□24:初めて泳ぎを覚えた海と初めての部活で印刷所へ=広島市南区月見町(広島県) [ある編集者の記憶遺産]
中学校へ入って最初の夏休み前に、水泳教室があった。まだ諸事万端不如意な時代だったから、泊まりがけで遠くへ行く臨海学校のようなしゃれたものでもなかったし、プールなどというものは、まだどこにもなかった。ただ、先生と上級生に引率されて、学校のグランドの目の前の山を越えて、蛎殻の散らばる海岸へぞろぞろと歩いていっただけである。広島湾に面した小さな浜は、さしづめプライベートビーチではあったが、いまの地図ではそこも埋め立てられ、月見町という町になっている。
その水泳教室で、まず教わったのは六尺褌の締め方から。海水パンツもなかったのだ。すでに泳げる子もいて、体操がすむとそういう子達は沖に浮かんでいるかきいかだまで泳いでいく。でんでんむしはまだそのときは泳げない子のグループだった。泳げない子への教え方はかなり乱暴なもので、上級生の背中につかまって、背の届かない沖へ数メートル連れて行かれる。すると、そこでいきなり上級生が潜ってしまうので、つかまるものがなくなってしまった。当然身体は沈んでいく。あわてて水を呑んでしまい、必死でばたばたして岸をめざそうとした。その日が、曲がりなりに水泳を覚えた日だった。
泳げない時は、干潮で干潟が現れたところで、小魚を追ったりして遊んでいた。泳げるようになってからは、その遊び場の楽しさが、何倍増にも広がったことは、いうまでもない。今度は満潮で潮が満ちてくる時を計って、泳ぎに行く。新聞を広げてイのいちばんに見るのは潮時表で、それによって夏の一日のタイムスケジュールが決まる。
もっぱら夏の遊び場であった海田川と的場川の河口辺りには、戦時中は潜水艦の修理をしていたというドックの跡もあった。
瀬戸内海では、干満の差がかなり大きい。干潮時には、遠く広島湾のあちこちに広がるかきひびの棚が姿を見せ、川は小さな流れとなって砂地を蛇行した。ドックの跡は、干潮時でも泳げる場所だったが、それが満潮時には、その河口でも水深が3〜4メートルにも達する。さらに深くなるドックの跡は、飛び込み専用だった。
いま、地図を見ると、広い入江があったところは埋め立てられ、それに続く的場川も随分肩身が狭くなっているようだ。それに瀬野川(海田川)と的場川が流れる河口付近には、埋め立て地が伸びて、泳ぎを覚えた海も全部埋め立てられて、そこらには月見町という名前がついている。だが、驚いたことに、そのドック跡の形はいまも四角い水面として描かれていた。
日本製鋼所の南部は、広島市中央卸売市場になっていた。その海の沖には、広島呉道路と高速2号線、高速3号線と、何本もの高架のバイパスが海の上を走っている。湾の奥は両側が埋め立てられて、西側は埠頭、東側は工場団地になっていた。狭くなって深い入り江のようになった湾には、Mapionでは広島湾でなく海田湾という別の名前までついている。その高いところを、海田大橋という橋がひとまたぎしている。
十何年か前、所用があって広島に久しぶりに帰った。狭くなった海田沖の湾を横切るバイパスを走るバスの窓から、初めて泳ぎを覚えた海を探してみたが、どこを見ても見知らぬ海だった。透き通るような川に潜って見た、水と砂と光の織りなす川底を思った。あの、きれいでふしぎな世界は、もうないのだろう。
中学校に入ってもうひとつ新しい世界が開けたのが、いまでいう“部活”である。テニスはやってみたかったけど実現せず、結局やったのは新聞部と文芸部。予算がないので、一年に一度出せればいいほうだったが、顧問で新任のS先生が熱心で、先生の宿直の休日に宿直室に集まって、わいわいやっていた。たいして必要もないのに、広島の印刷所に出張校正に行こうと言い出したのもS先生であった。思えば、まねごとの編集をして、印刷所に出入りするようになったのは、この頃から始まっていたわけだ。
また、ホームルームのT先生や国語のM先生の指導で、演劇のまねごともやった。文化祭では広島城の南の公園内にあった児童文化会館で、ブレヒト劇をやったりしたのもいい思い出になっている。中学校3年のときには、先生が「これなら山本安英を招待してもいい」といった最強メンバーとで、木下順二の「夕鶴」を上演する予定になっていた。与ひょうを演じることになって稽古をしていたが、なぜかこの年は文化祭が土壇場で中止になった。理由は知らなかったか忘れたかして、わからない。
学校の行事というのは、当時は半ば強制的にやらされるものだけれど、後々になってみると、それが非常によい体験になり、おおきな糧になるということが多い。
初めて泳ぎを覚えた海からすぐ南の似島で、高校の臨海で泳いだ遠泳とか、宮島街道を16キロ走ったマラソンなどもそうだった。が、それらのどれもが先生の情熱に支えられていたことは、疑う余地がない。
▼国土地理院 電子国土ポータル(Web.NEXT)
(2013/02/04 記)
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