□20:ふるさとはと問われればそれはやはり「青崎」か?…=安芸郡府中町青崎東(広島県) [ある編集者の記憶遺産]
原爆が落とされる前までは、臨時の避難疎開先で仮住まいだった場所は、その後十数年間にわたって、多感な少年期を過ごす場所となった。生まれた家はもうなく、広島市内に戻ることはなかったので、さまざまな思い出や、生活の舞台となった広島郊外のそこは、まさしく「ふるさと」そのものとなった。
よく「お国はどちらですか?」とか、「出身はどこ?」とか聞かれるが、そういうときの「広島です」という答えは、場合によっては昔の「安芸の国」というような広い地域をイメージしてのこともあるが、だいたいはいつもこの広島県安芸郡府中町の、それも南東の端っこぎりぎりの地域を念頭においてきたように思う。
人家が十数軒立ち並ぶ谷間の北側を、ぐるりと取り囲むようにして裏山が続いていた。その山に入会権というようなものがあったのかどうか知らないし、第一所有者がいるなんて、気にもしていなかった。
標高はせいぜい50〜60メートルほどで、山というよりほとんど丘のようなものだったが、雑木林とところどころ畑もあった尾根は、結構複雑にでこぼこしながら、船越峠を越えて呉婆々宇(ごさそう)山に連なる山塊の南端であった。小さな山からでもどこからとなく湧きだし流れだす水流を伴う。尾根と尾根の間にわずかに広がる谷間には田圃がつくられ、ドジョウやメダカやオタマジャクシが群れていた。
秘密基地をつくったり、宝物を隠して地図をつくるなど、わが物顔に遊び場にしていたその山では、山桜やピンクのツツジや白いアセビが咲く春にはツクシやズボナなど野草摘みが楽しめた。松林を鳴らして抜ける風が涼しい夏は、無数のホタルが谷間を飛び交う。そして、秋は紅葉の間に何種類ものキノコやドングリ、ヤブツバキが彩りを添え、下草が枯れてノウサギの糞が目立つようになる冬は、野山で落ち葉かきに精をだした。
松の落ち葉や枯れ枝を掻き集める落ち葉かき兼タキギ拾いは、ガスはおろか水道さえもまだなく、もちろん電気炊飯器もない時代、台所の煮炊きや風呂を沸かすのに欠かせない。それは、こどもの重要な仕事でもあった。
小さいながら川は水量も豊富で、戦後の台風のときなど、記憶にあるだけでも二度にわたって道になっていた土手が決壊し、辺り一面が大洪水になったこともある。どこからこんなにと思うくらい、常に花崗岩のさらさらした川砂を運んでいる。この砂を掘り上げて堰き止める。一時的には下流が干上がるが、水の増加に砂のダムが耐え切れなくなると同時に、今度は堰を崩すと、水は勢いをつけて一気に川を下る。そんな川遊びもよくした。
イトウナギと呼んでいたうなぎの幼魚やハゼやゴリ、フナなどの小魚を追うのも、オニヤンマやキリギスやセミを追うのも、夏の日課だった。ヘビもカエルもそこらじゅうにいて、それらもみんな遊び仲間だった。
田圃のイナゴをたくさん捕まえては串刺しにして、これを火で焼いて食べると香ばしくておいしかったが、そんなことをしていたのはわれわれくらいだったのだろうか。今ごろになって、気になる。
戦後の一時期は、食用ガエルと呼んでいたウシガエルやスズメからノウサギやテツドウグサまで、なんでもかんでも食べられるか否かが、最も重要なテーマだったのだが…。山には、野鳥もたくさん飛んで鳴いていたが、バードウォッチングなどという高尚な発想はどこにもなく、当時雑誌の広告を賑わしていたのは、空気銃やカスミ網の宣伝だった。
とくに長い夏の日の夕暮れは、涼み台にみんな集まって、降るような星空を見上げるのも楽しい。急降下を繰り返してエサを追うコウモリが一仕事終えると、こんどはその川のそばにある湿地の草叢には、ホタルの灯りが点滅し、どうかすると家の中にも紛れ込んでくる。網戸などというものは、まだどこにもなかった。麦を刈り取った後の麦わらを編んで、ホタル篭をつくった。カギになった雁の群れが何度も空をよぎって飛んでいくようになると、川の茂みも黄色く変わる。
少し大きくなると、祖父の畑仕事を手伝わされた。最初は遊びを制限されるのでいやいやだったが、だんだん田畑の農作業にも興味がわいてきた。高校くらいになると、自分で草花や菊の栽培に熱を入れるようになる。
川沿いに南へ下っていくと、川幅はだんだん広くなり、国鉄山陽本線の複々線の線路と踏切がある。だが、その踏切に警報器や遮断機がつく前のことしか知らない。この線路を西へ行くと向洋駅で、東へ行くとそれより少しだけ遠い海田市駅があり、ここで呉線に分岐している。唯一変わっていないのは、この線路だけだろう。
さらに下ると、国道2号線(旧)にでるが、当時は誰もが単に「国道」といっていたので、2号という番号があることなど知らなかった。国道を西へ行くと青崎で、東へ行くと船越。川筋からちょうどこのあたりまでが、広島市と安芸郡の境界だったが、現在では船越も広島市安芸区になって、安芸郡府中町だけが広島市域に取り囲まれて残っている。
国道の南には、川が注ぐ入江があって、満潮の時には線路付近まで海水が上がってきていた。そこから広島湾の海までは、1.2キロほどだ。この川にも的場川という名前があることは、数年前に地図でその表示を見て初めて知ったが、現在はその川も両側から埋め立てられて随分肩身が狭くなっているらしい。
こどもの頃は、向洋駅もはるかに遠い先であったが、小学校はその駅の南にある広島市立青崎小学校まで、毎日通わなければならなかった。そこらは広島市青崎または「東青崎」で、川の流れていた谷間は現在の住居表示では安芸郡府中町「青崎東」。
「青崎」は、猿猴川の河口左岸に、大きく張り出していた青い岬の一部だったともいえるのだった。
もうそこを離れ、縁もなくなってしまって数十年が経つので、その地域は大きく変貌し、もはや昔の面影はどこにもない。十数年か前に訪れたときには、駆け回っていた野山は、全部住宅地になり、そこには柳ヶ丘という名前がついていて、その北の端は山陽新幹線の府中トンネルの出入り口になっていた。町の境界になっていた川も、もう暗渠になっていた。
広島を出た後に、何度かそこを訪れることがあっても、そのたびに言いしれぬ寂しさと情けなさと、哀れさ悲しさで胸がつまるばかりになってしまうのだった。それがかえって足を遠のかせ、ふるさとはだんだん遠く、おぼろげになっている。
いまやその実体はどこにも存在しないふるさとは、ただ自分の記憶のなかだけで、かすかな残像としてころがしてみるイメージにすぎない。そして、それがあったからこそ、その後数十年の都会生活ができたような気もする。
そんな記憶を辿って、いま少し以前に書いていたものも引っ張り出しながら、情報整理の意味をかねて収録していきたい。
▼国土地理院 電子国土ポータル(Web.NEXT)
(2013/01/27 記)
タグ:広島県
入会権 懐かしい言葉です
「ごかき」を思い出します
遠州灘の防砂林に落ちている枯れた松葉を拾いに行ったものでした
風呂のたき付けに利用していました
海岸も埋め立て地が多くなり
「みんなのもの」
といった意識が薄れている気がするのが寂しいです
by ハマコウ (2013-01-28 07:22)
@遠州灘の防砂林ですか。それは一度中田島砂丘に行きましたが、松葉かきには効率が良さそうですね。どこでもやっていたんですよね、それぞれ呼び方は違うけど…。
そうですね、山もそうだけど海にわずかの補償金を漁協に払って公有水面を埋め立てるのは、いささかどうかと思いますね。
公(おおやけ)の精神は重要ですね。
by dendenmushi (2013-01-29 20:04)
dendenmushiさんのルーツは広島に・・だったのですね。
幼少期を過ごした土地も大人になってから尋ね歩くと
また新しい発見もありそうですね。
僕の場合は開発で昔の面影が無くなってしまい残念ながら
ふるさとという感覚はなくなってしまいました・・
by ぱぱくま (2013-01-29 21:48)
@新しい発見も何も…。ぱぱくまさんと同じで、どこにもなんにもありません。そういう体験を持っている人は、きっと大勢あるのだろうと想像できますね。
もう少し田舎とかだと、ちょっとは事情は違っていたのでしょうかね。
by dendenmushi (2013-01-30 08:41)