□29:ふるさとは遠きにありて思ふものそして…=広島市・安芸郡府中町(広島県) [ある編集者の記憶遺産]
考えてみれば、飛行機よりもその歴史は浅い。ラジオ放送が始まって100周年には、まだ数年ある。確か1925(大正14)年、そんなもんなのである。
記憶にあるラヂオ(あるいはラヂヲか)は茶色い木目の四角い箱だった。二つか三つのつまみダイアルと、くりぬきの穴にはざらっとした布が張ってあり、その奥にはスピーカー、周波数のパネルもあったような気もするが、あまりよく覚えていない。局は一つ(第二放送あったかな)なのだから、どのみちこれを見る必要はなかった。「National国民受信機」と書かれた小さなラベルのある裏板を開けると、真空管が二三本心細く光りながら、小さく唸っている。
残念なことには、このラヂオで8月15日の放送を聞いた記憶がないのだが、「街頭録音」「のど自慢」「君の名は」「話の泉」「二十の扉」などといった大人の放送もよく聞いていた。なかでもいちばん気に入っていたのが三木鶏郎の「日曜娯楽版」だった。これは遠慮会釈のない政治批判・社会風刺のコントショーだったのだが、時の政府に睨まれてその圧力で潰されたという、いわく付きの番組として放送史に残ることになる。そんなことは知らず、毎週日曜日を楽しみにしていたが、反骨皮肉へそ曲がりの精神は、実はこのときにその大本があったのかもしれない。
また、「浪花演芸会」の落語に漫才、そして祖父の聴く浪曲や講談にも耳を傾けていた。
そして、もちろん夕方の子供番組には、外で何があってもその時間に間に合わせて放送を聞きに急いで帰ってくる。それが、当時のこどもにとっては欠かせない、大切な暮らしの時間なのであった。「鐘の鳴る丘」そして「笛吹童子」に始まる一連の「新諸国物語」や、「おらあ三太だ」「一丁目一番地」などのいわゆる「連続放送劇」は、刺激の少ない地方の町外れの子供にとっては、唯一の娯楽であり知識であり、想像を広げられる夢の世界でもあった。
しばらくして、民間放送が始まり広島でもラジオ中国で広島カープの試合を放送するようになると、ラジオにかじりついてスコアブックをつけたりもした。
「ラジオ歌謡」は聴いても、この当時第二放送でやっていたらしいクラシックの番組やみんながよくいうFENを聴くような環境ではなかったのが、今頃なぜか悔しい惜しいような気がする。鉱石ラジオのキットを、少年雑誌の広告の通販で買って組み立てて、水道管をアースにしてかすかに聞こえたときの喜びも、そこからさらにラジオ少年に進化させるまでではなかったのも、なぜか今頃になって残念な気もする。
それは、ラヂオの放送が始まってから、間に戦争と敗戦を挟んで、たった二十数年のことだったのだ。
◇ ◇
オレンジと緑のツートンカラーの“湘南電車”が、発祥の地である東京駅から姿を消してもう十数年になる。それは、1950年に初めて登場した車体塗装の先駆けだったのだ。それまで汽車や電車の色といえば、濃い茶色のようなブドウ色のような地味な色と決まっていた。
そこに登場したのが、目にも鮮やかな配色の湘南電車で、国民の戦後復興に向けた期待にもつながったという意味で、このカラーはただ単なる「電車の色」ではなかった。
中長距離初の電車として、東京=沼津間で運行を始めた80系で採用されたこの色は、「警戒色のオレンジとその補色の緑」だったというが、そもそも郊外電車というものがなかった(市電の延長で走る宮島線はこれに該当しない)当時の広島の中学生でさえ「ミカンと葉っぱの色」だと思って、その沿線の風景を想像していた。
見たこともなく、もちろん乗ることもかなわない湘南電車は憧れの対象だった。四角い箱ではなく、流線形とまではまだいっていないが車両先頭の運転台にちょっと斜めに角度がついたスタイルと、オレンジ色と緑色とに塗り分けられた車体は、大きな夢につながっていた。
模型店のウインドウの中に、そのキットを見つけて、どうしてもそれを作ってみたくなった。プラモデルなどというものは、まだなかった時代、模型といえば木製の部品を削り加工して、組み立てて塗装するソリッドモデル(結果的に電車の場合は中空になるのでサーフェスモデル(中空図形)なのだけれども)だった。その吹き付け塗装だけを、店に頼んでいた。
塗装ができて引き取りに行った日は、春も浅い冷たいかなりの雨が降っていた。風呂敷に大事にくるんで片手に抱え、片手に傘をさして銀山町(かなやまちょう=この字でこう読む地名は全国でここだけだ。まあ、いってみれば広島の兜町)の並びにある勧業銀行広島支店の石壁に沿って歩いているとき、大きな水たまりを跳んだつもりだったがよけ切れず、「しもうた!」と思ったたときにはもう遅い。水の下に隠れていたふたのない深い雨水升に、どっぷりはまってしまっていた。やれやれ、困った。下半身ずぶぬれで…。
そのとき、通りかかった背広姿のおじさんがすぐ手を貸してくれて、建物の地下に連れていってくれた。そこは、銀行の食堂らしかった。昼下がり昼食時間はとうに過ぎていた。おじさんは、そこにいたおばさんに一言二言いうとすぐに消えた。おばさんたちは、とんだ災難だったと気の毒がって、ストーブにあたれ、ズボンを脱いで絞って乾かせと、しきりに世話をやいてくれた。風呂敷も広げてみたが、模型は壊れていないし、木製だからぬれたくらいはどうでもなかった。
そして、うどんをつくって、体が温まるからとすすめてくれた。ありがたくいただいた、そのうどんのおいしかったこと…。
世慣れない中学生は、そのときのおじさんやおばさんに、ちゃんとお礼をいえたのかどうか、思い出すとときどき気になる。その後社会人になってから、勧銀には口座を開いた。預金残高はわずかだが、いまもその銀行の口座は持っていたりする。銀行の名前は、何度も変わった。
湘南電車のソリッドモデルの塗装に、なぜ自分で刷毛で塗らずに、わざわざ店に頼んでまで吹き付け塗装をしようとしたのだろうか。より本物らしくしたいためだったのだろうが、いま思えばそれも不思議なのだ。そのときは、なぜかどうしても、そのオレンジと緑の色は、そうでなければならぬような気がしていたのだ。
それは、意識しないまま、湘南電車への憧れが、東京への都会への憧れにつながっていたのだろうか。
◇ ◇
幼年期に刷り込まれたことは、一生残るものがある。茶色写真のなかの一枚には、タスキをかけマイクを握って選挙演説しているおじさんがいた。「広島に復興の希望の灯をともすプロ野球チームをつくりましょう」と。その人が立つ大型トラックの荷台の横には、「谷川昇」と書いた幕が下げてあった。その人の尽力は大きかったと聞いているが、一人の力ではもちろんない。二リーグ分裂にともなうチャンスに、広島の大勢の人の努力によって、広島カープは生まれることができた。当然ながら、大人もこどももみんな例外なくカープファンになった。
小学校の時には担任の先生が、軟投技巧派のエースの名前と同じで、教室で騒ぐこどもにチョークを投げて「ピッチャー長谷川!」とふざけたり、中学校では資金集めのために、選手の写真とサイン入りのビニール風呂敷が売られたりした。
球団創設直後から始まり、その後も絶えることなく続く長い苦難の道を、ファンもあるときは貧者の一灯のタル募金で支え、万年最下位争いをしていて、一番高い目標が「勝率五割」だった田舎の弱小球団を、どこにも負けない誇りと情熱をもって応援し続けてきた。
それは、市民の熱狂的な応援の工夫にも表れ、昔から内外野のスタンドのさまざまな名物を、他に先駆けて編み出してきたのである。ラッパのおじさんは軍隊ラッパを鳴らしていたが、今はトランペットのコンバットマーチになった。相手がアウトになるたびに鐘を鳴らして囃すのも、今ではどこの応援団もやっているが、カープ応援団の創作だった。
ラッキーセブンに風船を飛ばすのも、カープファンが始めたのだが、これについてはでんでんむしも少しだけからんでいる(つもり)。始めの頃、風船は青や黄色や赤などさまざまな色が入り混じっていた。これはやはりカープの応援用を強調するためには、色を赤に統一したセットで風船を売るようにすべきではないか、その気になれば簡単にできることだ…と、いつもラジオの実況中継を聞いていたRCCの「インターネットスタジアム」に書き込みをした。その翌年から、カープの風船は赤に統一された。
いまさらなのだが、野球というゲームは、実によくできていて、誠におもしろい。ストライクを投げれば狙い打ちもされやすいし、ボールを投げれば打たれにくいが、スリー・ストライクでバッター・アウトになり、フォア・ボールでランナー一塁になる。スリー・アウトで攻守をチェンジし、表と裏で一回になり、それを九回まで繰り返す。ホームランで一点になり、いい当たりでもアウトになり、いい当たりでなくてもヒットになる。コントロールミスだろうがわざとだろうが投手が打者に当てればペナルティが科せられる、打者が塁に出てランナーとなって後続打者のヒットで進塁し、ベースをぐるりと一回りしてくれば得点となる…。
こういった野球の基本ルールそのものも、なにやら人生というゲームの一端を暗示しているような部分もあり、これにさらに個々のプレーヤーの磨かれた技術や判断、それに監督の采配や作戦が加わって、よりゲームとしての複雑性を増していく。「筋書きのないドラマ」という陳腐な形容にも、異論をはさむ余地がない。ゲームだから、勝ったり負けたりするのも当たり前、単にシロかクロかではなく、要は最終の率の争いである。そしてなによりも、とにかくなかなか思うようにはならない…。
新しい球場が広島駅にも府中にも近いところにでき、原爆ドームの向かいにあった市民球場はもう取り壊されてしまった。大事なことは、みんな野球に教わった。よくある慣用句でまとめれば、そういうことだった。
いまは、広島東洋カープは、根無し草のように風に吹かれているでんでんむしと、ふるさとをつなぐ、唯一の紐帯なのだといってもよい。
◇ ◇
でんでんむしのふるさと、青崎の、小中学校時代の記憶を掘り起こそうとすれば、あれこれきりがない。
若さ故の過ちも数限りなく、少年時代のはじめから胸にトゲさすことばかりで、苦い思い出もたくさんある。
中学の教科書にもあったのか、室生犀星のあの有名な詩の一節がどうしても浮かんできてしまう。ふるさとからも肉親からも見捨てられた金沢生まれの詩人は、それでもその名前にふるさとの川の名から一字をとっている。そのふるさとに抱いた感情とはまるで別物で、とても「異土のカタイとなるとても」といった固い覚悟もない。だが、その冒頭のフレーズは妙にしっくりとなじんで居座ってしまう。
ふるさとは遠きにありて思ふもの
そして悲しくうたふもの
よしや
うらぶれて異土の乞食となるとても
帰るところにあるまじや
▼Google Map
(2013/02/11 記)
「ある編集者の記憶遺産」は、これでいちおう終わりです。この続きは、「思い出の索引」年表に引き継がれています。
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はじめまして。
かぼちゃ電車懐かしいですね!昔は何回か乗ってましたがいつの間にか姿を消していたなって印象が残っています。
昔のインパクトのある電車がなくなるのは本当に残念です・・・
私も野球大好きです!!
愛知県なので中日を応援していますが、友人がマツダスタジアムは本当に見やすくて雰囲気がいいので是非行ってみてって前から言っていたので今年は絶対に行ってみたいです!!
by 70240 (2013-02-12 10:13)
@70240 さん、「かぼちゃ電車」っていうんですか。それは気がつかなかったなあ。愛知県もかなり走っていたはずですね。
なんでも、このタイプだと塗装代がかさむので、安くあげるためにいまの流行の帯だけ色のスタイルになったと聞いたことがあります。都市伝説ですかね、それともホントかしら。
中日サンには、このところ分が悪いので、なんとかしたいですね。
マツダスタジアムでは、レフト側の高いとこがビジターの応援席で確保してありますから、ぜひどうぞ!
by dendenmushi (2013-02-12 16:35)