石垣島の新しい空港はカーラ岳の南側で白保の海に近い盛山に(31)(石垣島だより シーズン2) [石垣島だより]
ANA 091便のB767-300が石垣島に近づくと、右の窓からは最初に見えてくるのは川平湾の北に飛び出た半島で、その先端は川平石崎である。その北海岸にはクラブメッドの赤い屋根の建物が見え、崎枝湾を過ぎ、御神崎、屋良部崎、大崎から名蔵湾を越え、前勢岳、バンナ岳上空から東から北向きに向きを変えていき、やがて石垣島空港の滑走路に降り立った。(このコースは便によってか天候によってか、変わる。白保を右手に見ながら右旋回するコースもある。)
タラップを降りなくても、通路がドアに横づけされる。
2013年3月に開港した石垣島の新しい空港は、最近の流行りにならって「南ぬ島石垣空港」(ぱいぬしまいしがきくうこう)という名がある。
最近の地方空港と同じく、1Fが到着、2Fが出発で、エスカレーターもついている。従来狭苦しかった待合室も広い。外観も沖縄らしさを演出しようとしているようだが、これは中途半端で、宮古空港のようにはうまく成功していない。
展望デッキというのが3Fになっているが、くるりと一回りすればおしまいで高さもあまりない。そこから四方を眺めると、北にはカーラ岳と玉取崎やトムル崎のほうが遠くに見える。この空港の場所は石垣市盛山というところなのだが、カーラ岳をみていると盛山の地名がなにか合っているように思えてくる。
東には埋め立てられなくて済んだ白保の海が広がり、南の白保の集落は隠れて見えない。
空港の南側には、たくさんのレンタカーが密集して、客が来るのを待っている。
於茂登岳を望む西側には滑走路をつくるために丘を削った後のような斜面がある。
新空港には、大手航空会社のほかにもピーチやスカイマークも飛んでくる。国際線も一丁前にあって、“いちばん近い外国”台湾からの路線がある。
これは30年もの間、さまざまな紆余曲折を経てきた結果である。
旧飛行場は戦時中に海軍飛行場を誘致したのが始まりで、1956(昭和31)年から民間機が飛び始めた。でんでんむしが初めて八重山にやってきたのは1993(平成5)年だから、もう20年も前のことになる。そのときは、那覇空港でターミナルの外れの方までバスで運ばれて南西航空の飛行機に乗り換え、青い海の上を飛んで石垣に着いた。石垣空港ではタラップを降りて小さなビルとも呼べないターミナルの建物まで炎天下を歩いて行った。そのときのエプロンの照り返しと初体験の南国の日差しが暑く眩しく感じたことを思い出す。(旧石垣空港はシーズン1ライト兄弟から108年、初めてここに降りたときから18年、もうあと2年だけがんばる石垣空港(04) 参照)
このときには滑走路は1500メートルに延伸されていたが、それでも中型のジェット機が飛ぶにはちょっと足りない。そこは特別に暫定ジェット化空港ということで飛ばしていたのだが、やはりパイロットにとってはヒヤヒヤものだったらしい。現にオーバーランする事故も起きていた。
そこで、ジェット時代にふさわしい新空港をという話は、随分昔からあった。また、こういう話になると、必ずいろいろな思惑や利権や利害がからみ合って、魑魅魍魎が蠢きなかなかすっきりとはいかないのが常である。
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1979(昭和54)年に最初に沖縄県が主導して決めたのは、白保の沖合に2500メートルの海上空港をつくる案だったが、これが地元の頭越しであったうえ漁業への影響が大きいというので、白保ではほとんどが反対。ところが、島の中では建設支持の空気が強かった。それを追い風に、県は“粛々と”(なんか人を小馬鹿にしたイヤな政治家官僚ことば)手続きを進めていた。
白保の地元に限られていた反対運動が、東京そして全国に波紋を広げ、自然保護という大義名分を錦の御旗にすることによって、事態は大きく急展開することになる。白保のサンゴ礁は貴重な生態系を維持していることが、だんだんに知られるようになり、世論を喚起する。やがてその運動は、世界にも舞台を求めていく。
当時、石垣島でも赤土の海への流失が、大きな問題となり始めていた。でんでんむしが最初に見た石垣島の風景は、川から赤く濁った水が、層をなして海に広がる光景だったのだ。
世界的に自然環境保護の流れが進行するなかで、サンゴ礁をつぶして空港をつくろうというのは、いかにもいかにもである。ついにこの白保埋め立て案は1989(平成1)年に撤回される。
だが、これがそもそものボタンの掛け違いの始まりでケチのつき始め。
旧空港の滑走路延伸という案もあったが、南は住宅地商業地の市街地で騒音問題も抱えていたし、北へはフルスト原遺跡(ここがオヤケアカハチの居城跡なのか?フルスト原遺跡で先島諸島の先史時代に思いをはせる(23)シーズン1)があるので、これもむずかしい。その後も、白保海岸案、宮良の牧場農地案(公式の報告書などでは“白保牧中”)とあちこち候補地は揺れ動き、そのたびに島中を騒動に巻き込んでいくが、稲嶺沖縄県知事となってから空港立地の選定は地元に委ね、そのかわり地元の100%同意を要するという基本方針を示す。結局、これによって、海への影響が少ないカーラ岳の南を立地とする案でまとまり始めるのは、2000(平成12)年からだった。
成田闘争を思わせる反対派の一坪地主運動だとか、ないちゃーの支援者が主導して先鋭化する運動で白保公民館も二分(島では公民館活動が地域の中心)するとか、促進運動をしていたJC(青年会議所)のリーダーが市長に当選するとか、さまざまな影響を残した。そのなかでも、教訓として自然保護ないしは環境影響が無視できないということがあったが、その結果コウモリのために大金をかけて専用の洞窟マンションをつくるとか、カエルやワシもと次々問題があった。
こうした一連の関連騒動のなかでも、最も興味を引かれたのは、現場の洞窟で見つかったという約2万年前の人骨の件である。それまでは測定による国内最古の人骨は、浜松市浜北区で発見された浜北人の約1万4000年前であるから、大幅に記録を更新した。
新空港もできてしまえば、こうしたすべての経緯が、あたかもなかったかのように素知らぬ顔をするのは、あまり利口な態度とは思えないのだが…。
▼国土地理院 「地理院地図」
24.390401, 124.24569
沖縄地方(2014/01/20訪問)
タグ:沖縄県
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