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□27:こどもの頃ほしかったものは写真機と万年筆で… =広島市(広島県) [ある編集者の記憶遺産]

 こどもの頃ほしかったものは、写真機と万年筆であった。今では物欲はないほうだと自信を持っていえるが、こどもはそうではない。あらゆるものに飢えていて、ほしいものはたくさんあったような気がするが、たいていそれが満たされることはなかった。なかでも、この二つは、のどから手が出るほどだったが、やはり手にすることは叶わなかった。
 写真機は、長い間憧れではあった。手が届かないカメラとも写真とも違うが、日光写真というのも流行った。雑誌の付録にカメラと溶かして使う現像・定着液がついたということもあったが、そんなもので写真がうまく撮れるわけもなかった。いちばん確かに成功したのは、ピンホール・カメラだったが、これもホントのカメラとは違う。
 中学生の終わり頃だったか、当時いちばん安いスタートカメラというおもちゃのような、固定焦点のボックスカメラが初めて手にしたカメラだった。結局、一時ブームになった二眼レフカメラは、どうもこれは格好があまり美しくないので敬遠し、本格的なカメラはだいぶ後に給料をちゃんともらえるようになってからだった。DPEも自分ではやらなかったし、その後もちょっとだけ芸術的写真に志向したことはあったが、それ以上写真に大きく引き込まれることはなかった。
 小学生の頃は、敗戦直後とあってろくな筆記用具はなく、鉛筆は削りにくく芯はガリガリして折れやすかった。当時の鉛筆はトンボでも三菱でもなく、いいほうで丸いマークの「地球鉛筆」か三角のマークの「コーリン鉛筆」だった。
 万年筆を買えたのは、中学生になってからだった。
 その前に、小学校4〜5年生の頃だったか、NHKラジオのクイズにハガキを出して、その賞品に金色に輝く細身のシャープ・ペンシルが送られてきたときには、ものすごくうれしかった。
 ずっと後になって知ったことだが、この胴を回せば鉛筆の芯だけがするすると出てくる画期的な筆記用具は、早川電機工業の創業社長早川徳次が発明したのだった。その縁を大事に感じて、自分で初めてレコードプレイヤーを買うときは、シャープのを買っていた。
 かつては“目のつけどころがシャープでしょ”で、飛ぶ鳥も落とす勢いだった電機会社は、その名を社名にしてきた。が、どこで目のつけどころを間違えたのか、まさかこんなことになるとは、早川徳次さんも想像できなかっただろう。
 中学生になって買った万年筆というのは、修学旅行で京都の旅館に泊まったときだった。あれは西陣辺りの旅館だったような気がするが、夕食が終わった頃を見計らって、そういうこども相手に商売にやって来るおじさんがいた。荷台にたくさんの引き出しケースを積んだ自転車を旅館の前の道路に止めて、ケースを引くとそこにはさまざまな色のピカピカの万年筆が、ズラリと何段も並んでいた。
 値段がいくらだったかは覚えていないが、中学生が修学旅行にもってくるお小遣いで充分買える金額だったのだろう。うれしくなって緑色のを喜んで買ってしまった。たまにもれてくるインキを拭き取りながら使っていた。
 現在では、手書きはもっぱら150円のボールペンであるが、そもそも自筆で文字を書くということが、極端に少なくなってしまった。その理由ははっきりしている。そもそも下手な字を書かなくてもいい、それが動機と狙いの一つでもあったのだが、コンピュータを使うようになったからだ。
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 もちろん、万年筆ももっている。その一本は、商売柄ちゃんとしたものも持っていないと具合悪かろうと、今から40年も前に初めてヨーロッパに行ったときに自分へのお土産に奮発した黒い「モンブラン」。もう一本の茶色いのは、20年くらい前にそれまで勤めた会社を辞めるとき、同じ職場の若い人たちから餞別にともらった大事な記念の品で、知る人ぞ知るという名品、イニシアル入りの鳥取の「万年筆博士」のものである。
 インキにカッコつけるやつはペリカンがいいとか、アテナでないととかいっていたが、でんでんむしはもっぱらパイロットインキだった。このインキ。月島にいたとき、朝潮橋のナナ文具の棚の奥に一つだけ残っていたのを見つけて、当時の値段シールのままの60円で買ってきたものだ。
 相変わらず、字はうまくなっていない。第一、日常まるで書いていないのだし、“にっペンのミコちゃん”(これもこの頃きかない)をやったわけでもないので、うまくなっているわけがないが、今更カッコつけてみてもしかたがない。字が下手でも、なんの臆することもない。
 そういえば、中学のときには、漢字の書き取りテストで居残りをさせられて、先生からおこごとをもらったことがある。この頃からもう既に充分にへそは曲がっていたので、漢字の効率的でないことに問題を感じていた。だから、これを覚えなければならないということ、それをテストすることに割り切れないものを感じていたのだ。
 外国の映画では、タイプライタをぱちぱちやって手紙も原稿も書いているのに、書き取りでは対抗できんではないか。漢字も記号なら(ほんとはそれだけではないけれど)、そのうち機械でできるようにならなければ…。そうなれば、字が下手なのも問題でなくなる…。きっと…。
 そんな思いをずっと引きずっていたのが、後年まだわけのわからないうちから、日本語も漢字も使えないマイコンの黎明にいち早く飛びついて、それに乗っかってずっと今日まで至る伏線になっているので、中学生といえどもバカにしたもんでない。

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dendenmushi.gif(2013/02/09 記)

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タグ:広島県
きた!みた!印(16)  コメント(2)  トラックバック(0) 
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コメント 2

abms4144

私のブログにコメントありがとうございます。
茂津多岬を是非みて頂きたく、お尋ねに同頁でお応えしています。

懐かしいお話、私の初めてのカメラは昭和30年代半ばを越えて~
ヤシカミニシター2.8 私の骨董品
書はボールペンまだなく、ペン先にインクを付けてのペンでしてね。
当時ペンフレンドが盛んなとき、相手方からは万年筆が多と思った。
by abms4144 (2013-02-10 14:32) 

dendenmushi

@ペンフレンド…ありましたねえ。やりましたねえ。恥ずかしい記憶も蘇ってきました…。(笑。。
by dendenmushi (2013-02-11 08:21) 

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