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□28:やはり東洋工業とバタンコのことは欠かせない記憶…=安芸郡府中町新地(広島県) [ある編集者の記憶遺産]

 東洋工業は、松田重次郎が創業し、松田恒次が伸ばし、松田耕平がみとった。戦前から、コルクやさく岩機などの製造をやっていたが、発展の基礎を築いたのは、なんといってもバタンコの製造で、これが後に自動車メーカーへと成長していく源となった。“バタンコ”というのは、やはり説明も必要だろうか。三輪トラックのことである。前輪が一つで、これにスクーターのハンドルのような大きいのが直結して、方向を決める。同時にこれが駆動部分で、運転者はエンジンの後ろにまたがるようにして乗る。その横には小さな助手席がついている。後輪の上には四角い荷台がついていて、主に荷物を運ぶためのトラックである。オートバイのように、足でスターターを強く蹴ると、バタバタとエンジンが起動する。
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 東洋工業では、これを戦前からつくっていた。広島市の東の端にあったため、原爆による直接被災をかろうじてまぬかれた工場で、終戦の翌年からはその生産を再開し、それから10年後には累計で20万台を数えた。バタンコは、各地で「バタバタ」とか「オート三輪」とか呼ばれ、戦後復興に大いに貢献した運送手段だった。ダイハツやくろがねもあり、ほかにもみずしま?といったメーカーもあり、東洋工業(ブランド名=マツダ)の独占とはいえなかったが、とにかく一世を風靡した車だったのである。
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 青崎中学校に通っていた頃、印象に残るできごとがあった。いわゆる企業城下町という意味では、何ほどのこともなかったが、その中学校には、お膝元だけあって、東洋工業で働く社員工員の子弟も多く、当時は彼らは地域のエリートのこどもだった。地元の有名大企業という意識はそれなりにあり、工場見学にも行ってバタンコの製造ラインを見たことがある。
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 どういういきさつがあってかは知らないが、東洋工業が一台の中古バタンコを、中学校に寄贈してくれたのである。さっそく「自動車部」なる部活もでき、湿地を生徒みんなで土を運んで埋め立ててつくった校庭を、バタバタと走っていた。中学生で免許もないのに…? こども心にも、「ほーかぁ。ええ会社いうなーそういうこともするんじゃのう」と思った記憶がある。
 当初は吹きさらしだった運転台にも、屋根がつきドアがつき、前輪丸出しでカクカクとしたデザインも丸みを帯びたスタイリッシュなものに変わっていった。
 それらの製造工程の一部は、周辺にできていた下請けの工場でもつくられていて、でんでんむしの“わが谷は緑なりき”の下流の線路近くにも、そうした工場が拡がっていた。工場から油膜の虹色を反射する排水が、小さな川にも流れ出し、イトウナギもいなくなってしまう。
 東洋工業が三年連続でトヨタ・日産を抑えて、自動車生産台数でトップを守ったこともあるが、巨大化した恐竜が絶滅するように、大型化したバタンコの最期はあっさりとやってきた。が、それを契機にした東洋工業は“R360クーペ”で小さな四輪メーカーに転身を図る。
 ほんとうに今から見れば、小さくてまるっきり遊園地の乗り物のような車であったが、偉大な四輪自動車なのである。1960年に発売されたこのクーペこそが、日本人が初めて“自分で買える”と思った車だといえる。一般に、その数年前に出ていたスバルがそうだといわれるが、30万円という価格の点で、これこそが日本の庶民でも車が買えるという夢を広く実現させ、モータリゼーションの黎明を引き寄せ牽引したことは確かだ。
 R360クーペが出て、広島の町でもたくさん走るようになった頃には、もう広島のイーストエンドを離れていた。地元だったという以外に、何の接点もなかったが、その後の画期的なロータリーエンジンの不運や、企業買収などさまざまな荒波に揉まれ変貌していった東洋工業には思い入れがあり、つい身びいきになる。
 やっぱり車を買うならマツダだな、といっても、免許をもたないので車もいらないし買わない。
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 東洋工業は社名もブランド名のマツダに変わり、経営も松田家の手から離れた。その間、工場は黄金山の南の海へ拡大し、大きな自動車輸送船が宇品工場に接岸するようになり、猿猴川には4本もの橋ができ、高いバイパスが広島湾の東端をよぎるようになった。苦労しつつも、いちおう世界にも進出する四輪メーカーとしての歩みを続けている。
 いまの地図でみると、マツダの本社があるところは、安芸郡府中町新地となっている。鹿籠(こごもり)や桃山には覚えもある。だが、新地とはこれまで聞いたこともない地名だ。全部が東洋の敷地だったから、一般に周知していなかっただけなのだろうか。

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dendenmushi.gif(2013/02/10 記)

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タグ:広島県
きた!みた!印(24)  コメント(4)  トラックバック(0) 
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きた!みた!印 24

コメント 4

abms4144

3輪トラックは10代の頃によく見かけましたね。
その頃我生まれ故郷は道路除雪なく、道路通行は馬橇のみ。

冬用なら困難かな…
駆動は一輪のみ、いくら重量のあるエンジンがあっても牽引困難
また雪に埋もれた道、わだちの道ではハンドル操作困難

雪のない南国に適した車両? 無知の自分なりの判断です。
広島はマツダ車両のシェアは抜群と思いますね。
by abms4144 (2013-02-11 10:57) 

dendenmushi

@まあそうでしょうかね。雪国用につくられたものとは思えません。もともと、四輪自動車普及時代へのつなぎのような役割しかなかったという点で、その延長線上に発展はなかったのだと思います。
その点では「ワープロ」にも似てるところがあります。
広島のタクシーは全部がマツダ車だったころもありますが、今ごろはそうでもないようですよ。
by dendenmushi (2013-02-12 07:30) 

茶色の小瓶

バタンコ。
思い入れのある言葉です。
父が東洋工業に在籍していた当時、運転検査を担当していたとのこと。
広島~東京ノンストップランのドライバーとして、広島~兵庫あたりまでを走ったそうです。
by 茶色の小瓶 (2014-02-10 01:33) 

dendenmushi

@茶色の小瓶 さんもそうですか。バタンコ。そう、思い入れありますよねこの言葉というか名前というか…。
お父さんが運転されたというノンストップランというのは、四輪ではなくバタンコだったのですか。
とにかくある時期は大活躍した車なので、そういうイベントを企画したとしても、納得できますね。
「グレンミラー物語」のラストでジューン・アリスンのアップに流れるのが、「茶色の小瓶」だったような…。
by dendenmushi (2014-02-10 07:52) 

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