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八重山の英雄オヤケアカハチの拠点があった大浜には御嶽(うたき・おん)もいくつもある(21) [石垣島だより]

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 大浜の集落の東端では、丸くなった海岸線が北東の宮良湾に面している。今では、公民館や大浜小学校があるこの一帯は、石垣島の歴史にとって重要な地点であった。いくつもの御嶽(うたき=八重山では「おん」または「わん」と呼ぶらしい)が並ぶなかに、青い銅像(その前に目立つ石灯籠が奇妙だが)が建っている。
 この像の主こそ“オヤケアカハチ・ホンカワラ”であり、大浜こそは彼の拠点であった地域なのだ。日本の歴史の本を読んでも、滅多に出てこないオヤケアカハチは、元々は波照間島の生まれだったと記憶するが、1500(明応9)年に反琉球王国の兵を挙げ蜂起する。しかし、王府が派遣した3,000人の征討軍によって鎮圧され、討ち取られた。
 いつでもどこでも、歴史は勝者の記録であるから、オヤケアカハチは反乱軍の首謀者であり、悪いヤツということになっているが、地元では英雄である。実際、それまでの八重山は国家としての機能がどの程度働いていたかは疑問ながら、いちおうは琉球王朝とも宮古島とも一線を画した独立国であった。琉球や日本とも贈り物をして挨拶する入貢外交くらいはあったろう。 琉球王国側の見解では、オヤケアカハチは粗暴で税も納めなかったというが、そもそも税を納める義務などなかったはずである。その“反乱”を起こすに至った原因は、八重山固有の神、イリキヤアマリ神の信仰を王府に禁止されたために、これに抗議せざるを得なかったとも言われている。
 こうなると神様の違いによる宗教戦争の色合いもあるわけで、さらには、こちらのほうがより大きな要因とみるのが妥当らしい、宮古島を支配する豪族仲宗根との八重山の支配権をめぐる争いでもあった。宮古が琉球側についた結果として、八重山の神と習俗を守る自己主張をして強力な琉球王朝に敗れたわけだ。
 戦にはノロと呼ばれる巫女のような女性が、作戦を練り軍を指揮していたという一面もあり、呪詛合戦も行なわれていたという。
 オヤケアカハチの像の周辺にあるいくつもの御嶽は、この戦で彼を支援したノロたち縁のものであったのかもしれない。ただ、敗戦後は官軍となった宮古島の仲宗根豊見親の支配となる。八重山のノロたちも大勢処分され殺されたらしいので、それらもいったん排斥されたはずである。
 沖縄ではどこでも、この御嶽が数多くある。これは琉球独自の信仰にしたがって祭祀などを行なう聖域の総称で、神が存在あるいは来訪する場所、つまり聖域なので、やたらに立ち入ったりしてはいけないのである。
 オヤケアカハチが敗れて、一時的には宮古の仲宗根支配下に入るが、イリキヤアマリ神を祀る御嶽はなんとか石垣島に残った。義経伝説を思わせるような、実はオヤケアカハチは小浜島の森に逃げ延びたという話まである。
 御嶽に鳥居が設けられているのが、なんとも奇妙な感じだが、これは明治以降の皇民化政策によって、ノロは検挙され弾圧されたりもしたが、神道の施設として存続することを許された結果、ということになるのだろうか。
 ノロの墓など御嶽になることがあるが、その場所が古代社会の集落があったところという場合も少なくない。保水力のない琉球石灰岩の小さな島では、水がなにより重要で古い井戸のある場所が御嶽になったりしている。
 石垣島でも島内各所に御嶽がある。たいていは祠のようなものがあるこがないこともある。鳥居がない場合でも、古墳のようにぽつんと樹木が茂っているところがあれば、それはたいてい御嶽だったりする。
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dendenmushi.gif沖縄地方(2012/01/22 記)

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