SSブログ

□23:いまはなきイースト・エンドの青崎中学校と図書室…=広島市南区堀越3丁目(広島県) [ある編集者の記憶遺産]

 国道2号線の下に流れた川は、日本製鋼所広島製作所の正門前付近まで、広い入江になっていた。現在の地図で見ると、旧国道2号線の南、日本製鋼所の工場の北西寄りに逆三角形に見える場所があるが、そこが、かつてはその入江だった。砂と泥が混じったような干潟が、潮が満ちてくると満々たる海面に一変する。日に二度ずつそれを繰り返しながら、川は広島湾の東に注いでいく。その川の名前が的場川だということは、近年になってネット地図を見るようになって初めて知ったくらいで、当時は誰も川の名前など知らず、気にもしていなかった。
 この川は、魚釣りのためのエサにするゴカイをとるのに、好適な場所だったし、ハゼもよく釣れる川だった。それに、今思えば、かなり重要なことだったが、当時から岡山では天然記念物に指定されているので有名な、カブトガニがたくさんいたのだ。
 広島湾の東奥には、もうひとつみんなが海田川と呼んでいたが、実は正式名称は瀬野川という比較的大きな川が流れ込んでいる。
 日本製鋼所広島製作所の工場は、この瀬野川と的場川の間に、かなり広い敷地があったが、戦後長い間こどもたちが海遊びに通う工場内の土手の道すがら、赤さびて崩れかかった鉄骨や破れた窓ガラスがそのままに見えていたものだ。
 うわさでは、戦時中は大砲もつくっていたという広い工場は、戦後は鍋釜までつくってしのいだという。同じくうわさでは、機関銃もつくっていた東洋工業は、戦後その技術をさく岩機に転用した(あるいはさく岩機が先で機関銃になったのかもしれない)ものだろう。
1988c.jpgfurusatotohaM03.jpg
 広島市立青崎中学校は、右岸の日本製鋼所の工場設備で、多くが遊休になっていたらしい建物や敷地の一部も使って開校されていたようだ。川が当時の広島市の東端だったから、文字通りの“イースト・エンド”にあった。
 その言葉を知ったのは、これもうわさでは進駐軍の通訳だったという中学校の英語教師が、盛んにそれを連発していたからだ。それが、ロンドンの貧民街を象徴する用語だと気がついたのは、だいぶ後になってからだった。だが、その教師の口ぶりやいかにも軽蔑的な態度から、決していい意味で使っているのではないことは充分わかった。
 中学校のグランドは、小さな新校舎一棟前の一部を除いて、入学当初は崖の下の湿地帯で、しばらくは生徒も先生も、全校あげてのモッコ担ぎで土を運び、たくさんのカエルの住み処を奪いながら、埋め立て作業に精をだしていた。
 そんなくらいだから、設備も万事に整っていなくて、工場施設の一部だったおんぼろの旧校舎は、冬は寒く夏は暑かった。それでも、ピアノが一台置かれた音楽室と図書室と小さな売店があったのは立派なものだ。なにしろ、中学校のある場所は、人家のある場所からも少し離れた、使っているのかどうかわからない工場の建物と山と畑に囲まれていて、近くには店もなかったから、パンなどを売る売店は必須設備だったのだ。
 旧校舎の一階の端の一部屋があてられていた図書室は、こんどは開かずの間ではない。三方の壁面にずらりと並んだ本棚と本は、中学に入って初めて見た異世界への扉だったといってよかった。
 そこで読んだ本のなかでは、よく記憶に残っているのが片っ端から読んだ講談社の「少年少女世界名作全集」と岩波書店の「岩波少年文庫」である。細かいことは忘れたが、図書室で行なう授業もあって、そのときに先生がまだめずらしかったカメラを持ってきて、クラスの男の子全員が図書室の前で本を手にして撮ってくれた貴重な写真がある。
aosakiMSBL.jpg
 女の子は別に撮ったのだろうが、この頃広島では中高一貫の私立女子校がいくつもあって、そちらに通学する子も結構あったので、女子のほうが人数は少なかった。
 記念切手ほどの小さなセピア色の写真は、いまとなってみれば、その時代を切り取った重要な証拠写真となった。
 それというのも、この図書室はもちろん、青崎中学校そのものが、とうの昔になくなってしまったからである。そのときにはもう広島を離れて久しかったので、どういういきさつがあったのかも知らないが、おそらくは長い仮住まいに決着をつけたということなのか。青崎中学校は廃校になって、生徒や先生たちは猿猴川を遡った大洲にできた、新しい大洲中学校へ引っ越していったという。
 青崎中学校というイースト・エンドの母校は、永遠に失われたのである。
 いまの地図で、その中学校のあった場所を探してみると、それとおぼしき付近は日本製鋼所の寮などの施設で埋められ、グランドの南にあった崖の一部は描かれているものの、その上の山はすべて向洋新町という住宅街になっていた。
 「青崎」という名のおこりではないかと、勝手に決めていた広島湾の東端に張り出していた山もなくなった。その崖をなぞるようにして、いまは新しい国道2号線が走っている。
 いつだったか、粗大ゴミのなかに講談社の全集が数冊捨てられていた。あまりの懐かしさに、持って帰って大事にとっておいた。
meisakuzensyuNP.jpg
 だが、後年、岩波文庫で『三銃士』や『モンテクリスト伯』『ロビンソン・クルーソー』などを読んでいて、この全集がいかに“超訳”であったかを知ることになるのだが、未知の世界へ誘ってくれた功績を損なうものではない。

▼国土地理院 電子国土ポータル(Web.NEXT)
furusatotohaM02.jpg
dendenmushi.gif(2013/02/02 記)

にほんブログ村 その他趣味ブログ
その他珍しい趣味へ 人気ブログランキングへ
タグ:広島県
きた!みた!印(31)  コメント(7)  トラックバック(0) 
共通テーマ:地域

きた!みた!印 31

コメント 7

hirochiki

おはようございます。
大変ご無沙汰しております。
本日よりブログを再開することになりましたので
また遊びにいらして下さい。
by hirochiki (2013-02-03 06:50) 

ぱぱくま

地図帳で思いを馳せる子供でしたよ。
航空写真にはわくわくしました♪
今はネットで地図を見る時代で便利になりましたよね。
ネットの情報はどんどん最新化されてしまうので
やっぱり記録としての写真は貴重なのでしょうね。
by ぱぱくま (2013-02-03 15:04) 

dendenmushi

@hirochiki さん、更新時にきた!みた!をいただいたところに行くのがでんでんむしスタイルなので、またおじゃましますよ。

by dendenmushi (2013-02-03 15:55) 

dendenmushi

@ぱぱくま さんもそうでしたか。地図は楽しいですね。Googleのおかげで航空写真も楽しめるようになりました。このブログの隠しテーマは地図なんです。
飛行機に乗っても、窓から下界が見えないのは、ぜんぜんおもしろくないですね。
by dendenmushi (2013-02-03 15:59) 

高田正伸

懐かしい写真です小生が写っています。

4月開校の時、運動場はまだ鉄くずでいっぱいでした。

早く廃校になってしまい残念です。

この写真のどなたか知り合いの人が折られたら、話がしたいです。

では
by 高田正伸 (2015-10-14 03:42) 

dendenmushi

@いつか誰かがコメントをくれるのでは…と思っていましたが、ついに…!

高田さんは、どこに写っていますか。
最前列左から3人目のでんでんむしは、もう当時の同級生の名前なども、さっぱりおぼえていないし、確認する資料もないのですが…。

有名な野球選手のお父さんになった人も、いっしょでしたね。
by dendenmushi (2015-10-14 06:18) 

高田正伸

今日は 。青中の3年3組の写真 小生は前から2列目の右から3人

目です、何か手に持っているようです。

どなたか、野球選手のお父さんになられたのですか?
by 高田正伸 (2015-10-14 18:18) 

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:[必須]
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

トラックバックの受付は締め切りました