶は、白い前掛け(エプロン)をして、かいがいしく台所で立ち働く姿であった。上品な味のする箱寿司や、フライパンで焼くさ
まざまな形のクッキー(というよりお好み焼きの元祖に近い)、戸棚からだしてくれる干しバナナ…食べ物の思い出ばかりというのも申し訳ないが、もっぱらその祖母が南竹屋町の家でわたしのめんどうをみ育ててくれていた。
■
市内の交通機関は、一応正常だったらしい。広島の町中には路面電車が走っていた。それに乗って、ヒモからぶら下がった木の把っ手のようなものを引くと、チンチンときれいな音を立てた。今度はバスに乗り替えて、太田川をさかのぼって、結婚していた上の叔母の家を訪ねて行った記憶がある。
途中、神田橋を過ぎ、工兵橋にかかると、バスが走る土手の下には、戦車がずらりと並んでいるのが見えた。
下の叔母は、まだ女学生で、比治山にその学校はあった。
■
家の前の道路の向かいには、蔵があり、井戸があり、セメントでできた防火用水桶があり、祖父の仕事のための物置きにもなっていたのか、少し広い空間が開けていた。
誰かが仕事でも車を使っていたのかというと、そんな記憶はない。あったとしても、ガソリンはもう手に入らなかっただろうが、もちろんこれも後から考えることだ。
■
動くブリキのおもちゃが気に入っていた。
サイレンを鳴らし梯子が伸びる赤い消防自動車、機銃がバリバリと火花を散らして走るゼロ戦…。すごいぞ…バリバリバリ…。
■
風呂場はそう広くはなかったが、西日本で多かったいわゆる五右衛門風呂で、鉄の円い釜が据え付けられ、釜の下で薪などを燃やして湯を沸かす。
鉄の釜では、乾いたところに触れるとやけどをしそうだが、湯の中では背中をつけても平気で気持ちがいい。ただ、底だけは木製かセメントでできた板を入れる必要がある。
■
この風呂場は白いタイル張りで、その一面には厳島神社の朱色の大鳥居と回廊と弥山まで取り込んだ風景を描いたタイルが使われていた。そこで、いつも大声で歌う歌があった。「宮島さん」というのが正式題名かどうかも、よくわからないが、それで通ってきた。野球フアンの方ならご存知の、広島東洋カープの応援団が、得点の度に大合唱する、あの歌。もちろん、カープなどまだない昔の文句はちょっとだけ違っていたが、○○の部分を入れ替えて多目的に使える。
戦前から、広島は広島商業を頂点とする野球熱の盛んなところだったのである。この歌も、その辺からきているらしい。
「宮島さんの神主が おみくじ引いて 申すには
きょうも ○○ 勝〜ち勝〜ち か〜ちかち…」
(2005-07-末 記・2012/08/03 So-net 採録)
□14:昭和20年・広島の夏の日=その2 天候条件がよかったから原爆は広島を選んだ [ある編集者の記憶遺産]
3■広島とはどういうところだったか
最近でこそ「ヒロシマ」とカタカナで書かれることは少なくなった、「広島」とはいったい、どんなところだったのだろう。花崗岩でできた中国山地を削りながら土砂を運んできた、太田川の三角州の上に、最初に築城し町造りをしたのは、毛利輝元である。そのとき、自身の先祖に当たる毛利の大祖、大江広元の名に因んでその名をつけた、ともいわれる。
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それ以前は、今の市街地の中心部は全部海であったのだろう。100メートル道路を縦断する電車通りには“白神社”という巨岩の社があるが、この岩だけがぽっかり海面に突き出ていたのかもしれない。
厳島神社を造った平清盛も、ここは素通りしているようだし、神武東征伝説では、その途上で、今の安芸郡府中町は呉裟々宇山(下りの新幹線が安芸トンネルを出ると右手に、上りの新幹線が広島駅を発車するとすぐ左手に見える山。付近の最高峰)の麓、多家神社のところに船を停めたという記録がある程度である。
長州征伐の時には、幕軍の前線基地だったし、忠臣蔵の浅野家の本家がここであった時期もあるが、さほど歴史上に大きな役割を果たした地、というわけでもなかった。
■
明治の廃藩置県で、安芸と備後の旧二国が広島県となり、明治13年に県令として赴任してきた薩摩藩士だった千田貞暁が、その後の近代広島の基礎を築いた。
彼の努力により宇品という港が開かれ、さまざまな産業も興されるが、何といってもそれが脚光を浴び、その功績が再評価されることになったのは、明治27年の日清戦争の勃発であった。
“そおらーもみなとも よははーれーてー”という古い童謡は、宇品港の殷賑(いんしん)を謳ったものだが、“端艇(はしけ)の通いにぎやかに”して、ここから続々と大陸へ兵員や物資が送られることになった。おりから、山陽鉄道も神戸から広島まで延伸されていた。
■
戦争指揮のため大本営が広島城内におかれ、時を移さず明治天皇も広島に入り、伊藤博文首相以下政府高官の大部分も広島に移り,帝国議会も広島で開催されるなど、翌明治28年天皇が広島を離れるまでの二百数十日間は,広島は実質上日本の首都になったのである。
呉には鎮守府がおかれ,広島は陸海軍の西日本における中心地となり、戦略基地となった。その経緯から、当然その後の日露、日中、太平洋戦争でも、ここから戦地に向かった兵員は多かった。「軍都広島」という看板は、こうして固定していった。
「千田さん」と、大人たちが敬愛を込めて呼んでいたのは記憶にある。千田県令の名は、今に広島の町名に残り、千田小学校も、その名に由来する。
彼が基礎をつくり、夢に描いた広島の発展、それは本人の思いもかけない方向に伸びていったのだろう。そしてそれが、彼が、いや誰もが、知る由もない運命の辿る道を引いていたのかもしれないのだ。
■
トルーマンが原爆投下を決定したのは、後に弁護され正当化されているように、「アメリカ将兵の犠牲を少なくし、戦争を早く終結させるために必要だった」わけでは、まったくない。
新しい兵器をソ連にさきがけて開発して優位を確保するために、その威力をどこかで実証したかっただけなのだ。しかも、ご丁寧にもうひとつ、タイプの違うものも長崎でも試している。どさくさにまぎれて、自分の利益のために多くの犠牲を承知のうえで、それを恥じない点において、それは火事場泥棒ソ連の参戦と変わることはない。
アインシュタインなど科学者の後押しでできたその世界初の究極爆弾を、どこに投下するか、いくつかの選択肢がほかにもあったこと、計画当日の天候も大きく左右し、結局広島に目標が定められたことも広く知られているが、その候補決定に当たって、「軍都広島」のイメージがなんらか影響しなかったとは、誰にも言えない。
4■宇品線と比治山の下で
広島が、日清戦争以来「軍都」といわれてきたのは、大本営があったからだけではない。その後に続くどの戦争においても、物資兵員の兵站基地的な性格を、強くもち続けていた。
■
明治27(1894)年の6月に山陽鉄道が広島まで延びると、そこから宇品までの線路が突貫工事で敷設され、2か月後には軍用鉄道路線が開通していた。広島駅と宇品港を結ぶ、たった6キロ足らずのこの鉄道が、一般旅客を乗せるようになるのは、それから3年後のことである。
今、広島に行っても宇品線はない。既に1960年代の終わり頃から段階的に旅客営業は廃止され、最後まで残っていた貨物輸送も、1986(昭和61)年に廃止された。だが、その痕跡だけは、付近を歩けばいくつも見られる。
■
この軍用鉄道の沿線にも、軍の施設がいろいろ設けられていた。陸軍被服支廠倉庫や陸軍兵器支廠や陸軍糧秣支廠倉庫などもそうである。
戦況が厳しくなると、軍は一般の市民や学生をさまざまな作業に動員した。いわゆる学徒動員は、学徒出陣までいかない生徒たちを動員していたものだ。
早い話、勉強などそっちのけで、毎日、兵隊さんの服を縫ったり、兵器をつくる手伝いをしたり、強制疎開(焼夷弾の被害を食い止めるためと、江戸時代そのままに火除け地をつくる目的で建物を強制的に接収し取り壊す)の取り壊し作業をしたりしていた。
■
比治山の南東側に位置するところにあった広島陸軍兵器支廠に動員され、ここで作業に従事していた修道中学校の生徒のなかには、平山郁夫さんもいた。
その隣の陸軍被服支廠では、比治山女学校に行っていた下の叔母が、ミシンを踏んでいた。
日清戦争以来ここにあった被服支廠だが、大正時代のレンガ造りの建物が被災当時のもので、これが旧陸軍被服支廠倉庫として、今に残る。
■
そして、そこから北へちょっと行った段原には、張本勲さんがいた。わたしと同じ年頃だった。
いずれにしても、軍人や官員が多い町では戦前から検番も盛んで、周りには山ばかりで農産物が自給できるほどの田地もなかった。早くから、消費都市の様相を強く持っていたのが広島である。
そこで産業を育成奨励しなければならないと、元安川のそばにできたのが、当時では異色の丸いドームを備えた「産業奨励館」であった。
(2005-07-末 記・2012/08/02 So-net 採録)
□13:昭和20年・広島の夏の日=その1 どんなささいなとるにたらないような体験であっても… [ある編集者の記憶遺産]
1■ひとつの運命の星のもとに
どんな時代に、どんな親や環境のもとに、生まれてくるか、誰しもそれは自分では選べない。それを人は運命と呼ぶ。
運命はまた、ほんの紙一重の神様の気まぐれや偶然によって、いとも簡単に、あっちでころころ、こっちでころころと変転する。
そうとでも思って割り切らないと、人はこの世を生き抜いてはいけないのだろう。
■
生まれてきた時代が悪かったとか、生まれてくるのが早過ぎたとか遅過ぎたとか、そういう表現で、人の運否天賦を呪ってみても、それもまたむだなことだ。そんなことは思わず、ただ、人は誰しも、生かされているから生きているのだ、と思うほうがよいのだろう。
では、決して望んだ訳でもないのに、道半ばにして死ななければならなかった人は、どう思えばいいのだろう。
■
●1939(昭和14)年 5月/ノモンハン事件 7月/国民徴用令 9月/ドイツのポーランド侵攻で第二次世界大戦始まる
●1940(昭和15)年 9月/日独伊三国同盟調印 10月/大政翼賛会発足 11月/紀元2600年
●1941(昭和16)年 4月/日ソ中立条約 10月/東条英樹内閣組閣 12月/ハワイ真珠湾攻撃・マレー沖海戦
●1942(昭和17)年 1月/マニラ占領 2月/シンガポール陥落 5月/珊瑚海海戦 6月/ミッドウェー海戦 8月/米軍ガダルカナル上陸・第一次^第三次ソロモン海戦
既に大陸では1937(昭和12)年から蘆溝橋事件に始まる日中戦争が続いており、そのなかで国民は“紀元2600年”を奉祝していた。開戦の翌年には、日本軍の前線は最大まで延び切っていて、これから後は下り坂を転げ落ちる一途となる。
■
この間に、広島の町の真ん中で結婚三年目の夫婦にこどもが産まれ、それから二年も経たないうちに妻を病院で亡くし、悲嘆した夫は幼子を親に託し、職業軍人でもないのにお国のためにとわざわざ志願し、海軍軍属として戦地に赴く。
大きな時代のうねりの中にも、庶民のささやかな暮らしがあり、喜びもまた悲しみも綾なしていた。おそらくは、“こんな時代に生まれてきたことを恨む”ようなこともなく…。
2■ほんとに悲惨な目に遭った人は何も語ることもできず死んだ
原爆のことを語ろうとしている。こんな、他人にとっては実にどうでもいい私事を連日連ねつつ、そのことをくわしく書いて、人様の目に触れることを覚悟のうえで記録しようとしているのも、今回(注:2005年)が初めてのことである。
■
悲惨な体験をした人はたくさんある。たくさんあった。それに比べて、自分のその程度の体験などは、とても体験のうちに入らない。劫火の中をかいくぐって九死に一生を得たというわけではないのだから、人に語るほどの資格はなにもない、と思っていたからだ。
■
しかし、どんなささいな体験でも、語らねばならないと思いなおした。誰でも、とるにたらない、たいした体験でなくても、語ったほうがいいと思うことにしたのだ。
ただ、本当にひどい体験をした人は、何も語ることもできずに死んでいるのだ、ということだけを、決して忘れずに…という条件付きで。
■
マスコミが勝手につけたキャッチフレーズに「怒りの広島・祈りの長崎」というやつがあったが、そんなに単純に整理できるものでもない。それに、広島の人は、どちらかといえば原爆について語ることを、できれば避けたがる人も多い。
家の中でも、祖父と原爆の話をしたことはない。今となっては、それも悔やまれる。
■
戦後12年という歳月をどうにか生きて、どうにかわたしを育ててくれた祖父を支えていたのは、先に死んでいった者が託した責任を果たすための義務感であったろう。
その直接の死因は、持病の喘息の悪化による呼吸器系の障害だった。正式には病名がそうだったことはなかったが、晩年の弱り方は、とても尋常ではなかったので、やはり原爆症の疑いが大いにあったと思っている。
■
アメリカ軍は、進駐してしばらくすると、比治山の上の目立つところに、かまぼこ型の建物を数棟建てた。これは、原爆の効果がどの程度あったか、その新兵器が人間へもたらすダメージを調査する機関のためのもので、正式名称は知らず、ただみんな「ABCC」と呼んでいた。
ABCCの連中は、なぜか市内には住まず、呉方面から占領軍専用の銀ピカのバスで、国道二号線を走って通っていた(とうわさされていた)。そのバスが通るたびに、われわれこどもたちは、それに遭遇すると何かいいことでもあるかのごとく、「あ、ABCC! 見た見た!」と囃した。
祖父も、このABCCに呼び出されて、何度もそこへ行っていたことがある。あるときは「今日はアメリカさんの送り迎えつきじゃけぇ」と車で帰ってきたりしたこともあった。
だが、ABCCが原爆症の治療をしたことはない。
■
結果的に今まで生きてこれたのだから、別にたいした、ドラマチックな経験をした訳ではない人間が、何も語ることもできずに死んでいった人に代わって語ることも、到底できないのだが、せめて記憶を風化させないためには、なんらか、つっかい棒の一本くらいの役に立つかもしれない。
そう思って、しばらく、8月6日までくらいの予定で、この短期連載は毎日続けてみたい。
(2005-07-末 記・2012/08/01 So-net 採録)
□12:野ばら社『児童年鑑』とはどんな本だったかというと… [ある編集者の記憶遺産]
口絵のカラーでは、イラスト絵地図の日本地図と世界地図があった。
動物や植物の簡単な図鑑のようなものもあった。
本文は縦組みで、これもイラストつきでわりと詳しい日本史年表と、比較的簡単な世界史年表があった。
ことわざや俚言を集めたページもあれば、百人一首のページもあった。
道歌に加えて、なぜか明治天皇の御製もあった。
よく覚えているのは、そのくらい…。だが、ほかにも雑多なことがたくさん盛り込まれていたはずで、「年鑑」というより「十科事典」的な趣がある本だった。
広島の八丁堀は福屋という戦前からのデパートがあった。それに加えて、岡山の天満屋が進出するまだだいぶ前のことだった。福屋の横から金座街という短い通りがあり、その先が鉤になって東西に伸びる本通り商店街に続いていた。
その鉤の手前に広文館という本屋があった。本通りにも金正堂という本屋があり、電車通りの向うに渡ると積善館という本屋もあった。その当時は「書店」という呼び方は定着していなかったように思われる。フタバがその当時からあったかどうかよく覚えていないが、紀伊国屋やジュンク堂が進出する、はるか昔のことである。
その立地条件から、その後もよく出入りしたのが広文館で、さして広くはない店内に新刊本がぎっしり並ぶさまは、始めのうちはどきどきするほどだった。
そこで、どれか好きな本を選べといわれても、たいがいは迷い困る。
けれども、そのときには、きっと天啓のような導きがあって、『児童年鑑』との遭遇があったのだろうと、今にして思うことがある。
昨日(2010/7/29)の岬めぐり580甲ヶ崎のところで、ちらっと書いた、松岡正剛の『情報の歴史』で、その頃というのは、どんな時代だったかをめくって眺めてみる。
年表のおもしろさが、どっとあふれ出てくる。
野ばら社の『児童年鑑』で、その後も長く飽きずに眺めていたのが、地図と年表だった。
(2010/07/31 記)
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□11:バスに乗って広島の町へ行き初めて買ってもらった「本」があった [ある編集者の記憶遺産]
国鉄の駅「向洋(むかいなだ)」と東洋工業の本社があるところは、広島市ではなく府中町である。国道二号線沿いや駅への通りには若干の商店もあったが、やはりちょっとした買い物は広島の町まで出ていかなければならない。
買い物をするものも、お金もなかったはずだが、たまにバスに乗って広島に出かけることがあると、遠足にでも行くような楽しい気分になる。
うっかりして、前にも「国道二号線」と書いたのだが、これは「当時の」という断りをいれなければならなかった。現在の二号線を西へ行くと、青崎小学校の南250メートルのところを通って猿猴川を黄金橋で渡り、比治山の南を抜け、京橋川を平野橋で渡って、南竹屋町(原爆で焼けたでんでんむしの生家があった)を横切って行く。
何年か前、初めてこの道を通ったときには、まったく今浦島の心境になったが、マツダ本社の奥に連なる、呉娑々宇(ごさそう)山をみて、胸の奥からこみあげてくるものが抑えられなかった。山陽新幹線からもよく見えているこの山々から新幹線のトンネルの上付近にかけてが、中学高校くらいの時期には、でんでんむしの遊び場だった。
それはともかく、今ではすっかり寂れてしまった旧二号線は、青崎小学校の北を通り、新しくできたマツダスタジアムに至近の蟹屋町、広島駅を経由して、広島の中心街である八丁堀、紙屋町へ向かう。
5W1Hのほとんどが不明のまま、ある一冊の本との出会いが、そこであったのである。
野ばら社『児童年鑑』。それがその本の名前であった。
今でも同じ名前の図案カット集や書道、童謡唱歌などの実用書を出している出版社が、旧古川庭園に近くにあるが、それがこの出版社なのか、関連があるのかどうか不明である。出版社の場合、取次の口座を引き継ぐ形での経営権の移動が行なわれることもよくあるので、名前が同じでも連続性があるとはいえない。
入手に至る事情は、さっぱり覚えていないのだが、なにか一冊好きな本を買ってあげるというようなことだったのだろう。でんでんむしが選んだ『児童年鑑』は、滅多にないチャンスに実に最適の選択によって遭遇した、最高の一冊だった。なにしろ、それから何年もの間、この本一冊がぼろぼろになるまで愛用したのだから…。
(2010/07/29 記)
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□10:教室で作文を先生にほめられて一生の道が決まるということはないにしても… [ある編集者の記憶遺産]
小学校の4、5年生の頃だったと思うが、自由題の作文を書いてくるようにという宿題が、クラスの全員に出された。…と書いてみて、ふと思う。それは記憶違いで、あれは宿題ではなく、教室のその場で授業時間内に書いたのではなかったか。そんな気がする。
自由題で書けといわれ、すぐ思ったのは、当時家で買っていたなかよしのネコだった。現在ではあまり見なくなった黄味がかった茶と白のだんだら模様のネコのことは、いつも一緒だったから、いくらでも書くことは浮かんでくる。それを題材にして、「ネコのミー」という作文を書いて提出した。
数日後の国語の時間に、一人だけ指名されて、先生がその作文をたいへん褒めてくれて、みんなの前で自作を読み上げるようにという。いくらぼんやりでも、そんなことができたのはクラスで後にも先にも自分唯一人だけだったとなれば、いかに誇らしいことかは理解できる。
ただ、それだけのことだったが、そのことがその後の自分の人生をなんとなく規定して、流れをつくり始めた最初のひとこまではなかったか。
後で思えば、そんな気もするのであり、薄ぼんやりした小学校時代の、最も輝かしい瞬間だったともいえる。
よく、自分の一生を決めた先生の一言とかいうのがあるけれど、現実にはそれらはすべて後からそういう理屈をつけて、自分自身を納得させるためのものである。
この場合もその類いなのではあろう。もちろん、それから勉強が好きになったとか、大人になったら何になろうという目標ができたわけでもなかった。
そのときの、先生が誰だったのか、それももはや遠く消えかかっている。確か、“長谷川先生”のときだったろうか。毎年最下位争いをしている広島カープという2リーグ制で新設された田舎貧乏球団の屋台骨を支えて、大車輪の活躍をしていたエースが長谷川投手であった。長谷川先生もそれを意識していた。長谷川投手は「小さな大投手」といわれたくらい小柄だったが、長谷川先生は長身で、教室で騒ぐこどもがあれば、短いチョークを、そっちへ向けて「ピッチャー長谷川、投げました!」といって飛ばしたりしていた。
新聞を見ながら、勝率や順位変動などをグラフにして机の前の壁に貼っていたのも、この頃だったろう。ところが、こんなやりがいのない作業が、そうながく続けられるわけがない。世の中には、どうしようもないことが多いものだと、こどもなりに納得した。順位が上がらないなら、あとの目標は今でいえばさしずめ “GIANT KILLING”ということになる。
強いて言えば、でんでんむしの「判官びいき」的、「アンチ寄らば大樹の蔭」的へそまがり思想の原点は、ここらへんだったのだろう。
野球を教えてくれたのは、税務署に勤めていて、職場のチームではキャッチャーをしていたという叔父であった。プロ野球を観に、広島の観音町にあった県営球場まで連れて行ってくれたり、スコアブックのつけ方を教わった。それがおもしろくて、ラジオ中国の野球放送を聞きながら、スコアブックをつけたりしていた。
遊びでする野球は、もっぱら三角ベースで、それもあまりゲームにはならず、交互に打つのと捕るのとを繰り返すことが多かった。空地が狭いので、ホームランを打つと山の薮の中に入ってしまい、そうなると一個しかないボールを探して時間の大半がつぶれてしまう。なので、ホームラン厳禁。
絵がうまいとは自分でも思わなかったから、写生大会で入賞したのには本人が驚いたが、賞状をもって帰ると、そこに書いてあった広島市教育長かなにかの表彰者の名前をみて、今度は叔母たちが驚いた。その名の人物こそでんでんむしの父や母が小学校で習った担任の先生の名前だった、というのである。
そのときには、まだそれがピンとこなかった。
(2010/07/27 記)
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