□25:記憶に生き続ける先生のことと『菊と刀』のこと…=広島市南区堀越町(広島県) [ある編集者の記憶遺産]
いまになって自分の努力不足を棚に上げて、みぐるしい言い訳と自己弁護をするなら、中学校では国語や社会の先生には恵まれたのに、なぜ英語や数学の先生には恵まれなかったのだろうと…。中学のある時期、尊敬できない先生のおかげで、英語を自分で見切ってしまった。それでも当時、一人で悩みつつあれこれ考えたのだが、自分で勝手な性急に過ぎる結論をだしてしまった。
なんでも先生のセイにするのは、間違っている。だが、それがいちばん納得しやすい理由になることも事実である。近頃では、いじめに自殺に体罰に、学校で起こるいろいろな事件まであって、先生もなかなか大変だ。
あえて極端で勝手な言い方をさせてもらうが、ニュースで知る校長先生・教頭先生や教育委員長といった人たちは、いかにも当事者能力も世間知もなさそうに思えて、いらいらしてしまう。あの学校の先生たちは、いったいどんな先生だったのだろう…。いったんことあると、そうした世間の眼にさらされ、おまけに退職金を減らされないうちに辞めようとすれば、寄ってたかって叩かれる…。
先生を職業に選ぶというのも、結構覚悟がいることだろう。
誰が言ったのかは忘れたので、情報価値は半減するのだが、「お前が何を仕事にしてもいいが、人を教える教師と人を裁く裁判官にだけはなるな」と父親に言われた、という有名人があった。無名人のくせに「なるほど、そういうもんか」と、これにはいたく感じ入って、それだけを真似してきたので、職業選択ではまず一番にそのどちらも除外された。
そこまでストイックになると、ほかの仕事もやりにくくなりそうだが、先生というのはまた特別で、こどもが最初に日常的に接する、親以外の大人であり、他人である。しかも、最初から教えてもらうという受動的立場にいるから、一応そのすべてを受け入れている。それでいながら、だんだんと好きな先生嫌いな先生が、ちゃんとふるい分けられ峻別されていくのである。しかも、目上だしとりあえず先生なのだから、一応は尊敬しなければならない、ということさえもはや通用しなくなった。
考えてみれば、やっぱり敬遠するに越したことはない、ヤバイ職業なのかもしれない。
「忘れ得ぬ人々」などというテーマでは、よく学校の先生が登場するのも、無理からぬところであって、感受性の豊かなやわらかな心に、そっと足跡を残していった先生のことは、いつまでも忘れない。
その頃は、先生も学区内に住むのが当たり前のようになっていて、現在の住所表示では堀越町にあった青崎中学校の先生は、その多くがその周辺に居住または間借りしていて、よく先生の家までいくというこどももあったようだ。何人か、生徒としても気になる先生はいた。
当時、中学の教科には「職業家庭」という、いかにもどうでもいいような科目があって、実際週一回あるかなしかのほんとうにどうでもいい(と学校も教育委員会も思っていたらしい)時間があった。その担当の先生がK先生といって、温厚そうなメガネのおじさんだった。通訳あがりの英語の先生と同じく、うわさでは正規の教師ではない臨時だとか言われていたが、事実はよく知らなかった。
そのK先生の授業が、とても気に入っていて、毎回楽しみだった。心待ちにした授業などというのは、後にも先にもこれだけだったが、これが型破りな授業(それが授業といえるとして)で、およそ教科書などは一度も使わない。今なら教育委員会やいわゆるモンスターペアレントがやり玉に上げるかもしれない問題教師である。
たとえば、あるときはいきなり「寒ブナの釣り方」というのを、何週かにわたって講義してくれる。ただの釣り方ではなく、寒ブナの生態まで含めて、まるでそのときは自分も冬の冷たい小川に糸を垂れているかのような、また自分がフナになったような気分になって、わくわくした。
また、あるときは「日本海海戦で連合艦隊はいかにして勝利したか」というテーマで、これが微に入り細にわたって何週か続くのである。こんなおもしろい授業はない。みんなも興味津々だった(と思いたい)。K先生に教わるわれわれのクラスは、司馬遼太郎の『坂の上の雲』を知る何十年も前に、あの本の図版にもある「東郷元帥のT字型戦法」(その頃は「T」だと思い込んでいたのだが、どうもこれは「丁」だったらしい)の一部始終を、中学の教室の黒板で教わっていたのである。
あるときの授業で、K先生は黒板に大きく『菊と刀』と書いて、中学生でもこれくらい読まなきゃだめだ、と言った。それで、図書室で借りて無理して読んだ(つもりになった)。
現在では講談社学術文庫に入っていて、その評価をめぐってもさまざま論議があるが、1948(昭和23)年に『菊と刀』社会思想社版が出たのは、原著刊行からもまだそう間がない頃で、当時の日本のインテリには大きな影響を与えたらしい。
数年後、改めて文庫版を自分で買って読み直した。思えば、これも日本が敵を知らず己を知らぬまま、いかに無謀な戦争にのめり込んでいったか、という嘆きに拍車をかけるものであるが、敵は戦争前から日本についてこれだけの情報を集め分析していた、ということがわかるだけでもすごい本だったのだ。いまではこれに対する批判も盛んであるが、当時の読者は素直に、初めて自分の姿を姿見に写して見るような気分に襲われたに違いない。
ルース・ベネディクトのこの本は、日本研究の古典であり、以来今日まで書店の店頭から消えたことはない。それどころか、これがまた新装版になって近年やたら平台で目立っていたので懐かしかった。
考えてみれば、中学生にこれを読めというのもずいぶん無茶な話で、当時の新制中学の生徒にわかるようなレベルではない。だが、本というのはわかる本、おもしろい本だけ読んでいてもダメなのであって、背伸びして読むものでもあるということを、K先生はあわせて教えようとしたのではないかと、いうような気がしている。
お陰で、広島の本通りに出かけて行って、広文館や金正堂で背伸びして本を買うことを覚えた。といっても、お金があるわけではないから、並んでいる本だけ見て、買うのはいつもいちばん安い★一つの岩波文庫くらいだった。
K先生は、次の春が来る前に不慮の死をとげられた。みんなで葬儀に参列してお別れをした。これまたうわさ好きのあいだでは、酔っぱらって川へ落ちたとか、いろいろ言われた。いや、きっと先生は、川の寒ブナの様子を見ようとして…。
「ものごとを知る喜び」を教えてくれたその授業は、始まったときと同じように、いかにも唐突に終わってしまった。
▼国土地理院 電子国土ポータル(Web.NEXT)
(2013/02/06 記)
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