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石敢當とは直進してくる魔モノ除けの装置だが似たようなモノが…(36) (石垣島だより シーズン2) [石垣島だより]

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 八重山の街を歩くと、街角や道路脇や壁、石垣など、いろんなところで「石敢當」(いしがんどう、いしがんとう、せっかんとう)と書いたり彫ったりした石やプレートが目につく。それも、かなりの数であちこちに出現する。
 これは、元もとは中国南部の福建省あたりが発祥の風習が、海を渡って沖縄に伝わったものとされている。その石を立てる目的はなにかと言えば、「魔除け」である。
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 それが置かれる場所は、本来は、丁字路や三叉路などの突き当たりの置かれる。なぜかというと、この地域で市中を徘徊する魔モノがいて、その名を「マジムン」という。なんかマムシみたいだが、どうやら関係はないようだ。その魔モノは、まっすぐに直進するという行動パターンを持っているらしい。
 だから、道をやってきたマジムンは、丁字路や三叉路などで突き当たりにぶつかると、その正面の向かいの家に入ってきてしまうのだ。そりゃ困る、うちには来てくれるなというわけで、この石を立てておく。
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 これだけたくさんの使用例があるところをみると、それなりのご利益はあるのだろう。
 三叉路や丁字路ばかりではなく、道路に面した壁に埋め込まれたものとか、敷地の角に置くとか、設置場所もどんどん拡大しているようだ。
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 これは沖縄だけでなく、本土にも広がっているようで、鹿児島など九州や数はまだ少ないが関東にまで進出しているらしい。本土に渡った沖縄出身者が、その故郷の習わしを持ち込んだりするからなのだろう。
 その由来については、石敢當という人物がいたとするなど、諸説があって定まらないところもあるようだが、こういうことが中国南部から沖縄にそして八重山に伝えられ、現代にそれが定着しているのが大変おもしろい。
 八重山の神や御嶽や祭りなどを、日常生活のなかにちゃんと組み入れてきた沖縄の人々の精神世界には、マジムンもその防御法とセットで容易に受け入れられたのだろう。
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 柳田国男によれば、この“石敢當”の文字があるのは、比較的新しいもので、元は字などない“ピジュル”と呼称された古いものだろうという。文字のないものも、石垣島と西表島で見つけた。
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 石敢當とよく似たものも、形を変えてある。それは、石垣のところでは書いていなかったが、それが切れる入口のところにある。『ちゅらさん』の家で覚えている人もあるかもしれないが、赤い屋根に石垣の昔ながらの八重山の家では、門にあたる石垣の切れる入口を入ると、すぐ正面に通せんぼをするように石壁(たいていは石垣と同じ材質が用いられている)が立ててある。
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 これは「ピーフン」という。ビーフンじゃないので食べられないが、これがやはり魔モノに襲われて食べられないようにするためのものだ。別名では「前グスク」ともいう。グスクが「城」の意味をもつので、いわば出城のようなものを表していると考えられる。魔モノに本丸に入られないように、外郭で防御するという装置でありシンボルなのだ。
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 そういえば、石敢當に比べると圧倒的に少数だが、家の塀の四隅に四天王の名前を書いた木の札を貼り付けている家も、いくつか見つけた。
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 若いころ、中村直勝先生の本を読みながら、京都奈良の寺院めぐりをしたことがある。その中村先生の独特の語りの文章が、心にしみるような気がしたものだが、その本で四天王の位置と順番の覚え方を教えてもらった。
 先生曰く、「じぞうこうた」と覚えなさい…と。
 仏法を守護する四天王は、須弥山の四洲をそれぞれ受け持っていて、まず東勝神洲を持国天、次いで南瞻部洲を守護するのが増長天、西牛貨洲の担当は広目天、そして北倶廬洲を守るのが多聞天、というわけだ。
 持・増・広・多の四天王像で、最も有名なのが東大寺戒壇院のもので、その当時の戒壇院の周囲は、ほとんど訪れる人もまれなくらい、静かであった。今でも、奈良の風景といえば、それが蘇ってくる。
 その四天王の札を貼り付けている家を、八重山で見るのは、まことに奇妙な感じもしたが、これだってなにも“やまとはくにのまほろば”のほうから伝わってきたものではあるまい。中国にも四天王像を祀る寺はある。文化大革命とやらで壊されていなければ…。
 八重山の四天王は、これもやはりそっちのほうからきたと考えるほうが自然なように思われるのだが…。
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 おいおい! 魔除けっていいながら長々くだらんことばかり書きゃがって! 肝心な俺様を忘れちゃいませんかってんだ!
 ハハッ、もうしわけござりませぬ。あなたさまはもうチョ~有名でいらっしゃいますので、ええそれでもってですね…(しどろもどろ)。

dendenmushi.gif沖縄地方(2014/02 記)

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ミサキの神の美崎御嶽をはじめ石垣島にもたくさんのうたきがそこらじゅうに(35) (石垣島だより シーズン2) [石垣島だより]

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 石垣市の官庁街というほどではないが、登野城の石垣税務署と那覇地方裁判所・検察庁の間に美崎御嶽(みさきうたき)はある。石垣牛の店と民宿と鍵屋とコンビニと学習塾とアパートと民家と合同庁舎の建物に囲まれている敷地は、かなり広い。しかも、島では一等地である。
 登野城のこの辺りは、昔は海から見るとやはり山のように見える場所だったのだろう。美崎山と呼ばれていたここに、大美崎トウハの神に航海の安全を祈願する御嶽ができたのは、琉球王朝尚真王(1477年〜1527年の50年にわたり在位)の頃だというから、ちょうど1500(明応9)年のオヤケアカハチの乱を平定して、八重山諸島を王朝の版図に組み入れた時期にあたる。
 したがって、その由来も琉球政府軍の船の航海安全を、神女が祈ったところから始まり、王府から派遣されてくる役人の離着任時や公の農耕儀礼の場所でおおいに政策的な公儀の意味をもっていた。それが、時代が下るにつれて、字大川の村の拝所となっていく。
 県指定の史跡と重要文化財になったことを記念して建てられたらしい、県と市の教育委員会の石碑が語っていないことには、週刊誌的、ニュースショウ的な興味では無視できないことがある。
 オヤケアカハチに対抗していた長田大主には、二人の妹があった。下の妹の名が真乙姥(まいっぱ)、上の妹の名を古乙姥(こいっぱ)といった。この美崎御嶽で王府軍の船のために申し出て祈った神女というのは、その下の妹のほうであった。ところがその姉のほうがアカハチに嫁いでいたので、夫と共に誅せられてしまう。
 そのため、王府軍は真乙姥の心からの申し出を信用せず疑ってかかる。そこで、「兵船が一艘たりとも遅れたりすることあらば曲事たるべし」とかえって嫌味な条件をつける。真乙姥は、この後に八重山初代の大阿母になる多田屋オナリなどの助力と神徳を得て、無事に兵船は帰着することができた。琉球王朝は真乙姥を八重山の大阿母(聞得大君きこえのおおきみ=最高位の司)に命じようとするが、真乙姥はこれを固辞して神職につく。これ以降八重山の神も聞得大君の神道に統一されていくことになる。
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 御嶽は“うたき”のほか、“うがん”、“おん”などとも呼ばれ、その周囲は低い石垣で囲まれている。その中には拝殿に当たる神棚を備えた吹き抜けの小屋があり、その奥にまた石垣で囲まれ、石門で区切られた中心部はウブと呼ばれ、神を招く場所である。そこには神女や霊力をもつ司と呼ばれる女性でなければ入ることができない。
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 本来は、集落の者以外は外側の石垣から中へ入れないとされていたくらいで、神聖にして侵すべからざる場所なのだ。でんでんむしも最初に御嶽を訪ねたときは恐る恐るという体で遠慮をしていたが、だんだんと市街化が進むと公園と一体化したり一部が駐車場になったりする例もでているようだ。
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 周囲には大木が枝を茂らせ、幽邃な雰囲気を醸し出している。美崎御嶽の向かって右側の大木は、根が板根になっているので、サキシマスオウノキなのだろうか。それが、こんなところに…?。(後でわかったが、板根になるのはサキシマスオウノキだけではないようだ。)
 こうした御嶽は八重山でも同じような形式でもっと古くからあり、村々よりももっと小さな単位でつくられたものと思われる。それぞれに由来があるらしいが、美崎御嶽のように神女の司が神に祈った場所が御嶽になるというのがどうも一般的らしい。
 石垣市の市街地を歩くだけでも、規模や様式もさまざまだが、至る所とはいえないまでもそこここにそれはある。
 ここでは、石垣の長田御嶽、新川(あらかわ)の長崎御嶽、それに白保の波照間御嶽の写真を紹介しておこう。
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 町中の長田御嶽はホテルと保険会社のビルの間に挟まって、肩身の狭い思いをしながらそれでも消えることはない。
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 周囲の大木が見事な長崎御嶽だが、この木が石垣市の木クロキなのだろうか。なんとなくそんな気がする。
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 波照間御嶽では、拝殿にウブを覗く丸い窓が開けられているが、これも代表的様式である。
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 なんで白保に波照間御嶽が? これにも実はふかーいわけがある。“明和の大津波”で、全村ことごとく流されて人も尽きたとき、村の復興と存続のために波照間島から住民が移動してきた。白保の先祖は波照間にあったからだ。
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 どの御嶽でも、まず鳥居が目につくのだが、御嶽は神社とは似て非なるものというべきだろう。でんでんむしは、これは戦時中の皇民化教育と国家神道の威勢によるもので、もともとは門のような何かはあったろうが、こういう神社そのものの鳥居は後からくっつけたものだろうと思っているのだが、どうなんだろう。
 では、琉球弧の神はいったいなにかというと、これがなかなかよくわからない。天にも海にも山にもいて、名前もひとつではないからあらゆるものを超越した存在として拝むもの祈るものであろうか。
 古い資料では、やはり天地開闢(かいびゃく)説がある。キリスト教の生誕神話や天地創造、古事記の国生み神話とまったく似たものなので、これもそういうものから脚色された可能性が大である。ここでも男女二神から始まるがお互いに離れて住み、風によって孕むという処女受胎まであるのだ。
 もともとは久米島の風水師が大陸からこういう様式を持ち込んで、琉球弧の各島に広まったとされる御嶽だが、これを中心として島に今も盛んなさまざま行事や祭りや習俗が伝えられてきた。エイサーもペーロンも奇妙なお面をつけて踊る祭りや綱引きなども、春と秋の二回の穂利(ブーリ)豊年祈願にからんできたものだろう。
 農地も少なく、痩せた土地が多い島で、ひたすら農作にからむというのも一見すると変だが、だからこそなのだという説がある。貧しく辛い暮らしだからこそ、海の彼方の世(ユー)に憧れ、弥勒世(ミルクユー)の到来を島が渇望し、その願望がいろいろに祭式化されてきたのだという。
 なるほど、そうかもしれない。
 でんでんむしは、それに加えて先祖崇拝と地域共同体意識が大きな中心になって、それらが渾然一体となって島々の伝統行事と風習を育んできたのだろうと思う。だが、女系で引き継がれる司の伝統も、女性が嫁すればその役目を負う家は変わる。御嶽を守るべき司が絶えてしまったものか、美崎御嶽から遠からぬ海岸寄りにはこんな御嶽もあった。
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dendenmushi.gif沖縄地方(2014/01〜2 訪問)

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八重山の赤い寄棟屋根にはゴツゴツの石を野面積みした石垣が似合う(34) (石垣島だより シーズン2) [石垣島だより]

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 赤瓦の屋根に、似合うのが石垣である。近頃では石垣市内でもブロック塀などのほうが多いようだし、新しく石垣を築くことも少ないように思われるが、やはり赤い屋根には石垣がいちばんよく似合う。こうした古い様式を備えた家は、さすがに市街地では少なくなってしまったが、やいま村などにはそういう家を移築して保存している。
 次の写真のような屋根が石垣には多いと、柳田国男は南島旅行のメモに記しているが、これもやいま村に移築されているもので、現在では少ない。
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 そういえば、ここは石垣島で、島一つがまるごと石垣市。石垣市のなかでは、石垣市役所の北側から細くなったり太くなったりしながらバンナ岳の半分から名蔵のマングローブ林までが石垣市石垣。そしてこの島に住んでいる人の苗字では、石垣さんというのが結構多い。このことも柳田メモにはあるが、とくに関心を引かなかったようだ。
 石垣さんがいるから石垣島なのか、石垣島だから石垣という姓を名乗ったのか。地名と人名と、どっちが先だったのだろうか。いずれにしても「石垣」とは文字通り石で囲った垣根のことを指しているのに違いはあるまい。それ以外には考えられないほど、そのことは明白である。
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 石垣島の石垣は、琉球石灰岩か珊瑚の石や溶岩性らしいゴツゴツで凸凹の多い黒い石などが使われている。こういう場合、遠くからそのための資材を買って運んでくるということはまずしないのが普通だろう。だがら、石垣の素材はそこらにいくらでもゴロゴロしているもの、掘れば出てくるものを活用したはずである。
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 石垣は他の素材に比べて幅がいる。琉球石灰岩の石垣ではきれいに表面を削り磨きあげたものもあるが、これは少数派である。ほとんどはゴツゴツの石を加工せずそのまま積み重ねた野面積み(のづらづみ)で、高さにも高いの低いのいろいろある。竹富島や西表島の石垣は一般に低いのが多いが、石垣島のはもともとは人の背丈ほどはあるのが普通だったろう。
 八重山の赤屋根の形は、四方に傾斜をもつ寄棟造りで、しかも平屋が普通というか原型である。低い赤屋根の軒下と背丈ほどの石垣がほぼ近くなり、強い台風の風がどの方向から吹いてもうまく逃すことができる。
 台風の通り道にふさわしい対策が、自然に積み重ねされてきた結果といってよいのだろう。そして、さらにはその石垣の内側には、フクギなどを植えて防風の役割を強化した。
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 石垣もフクギも、これから新しくできる家の設計に組み込まれることは少なくなる一方だろう。
 石垣市街の古くからの住宅地を歩いてみると、細い路地が整然と細かく走っていて、その道沿いには今でもたくさんの石垣を見ることができる。
 なかには新しい家に石垣もあるが、それらは古くからある石垣をそのまま利用しているようだ。また、低くなった石垣の跡か、あるいは低いままの石垣だけは残り、その内側には家がなくなっているところもある。
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 市街地に残る石垣は、かつてはここを軒並み埋め尽くしていた赤屋根の家の名残でもある。
 石垣は赤い屋根とセットでなければ、やはり淋しいのだが、そういった民家の原型を留めるような家もある。
 国土地理院の地図でも∴史跡マークで示されている宮良殿内(どんち)庭園と同じく∴印の石垣氏庭園というのが表示されている。これらはそうした民家のモデルとなった古い原型とも考えられる。
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 宮良殿内のほうは島いちばんの繁華街にも近いので観光客もよく訪れるところで、200円の料金を払えば中に入れるが、石垣氏庭園のほうは石垣さんが今も住んでいる家なので、入ることはできない。だが、その石垣は双方ともに立派なもので、当然一般庶民の家と石垣とはちょっと別格なのだ。
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 2月6日、当地ではSo-netブログの更新アップや閲覧が、なんどやってもうまくいかなかった。

 
▼国土地理院 「地理院地図」
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dendenmushi.gif沖縄地方(2014/01 訪問)

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赤い瓦の屋根と白いしっくいが妙にしっくりする八重山の家(33) (石垣島だより シーズン2) [石垣島だより]

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 内地からやってくるないちゃーが、いかにも沖縄にやってきたなあという感を強くするのは、気温のほかにはハイビスカスやブーゲンビリアなどの色鮮やかな南国の花々と、赤い瓦を載せた独特の民家の屋根を見るときだろう。だが、空港に着陸態勢に入った飛行機の窓から見ても、その赤い屋根が極端に多いとも言えない。
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 とくに、戦火から復興した本島では、市街地でも住宅地でも、白やグレーの四角い箱のような家が主流であるようだ。初めて本島を訪れたときには、それが強く印象に残っていた。それに比べるとより小さな町である石垣市では、町のなかを歩くと、やはり四角い箱のような家がほとんどだが、その間にまじってそこここに赤い屋根の家がある。
 それを、まだたくさん残っているというのか、はたまたどんどん減ってきたというのか、よくわからない。
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 しかし、赤い屋根の家は、古い家ばかりに残っているだけかといえばそうではなく、新しい家でも赤屋根の家も多い。石垣の住宅街のなかに、赤瓦を焼いている瓦屋さんがちゃんとあるのを発見した。
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 当然ながら地元八重山の人々には、赤屋根に対するこだわりと執着は、根強いものがあるようだ。赤い屋根は消え行く郷愁のシンボルではなくて、今現在も生き続ける地域の重要なお化粧なのだ。
 その証拠というのも変だが、まず行政にその意識がはっきりとあるようで、公共施設の建物などには、赤い屋根がどこかに使われている。なかには、ビルなのに赤屋根を一部にくっつける例も多いし、単なる板金の屋根を、赤く塗っているのもあったりする。
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 町の中にできるだけ赤屋根を増やそうという運動とか、助成があるのかどうかは知らないが、その努力は感じられる。道の狭い町中では限られるが、ベンチやバス停などの屋根も赤屋根にするのが広がっている。これはまず観光客の多いところから始まったようだが、島の郊外では休憩所や展望台などは必ず赤屋根でつくられている。
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 石垣に限らず八重山の各島に共通して、島の中の人にとっても島の外の人にとっても、この赤い屋根は八重山のシンボルであることには間違いない。
 いやいや、赤い屋根なんてどこにでもというか、ほかにもあちこちあるんじゃないですか。そう、ありますね。でんでんむしの故郷広島でも東広島市の赤瓦は山陽新幹線からも見えるので、印象が強いようだ。ほかにも地方ではあちこちにあるだろう。

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 だが、沖縄の赤瓦は独特である。見た目ですぐにわかる特徴は白い漆喰で瓦の隙間を埋めるところだろう。これは、隙間からの雨漏りを防ぐのと、瓦が飛ばされたりするのを防ぐためである。台風の進路に当たるこの地方では、当然のことなのだろう。
 よく見ると、この漆喰の使い方にもいろいろあって、ほんとに継ぎ目にしか使わないであまり目立たないのと、大盛りのてんこ盛りにして瓦の赤よりも白い漆喰のほうが目立っているようなのもある。また、色も白だが微妙にクリーム色っぽいものや経年変化で白くなくなったのもある。
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 釉薬を塗らない赤い琉球瓦の色素がなにかはわからないが、これはシーサーなどと同じようだ。本土で一般的な平瓦ではなく丸瓦が目立つ。実は、平瓦も使われていて、その継ぎ目の部分に丸瓦が並べてある。沖縄の呼び方では丸瓦は男瓦(ウーガーラ)、平瓦は女瓦(ミーガーラ)というそうで、その名がついたように、屋根を葺いた後での見た目は平瓦は幅は狭く、対して比較的丸瓦は大きく見え、どうかすると丸瓦だけで葺いているように見えたりする。
 この赤瓦の風習は、どこからきたのだろう。沖縄本島での赤瓦は18世紀頃の首里から始まって、それは権力と身分の象徴として使われたらしい。そもそも色もさることながら、瓦自体が首里の王府や士族や高官以外にはその使用は認められなかった、というのだ。ということは、普通は板葺きか藁葺きだったわけだ。
 明治も半ば頃になってからその規制が撤廃されて、一般に誰もが瓦が使えるようになったとき、王府を真似て誰もがこぞって赤瓦を使うようになっていったのは、よくわかるような気がする。

dendenmushi.gif沖縄地方(2014/01 訪問)

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石垣島の中央運動公園で千葉ロッテマリーンズがキャンプイン(32) (石垣島だより シーズン2) [石垣島だより]

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 昨日(02/01)は、石垣島でキャンプをはる千葉ロッテマリーンズの“仕事始め”だった。これから2週間以上にわたって続く石垣キャンプのオープニングセレモニーがあったのだ。去年と違って、今年は一軍と二軍の合同キャンプだという。
 野次馬根性でどんなものか、中央運動公園までノコノコと出かけて見てきた。もちろんマリーンズのファンだからというわけではない。でんでんむしは広島カープ一筋で、もともとパ・リーグにはあまり興味もなかった。
 ところが、交流戦というものが始まってから、カープ対パの試合もスカパーで見るようになった。これはなかなかいい企画だったと思う。“人気のセ・実力のパ”と言われて、交流戦の戦績はそれを裏付けてもいるようだが、長い間どちらかというとセに比べて陽があたらない感じもあったパにとってもよかった。
 もっとも、ここ近年ではそういう対セ・コンプレックスも薄らいできたのではないかと思うが…。
 広島カープの日南キャンプは、一度だけ見に行ったことがあるが、まあキャンプ自体はわざに見に行っても、超熱心なファンを除いてはさほどおもしろいものではない。ロッテのキャンプも、たまたま石垣島でやるところに遭遇したので、ちょっとセレモニーだけをのぞいてきた。
 石垣市の中央運動公園は、野球場が二面、陸上競技場が一面、雨天に使える体育館一棟、それにサブグラウンドや多目的広場などを備えている。
 その場所は、石垣市の中心市街地から北に少し外れたところで、新川川のそばにある。新川川より北に行くと、とたんに人家がなくなり、牧場や牧草地やさとうきび畑などが入り混じる田園地帯のバンナ岳南麓斜面が続く。
 キャンプ地に、別に風光明媚な場所は必要ではないのだろう。日南の広島のキャンプ地である天福球場も、町外れの山寄りにあった。景色よりも、温暖であること、ある程度の施設や受け入れ態勢が整っていることが重要なのだろう。その点、冬でも24度くらいは普通の石垣島は、ホテルなどもたくさんあるので、まあ合格なのだろう。
 それに、千葉ロッテには石垣島出身の選手もいるじゃないですか。それにしてはスタンドのファンは少ないな。
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 ちょうど、球場に着いたところで、選手を乗せたバスがやってきてみんなが降りてくる。東(あずま)運輸のバスにも、こんな立派なバスがあったのだ。われわれがいつも乗る路線バスは、どこかから中古車をかき集めてきたのではないかというくらいのシロモノだが、さすがに差別待遇である。
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 グラウンドには、選手が到着する前からセレモニーの関係者がズラリと一列に並んで待ちかねている。後でわかったのだが、これらは歓迎委員会と選手たちにさまざまな贈呈品を提供するスポンサーのお歴々。その列のいちばん端にいるのは、新空港のマスコットでカンムリワシのゆるキャラである。
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 市長の適当に長い歓迎の挨拶があって、その後に適当に短い伊東監督の挨拶があって、それから贈呈があるが、これはいちいち渡していると時間がかかる。代表でJA関係から野菜やらなんやらが贈られる。
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 そんな儀式があって、いたって簡単にセレモニーは終わり、選手たちはレフト側に集結。それをまたカメラマンたちが取り囲む。最初のミーティングかなにかなのだろうか。
 これから体操とかランニングなどが始まるのだろうが、それを見ていてもしかたがない。ぼつぼつ次の予定に移るとしよう。
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 千葉ロッテマリーンズもがんばれ! 
 これを見ながらでんでんむしの思いは宮崎県日南市の天福球場に飛んでいる。そのカープも後で沖縄本島のコザでのキャンプもある。
 キャンプは、野球ファンに期待にあふれた春の訪れが始まっていることを知らせている。
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▼国土地理院 「地理院地図」
24.345028, 124.171268
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dendenmushi.gif沖縄地方(2014/02/01 訪問)

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石垣島の新しい空港はカーラ岳の南側で白保の海に近い盛山に(31)(石垣島だより シーズン2) [石垣島だより]

 ANA 091便のB767-300が石垣島に近づくと、右の窓からは最初に見えてくるのは川平湾の北に飛び出た半島で、その先端は川平石崎である。その北海岸にはクラブメッドの赤い屋根の建物が見え、崎枝湾を過ぎ、御神崎、屋良部崎、大崎から名蔵湾を越え、前勢岳、バンナ岳上空から東から北向きに向きを変えていき、やがて石垣島空港の滑走路に降り立った。(このコースは便によってか天候によってか、変わる。白保を右手に見ながら右旋回するコースもある。)
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 タラップを降りなくても、通路がドアに横づけされる。
 2013年3月に開港した石垣島の新しい空港は、最近の流行りにならって「南ぬ島石垣空港」(ぱいぬしまいしがきくうこう)という名がある。
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 最近の地方空港と同じく、1Fが到着、2Fが出発で、エスカレーターもついている。従来狭苦しかった待合室も広い。外観も沖縄らしさを演出しようとしているようだが、これは中途半端で、宮古空港のようにはうまく成功していない。
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 展望デッキというのが3Fになっているが、くるりと一回りすればおしまいで高さもあまりない。そこから四方を眺めると、北にはカーラ岳と玉取崎やトムル崎のほうが遠くに見える。この空港の場所は石垣市盛山というところなのだが、カーラ岳をみていると盛山の地名がなにか合っているように思えてくる。ishigakiAP06.jpg
 東には埋め立てられなくて済んだ白保の海が広がり、南の白保の集落は隠れて見えない。ishigakiAP02.jpg
 空港の南側には、たくさんのレンタカーが密集して、客が来るのを待っている。
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 於茂登岳を望む西側には滑走路をつくるために丘を削った後のような斜面がある。ishigakiAP05.jpg
 新空港には、大手航空会社のほかにもピーチやスカイマークも飛んでくる。国際線も一丁前にあって、“いちばん近い外国”台湾からの路線がある。
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 これは30年もの間、さまざまな紆余曲折を経てきた結果である。
 旧飛行場は戦時中に海軍飛行場を誘致したのが始まりで、1956(昭和31)年から民間機が飛び始めた。でんでんむしが初めて八重山にやってきたのは1993(平成5)年だから、もう20年も前のことになる。そのときは、那覇空港でターミナルの外れの方までバスで運ばれて南西航空の飛行機に乗り換え、青い海の上を飛んで石垣に着いた。石垣空港ではタラップを降りて小さなビルとも呼べないターミナルの建物まで炎天下を歩いて行った。そのときのエプロンの照り返しと初体験の南国の日差しが暑く眩しく感じたことを思い出す。(旧石垣空港はシーズン1ライト兄弟から108年、初めてここに降りたときから18年、もうあと2年だけがんばる石垣空港(04) 参照)
 このときには滑走路は1500メートルに延伸されていたが、それでも中型のジェット機が飛ぶにはちょっと足りない。そこは特別に暫定ジェット化空港ということで飛ばしていたのだが、やはりパイロットにとってはヒヤヒヤものだったらしい。現にオーバーランする事故も起きていた。
 そこで、ジェット時代にふさわしい新空港をという話は、随分昔からあった。また、こういう話になると、必ずいろいろな思惑や利権や利害がからみ合って、魑魅魍魎が蠢きなかなかすっきりとはいかないのが常である。
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 新石垣空港の計画も三転四転した末に、30年もかかってやっと開港になったのは、このさほど大きくない島のどこに新空港をつくるかで、まず大もめにもめたからだ。
 1979(昭和54)年に最初に沖縄県が主導して決めたのは、白保の沖合に2500メートルの海上空港をつくる案だったが、これが地元の頭越しであったうえ漁業への影響が大きいというので、白保ではほとんどが反対。ところが、島の中では建設支持の空気が強かった。それを追い風に、県は“粛々と”(なんか人を小馬鹿にしたイヤな政治家官僚ことば)手続きを進めていた。
 白保の地元に限られていた反対運動が、東京そして全国に波紋を広げ、自然保護という大義名分を錦の御旗にすることによって、事態は大きく急展開することになる。白保のサンゴ礁は貴重な生態系を維持していることが、だんだんに知られるようになり、世論を喚起する。やがてその運動は、世界にも舞台を求めていく。
 当時、石垣島でも赤土の海への流失が、大きな問題となり始めていた。でんでんむしが最初に見た石垣島の風景は、川から赤く濁った水が、層をなして海に広がる光景だったのだ。
 世界的に自然環境保護の流れが進行するなかで、サンゴ礁をつぶして空港をつくろうというのは、いかにもいかにもである。ついにこの白保埋め立て案は1989(平成1)年に撤回される。
 だが、これがそもそものボタンの掛け違いの始まりでケチのつき始め。
 旧空港の滑走路延伸という案もあったが、南は住宅地商業地の市街地で騒音問題も抱えていたし、北へはフルスト原遺跡(ここがオヤケアカハチの居城跡なのか?フルスト原遺跡で先島諸島の先史時代に思いをはせる(23)シーズン1)があるので、これもむずかしい。その後も、白保海岸案、宮良の牧場農地案(公式の報告書などでは“白保牧中”)とあちこち候補地は揺れ動き、そのたびに島中を騒動に巻き込んでいくが、稲嶺沖縄県知事となってから空港立地の選定は地元に委ね、そのかわり地元の100%同意を要するという基本方針を示す。結局、これによって、海への影響が少ないカーラ岳の南を立地とする案でまとまり始めるのは、2000(平成12)年からだった。
 成田闘争を思わせる反対派の一坪地主運動だとか、ないちゃーの支援者が主導して先鋭化する運動で白保公民館も二分(島では公民館活動が地域の中心)するとか、促進運動をしていたJC(青年会議所)のリーダーが市長に当選するとか、さまざまな影響を残した。そのなかでも、教訓として自然保護ないしは環境影響が無視できないということがあったが、その結果コウモリのために大金をかけて専用の洞窟マンションをつくるとか、カエルやワシもと次々問題があった。
 こうした一連の関連騒動のなかでも、最も興味を引かれたのは、現場の洞窟で見つかったという約2万年前の人骨の件である。それまでは測定による国内最古の人骨は、浜松市浜北区で発見された浜北人の約1万4000年前であるから、大幅に記録を更新した。
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 新空港もできてしまえば、こうしたすべての経緯が、あたかもなかったかのように素知らぬ顔をするのは、あまり利口な態度とは思えないのだが…。
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▼国土地理院 「地理院地図」
24.390401, 124.24569
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dendenmushi.gif沖縄地方(2014/01/20訪問)

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短期集中連載『石垣島だより』 (シーズン1)項目リンクリスト(2011/12/22〜2012/01/31) [石垣島だより]

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めずらしく快晴になったけれども石垣島は冬場はいつもあまり天気がよくない(01) [石垣島だより]
石垣市の中心街は島の南西部海岸沿いの比較的平坦な地域に限られている(02) [石垣島だより]
目的はあるようなないようなないようなあるような石垣島滞在中(03) [石垣島だより]
ライト兄弟から108年、初めてここに降りたときから18年、もうあと2年だけがんばる石垣空港(04) [石垣島だより]
八重山(やいま)の島々へは石垣港離島ターミナルから出る連絡船で(05) [石垣島だより]
もうひとつのターミナルは東運輸のバスターミナルで主要幹線は30分毎(06) [石垣島だより]
石垣市立図書館のリサイクルコーナーから古い歴史全集の本をもらってきた(07) [石垣島だより]
左から右へ揺れ動く民意のなかで混迷する八重山の教科書採択問題(08) [石垣島だより]
ここは「右から左になった日」を記念しているんだけどそれは車の走行ルールの話(09) [石垣島だより]
ここが商店街では初の命名権委譲が行なわれた“最南端の商店街”ですが(10) [石垣島だより]
やいま大通り(市役所通り)いそがずあせらずなんくるないさー(11) [石垣島だより]
家々の玄関のうえには日の丸のついた正月飾りがあるのを見ると…(12) [石垣島だより]
日本最南端・最西端の八重山の重要港湾である石垣港は国境の港でもある(13) [石垣島だより]
はるか南の海からやってきた人を思う海人の祭りハーリー会場の新川漁港(14) [石垣島だより]
島の最多人名は“宮良さん”で地域名の境界線の区切り方がとてもおもしろい(15) [石垣島だより]
とぅばらーま記念碑とアコウの大木がある「なかどー みちぃ(仲道路)」(16) [石垣島だより]
マックスバリューとサンエーとかねひでとココストアとさしみ店ときいやま商店と…(17) [石垣島だより]
宮良殿内や桃林寺のある中心市街地をちょっと外れるととたんに田園風景になる島の観光は…(18) [石垣島だより]
石垣島の農業は開拓とともに苦難の連続で畜産は地域ブランド「石垣牛」を産む(19) [石垣島だより]
ここから水平線の上に南十字星が見えるらしい大浜の海岸とその続きの海岸はこんな感じ(20) [石垣島だより]
八重山の英雄オヤケアカハチの拠点があった大浜には御嶽(うたき・おん)もいくつもある(21) [石垣島だより]
石垣島は駅伝もマラソンもトライアスロンも自主トレもキャンプも…(22) [石垣島だより]
ここがオヤケアカハチの居城跡なのか?フルスト原遺跡で先島諸島の先史時代に思いをはせる(23) [石垣島だより]
石垣のマングローブはやっぱり西表には負けてるけどおかげさんで「西表石垣国立公園」になった(24) [石垣島だより]
先島諸島の無土器文化の位置づけは不思議だがいったいどういうものだったのだろうか(25) [石垣島だより]
やっと探し当てた明和大津波遭難者慰霊碑はもう記録からも記憶からも遠くなって(26) [石垣島だより]
白保のサンゴ礁は有名だが見つからない柳田国男の歌碑も海上の道に没したのか(27) [石垣島だより]
サンゴ礁の島はサンゴの岩石と琉球石灰岩でできていて貴重な建材となってきた(28) [石垣島だより]
ブーゲンビリアにハイビスカスにミニサンダンカなどが冬でも咲いているがこの春デイゴの花は咲くか(29) [石垣島だより]
捨て石とマラリアと強制移住は八重山の歴史を知るうえで重要なキーワードになっている(30) [石垣島だより]

「石垣島だより」(シーズン 2)へ…

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dendenmushi.gif沖縄地方(2011/12/19〜2012/01/24 訪問〜01/31 記)

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捨て石とマラリアと強制移住は八重山の歴史を知るうえで重要なキーワードになっている(30) [石垣島だより]

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 オヤケアカハチとその勢力を殺いだ琉球王朝の第3代尚真王は、その後を宮古島の仲宗根に委ね、先島諸島の経営を始めるが、2年後には王府の直接統治へと移行する。琉球王朝の黄金期といわれる時代を迎え、奄美諸島から先島諸島までを支配下に治める。
 先島のスクの時代からの貿易によるメリットもそっくり手にして、東南アジア貿易の中継地としての繁栄もしばらくは続く。中国から持ち込まれた藩薯芋(後にこれが薩摩藩を経て本土に伝わり、サツマイモと呼ばれる)のおかげで、食糧事情は好転し、飢饉餓死者も減少した。
 しかし、宮古を含む先島は、琉球にしてみれば遠く離れた占領地に過ぎなかった。琉球化とその支配はどんどん強化され、その圧力は苛烈な人頭税の実施につながっていく。先島の人頭税は米納と上布代納で、15歳から50歳までの住民に対し、その担税能力には関係なく一律に負担を強要するものであった。
 その重税が産んだ悲劇は、数多くの歌や伝説になって伝えられているが、琉球がこうした強引な政策をとらざるを得なかったのは、1500年代末期頃から琉球を通じて明と貿易することを画策する薩摩藩が琉球になにかと介入を始め圧力を強めたためだ、とする説もある。
 だから、それが許されるというようなものではなかったこの税制は、居住の自由をも奪っていた。人口の少し多い島から、未開拓の島へ住民の移植を行なう強制移住によって新しく村を開かせる開拓政策を伴っていた。また、米で納税することを強制され、稲作ができる地を求めて未開地へ移住することもあった。ところが、そうした村のほとんどは、マラリアによって全滅するという悲惨なことになった。
 薩摩の圧力は、朝鮮出兵から江戸時代を通じて琉球を介した明との間接貿易を有利に進めるために永く続き、ついには幕府が薩摩の琉球侵攻を容認する事態になっていく。
 1609年、琉球に攻め込んだ歴戦強兵の薩摩軍は、たちまちにして首里城を陥れる。その後は琉球王は江戸へ連れて行かれ、江戸幕府の将軍に使節を派遣する義務を負うかたちで従属させられ、また琉球と清との朝貢貿易の実権は薩摩藩が握り、琉球はいわばその隠れみのに使われるようになる。
 明治新政府になっても、いわゆる琉球処分によって、強権的に琉球は日本の一部に位置づけられる。廃藩置県によって、約500年間続いた琉球王国は滅びる。
 この間、明和の大津波被災のうえに重税だけは続くという八重山の過酷な状態は、誰からも省みられることはなく、放ったらかしにされたままであった。驚いたことに、人頭税が廃止されるのは、1903(明治36)年になってからであった。 
 石垣島の南西の端にあたる富崎には、「唐人墓」というものがある。西回り周回道路の側なので、観光バスも立ち寄るポイントだが、ここはこの島が世界史の端っこに関わった、ある事件を記録するものである。
 1852(嘉永5)年に、中国人のクーリー(労働者だが、ほとんど奴隷に近いと思われる)400人を西海岸へ運ぶ途中のアメリカ船で、船員の非道な扱いに決起した中国人が、船長らを殺害した後に石垣島沖で座礁、中国人のほとんどが島に上陸するという事件が起こる。
 琉球王朝と島の人々は、これを人道的見地から小屋を建て、食料や水を供給したが、米英の海軍が三回にわたって来島、砲撃のうえ上陸して島に逃げ込んだ中国人を捜索し、そのほとんどは殺された。自殺者や病没者も続出したので、半数にも満たない生き残った者は中国に送還することになったが、このときの犠牲者を祀ったのが唐人墓なのだ。
 そうかと思うと、1880(明治13)年には、日本政府が清国との交渉の過程で、宮古・八重山の先島諸島を清国へ割譲するという提案をし、条約の仮調印までしていたという事実もあった。
 これも驚くべき話なのだが、この当時の日本人、政府のこの地域への関心の低さを物語る以外のなにものでもない。やはり、琉球にとって八重山は搾取の対象でしかなく、代わって支配した日本にとっても八重山は捨て石に過ぎなかった。日本の琉球処分に反発した清国との間で、日清修好条規に最恵国待遇条項を追加させる見返りに提案したと思われるが、幸いにも李鴻章の反対によって正式妥結にはいたらないまま、日清戦争になだれ込んでいく。
 日清戦争に勝った日本は、清国から台湾を割譲させ、同時に改めて琉球に対する日本の主権を認めさせた。この時点で、中国側の尖閣諸島を含む琉球諸島は日本領として正式に承認し認識することになり、両国間では領土問題には一応の決着がついていた。
 太平洋戦争では、飛び石作戦のアメリカ軍も、戦略的に重要でないとみた先島諸島を素通りして、沖縄本島を取り囲む。そのため、八重山では艦砲射撃を受けたくらいで上陸はなく直接アメリカ軍との間での戦闘はなかったが、駐屯した日本軍の命で西表島などに強制避難させられた住民の多くが、マラリアによって死亡した。その犠牲者は、戦没者よりもはるかに多かったという。
 こうして大急ぎの駆け足で眺めみると、八重山の歴史は、ほとんど忘れさられた捨て石、それにマラリアと強制移住(開拓)が、大きなキーワードになっているようにも思える。
 「なんくるないさー」と島の老人たちがいうとき、それがこうした歴史を生き抜いてきた先祖をもつ子孫のことばだと思うと、また別の重みが感じられるのである。
 「石垣島だより」(シーズン1)は、これにて一段落とし、また通常ペースに戻ります。
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 短期集中連載『石垣島だより』 (シーズン1)項目リンクリスト(2011/12/22〜2012/01/31)
 追加参照:本土ではみんなが忘れている戦争の記憶を伝える沖縄でも異色の八重山平和祈念館(45)(石垣島だより シーズン2)

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沖縄地方(2012/01/31 記)

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ブーゲンビリアにハイビスカスにミニサンダンカなどが冬でも咲いているがこの春デイゴの花は咲くか(29) [石垣島だより]

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 本土の人間が沖縄を訪れたとき、最初に「南国へやって来た!」と感じるのは、那覇空港に降りて、季節を問わず通路にずらり並んだ色とりどりのランの花々が出迎えてくれるときであろう。
 石垣島でも、冬でも咲く花が多いので道を歩いていても、道路際や並木の植え込みや、民家の庭や門口に、華やかな色彩が溢れている。もちろん、本土と同じ花もあるけれど、やはりいかにも沖縄らしいブーゲンビリアやハイビスカスやミニサンダンカやトックリキワダの花、それに並木のヤシにたわわに実った実が赤く色づいているさまは、冬でも20度の温度をさらに上げているようでもある。
 島では「アカバナ」と称されているハイビスカスは、なかでももっとも代表的なもので、どこの家の庭にも垣根にも、よく見かける。元来のアカバナはその名の通りまっ赤な花で、葉まで赤みを帯びている。
 同じような形をしている花でも、色違いのものがいろいろたくさんあって、それらは栽培種なのか、葉も別種のように異なっている。
 街路のフラワースペースなどでよく見かけるノボタンは、本土でも園芸品種として人気があるが、ここではこれが在来種だという。
 石垣屋へ行ったとき、中庭に大きな木があって、花をつけていた。これがトックリキワダで、ここでは開店のときに移植したのだが、12周年の今年になって、初めて花をつけたのだそうである。それくらい、気むずかしい花らしいので、市では港周辺の公園や街路に植えているが、そうどこにもあるというものでもない。
 これが初夏や夏や秋には、どうなるのだろうか。多くは変わらず、年中咲いているのだろうが、実は夏の石垣島にはまだ来たことがないので、実感としては未体験。
 今回は、ちょっとシーズンにはまだ早かったのだが、本土のサクラに相当するのがデイゴといわれている。沖縄県の県の花であり、琉球大学の合格電報の文面が「デイゴ咲く」だとか、一時期大流行したTHE BOOMの「島唄」の歌詞で「デイゴの花が咲き〜」というのがあるので、見たことがない人でも知っている人は多い。
 実際は、サクラとはまったく違う風情のまっ赤で大きくて華やかな花だが、これがまたトックリキワダに似て毎年花が咲くという保証はないらしい。それでも、ここ数年の石垣島ではデイゴの花がほとんど咲かないという事態は、普通ではない。異常な春が続いている。
 主にデイゴヒメコバチというムシが広める病虫害被害によるもので、デイゴの葉や幹にこのハチが産卵しムシこぶをつくって木を弱らせてしまい、枯らしてしまうこともあるという。台湾方面から飛来してきたムシらしいのだが、島では対策プロジェクトを進めるNPOなどの活動を支援するなどしてきた。が、それも今年度でその当初の計画期限が到来する。
 しかし、まだデイゴの完全復活には遠いようである。島では、引き続き対策を進める必要があるという声が強いが、海を越えて飛んできてデイゴを咲かなくしてしまう外敵に、これを防御駆除する決定的な方策も、まだみつかっていないようだ。 果たして、この春はデイゴの花は咲くことができるのだろうか。
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サンゴ礁の島はサンゴの岩石と琉球石灰岩でできていて貴重な建材となってきた(28) [石垣島だより]

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 今さらだが、沖縄や先島の島々は、サンゴ礁にぐるりを取り囲まれている。というより、専門的にはともかく、素人的にはサンゴ礁が隆起してできた島々と考えてもいいのだろう。
 八重山の島々は、1億7400万年前に隆起と沈降を何度も繰り返しながら、徐々に石灰岩の低くて平らな島ができあがり、それが大陸からは切り離されて残ったものと考えられている。
 島の浜辺には、サンゴの破片や塊などがごろごろしており、砂は少ない。一見砂のようにみえるものも、やはりサンゴが小さく砕かれたものだったり、一部では“星砂”と呼ばれるプランクトンの死骸だったりする。
 石垣島のサンゴ礁は白保だけではなく、島全体を取り巻いているのだが、風や波の当たり具合が成育に影響するので、とくに東海岸で発達しているといわれている。
 今から14〜15年くらい前だったと思うが、サンゴの白化が問題となったことがある。サンゴが大量に死滅し、その死骸は白くなってしまう。ちょうど、その頃だったのだろう。川平のグラスボートに乗ってみたときには、サンゴ礁には白いものが目立っていた。
 淡水が混じると、サンゴの成長が阻害されるので、川の流れ込むところなどには切れ目ができる。そこが舟の通路になる。大浜や宮良には切れ目があるが、白保にはなかった。だから溝を掘る必要があったのだろう。
 真栄里から延びるサンゴ礁は、石垣港の南側を大きく迂回して竹富島につながっている。石垣港付近はサンゴ礁はなく(取り除かれて)、竹富東港へ入る船はサンゴ礁の切れ目を示す標識の間を通っていく。
 水深が深いところでは、サンゴ礁も問題にはならない。小浜島とその周辺の小島は、ひとつのサンゴ礁で囲まれており、西表島はまた別のサンゴ環が取り巻いていて、そのサンゴ礁とサンゴ礁の間が、マンタの通るヨナラ水道である。
 このように、この地域では、地図でもサンゴ礁の表記は欠かせないはずなのだが、もちろんZENRINソースのネット地図では、まったくこれも無視している。
 島の基盤は、いわゆる琉球石灰岩と呼ばれるサンゴ礁がつくりだした岩盤でできていて、それが露出した道もある。岩盤の上にかぶさっている薄い表土は、大陸から分かれるときくっついてもってきた古い地層とみられる。
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 こういう島だから、少し掘れば、岩や石がごろごろ出てくる。それらを取り除いて重ねていくと、石垣は自然にできてしまう。その名も“石垣島”という名は、この島の様子を端的に示す表現であったのだろう。
 また、鍬が入る土の下には、岩盤に行き当たる。それを切り出した石材は、島では貴重な建材になり、歩道の敷石や壁など、広く活用されている。
 この琉球石灰岩は、古いサンゴ礁が隆起してできたもので、有孔虫や小さな貝類などさまざまな生物の化石とその隙間を泥や砂が埋めて固まった岩である。見たところ、本土の岩に比べれば、比較的加工はしやすい石材のように思われる。八重山の島々の海岸では、裾が大きくえぐり取られた、壷を逆さにしたような岩や小島を見ることが多いが、これは波の作用で岩が削られたものであろう。
 こういう本土から遠く離れた島へ、石などをわざわざ運んでくることは、滅多にあるまい。琉球石灰岩やサンゴ礁の岩塊は、“地産地消”の代表のようなものではないか。
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