石敢當とは直進してくる魔モノ除けの装置だが似たようなモノが…(36) (石垣島だより シーズン2) [石垣島だより]
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沖縄地方(2014/02 記)
ミサキの神の美崎御嶽をはじめ石垣島にもたくさんのうたきがそこらじゅうに(35) (石垣島だより シーズン2) [石垣島だより]
八重山の赤い寄棟屋根にはゴツゴツの石を野面積みした石垣が似合う(34) (石垣島だより シーズン2) [石垣島だより]
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2月6日、当地ではSo-netブログの更新アップや閲覧が、なんどやってもうまくいかなかった。
▼国土地理院 「地理院地図」
沖縄地方(2014/01 訪問)
赤い瓦の屋根と白いしっくいが妙にしっくりする八重山の家(33) (石垣島だより シーズン2) [石垣島だより]
内地からやってくるないちゃーが、いかにも沖縄にやってきたなあという感を強くするのは、気温のほかにはハイビスカスやブーゲンビリアなどの色鮮やかな南国の花々と、赤い瓦を載せた独特の民家の屋根を見るときだろう。だが、空港に着陸態勢に入った飛行機の窓から見ても、その赤い屋根が極端に多いとも言えない。
とくに、戦火から復興した本島では、市街地でも住宅地でも、白やグレーの四角い箱のような家が主流であるようだ。初めて本島を訪れたときには、それが強く印象に残っていた。それに比べるとより小さな町である石垣市では、町のなかを歩くと、やはり四角い箱のような家がほとんどだが、その間にまじってそこここに赤い屋根の家がある。
それを、まだたくさん残っているというのか、はたまたどんどん減ってきたというのか、よくわからない。
しかし、赤い屋根の家は、古い家ばかりに残っているだけかといえばそうではなく、新しい家でも赤屋根の家も多い。石垣の住宅街のなかに、赤瓦を焼いている瓦屋さんがちゃんとあるのを発見した。
当然ながら地元八重山の人々には、赤屋根に対するこだわりと執着は、根強いものがあるようだ。赤い屋根は消え行く郷愁のシンボルではなくて、今現在も生き続ける地域の重要なお化粧なのだ。
その証拠というのも変だが、まず行政にその意識がはっきりとあるようで、公共施設の建物などには、赤い屋根がどこかに使われている。なかには、ビルなのに赤屋根を一部にくっつける例も多いし、単なる板金の屋根を、赤く塗っているのもあったりする。
町の中にできるだけ赤屋根を増やそうという運動とか、助成があるのかどうかは知らないが、その努力は感じられる。道の狭い町中では限られるが、ベンチやバス停などの屋根も赤屋根にするのが広がっている。これはまず観光客の多いところから始まったようだが、島の郊外では休憩所や展望台などは必ず赤屋根でつくられている。
石垣に限らず八重山の各島に共通して、島の中の人にとっても島の外の人にとっても、この赤い屋根は八重山のシンボルであることには間違いない。
いやいや、赤い屋根なんてどこにでもというか、ほかにもあちこちあるんじゃないですか。そう、ありますね。でんでんむしの故郷広島でも東広島市の赤瓦は山陽新幹線からも見えるので、印象が強いようだ。ほかにも地方ではあちこちにあるだろう。
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よく見ると、この漆喰の使い方にもいろいろあって、ほんとに継ぎ目にしか使わないであまり目立たないのと、大盛りのてんこ盛りにして瓦の赤よりも白い漆喰のほうが目立っているようなのもある。また、色も白だが微妙にクリーム色っぽいものや経年変化で白くなくなったのもある。
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この赤瓦の風習は、どこからきたのだろう。沖縄本島での赤瓦は18世紀頃の首里から始まって、それは権力と身分の象徴として使われたらしい。そもそも色もさることながら、瓦自体が首里の王府や士族や高官以外にはその使用は認められなかった、というのだ。ということは、普通は板葺きか藁葺きだったわけだ。
明治も半ば頃になってからその規制が撤廃されて、一般に誰もが瓦が使えるようになったとき、王府を真似て誰もがこぞって赤瓦を使うようになっていったのは、よくわかるような気がする。
沖縄地方(2014/01 訪問)
石垣島の中央運動公園で千葉ロッテマリーンズがキャンプイン(32) (石垣島だより シーズン2) [石垣島だより]
▼国土地理院 「地理院地図」
24.345028, 124.171268
沖縄地方(2014/02/01 訪問)
石垣島の新しい空港はカーラ岳の南側で白保の海に近い盛山に(31)(石垣島だより シーズン2) [石垣島だより]
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▼国土地理院 「地理院地図」
24.390401, 124.24569
沖縄地方(2014/01/20訪問)
短期集中連載『石垣島だより』 (シーズン1)項目リンクリスト(2011/12/22〜2012/01/31) [石垣島だより]
■めずらしく快晴になったけれども石垣島は冬場はいつもあまり天気がよくない(01) [石垣島だより]
■石垣市の中心街は島の南西部海岸沿いの比較的平坦な地域に限られている(02) [石垣島だより]
■目的はあるようなないようなないようなあるような石垣島滞在中(03) [石垣島だより]
■ライト兄弟から108年、初めてここに降りたときから18年、もうあと2年だけがんばる石垣空港(04) [石垣島だより]
■八重山(やいま)の島々へは石垣港離島ターミナルから出る連絡船で(05) [石垣島だより]
■もうひとつのターミナルは東運輸のバスターミナルで主要幹線は30分毎(06) [石垣島だより]
■石垣市立図書館のリサイクルコーナーから古い歴史全集の本をもらってきた(07) [石垣島だより]
■左から右へ揺れ動く民意のなかで混迷する八重山の教科書採択問題(08) [石垣島だより]
■ここは「右から左になった日」を記念しているんだけどそれは車の走行ルールの話(09) [石垣島だより]
■ここが商店街では初の命名権委譲が行なわれた“最南端の商店街”ですが(10) [石垣島だより]
■やいま大通り(市役所通り)いそがずあせらずなんくるないさー(11) [石垣島だより]
■家々の玄関のうえには日の丸のついた正月飾りがあるのを見ると…(12) [石垣島だより]
■日本最南端・最西端の八重山の重要港湾である石垣港は国境の港でもある(13) [石垣島だより]
■はるか南の海からやってきた人を思う海人の祭りハーリー会場の新川漁港(14) [石垣島だより]
■島の最多人名は“宮良さん”で地域名の境界線の区切り方がとてもおもしろい(15) [石垣島だより]
■とぅばらーま記念碑とアコウの大木がある「なかどー みちぃ(仲道路)」(16) [石垣島だより]
■マックスバリューとサンエーとかねひでとココストアとさしみ店ときいやま商店と…(17) [石垣島だより]
■宮良殿内や桃林寺のある中心市街地をちょっと外れるととたんに田園風景になる島の観光は…(18) [石垣島だより]
■石垣島の農業は開拓とともに苦難の連続で畜産は地域ブランド「石垣牛」を産む(19) [石垣島だより]
■ここから水平線の上に南十字星が見えるらしい大浜の海岸とその続きの海岸はこんな感じ(20) [石垣島だより]
■八重山の英雄オヤケアカハチの拠点があった大浜には御嶽(うたき・おん)もいくつもある(21) [石垣島だより]
■石垣島は駅伝もマラソンもトライアスロンも自主トレもキャンプも…(22) [石垣島だより]
■ここがオヤケアカハチの居城跡なのか?フルスト原遺跡で先島諸島の先史時代に思いをはせる(23) [石垣島だより]
■石垣のマングローブはやっぱり西表には負けてるけどおかげさんで「西表石垣国立公園」になった(24) [石垣島だより]
■先島諸島の無土器文化の位置づけは不思議だがいったいどういうものだったのだろうか(25) [石垣島だより]
■やっと探し当てた明和大津波遭難者慰霊碑はもう記録からも記憶からも遠くなって(26) [石垣島だより]
■白保のサンゴ礁は有名だが見つからない柳田国男の歌碑も海上の道に没したのか(27) [石垣島だより]
■サンゴ礁の島はサンゴの岩石と琉球石灰岩でできていて貴重な建材となってきた(28) [石垣島だより]
■ブーゲンビリアにハイビスカスにミニサンダンカなどが冬でも咲いているがこの春デイゴの花は咲くか(29) [石垣島だより]
■捨て石とマラリアと強制移住は八重山の歴史を知るうえで重要なキーワードになっている(30) [石垣島だより]
「石垣島だより」(シーズン 2)へ…
沖縄地方(2011/12/19〜2012/01/24 訪問〜01/31 記)
捨て石とマラリアと強制移住は八重山の歴史を知るうえで重要なキーワードになっている(30) [石垣島だより]
オヤケアカハチとその勢力を殺いだ琉球王朝の第3代尚真王は、その後を宮古島の仲宗根に委ね、先島諸島の経営を始めるが、2年後には王府の直接統治へと移行する。琉球王朝の黄金期といわれる時代を迎え、奄美諸島から先島諸島までを支配下に治める。
先島のスクの時代からの貿易によるメリットもそっくり手にして、東南アジア貿易の中継地としての繁栄もしばらくは続く。中国から持ち込まれた藩薯芋(後にこれが薩摩藩を経て本土に伝わり、サツマイモと呼ばれる)のおかげで、食糧事情は好転し、飢饉餓死者も減少した。
しかし、宮古を含む先島は、琉球にしてみれば遠く離れた占領地に過ぎなかった。琉球化とその支配はどんどん強化され、その圧力は苛烈な人頭税の実施につながっていく。先島の人頭税は米納と上布代納で、15歳から50歳までの住民に対し、その担税能力には関係なく一律に負担を強要するものであった。
その重税が産んだ悲劇は、数多くの歌や伝説になって伝えられているが、琉球がこうした強引な政策をとらざるを得なかったのは、1500年代末期頃から琉球を通じて明と貿易することを画策する薩摩藩が琉球になにかと介入を始め圧力を強めたためだ、とする説もある。
だから、それが許されるというようなものではなかったこの税制は、居住の自由をも奪っていた。人口の少し多い島から、未開拓の島へ住民の移植を行なう強制移住によって新しく村を開かせる開拓政策を伴っていた。また、米で納税することを強制され、稲作ができる地を求めて未開地へ移住することもあった。ところが、そうした村のほとんどは、マラリアによって全滅するという悲惨なことになった。
薩摩の圧力は、朝鮮出兵から江戸時代を通じて琉球を介した明との間接貿易を有利に進めるために永く続き、ついには幕府が薩摩の琉球侵攻を容認する事態になっていく。
1609年、琉球に攻め込んだ歴戦強兵の薩摩軍は、たちまちにして首里城を陥れる。その後は琉球王は江戸へ連れて行かれ、江戸幕府の将軍に使節を派遣する義務を負うかたちで従属させられ、また琉球と清との朝貢貿易の実権は薩摩藩が握り、琉球はいわばその隠れみのに使われるようになる。
明治新政府になっても、いわゆる琉球処分によって、強権的に琉球は日本の一部に位置づけられる。廃藩置県によって、約500年間続いた琉球王国は滅びる。
この間、明和の大津波被災のうえに重税だけは続くという八重山の過酷な状態は、誰からも省みられることはなく、放ったらかしにされたままであった。驚いたことに、人頭税が廃止されるのは、1903(明治36)年になってからであった。
石垣島の南西の端にあたる富崎には、「唐人墓」というものがある。西回り周回道路の側なので、観光バスも立ち寄るポイントだが、ここはこの島が世界史の端っこに関わった、ある事件を記録するものである。
1852(嘉永5)年に、中国人のクーリー(労働者だが、ほとんど奴隷に近いと思われる)400人を西海岸へ運ぶ途中のアメリカ船で、船員の非道な扱いに決起した中国人が、船長らを殺害した後に石垣島沖で座礁、中国人のほとんどが島に上陸するという事件が起こる。
琉球王朝と島の人々は、これを人道的見地から小屋を建て、食料や水を供給したが、米英の海軍が三回にわたって来島、砲撃のうえ上陸して島に逃げ込んだ中国人を捜索し、そのほとんどは殺された。自殺者や病没者も続出したので、半数にも満たない生き残った者は中国に送還することになったが、このときの犠牲者を祀ったのが唐人墓なのだ。
そうかと思うと、1880(明治13)年には、日本政府が清国との交渉の過程で、宮古・八重山の先島諸島を清国へ割譲するという提案をし、条約の仮調印までしていたという事実もあった。
これも驚くべき話なのだが、この当時の日本人、政府のこの地域への関心の低さを物語る以外のなにものでもない。やはり、琉球にとって八重山は搾取の対象でしかなく、代わって支配した日本にとっても八重山は捨て石に過ぎなかった。日本の琉球処分に反発した清国との間で、日清修好条規に最恵国待遇条項を追加させる見返りに提案したと思われるが、幸いにも李鴻章の反対によって正式妥結にはいたらないまま、日清戦争になだれ込んでいく。
日清戦争に勝った日本は、清国から台湾を割譲させ、同時に改めて琉球に対する日本の主権を認めさせた。この時点で、中国側の尖閣諸島を含む琉球諸島は日本領として正式に承認し認識することになり、両国間では領土問題には一応の決着がついていた。
太平洋戦争では、飛び石作戦のアメリカ軍も、戦略的に重要でないとみた先島諸島を素通りして、沖縄本島を取り囲む。そのため、八重山では艦砲射撃を受けたくらいで上陸はなく直接アメリカ軍との間での戦闘はなかったが、駐屯した日本軍の命で西表島などに強制避難させられた住民の多くが、マラリアによって死亡した。その犠牲者は、戦没者よりもはるかに多かったという。
こうして大急ぎの駆け足で眺めみると、八重山の歴史は、ほとんど忘れさられた捨て石、それにマラリアと強制移住(開拓)が、大きなキーワードになっているようにも思える。
「なんくるないさー」と島の老人たちがいうとき、それがこうした歴史を生き抜いてきた先祖をもつ子孫のことばだと思うと、また別の重みが感じられるのである。
「石垣島だより」(シーズン1)は、これにて一段落とし、また通常ペースに戻ります。
短期集中連載『石垣島だより』 (シーズン1)項目リンクリスト(2011/12/22〜2012/01/31)
追加参照:本土ではみんなが忘れている戦争の記憶を伝える沖縄でも異色の八重山平和祈念館(45)(石垣島だより シーズン2)
ブーゲンビリアにハイビスカスにミニサンダンカなどが冬でも咲いているがこの春デイゴの花は咲くか(29) [石垣島だより]
本土の人間が沖縄を訪れたとき、最初に「南国へやって来た!」と感じるのは、那覇空港に降りて、季節を問わず通路にずらり並んだ色とりどりのランの花々が出迎えてくれるときであろう。
石垣島でも、冬でも咲く花が多いので道を歩いていても、道路際や並木の植え込みや、民家の庭や門口に、華やかな色彩が溢れている。もちろん、本土と同じ花もあるけれど、やはりいかにも沖縄らしいブーゲンビリアやハイビスカスやミニサンダンカやトックリキワダの花、それに並木のヤシにたわわに実った実が赤く色づいているさまは、冬でも20度の温度をさらに上げているようでもある。
島では「アカバナ」と称されているハイビスカスは、なかでももっとも代表的なもので、どこの家の庭にも垣根にも、よく見かける。元来のアカバナはその名の通りまっ赤な花で、葉まで赤みを帯びている。
同じような形をしている花でも、色違いのものがいろいろたくさんあって、それらは栽培種なのか、葉も別種のように異なっている。
街路のフラワースペースなどでよく見かけるノボタンは、本土でも園芸品種として人気があるが、ここではこれが在来種だという。
石垣屋へ行ったとき、中庭に大きな木があって、花をつけていた。これがトックリキワダで、ここでは開店のときに移植したのだが、12周年の今年になって、初めて花をつけたのだそうである。それくらい、気むずかしい花らしいので、市では港周辺の公園や街路に植えているが、そうどこにもあるというものでもない。
これが初夏や夏や秋には、どうなるのだろうか。多くは変わらず、年中咲いているのだろうが、実は夏の石垣島にはまだ来たことがないので、実感としては未体験。
今回は、ちょっとシーズンにはまだ早かったのだが、本土のサクラに相当するのがデイゴといわれている。沖縄県の県の花であり、琉球大学の合格電報の文面が「デイゴ咲く」だとか、一時期大流行したTHE BOOMの「島唄」の歌詞で「デイゴの花が咲き〜」というのがあるので、見たことがない人でも知っている人は多い。
実際は、サクラとはまったく違う風情のまっ赤で大きくて華やかな花だが、これがまたトックリキワダに似て毎年花が咲くという保証はないらしい。それでも、ここ数年の石垣島ではデイゴの花がほとんど咲かないという事態は、普通ではない。異常な春が続いている。
主にデイゴヒメコバチというムシが広める病虫害被害によるもので、デイゴの葉や幹にこのハチが産卵しムシこぶをつくって木を弱らせてしまい、枯らしてしまうこともあるという。台湾方面から飛来してきたムシらしいのだが、島では対策プロジェクトを進めるNPOなどの活動を支援するなどしてきた。が、それも今年度でその当初の計画期限が到来する。
しかし、まだデイゴの完全復活には遠いようである。島では、引き続き対策を進める必要があるという声が強いが、海を越えて飛んできてデイゴを咲かなくしてしまう外敵に、これを防御駆除する決定的な方策も、まだみつかっていないようだ。 果たして、この春はデイゴの花は咲くことができるのだろうか。
沖縄地方(2012/01/30 記)
サンゴ礁の島はサンゴの岩石と琉球石灰岩でできていて貴重な建材となってきた(28) [石垣島だより]
今さらだが、沖縄や先島の島々は、サンゴ礁にぐるりを取り囲まれている。というより、専門的にはともかく、素人的にはサンゴ礁が隆起してできた島々と考えてもいいのだろう。
八重山の島々は、1億7400万年前に隆起と沈降を何度も繰り返しながら、徐々に石灰岩の低くて平らな島ができあがり、それが大陸からは切り離されて残ったものと考えられている。
島の浜辺には、サンゴの破片や塊などがごろごろしており、砂は少ない。一見砂のようにみえるものも、やはりサンゴが小さく砕かれたものだったり、一部では“星砂”と呼ばれるプランクトンの死骸だったりする。
石垣島のサンゴ礁は白保だけではなく、島全体を取り巻いているのだが、風や波の当たり具合が成育に影響するので、とくに東海岸で発達しているといわれている。
今から14〜15年くらい前だったと思うが、サンゴの白化が問題となったことがある。サンゴが大量に死滅し、その死骸は白くなってしまう。ちょうど、その頃だったのだろう。川平のグラスボートに乗ってみたときには、サンゴ礁には白いものが目立っていた。
淡水が混じると、サンゴの成長が阻害されるので、川の流れ込むところなどには切れ目ができる。そこが舟の通路になる。大浜や宮良には切れ目があるが、白保にはなかった。だから溝を掘る必要があったのだろう。
真栄里から延びるサンゴ礁は、石垣港の南側を大きく迂回して竹富島につながっている。石垣港付近はサンゴ礁はなく(取り除かれて)、竹富東港へ入る船はサンゴ礁の切れ目を示す標識の間を通っていく。
水深が深いところでは、サンゴ礁も問題にはならない。小浜島とその周辺の小島は、ひとつのサンゴ礁で囲まれており、西表島はまた別のサンゴ環が取り巻いていて、そのサンゴ礁とサンゴ礁の間が、マンタの通るヨナラ水道である。
このように、この地域では、地図でもサンゴ礁の表記は欠かせないはずなのだが、もちろんZENRINソースのネット地図では、まったくこれも無視している。
島の基盤は、いわゆる琉球石灰岩と呼ばれるサンゴ礁がつくりだした岩盤でできていて、それが露出した道もある。岩盤の上にかぶさっている薄い表土は、大陸から分かれるときくっついてもってきた古い地層とみられる。
こういう島だから、少し掘れば、岩や石がごろごろ出てくる。それらを取り除いて重ねていくと、石垣は自然にできてしまう。その名も“石垣島”という名は、この島の様子を端的に示す表現であったのだろう。
また、鍬が入る土の下には、岩盤に行き当たる。それを切り出した石材は、島では貴重な建材になり、歩道の敷石や壁など、広く活用されている。
この琉球石灰岩は、古いサンゴ礁が隆起してできたもので、有孔虫や小さな貝類などさまざまな生物の化石とその隙間を泥や砂が埋めて固まった岩である。見たところ、本土の岩に比べれば、比較的加工はしやすい石材のように思われる。八重山の島々の海岸では、裾が大きくえぐり取られた、壷を逆さにしたような岩や小島を見ることが多いが、これは波の作用で岩が削られたものであろう。
こういう本土から遠く離れた島へ、石などをわざわざ運んでくることは、滅多にあるまい。琉球石灰岩やサンゴ礁の岩塊は、“地産地消”の代表のようなものではないか。
沖縄地方(2012/01/29 記)