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白保のサンゴ礁は有名だが見つからない柳田国男の歌碑も海上の道に没したのか(27) [石垣島だより]

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 二度目の白保行きは、7キロくらいはゆうに歩くことになってしまった。明和大津波慰霊碑を探して歩き、その足で宮良の集落に降りたが、バスの便とうまく合わず、結局白保まで歩いてしまったのだ。それだけでなく、白保では今度は柳田国男の歌碑を探し回って、またよけいに歩いてしまった。
 白保は、石垣島の地名のなかでも、川平に並ぶくらい有名なのかもしれない。一時期は、ここのサンゴ礁を埋め立てて飛行場をつくるというプランが持ち上がり、地元だけでなく全国から反対の声があがったこともある。また、いつだったかはどこぞの新聞社のカメラマンが、テーブルサンゴだかなにかにナイフで自分のイニシャルを刻み込んだというので、スキャンダルになったりした。
 サンゴは“動物”であるから、いってみれば石垣牛の背中にナイフを入れるようなものだが、こういうことをする人間の心理というのは計りがたい。
 そんな事件で有名になったという側面もあるかどうか、白保のサンゴ礁はとにかく有名である。石垣島には何度か来ているでんでんむしも、白保はいつも390号線を通り過ぎるだけで、海岸まで行ったことがなかったので、今回はぜひ行ってみなければ、話にならない。
 それにまた、島の中心で人が集まって暮らしている場所の、東の端に位置するのが白保である。東運輸のバス路線も、白保線が30分に一本走っている島のメインルートの終点。
 実際に来てみると白保は古くて静かな集落である。ここまで来ると、やっと昔の八重山の民家の風情が感じられる。赤瓦の屋根に、サンゴ石の石垣、屋敷林としては定番のフクギが巡らされている。
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 サンゴ礁に潜りたい観光客向けの施設や店なども、ほとんどないといってもいいくらい。白保のマリンレジャー基地としての意味合いと役割は、もともとあまりなかったのか、今ではもうほとんど薄れてしまったのか…。
 サンゴ礁の海岸は、港ができない。そこで、小舟の係留場所を、海岸の岩を動かして並べて船着き場をつくっている。海岸に建つ「舟溝開碎記念の塔」が意味するものは、固いサンゴの地盤を掘り抜いて、舟を入れる苦労をしたという証しなのだろう。だから「碎」なのだが、その溝もよくわからない。北へだいぶ離れた岸辺には、観光用のグラスボートが一隻、所在なげに浮かんでいる。このへんが溝なのか。
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 ゆるい弧を描いて広がる、白保の海岸は静かで、人っ子ひとりいない。
 遠く、横一筋に白い波の線が、海に潜むリーフ(八重山では「ピー」という)の存在を示している。
 そこに砕ける波の音が、海鳴りのように風に乗って絶え間なく押し寄せてくる。そこにしばらく佇んで、柳田国男の歌碑は、どうして見つからないのだろうと思うが、もちろん一人で考えても真相がわかるわけでもない。
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 確かに、白保に二三か所にある案内看板には、海岸の北のはずれにあると表示してある。ところが、二度もかなり歩いて探したのに、見つからない。見落としたということも考えにくい。
 そこに刻まれているはずの歌は、わかっているから、別に見つからなくてもかまわないのだが、凡人はこういうところも見てみないと気が収まらないだけで、なぜ見つからないのか、というほうがより大きな問題として気になってしまう。
   あらたまの まさごにまじる たから貝
      むなしき名さえ なおうもれつつ

 幼少の頃から非凡な記憶力を持ち、旧家の膨大な蔵書を読破したという柳田国男が沖縄八重山を訪れたのは、1920(大正9)年、45歳のときの一度きりであった。
 そして、『海上の道』を出版するのは、87歳で亡くなる前年の1962(昭和37)年のことで、40年以上も経ってからであった。
 柳田は養子に入った家の名で、実家の姓が「松岡」なのだが、それと関係あるのかどうか(凡人はまたそういうところが気になったりする)、同じ姓を名乗る松岡正剛は、その非凡な読書録である『松岡正剛の千夜千冊』の最後に、この本を取りあげているのだ。
 そして、「日本人はどこから来て、どこへ行くのか。それが柳田の最後に語ろうとしたことだった。」という松岡は、その“第千百四十四夜【1144】2006年5月22日”の稿の最後を、こう締めくくっている
 けれども、柳田はこれを書いた一年後に没した。まさに海上の道に没したのである。ぼくもそのように終りたいものだ。
 う〜ん、やっぱりなにか関係ありそうだな。 凡人には、そんなことしか書けない。
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dendenmushi.gif沖縄地方(2012/01/28 記)

 柳田国男の歌碑⇒思ひやる八重の汐々…石垣島の柳田国男の歌碑は三度目の正直でやっと“発見”(40) (石垣島だより シーズン2)

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やっと探し当てた明和大津波遭難者慰霊碑はもう記録からも記憶からも遠くなって(26) [石垣島だより]

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 八重山の古記録大波之時各村之形行書によれば 乾隆三十六年(日本年号明和八年)三月十日(一七七一年四月二四日)午前八時ごろ大地震があり それが止むと石垣島の東方に雷鳴のような音がとどろき 間もなく外の瀬まで潮が干き 東北東南海上に大波が黒雲のようにひるがえり立ちたちまち島島村村を襲った 波は三度もくりかえした 史上有名な八重山の明和大津波である
 津波は石垣島の東岸と南岸で激甚をきわめ 全半壊あわせて一三村 ほかに黒島 新城二村が半壊し 遭難死亡者は九三一三人に達した 
 こうして群島の政治 経済 文化の中心地石垣島は壊滅的打撃をうけ 加えてその後の凶作飢餓 伝染病などによる餓死者 病死者も続出して 人口は年年減少の一途をたどり 人頭税制下の八重山社会の歩みを一層困難なものとしその影響はまことに計り難いものがあった
 この天災から二一二年 狂瀾怒濤のなかで落命した人人のことを思うとき いまなお断腸の念を禁ずることができない このたび有志相謀り 群島全遭難志望者のみたまを合祀してその冥福を祈り あわせてこの未曾有の災害の歴史が永く後世に語りつがれていくことを念願し 島内外各面の浄財と 石垣市 竹富町 与那国町並びに諸機関 団体の御協力を仰いで ここにこの塔を建立した
 一九八三年(昭和五八)四月二四日
     明和大津波遭難者慰霊碑建立期成会

     
 今から241年前におきた、この地震の規模は、マグニチュード7.4で震源地は石垣島の白保崎南南東40キロメートル。津波は、“潮揚高貮拾八丈”(84.8メートル)で、沖の石は陸へ寄せ揚げ、陸の石ならびに大木は根こそぎ引き流されたと、古記録に伝えられている。
 全潰した村は、石垣島の真栄里、大浜、宮良、白保、仲与銘、伊原間、安良、屋良部の計8村、半潰した村は、石垣島の大川、石垣、新川、登野城、平得、離島の黒島、新城の計7村であった。
 ネット地図では国土地理院のも含めてすべてなにも表記がないが、宮良川左岸の海岸からはだいぶ奥まった場所に、明和大津波遭難者の慰霊碑があると、ひとつだけとある観光ガイドの地図には記してあった。
 そこで、それを訪ねて宮良橋から探しながら歩いてみたのだが、どこにもそれらしいものが見あたらない。老人ホームのような施設の敷地で、草刈りをしている人に聞いてみてもわからない。なおも歩いていくと、サトウキビの畑の向うになんとなく丘のように見えるところがある。
 建てるとすれば、だいたいそういうところが選ばれるはずだと、その丘を目指して畑の泥んこ道を行くが、なかなか丘へ道がつながらない。サトウキビ畑の手入れをしていた人がいたので、声をかけて尋ねると、この裏手がそうだという。看板もないからわかりにくいけどと教えてもらったように道を回り込んでいくと、看板はないのではなく草むらに転がっていた。
 大きな人の背丈に倍する岩がいくつか立っている。こちらは転がっているというより明らかに立っている。これはもしかして「津波石」なのか?
 それにしても、まさか標高60数メートルもあるここまでは…?
 いやいや、84メートルの津波ならば、もっと高いところまででも…?
 この岩を背にするようにして、慰霊碑はあった。冒頭に掲げた文はこの碑文の文字を写した。
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 草木のあいだに埋もれるようにしてある慰霊碑に手を合わせて、前の奥を見ると、高いところにあるのは石棺のようなつくりのものであった。
 この場所と背景の岩と津波との直接的な関係性については、碑文はなにも語っていない。慰霊碑がある場所からは、海と宮良湾ははるかに遠く下のほうだった。
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 来た側とは反対の東側に出ると、やはり看板が、いや元は看板だったものの名残りが…。 それでも、宮良小学校の高学年のこどもたちは、ここにお参りすることもあるという。
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dendenmushi.gif沖縄地方(2012/01/27 記)

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先島諸島の無土器文化の位置づけは不思議だがいったいどういうものだったのだろうか(25) [石垣島だより]

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 オヤケアカハチ・ホンカワラの本拠地の遺構が、フルスト原遺跡だとする説には異論を強調する専門家もある。その大きな理由は、フルスト原自体にそれを証明する物証が発見されていないことにある。また、土地の古老などの言い伝えにも、それを示唆するものがなにもないことをあげ、琉球の史書「球陽」にある表現も、舟の出入りや荷物の上げ下ろしなどにも、より海に近くて便利なはずの大浜のほうがあっている、そにこそ居城も求められるべきだ、としている。
 具体的に言い伝えから「大浜43番地」あたりをあげている研究者(大濱永直著『八重山の考古学』1999年先島文化研究所)もある。その付近は、390号線が貫き、民家が建ち並んでいるところなので、新たな発掘調査も不可能だろう。
 その説では、オヤケアカハチが大浜を本拠として活動していた頃をその終りに含む12世紀から16世紀にかけてを、“スクの時代”としている。
 その頃は、台湾や大陸との間でスパイスや宝貝(この時代、貝は貨幣替わりに使われる貴重品)などを交易品とする積極的な私貿易(密貿易)が盛んに行なわれた。中国からは、陶磁器が日常雑器として持ち込まれ、スクの遺跡から見つかる中国製陶磁器やその破片は、本島や本土とも比べものにならないほど多彩で大量だという。
 航海術にも長け、船をサンゴ礁の切れ目(裾礁)に入れ、交易品を積み下ろしするスクの周囲は、それなりに栄えていたのだろう。農業と牧畜もあり鉄器も使い、集落には首長をいただき、婦女子は装飾品で身を飾り、本島や明王朝や大和本土とも朝貢関係があったようだ。
 そうした先島文化末期の頂点にオヤケアカハチはいたのだが、1500年の“乱”によって一時代に突然幕が引かれる。それまで保たれていた八重山の独立性は失われ、琉球王朝による密貿易の取締り強化と、住民の強引な移住政策の強要によってスク時代の集落は衰え、活動的な交易集団も急速に姿を消してしまう。
 同じ資料で、その前の時代をみていこう。
 そのスク時代の前から1400年くらい遡った頃から、先島諸島では無土器文化と呼ばれる一時代があった。この時代の文化の痕跡は、シャコガイ製の貝斧や石器や食物の調理に使う焼石などが発見されているように、フィリピンなどの南方諸島とのつながりや類似性が特徴的なのである。
 焼いた石のうえにバナナの葉などにくるんだ食物をのせ土や葉っぱをかぶせて蒸し焼きにする光景は、今でもテレビの南洋ドキュメンタリーなどで見ることがあるが、それと同じような生活を営む人々が、この地域の島々で1000年以上の長期間にわたって暮らしていた。
 では、その前はどうだったのだろうか。
 今から約4000年前〜3300年前頃の遺跡からは、ウシの耳のような取手のついた赤色を帯びた土器が発見されている。この時代も少数だが大陸からの陶磁器が持ち込まれた形跡がある。先島諸島のこの時代の文化は、赤色土器文化といわれるが、この時代とその後に来る無土器文化の時代の間には、約800年ほどの空白期(ミッシングリング)がある。
 無土器文化の時代は、前の赤色土器文化とも直接的なつながりはないうえ、その後にくるスク時代へも継承はなく、無土器人は離散してしまったか、貴重な貝を求めてやってきた外来者に追われて逃避してしまったか、時代は断絶してしまう、まことに不思議な時代があったのだ。
 八重山の調査や考察は、明治期の鳥居龍蔵や大正期の柳田国男が有名だが、戦後の1958(昭和33)になって初めて、各学術分野にわたる総合的な調査が行なわれた。早稲田大学の「八重山学術調査団」の結成派遣がそれであった。これには、当時の早稲田大学の総長が石垣島出身の大濱信泉(1891〜1976)だったことが大きく、この調査によって“早稲田編年”といわれる八重山独自の歴史編年も残し、後の研究に貢献した。石垣港のほど近くに、早稲田大学の時計台を模した記念館ができているが、今回は行く機会がなかった。
 この早稲田編年では、先史時代を12世紀末を境として無土器時代と土器少量時代に分け、その後に多量の海外陶器を含む時代がきた、としていた。
 それが、現在では炭素14測定法による年代測定の結果、“無土器⇒土器少量”ではなく、“土器少量⇒無土器”と逆転してしまったのである。 普通、常識的に考えれば、無土器の後に土器が出てくるというのが当然な流れのように思うのだが、ここでは、土器⇒無土器⇒土器という時系列が存在していたわけで、早稲田大学が間違えるのは無理からぬことであった。
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dendenmushi.gif沖縄地方(2012/01/26 記)

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石垣のマングローブはやっぱり西表には負けてるけどおかげさんで「西表石垣国立公園」になった(24) [石垣島だより]

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 “マングローブ”も、“南十字星”ほど一般的ではないが、南をイメージすることばとして馴染んできたと言えるかもしれない。熱帯または亜熱帯地域の河口など、海水と淡水が混ざりあう汽水域の湿地に育つ森林は、生態系からも環境系からも貴重である。浅い干潟、波の影響の少ない場所、豊かな栄養分を含んだ泥のなかで、マングローブは生長する。
 ただ、“マングローブ”という場合、同じ表現で森や林を指すときと、木の種類を指すことがあるが、“マングローブ”という名の木があるわけではない。マングローブの森林を構成する樹木の種類は、世界中では100種類もあるといわれ、それらは植物学的分類では主にヒルギ科、クマツヅラ科、ハマザクロ科の3科に属する種であるという。
 石垣島では、オヒルギ(ヒルギ科)、メヒルギ(ヒルギ科)、ヤエヤマヒルギ(ヒルギ科)、ヒルギダマシ(クマツヅラ科またはキントラノオ科、ヒルギダマシ科)、ヒルギモドキ(シクンシ科)、ハマザクロ(ハマザクロ科、別名マヤプシキ)の6種がある…と、情報を引っ張ると出てくる。
 モドキだのダマシだの、名前を並べてもさっぱりわからないし、見てもその区別はつかない。だいたい植物の科とか種とかが、シロウトにはそもそもよくわからない。が、要は“マングローブ”と一言でいうけど、実はこんなに多種多様ですよ、ということだ。
 でんでんむしは、石垣島のマングローブといえば、ラムサール条約登録地にもなっている西部の名蔵アンパル(網を張るの意だというが定かでない)が最大だと思っていた。
 2007(平成19)年にそれまでの「西表国立公園」が拡張されて、石垣島も編入され、石垣島と西表島との間にある石西礁湖を取り込む「西表石垣国立公園」がめでたく誕生。これによって名蔵も国立公園の特別地域にもなったが、実は宮良川河口のマングローブが石垣では最も広いのだという。
 「宮良川のヒルギ林」として国の天然記念物に指定されているが、西表島の仲間川や浦内川のマングローブを知りそれらと比較すると、いささかちゃちく見えてしまう。だが、ここは石垣島限定。
 最近では、島北部の野底にある、吹通川のヒルギ群落も売出し中である。
 素人目には地表のさらに上のほうからタコ足状に根っこ(呼吸根)を広げて幹を支え海中に根を下ろすヤエヤマヒルギが、最もマングローブらしく思える。
 また、タネで飛び散って親木から自立しようと、海中にひょろりと一本だけ小さな葉っぱを広げて立つ姿も、いかにもマングローブらしいのだが、宮良川の場合、陸地からヒルギ林を眺められる場所は、宮良橋くらいしかなく、そこからではそれらが観察できるわけでもない。
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 名蔵では、海岸の道路脇にもいくつかそういう場所があるが、ここ宮良川では、河口付近にヒルギが芽を出しているという光景は、どうやら見られないようなのだ。そこで、雨の中を車で通りかかった名蔵のほうの海岸の光景も合わせて…。
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 宮良川のヒルギ林の見物は、やはりカヌーや舟でと、体験観光の宣伝もされているが、でんでんむしはまだ体験していない。なんでも、名物おじいがガイドしてくれるらしいのだが、カヌーは誰かが漕ぐのに乗ってもおもしろくない。やはり一人で漕いでみたいし、それなら西表島の仲間川のほうが…。
 サンゴ礁に取り囲まれた島では、河口など一部切れ目割れ目のような場所にしか、船(または舟)をつけることができない。オヤケアカハチの居城が大浜であったにせよ、フルスト原であったにせよ、この河口こそがその活動の拠点になる港だったことは確かである。
 今は、もうその名も消えてしまっているが、ここらは「フナツキ」という古名もあった。
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dendenmushi.gif沖縄地方(2012/01/25 記)

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ここがオヤケアカハチの居城跡なのか?フルスト原遺跡で先島諸島の先史時代に思いをはせる(23) [石垣島だより]

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 奄美群島から八重山諸島にかけての、琉球弧とも呼ばれる地域に多いのがグスク(本島読み)とかスク(八重山読み)と呼ばれる遺跡である。「御城」とか「城」という字を当てているので、本土の大名の城を連想してしまうが、それともちょっと違う。
 御嶽を取り込んで大きくなった聖域であるとか、環濠や石垣で囲んだ集落であるとか、地域の有力者の居城であるとか、いくつかのタイプ別要素がある。
 石垣島にもグスクがある。それが、石垣空港の滑走路の北端の延長線上にある、「フルスト原遺跡」である。
 その所在地は同じ大浜だが、オヤケアカハチの像がある集落からは800メートルくらい北北西にあたる台地の上である。“グスク状の遺跡”といわれているように、台地のあちこちに十数か所もの石垣で囲まれた家の跡のようなものがあるが、これらは発掘され再建復元されたものである。
 石は当然この島で取れる珊瑚性石灰岩で、現在でも家のまわりを同じようにして囲っているのが、なにかおもしろい。ただ、ここの石垣は、通常の民家の石垣より全体的に高く、低いところでも2メートルくらいはある。
 ちゃんと御嶽の跡もあって、囲いの中からは陶器の破片などが見つかっているが、遺跡としてはあまりはっきりしたことがわかっていないようだ。
 ともかく、大浜の集落付近では、オヤケアカハチの居城跡のような遺跡が見つかっていないことから、このフルスト原遺跡がそうではないかという説は根強くあったらしい。それを立証する史料は、現在まで見つかっていないが、琉球王国の歴史書の記述にもあうというので、その可能性は高いとみられている。
 同じ場所には貝塚もあったので、先史時代からの複合遺跡なのだろう。先島諸島の考古学研究も各所で発掘調査が進み、ここも1978(昭和53)年に、国の史跡に指定されている。
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 ただの石垣といってしまえばそれだけのことだが、なかなか味わいのある石垣である。そう思って眺めていると、石垣空港を飛び立った飛行機が、めずらしく晴れた青空を舞い上がっていく。石垣島でも、長い歴史のなかで、海岸線は押したり引いたりしているはずで、宮良湾を望む台地は、昔の人にとっても住むのに適した一等地だったのだろう。
 縄文土器も弥生土器もどちらも発見されていない八重山諸島の先史時代には、大変興味深いことが多いようだ。
 北の入口から入って、南の入り口へ出た。そこはもう大浜の集落の北の端で、おしゃれな家が多い。
 大浜中学校の近くに、これまたおしゃれなパスタ屋さん。こんな住宅街にぽつんとある。自宅を改装した白い壁の赤い矢印に導かれて入ってみると、第一線を退いたご主人が厨房に立ち奥さんが店の客に運んでいるという感じの店。いただいたキャベツとアンチョビ(だったと思う)のパスタは、とてもおいしかった。
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dendenmushi.gif沖縄地方(2012/01/24 記)

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石垣島は駅伝もマラソンもトライアスロンも自主トレもキャンプも…(22) [石垣島だより]

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 昨年の秋の終わりから今年の始めまで、日照時間が平年の3ないし4割がたしかなかったという石垣島では、作物への影響も心配され始めている。このたよりの最初でも、いつも冬場はすっきりした天気の日が少ないと書いていたのだが、それをも越える事態らしい。
 それでも、気温は20度程度はあるので、いろいろなスポーツのトレーニング地としても利用されている。先週だったかの地元の新聞で、広島カープの嶋選手が松山選手など若手とともに来島して、自主トレーニングを始めたという記事があるのを目にした。
 ちょうど、そのころ、中央運動公園を歩いていたのだが、室内練習場の横のサブグランドで数人の人がなにやらやっているなと、横目で通り過ぎた。その前に新聞を読んでいれば、もっと近くによって確かめ、サインくらいもらってきたのに、残念だった。
 同じく中央運動公園では、ここ数年千葉ロッテがキャンプを張る。今年も、来週にはやってくる予定だ。
 サッカーの練習場も於茂登山の下にあるので、毎年のようにどこかのチームがやってくる。
 トライアスロンの国際大会も開かれると、前にどこかで書いたが、それは石垣港周辺なので、そこには砂浜はないのに…と思っていた。ところが、トライアスロンは砂浜はないところでも普通にやることも多いようで、それは必須要件ではないらしい。陸から海へ、海から陸への移動が簡単にできればそれでよいらしい。それとは直接関係はないのだろうが、石垣港の埋立地では、巨大な人工砂浜もできるらしい。
 プロのためばかりでなく、市民のスポーツも盛んで、幼児から中学高校生を対象にした、石垣島アスリートクラブもあって、これも中央運動公園の陸上競技場でトレーニングをしている。
 地元出身の選手の活躍も、あげて応援する気風も十分で、八重山農林高校から福岡のホークスに入団が決まったといって喜び、八重山高校から女子駅伝の全国大会に出場するといって喜ぶ。
 めずらしく晴れた先週の日曜日は、八重山毎日新聞主催の駅伝大会が開かれた。これは、運動公園をスタートとゴールに、八重山地区の各町の対抗で、与那国島や波照間島、西表島、竹富島は、島で一チーム、石垣島は各地域ごとにチームをつくるので、気の入れ方も違う。
 そして、昨日の22日の日曜日は、やっぱり雨。だが、走る人びとにとっては、晴れているよりはラクかもという。今年10回目となる石垣島マラソンは、いわゆる市民マラソンで、今回は初めて全都道府県からの参加があり、また初めて参加者数が4000人を超えた。多くの人がはるばる飛行機に乗って、石垣島で走るためにやってくることに驚く。そのため、この週末、市内のホテルは満室状態になった。島をあげて、ボランティアなどが多数出て、給水や給食、コース管理の世話をする。
 でんでんむしは、川平から米原のヤシ林を見に行っていて、その帰り道で20キロコースに一部かかる道路を走るバスに乗っていた。いくら晴れているよりラクとは言え、やっぱり雨の中も大変そう。それが、市街地へ戻るとやんでいたりするように、狭い島内でも場所によりころころ天気も変わる。
 バスも一部は路線を変更しながら走り、いよいよコース道路に出てきた。バスは左折してコース区間は対向車線を走るが、サトウキビを満載して製糖工場へ向かうトラックは右折するので、マラソンが終わるまで辛抱強く待っていなければならない。
 バスの運転手さんの同僚や知り合いも走っているそうで、「ほら、あの○○番のゼッケン、あれ同級生です」などと教えてくれる。そう。このバスも、やはり乗客は一人きりで、ほかに乗客はなかった。二人でマラソン談義で盛り上がりつつ、ターミナルへ戻ってきた。 
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dendenmushi.gif沖縄地方(2012/01/23 記)

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八重山の英雄オヤケアカハチの拠点があった大浜には御嶽(うたき・おん)もいくつもある(21) [石垣島だより]

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 大浜の集落の東端では、丸くなった海岸線が北東の宮良湾に面している。今では、公民館や大浜小学校があるこの一帯は、石垣島の歴史にとって重要な地点であった。いくつもの御嶽(うたき=八重山では「おん」または「わん」と呼ぶらしい)が並ぶなかに、青い銅像(その前に目立つ石灯籠が奇妙だが)が建っている。
 この像の主こそ“オヤケアカハチ・ホンカワラ”であり、大浜こそは彼の拠点であった地域なのだ。日本の歴史の本を読んでも、滅多に出てこないオヤケアカハチは、元々は波照間島の生まれだったと記憶するが、1500(明応9)年に反琉球王国の兵を挙げ蜂起する。しかし、王府が派遣した3,000人の征討軍によって鎮圧され、討ち取られた。
 いつでもどこでも、歴史は勝者の記録であるから、オヤケアカハチは反乱軍の首謀者であり、悪いヤツということになっているが、地元では英雄である。実際、それまでの八重山は国家としての機能がどの程度働いていたかは疑問ながら、いちおうは琉球王朝とも宮古島とも一線を画した独立国であった。琉球や日本とも贈り物をして挨拶する入貢外交くらいはあったろう。 琉球王国側の見解では、オヤケアカハチは粗暴で税も納めなかったというが、そもそも税を納める義務などなかったはずである。その“反乱”を起こすに至った原因は、八重山固有の神、イリキヤアマリ神の信仰を王府に禁止されたために、これに抗議せざるを得なかったとも言われている。
 こうなると神様の違いによる宗教戦争の色合いもあるわけで、さらには、こちらのほうがより大きな要因とみるのが妥当らしい、宮古島を支配する豪族仲宗根との八重山の支配権をめぐる争いでもあった。宮古が琉球側についた結果として、八重山の神と習俗を守る自己主張をして強力な琉球王朝に敗れたわけだ。
 戦にはノロと呼ばれる巫女のような女性が、作戦を練り軍を指揮していたという一面もあり、呪詛合戦も行なわれていたという。
 オヤケアカハチの像の周辺にあるいくつもの御嶽は、この戦で彼を支援したノロたち縁のものであったのかもしれない。ただ、敗戦後は官軍となった宮古島の仲宗根豊見親の支配となる。八重山のノロたちも大勢処分され殺されたらしいので、それらもいったん排斥されたはずである。
 沖縄ではどこでも、この御嶽が数多くある。これは琉球独自の信仰にしたがって祭祀などを行なう聖域の総称で、神が存在あるいは来訪する場所、つまり聖域なので、やたらに立ち入ったりしてはいけないのである。
 オヤケアカハチが敗れて、一時的には宮古の仲宗根支配下に入るが、イリキヤアマリ神を祀る御嶽はなんとか石垣島に残った。義経伝説を思わせるような、実はオヤケアカハチは小浜島の森に逃げ延びたという話まである。
 御嶽に鳥居が設けられているのが、なんとも奇妙な感じだが、これは明治以降の皇民化政策によって、ノロは検挙され弾圧されたりもしたが、神道の施設として存続することを許された結果、ということになるのだろうか。
 ノロの墓など御嶽になることがあるが、その場所が古代社会の集落があったところという場合も少なくない。保水力のない琉球石灰岩の小さな島では、水がなにより重要で古い井戸のある場所が御嶽になったりしている。
 石垣島でも島内各所に御嶽がある。たいていは祠のようなものがあるこがないこともある。鳥居がない場合でも、古墳のようにぽつんと樹木が茂っているところがあれば、それはたいてい御嶽だったりする。
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dendenmushi.gif沖縄地方(2012/01/22 記)

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ここから水平線の上に南十字星が見えるらしい大浜の海岸とその続きの海岸はこんな感じ(20) [石垣島だより]

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 「南十字星」ということばには、なにやらロマンチックな響きがあると、北半球に住むものにとっては共通認識がある。それは、いつも見られない、どこでも見られない、滅多に見られないからである。
 だが、北半球でも、緯度が低いところなら水平線の上のほうに南十字星も見ることができる。それもいつでもというわけではないらしいが、石垣島でも見えるのだそうだ。いや、石垣島天文台(先日「月虹(げっこう)」を観測したというのでちょっと全国ニュースで話題になった)まで行かなくても…。
 発電所から東の大浜の集落は、古い住宅もあるがほとんどは新しく建て替えられた住宅地のようで、海岸から台地へ上っていく390号線から北側にはとくに立派な個人住宅が多いようだった。
 このあたりになると、住宅が並ぶ前に道と堤防があって、その下はもう海である。一瞬、津波がきたらどこへ逃げればいいのだろうと、あたりを見回してしまうくらい、海が近く低い。
 ただここでは、砂浜はなく、平たい岩場がかなり大きく広がっていて、水面は遠い。遠い水面のさらに遠くに、サンゴ礁にあたって砕ける白波が帯のようになって続いている。
 緑色に見えるのは、地元では“あーさー”といって汁の具などに重宝されている海藻であろうか。岩の間の水路が小舟の出入り口になっていて、そこには魚の供養塔が立っていた。大浜の海岸をきれいにするために、集落の人たちは努力しているらしく、比較的漂着ごみなどの類いも目立たない。
 この大浜の海岸の堤防に、南十字星が見えるポイントの説明がペイントされていた。「大浜から南十字星を見る会」というのがあるらしい。
 ここで見えるのなら、石垣島の南東海岸ではどこでもほぼ同じ条件で、南十字星をみることができるのだろう。
 新川から八島までの海岸は、石垣港、石垣漁港の岸壁や堤防が続いているが、真栄里からは自然の海岸が復活する。ただし、そこから東へは生コン工場やゴルフ場やANAインターコンチネンタル石垣リゾートがあり、大浜に入ってからすぐも、沖縄電力の発電所があるため、海岸は一般に人の目からはずっと遠くなってしまう。
 そういう意味で、人の暮らしと海岸が近くなるのは、とりあえず大浜くらいしかないのかもしれない。
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 真栄里の八重山商工高校(いつだったか、甲子園を湧かせたことがある)のバイパスのカーブ付近のカフェから見た海岸、新開地のショッピングセンターからゴルフコースの横を突き抜けたところの海岸、ANAのホテルが人工的につくった(あるいは大々的に手を入れたとしか思えないが)ここだけ砂浜の海岸、沖縄電力の球場わきの海岸の写真も並べてみた。撮影日は同じではないので印象は異なるが、これらが人からは比較的遠い南東側の海岸で、やはり南十字星が見えそうな場所なのだが…。
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 でんでんむしは、南十字星を見たことがない。
 かつて多くの日本の男たちが、赤道やその付近一帯の南の島々にばらまかれ、その星を見た。父親が南半球の南太平洋の小さな島で短い生涯を終えようとしたときと同じ星は、今もその空で輝いているのだろうから、いつかそれをその同じ空の下へ見に行きたいと思いつつ日は過ぎて、それは結局のところ果たせそうにはない。

dendenmushi.gif沖縄地方(2012/01/21 記)

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石垣島の農業は開拓とともに苦難の連続で畜産は地域ブランド「石垣牛」を産む(19) [石垣島だより]

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 大規模な工業生産活動が成り立たない島では、一次産品を生み出しそれを加工して独自商品にするしかない。農業は、米や野菜もけっこうつくられていて、JAの大きなライスセンターもある。今時分は田に水を張っているところなので、米の二期作が可能なのであろう。もちろん、南国らしい風景をつくるサトウキビやパイン、バナナなどの生産も行なわれている。また、緯度がちょうどコーヒーベルトにあたっている石垣島で、近年注目されてきているのがコーヒーの栽培で、ほかにもJTと契約し、機械化も進んだ葉タバコ農家もある。
 だが、島の開拓とともに始まった農業は苦難の連続で、現在でも水の確保と土壌の改良が大きな課題になっている。農道のところどころで見かけるのは、水のスタンド。飲み水ではなく、農業用水を提供するコイン式自販機である。粘土質の赤土が覆っていて、気象状況も温暖とはいえ独特の荒さもある島では、作物なら何でも育つというわけにはいかないし、病虫害との絶え間ない闘いも避けられない。
 赤土自体は、サトウキビには適しているんだそうだが、一雨降るとこれが海に流れ出してしまう。一時期は、島の道路など開発工事と重なって、これが大問題になった。でんでんむしが来たときも(あれは最初の時か)飛行機の小さな窓から見る宮良湾は、まるで黄河のような色になっていて、驚いたことがある。今では、宮良湾もそんなことはない。
 畜産業が盛んになったのは、あるいは農業のむずかしいところをカバーするものだったのだろうか。牛というのは、変なもので、よそから仔牛を連れてきて育てればそこの牛になる。石垣島で育てられた仔牛は、かつては“ドナドナド〜ナ〜ド〜ナ〜”と、本土の牛の産地に売られていくだけであった。
 ところが、2000(平成12)年に沖縄で開かれたサミットの晩餐会で、メインディッシュとして石垣の牛肉が使われたことで、一気に知名度が上がり、島でも自信がついてその気になり、全国に出荷されるようになったものである。
 「石垣牛(いしがきぎゅう)」は、2008(平成20)年に沖縄県農業協同組合(JAおきなわ)が地域団体商標として申請し、登録された地域ブランドになった。
 松阪牛(まつさかうし)や、近江牛(おうみぎゅう)と並んで、石垣牛が認定された地域団体商標としては、島ではほかにもうひとつ、石垣の塩(いしがきのしお)がある。
 JAおきなわでは、石垣牛の定義を、「沖縄県八重山郡(石垣市を含む)内で生産および育成されたことを示す登記書及び生産履歴証明書を有すること、生後おおむね20か月以上八重山郡内で肥育されていること」など、いくつかの厳格な条件をつけている。
 だが、その条件を満たしてはいない「石垣牛」もたくさんあるらしいので、JAおきなわが公開している「石垣牛推奨店」は、いささか数は限定されるようだ。
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 先日は、マンションの近くで空港の南にある「石垣牛炭火焼肉専門店石垣屋」の開店12周年感謝デーで、全メニュー半額というのでほいほいと行ってきたが、ここのはJAのブランドではない。
 だが、そのホームページでは、
 
・本当の石垣牛は -----?     仔牛を生産するための母牛(経産牛)ではなくて、石垣島に生まれ緑の牧場で潮風に吹かれて育て上げられた処女牛をいいます。
    
・石垣屋の石垣牛は -----?     30年間堺市の坂本牧場で、修行を積み、故郷の石垣で食用黒牛を大人になるまで肥育している(有)美崎畜産の純正石垣処女牛です。

 
 とあった。それって、暗にJAの定義に異を唱えているのかなあ。
 なんかモーようわからんようになってきた。
 それにしても、でんでんむしのこどもの頃には、家庭で牛肉を食べるという習慣もまだなく、牛肉といえば“大和煮缶詰”くらいしかなかったのだが、その缶のラベルには牛乳石鹸のようなウシさん(もちろん肉牛と乳牛の違いはあるよ)の絵が描かれていた。しかし、これもよくよーく考えてみると、変である。
 生きているウシさんの姿を見て、食欲をそそられることはないだろう。逆に、眼をじっとみていると、なんかカワイソになってこない?
 これを、殺して食べてるんだからね、人間は…。
 石垣牛のブランドマークにはさすがにそれはやめて、石垣島の地図と牛肉の写真にしている。
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dendenmushi.gif沖縄地方(2012/01/20 記)

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宮良殿内や桃林寺のある中心市街地をちょっと外れるととたんに田園風景になる島の観光は…(18) [石垣島だより]

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 「旧市街」と括っているが、当地でそう呼ばれているわけではない。「石垣島だより」(16)に掲げた電子国土ポータルの地図で、港を中心としたアミ線に塗られた町街区のことを、でんでんむしが勝手にそう表現しているだけなのだが、“字石垣”を一部に含むこのエリアが、そもそもの石垣の出発点として核になってきたことは確かであろう。
 狭い道の間に民家やアパート、マンションなどが密集しているが、その中央を少しだけ広い道が横断し、縦にも数本縦断している。この地域内で、史跡マーク(∴)がついているのは、宮良殿内(みやらどうんち)と石垣氏庭園であるが、どちらも正直に言って観光名所というほどのものではない。宮良殿内のほうはときたま散策の観光客が紛れ込んでくるが、庭園のほうは閉まっていることが多いうえに少しはずれにあるので、わざわざ行く人も少ないだろう。
 やはり西の外れにあたる桃林寺や権現堂も、薩摩藩がやってきて「石垣島にはなぜお寺がないのだ」といってつくらせたという歴史的意味はあるが、やはり観光バスはこない。
 結局、この付近の古い石垣島の面影は、庶民の家は全部消えているので、わずかに残った旧士族の屋敷と石垣くらいしか、想像のよすがとするものはないわけである。
 桃林寺から西に広がるのは「新栄町」というくらいで、後から開けた地域なのだろう。その先、旧市街地の西は、新川川を越えると、新しい団地などがあるが、真喜良小学校を過ぎると海岸沿いにはリゾートホテルなどが点在し、山側には収穫前の花の穂をつけたサトウキビ畑などが広がり、その向こうには石垣島天文台が白く光る前勢岳(197メートル)が眼に飛び込んでくる。
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 この先、西海岸道路をいけば、富崎、名蔵を経て、川平へ続く。バスターミナルからは、ここを走る川平リゾート線というバス路線が、日に6往復している。
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 旧市街地から北へ向かうと、産業道路の沿線くらいまでは町だが、それより北へはすぐに人家は途切れる。その名の由来は不明なシード線という道路からは、畑の中をフクギやリュウキュウテリハボクといった並木が続き、その周辺はサトウキビ畑や牧草地などが展開する。
 そういった道は、“網の目のように”というわけはいかないが、島の全域にわたり主だったところを走る道ではよく見られる。そして、そのところどころに入植者が開いた集落が点在している。
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 牧場や牛小屋もあちこちにあるわずかにでこぼこな台地が続く先には、バンナ岳や遠くは於茂登岳が聳えるというほどは図々しくなく、控えめにぽこんとある。
 於茂登岳の東をサッカーのキャンプ地を通って北の海岸へ出る道もあって、米原のヤシ群落や野底の海岸に出る。このルートを通る路線バスは、日に4往復しかない。
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 では、東へはどうか。空港南の新開地(これもでんでんむしが勝手にそう呼んでいるだけ)には、マンションなどは数棟あるが、個人の住居が集まる集落はいったん途切れる。ANAのホテルと沖縄電力の発電所を過ぎると、大浜という集落がある。現在は石垣市街地の延長線上にあるが、元は旧市街とは独立した集落であったろう。
 ここから宮良川を越えて島の東海岸を北上すると、白保までは30分ごとの白保線のバスがあるが、さらに北へ進むと伊野田、伊原間などいくつかの集落がとびとびにあり、島の最北端の平野に至る。この路線も、日に4往復。
 ざっとこのように整理して眺めてみると、中心となる市街地以外は、あちこちに点在する集落を除けば、ほとんどが田や畑や牧草地か、山地、未利用地ばかり、ということがわかる。
 要するに、石垣島は八重山観光の基地ではあるものの、島自体では中心部で“観光するようなところ”は、ほとんどない、といっても差し支えなく、島でのいわゆる観光地といえば、川平湾くらいしかない。
 先日の朝も、島の中央部を縦断する米原キャンプ場線のバスに乗っていたら、途中ホテル日航八重山の前で中年の男女4人が、運転手さんに尋ねている。川平まで行ってまた2時過ぎくらいまでに戻ってきたいのだが、これに乗れば可能か、というわけである。
 いろいろダイヤをひねくりまわしていた運転手さんの答えを聞いた観光客は、運賃を聞いてあきらめてしまった。空港線と同じく200円で行けると思っていたらしい。川平リゾート線でも1000円はかかる。
 「4人ならタクシーのほうがいいかも知れませんよ」と、運転手さんはフォローしていたが、でんでんむしには、これが“観光地石垣島”の課題のように思えた。米原のヤシ林とか、平久保崎とか、鍾乳洞とかほかにもいくつか観光ポイントはあるものの、観光客が得ている情報に偏りがあるため、川平に集中するかと思えば、それも貸切団体以外でふらっと行こうとしても、なかなか困難な点もあるのだ。
 この観光客の場合は、そもそも事前の計画が甘いのが問題だが、観光客というのはその程度のものである。ホテルのほうで団体以外の観光客に対し、もっと適切な情報サービスをする必要もあるように思う。東運輸も“石垣島一周乗り合い観光バス”のようなものも走らせてはいるし、宮良や名蔵のマングローブ林のカヌーとか、手づくりシーサーといった「体験型観光」も試みられてはいるが、だいたいにおいて、観光というのは来るほうと受け入れるほうのマッチングがむずかしいものだ。
dendenmushi.gif沖縄地方(2012/01/19 記)

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