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戦争の記憶を伝える八重山戦争遺跡のひとつは石垣島測候所の壁で(46) (石垣島だより シーズン2) [石垣島だより]

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 西表島の岬めぐりで「日本最南端のバス停」のある南風見は、「1069 落水崎」の項 で書いていた。ここでちょっとふれていた、戦争マラリアの慰霊碑というのは「忘勿石」とその祈念碑の両方があるらしい。それは、波照間島から意味もなく移住させられ、故郷の島影が望める西表の南風見で、意味もなく苦しみ死んでいった人々たちの鎮魂のためと、後世にその悲劇を忘れないで伝え残そうというものだった。
 その1069項でも、「こんな美しいなにげない風景のなかにも、“戦争”の二文字が陰を落としている場所が多い」と書いていたように、八重山の戦争遺跡は34件もある。それは、八重山平和祈念館でもらってきたコピーに一覧にしてあって、地図にプロットしてあった。
 それらは慰霊碑や忠魂碑のほか、陣地や掩蔽壕、銃眼などの軍施設跡や部隊ごとの慰霊碑、避難壕として使われた洞窟といったものである。
 沖縄ではいまも「平和学習」というのがあって、こどもたちも八重山平和祈念館へやってくるらしい。
 一方、本土ではいまや昔通ってきた(「平和」というと「アカ」呼ばわりをされるような)道に、逆戻りし始めているような風潮さえも一部に感じられる。沖縄での住民の犠牲に、軍は関与していない責任はないという言説まであらわれる。原爆マンガは残虐でこどもに有害だと、市長や校長や教育委員会がこれを図書館から排除しようとする…。
 その沖縄の「平和学習」も、それを支えてきた教組などへの反発対抗勢力が徐々に声を大きくして力を増し始めていて、なかなか平和なままではいられない。八重山の教科書問題が起こったのも、先の石垣市長選挙では自民党が推す現職がまた勝ったのも、沖縄の新聞や朝日新聞への批判攻撃も、そうした流れの中にあるような気がする。
 石垣島の鍾乳洞に入っていたときに、逃げ場隠れ場のない沖縄で、人々がこうした洞窟に逃げ込まざるを得なかったことを、否応なく連想してしまった。アメリカ軍が撮影したフィルムで見た、洞窟の入口から中に向けて火炎放射器の炎が発射される場面が、鮮明に思い出される。
 琉球石灰岩の洞窟が数多くあったことが、結果的に沖縄の悲劇を拡大してしまったということは、考えられないことなのだろうか、とふと思う。
 石垣市立図書館前の公園に、憲法第第九条の碑があることや市長選挙や八重山教科書問題などについては、前の「石垣島だより「左から右へ揺れ動く民意のなかで混迷する八重山の教科書採択問題(08)」 でも触れていた。
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 第九条の碑もそのうち埋められてしまいました、といったことになるのでは…と心配もしていたが、保守市政のもとでもまだ無事である。先日来のニュースで、日本国憲法とそれを守ってきた日本国民にノーベル平和賞を申請するとかいったものがあった。それもいいアイデアかもね。だが、ノーベル賞のなかでも平和賞くらい権威と納得性に欠けるものはないんだけど…。だから、このアイデア、皮肉が効いてていいのか!
 戦争の放棄をうたう条文の大きな石碑の後ろを、平和のハトが支えているところから少し離れて、なにやら壁のようなものが立っている。
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 34か所の八重山戦争遺跡のリストにはなかった(ちょうど移設の狭間だったのか)が、これも戦争遺跡のひとつなのだ。台風進路の第一線の観測拠点であった、石垣測候所(気象台)の壁に残っていた弾痕。気象台の壁は米軍機や艦砲射撃による多数の弾痕を受け止めていたが、改修にともなってその一部をこの新栄公園に移設保存したのだという。
 不思議なことには、この壁が立っているだけで、なんの説明もない。この移設された壁は、まだ彈痕が少ないほうなのだが…。
 また、少し脱線するが、ここまできて前に書いていたこととの関連が明らかになってきた。石垣測候所といえば、(石垣島だより(40)シーズン2)の項 でふれた柳田国男とも関係があった。1921(大正10)年の柳田来島当時、石垣測候所の所長などに歓待されている。記録などにはその名前などくわしいことが残されていなかったが、それが岩崎卓爾のことであった。
 岩崎は、明治の末に新設された石垣島測候所の赴任して所長となり、以来亡くなるまでの40年間にわたって石垣島に住み、石垣島を愛した文化人であったのだ。一地方の名士の枠を超える活躍は、八重山地方の生物、民俗、歴史など広範に及び、多数の著書を残していた人だった。新発見の生物も多く、それらには「イワサキ」の名が冠してあるほどだ。
 それで、柳田国男が石垣島を訪れたとき、測候所所長自らがなにかと世話をやき、島を案内したであろうことが想像できる。おそらく、柳田の歌が「八重山新報」に載ったのも、その筋からであったろう。それにしては、岩崎のその情熱と思いは、柳田に伝わったのかどうか、彼の残したメモからみると岩崎の名もなく、残念ながらさほど関心を示していないように見受けられる。
 当時から石垣島測候所は、島のなかでも特別な存在であったと思われる。それを思わせる古い写真が(石垣島だより(38)シーズン2)の項 の喫茶「海坊主」店内の壁に飾ってあった。
 これをみると、やはり艦砲射撃の標的になるのは、これだけ目立っていればむりからぬことだ。
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 平和の鐘やら非核宣言の碑やら、ここにはいろいろあるのも、長く続いていた“革新市政”のおかげだったのかもしれないと思ったので、世代交代も計ることができないでまたまた“保守”に敗北した選挙結果をうけて、また中央では憲法を“改正”しようという動きが盛んである。やはり、これらが埋められてしまう可能性も、まるっきり杞憂とは言えないかも…。
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 水溜りも残る雨上がりの公園では、澄み切った青空のもと、ゲートボールに興じている年配者のグループがあった。この人たちは、戦争の記憶を残しているのだろうかどうだろうか。
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本土ではみんなが忘れている戦争の記憶を伝える沖縄でも異色の八重山平和祈念館(45) (石垣島だより シーズン2) [石垣島だより]

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 近年では、70年近くも前に終わった戦争のことなど、誰もまったく気にもせず、みんなすっかり忘れ去ってしまっているようだ。だが、それは本土だけのことなのだ。
 沖縄では戦争の記憶はいまもなお風化することなく、いまも語られ、いまも伝えられ、いまも忘れられていない。
 空襲は東京だけでなく各地方都市までおよび、広島と長崎に原爆は落とされたが、戦場の第一線からは後方にあった“銃後”の本土と違って、凄惨な地上戦が展開された沖縄では、戦争は兵隊がするものではなく一般島民すべてがそれを体験した。この違いは相当に大きく、沖縄をめぐるさまざまな問題の底辺で、すべてかかわっているように思えてならない。
 沖縄本島では、多くの戦跡や慰霊の場や祈念館があるが、その代表的なものが摩文仁の沖縄県平和祈念資料館であろう。平和の礎(いしじ)や国立沖縄戦没者墓苑などを含む平和祈念公園のなかにあるそれと、石垣市新川の具志堅用高記念館の斜向かいにある八重山平和祈念館は姉妹関係にあるようだ。だが、その規模やメインテーマは大きく異る。
 八重山の歴史については「石垣島だより」の30「捨て石とマラリアと強制移住は八重山の歴史を知るうえで重要なキーワードになっている」で、ごく簡単なまとめ(戦争にも歴史にも沖縄にも、あまり関心がないという人向けの駆け足なので、ぜひ一読しておいてほしいのだが)をしていた。
 そこでもふれていたマラリアが、八重山の祈念館のほうでは主なテーマになる。
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 フィリピンなどから北上してきたアメリカ軍の艦船は、八重山・宮古の島々を艦砲射撃はしたというが上陸はせず、そのまま本島に向かった。最初のアメリカ軍上陸作戦の標的は慶良間島で、それが1945(昭和20)年の3月26日で、それから始まる約3か月にわたる沖縄戦では、膨大な数の砲弾と銃弾が打ち込まれた“鉄の暴風雨”のなかで、軍人と民間人合わせて約20万の死者を出し、島の地形も変わってしまった。
 その後、アメリカ軍が先島諸島にきたときは占領軍としてであり、上陸するのは宮古島が1945年の8月26日、石垣島が3日遅れの29日であった。
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 凄惨な沖縄戦からは取り残された形にはなったものの、実はそのとき八重山では食糧不足と栄養失調、それにマラリアによって数千人の犠牲者を出していたのである。とくにマラリアは、駐屯していた日本軍による完全な“軍災・人災”で、当地ではそれを「戦争マラリア」と呼んでいるが、本土ではほとんどの人がそれを知らないでいる。
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 当時、八重山の人口は31,701人だったが、このうち半数を超える16,884人がマラリアに罹患し、死亡者3,647人で人口の1割以上が犠牲になった。日本軍の命令によって住民が強制疎開させられたが、その移住先がマラリアの有病地帯であったためだ。
 戦術的にもほとんど意味がない強制疎開は、石垣島全地域、竹富村、与那国村で行なわれた。たとえば、石垣島登野城と大川の約6,200人あまりは、同じ島内の白水に追い立てられ、850余人の死者を出した。白水という地名は現在の地図ではみつからないが、バンナ岳を越えてさらに北へ於茂登岳の麓に入ったあたりのようだ。そこらもマラリア有病地帯だった。
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 また、波照間島では、全島民1,590人が西表島の南風見、古見、由布島へ移住させられ、1,587人(罹患率がもっとも高かった)がマラリアに苦しみ、そのうち477人が死亡している。
 祈念館で配布される白黒コピーの資料には、以下のような波照間での戦争マラリアについての聞き書きが抜粋されていた。
 
 日本の敗戦が濃厚となり、米軍の矛先が沖縄に向けられた1945年3月末のことです。波照間島では日本軍の作戦で、全住民に西表島への集団疎開が命令されました。
 その指揮は、軍の特務機関から学校の指導者として派遣されていた山下(偽名)という軍曹によってなされました。島民は、軍の命令直下で日ごろの態度を一変させ、住民の意見を無視して軍刀を振り回し、強制疎開を命令している山下の姿を見て驚きました。
 日本軍の内に秘められた真の恐ろしさを見せつけられたのです。
 日本軍は住民を疎開させる一方、西表島へ運べない牛馬や山羊などの家畜を、米軍の食料になるおそれがあるという名目で徴用し、自軍の食料として確保しました。のちに、波照間島住民への強制疎開は、日本軍のさしせまった食糧問題を解決するためにとられた作戦だった、といわれたゆえんです。
 
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 皮肉なことに、八重山の有病地帯で猛威をふるったマラリアを撲滅するために尽力してくれたのは、戦後施政権をもっていたアメリカ軍であった。そのおかげでマラリアは急激に収束に向かうが、その後また1955年頃に琉球政府が行なった移住政策によって息を吹き返そうとする。それもまたアメリカのウィラープランによって完全に撲滅されたのは、1960年代になってからだった。
 
▼国土地理院 「地理院地図」
24.397522, 124.148185
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 こういうとき、なんも表記に愛想がない地理院地図はものたりない。市街地の地図はやはりZENRINソースのMapionに負けているのは残念だ。
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石垣島の鍾乳洞は二つあるのかどうかを究明に現地へ行ってみたら(44) (石垣島だより シーズン2) [石垣島だより]

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 日本中に鍾乳洞はいくつあるのだろうか。統計的数字はどこにも出ていないらしいので、まだまだ調べが進んでいないのだろうか。地表からだけではわからない洞窟は、判明していないところが多くあるのだろう。鍾乳洞と岬が結びつくことはほとんどないので、これまでも番外で岩手県の龍泉洞を取り上げた くらいだ。
 “日本の主な鍾乳洞”として50ばかり挙げてあるリストのなかに、琉球石灰岩がその大層をなしている沖縄県では4つもの鍾乳洞があり、そのひとつが石垣島の鍾乳洞である。
 ところが石垣島には、鍾乳洞と名のつくものがふたつあるらしい。最初、地図で見たときにはそういう表示になっているものがいくつもあった。国土地理院の地図ではひとつのようになっているが、Yhoo!地図などは北側に建物と八重山鍾乳洞動植物園と、南に∴史跡マークつきの石垣島鍾乳洞と表記方法を変えて二つある。
 この真実がどうなっているのか、確認したい気持ちもあって、石垣市新川の鍾乳洞を訪ねて歩いてみた。
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 ホテル日航八重山の西を北へ伸びる県道208号線を、シード線を越えてゆくと、徐々にゆるやかな登りになる。サトウキビの刈り取りを機械でやっている畑の向こうには、海が見えてきて、竹富島が平べったく横たわる。
 道の前方北側にはバンナ岳と前勢岳の間を道が伸びていくが、看板が二つ並んでいるのが見えてきた。石垣島鍾乳洞は左への矢印があり、八重山鍾乳洞のほうは反対に右手を指している。やっぱり、二つは別々の鍾乳洞だった。
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 では、まず左へ進んで石垣島鍾乳洞へ。途中にはお墓や廃棄物の処理場などがあって、あまりよろしいとはいえないアプローチを進んで、やっと入場券売場に到達。そこから、竜宮城の楼門のような建物の下から洞窟へ降りて行く。
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 サンゴの海の堆積が石灰岩となり、それが地上に隆起して酸性に弱い炭酸カルシウムが雨水や地下水によって侵食されて生じる空洞に、二酸化炭素との化学反応で鍾乳石や石筍などができるという理屈は、なんとなくおぼろげながら理解できる。
 でんでんむしが初めて見た鍾乳洞は、広島のお隣山口県の秋芳洞であった。ここは、地上のカルスト台地の風景と相まって、なかなか強い印象を残したが、それからまた新発見が続いて、洞窟の規模は何倍にもなったらしい。
 石垣島鍾乳洞がいつ発見されたのか、その記録もわからないが、観光施設として営業を始めたのは1994(平成6)年だという。全長3200メートルは全国第7位で、鍾乳石の数は50万本(どのようにして数えたのだろう)で、石筍の数は日本一(いったい何個(何本か)なんだろう)だと自慢している。そのうちの660メートルが観光用に公開されている。
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 秋芳洞よりすごいのでは…と書いている人もあったが、確かに洞内いたるところに次々にあらわれる鍾乳石や石筍の群れはなかなか見事だ。
 観光鍾乳洞らしく、トトロだとか落ちないとか、さまざまなこじつけ石や岩があるなかに、石灰岩がサンゴの海の海底堆積からできたという証拠物件たる、シャコガイの化石というのもある。
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 鍾乳石と一口に言うが、みんなが知っている雫が垂れて重なってというドリップや、水の流れによるものや水蒸気のようなものからできるものもあるのだそうだ。そういう分類で鍾乳石を分けると30種類もあって、その全部の種類がここにはあるのだという。
 それこそ自慢できるではないか。30種類全部「→」とか「↓」でもつけて、教えてくれたらよかったのにね。…と思いました。
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 カルサイトという鉱物でできている鍾乳石は、もともとは無色透明なのだが、風化して赤茶色になり、これにさらにいろんなものがついて色がつくらしい。白く見える目立つのがあったが、これはカルサイトの小さな結晶が輝いているのだという説明もあった。
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 さて、今度はもうひとつの赤い看板の方へ。石垣島滞在中、毎朝の朝食時に飲んでいたマリア牛乳だったが、マリヤ牧場のサイロがあるところから広い一帯は八重山自然村というらしい。めったにバスが来ないバス停は、「自然村入口」だった。
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 なんやかんやとある動物園も植物園も、これが植物園?と思ってみるとがっかり感が大である。だがら、自然村という、なにもない自然の豊かな園地にきたと思うのがよい。
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 八重山鍾乳洞はその自然村の一部で、南のずっと外れに、竜神鍾乳洞という入口がある。照明も少ない大きな洞窟だが、石垣島鍾乳洞の後ではいささか慣れてしまって、インパクトに欠ける。
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 外へ出てみて、また改めて地図をみて気がついたのだが、要するに石垣島鍾乳洞も八重山鍾乳洞も、同じ洞窟のつながりになっているのだ。それを地上の所有権に従って分割しているようだ。
 地理院地図ではU字形の洞窟入口が、二箇所ほとんど接近して描かれていた。そういうことかぁ。

▼国土地理院 「地理院地図」
24.397522, 124.148185
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名蔵アンパルは石垣島の自然のゆりかごラムサール条約指定の湿地で国指定の鳥獣保護区で(43) (石垣島だより シーズン2) [石垣島だより]

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 石垣島の西部海岸で大きく凹んでいるのが名蔵湾で、この湾奥にあるのが名蔵アンパルと呼ばれる湿地帯である。
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 湿地帯と言っても、日光や箱根にあるようなのではなく、一面マングローブの森が広がり、潮が満ちるとその裾まで海水が入り込んできて、潮が引くと砂と泥の干潟が広がる。なので、道もなく人が入り込む余地がほとんどない。
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 そのため、いわゆる観光地としてはあまり目立たない。川平湾に行く観光バスも、名蔵大橋を渡るときにちょっとだけスピードを落としはするが、それだけで通りすぎてしまう。
 橋の脇の駐車場に一時停車する「わ印」の人たちも、せいぜいが橋の欄干から眺めるだけである。
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 島の人は「アンパル」と呼び習わしているようで、地理院地図でもその表記になっている。その意味は「網張=あみをはる」というところからきたとされているが、正確なことはわからない。ラムサール条約でも「名蔵アンパル」と地名を冠して、場所の特定をしている。
 岬もないので、「岬めぐり」で項目を立てるわけにいかないが、入江の中に降りてみたり、アンパルの中にできるだけ接近してみようと考えた。
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 名蔵の集落はアンパルの中心からは1.5キロ以上東に引いていて、道路も大きく迂回している。そこから畑の中を突っ切って、アンパルの林に近づいて行く道はあるいは地図にもないルートがあるのかもしれないが、不用意に入り込むこともできそうにない。
 そこで、名蔵大橋を通る道路の脇から、橋の下に降りたり、入江の岸に降りる道を探ってみた。
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 しかし、そこからもアンパルの横っ腹を遠くに見るだけでは、どうも様子がよくわからない。
 せいぜい、ヤエヤマヒルギの幼木がちょろちょろとあるくらいだ。これらも、アンパルの林から引き潮に乗って流れついてきたのが、根を下ろし芽を出したものだろう。入江の南のほうには、そうしてできたようなかたまりがいくつも小島のように見えている。
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 アンパルの入江が海につながるのは、名蔵大橋の下の狭い水道だけだが、海に流れ出たヤエヤマヒルギの種が、名蔵湾の岸でも根を下ろしているところがある。
 名蔵大橋の北に設けられた駐車スペースには、大きな案内板が三つも建てられている。三つとも環境省那覇自然環境事務所のもので、これを全部読めば、名蔵アンパルについてはだいたいわかる。
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 そこはまた、「やいま村入口」というバス停になっている。アンパルに近づく方法として、これがあったな。
 八重山の古い民家を移築保存(大浜信泉の生家もある)している石垣やいま村は、観光バスのコースになっているが、ここからアンパルに降りることができるかもしれない。降りられないまでも、すぐ上から眺めることができるだろう。
 沖縄の民謡などを三線(さんしん)で生演奏している家に集まっている観光客を横目に、下る道を探して降りていく。誰もアンパルには興味がないらしく、人影はまったくない。
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 下まで降りると、木道より立派な通路が、林の中を水辺まで続いているが、その距離はあまり長くない。
 ここに行ったときはちょうど潮が引いていたので、木々の間の向こうの方に水面が見えるだけであったが、根方の砂泥の中にはマングローブの気根のようなものが、たくさんぽこぽことある。これがヒルギダマシか。
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 だが、カニもトビハゼも鳥も、生物らしいものは見えない。静かに、ただ時が過ぎていた。後で地図を見て検証してみると、この水面は名蔵川だった。
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 日本のラムサール条約湿地は、名蔵アンパルが指定された2005(平成17)年当時は36か所だったが、2012(平成24)年には46か所に増えている。
 そもそも、ラムサール条約とは、人間の生活を支える重要な生態系として、幅広く湿地の保全と湿地の「賢明な利用(Wise Use:ワイズユース)」を提唱し、そのために対話(情報交換等)、教育、参加、啓発活動(CEPA:Communication, Education, Participation and Awareness)を進めることを大切にしていこうという国際条約で、世界中の自然保護に大きな役割を担っている。
 「ラムサール」というのは、その湿地に関する条約(Convention on Wetlands)が採択された国際会議の開催地イランの都市の名なのである。
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 木道のそばには、こんな看板も…。環境省の看板にも同じようなものがあったが、これは名蔵に伝わる古謡「アンパルヌミダガーマユンタ」の歌詞と説明で、なんでもアンパルのさまざまなカニ(13種の名が出てくる)が、ヒダカガニの生年を祝うためにそれぞれいろんな係の役目を分担して負って、宴会を盛り上げる…という内容らしい。
 実に、おもしろい。こういう歌をつくって歌う人の心根のやさしさ、純朴さに胸を打たれる。地元の人が昔からこの湿地とともに生きてきたという証であろう。こういうのって、外国でも大受けするのではないかと思うけど…。
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▼国土地理院 「地理院地図」
24.397522, 124.148185
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「わ印」の人には関係ないが石垣島のバス路線でとりあえず島内を周回できるようになった(42) (石垣島だより シーズン2) [石垣島だより]

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 石垣島がいくら八重山の玄関だとしても、玄関に入っただけで帰ってしまうのももったいない。たいした観光ポイントはないとは言いながら、せっかくきたのならまあゆっくりしていってください。
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 旗を持った人について行けばいいツアーの人は別にして、フリーでくる観光客の場合、最近ではほとんどの人がレンタカーを利用するらしい。そのため、空港周辺にはレンタカー会社がひしめいているし、島の道路でも「わ」ナンバーの車がやたら多い。そういう「わ印」の人にも関係がないが、石垣島の路線バス事情について、若干の予備知識があると便利である。
 石垣島のバス会社は、東運輸ひとつだけ。「ひがし」ではなく「あずま」だが、ひとつしかないのでバス会社の名前を覚える必要もない。
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 そのバスターミナルが、美崎町の離島ターミナルの近くにある。すべての路線はここから出ているので、まずこの場所を把握し、できればすぐ一度行って、バスの時刻表を手に入れておくのがいい。
 なにしろ、各路線ともに本数は決して多いとは言えないから、バスを利用するつもりなら、時刻表とにらめっこである程度事前に計画を立てる必要があるのだ。行き当たりばったりはダメ。それだと行ったきりで帰れなくなったりしますよ。
 それから、運賃もたとえば空港からバスターミナルまでは520円で、その他の路線もそれなりであるから、全路線バス放題のフリーパスの活用を考えるべきであろう。1,000円の「1日フリーパス」と、2,000円の「みちくさフリーパス(5日間フリーパス)」があるので、たとえ3日でもみちくさのほうがトクである。
 上記二点を踏まえたうえで、路線バスでの石垣島めぐりのヒントとなるバス路線を眺めてみよう。なぜか、東運輸のホームページはガタガタである。そのなかから主な路線のルートマップを取り出しながらみてみよう。
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◎空港線 島の南東部の海岸を走る。これには市街地のコースが違う二系統があるので、注意。
[->>4系統 平得大浜白保経由空港線 
 従来の白保線が空港まで延長された、いわば島の幹線生活道路で、スーパーや病院などを経由して、ターミナルと空港の間を走る。
[->>10系統 日航八重山/ANAic経由空港線
 ホテル日航八重山やANAインターコンチネンタルホテルなどへ行く場合はこの系統。若干寄り道にはなるが準急もある。
◎川平リゾート線 
 島の西海岸をターミナルから川平公園、クラブメッド、石垣シーサイドホテル、シーマンズクラブまで行く。島南西部のホテルや冨崎や名蔵、崎枝を経由する。
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◎米原キャンプ場線 1日に二本だけ
 島の中央を縦断して北の海岸米原へ抜け、川平公園まで行く。米原ヤシ林へ行くには貴重な路線だが、なにせ本数が少ないので、これを使う計画には工夫がいる。
 なお、新空港の開港にともなって、この線は川平からまた米原→おもと→三和を経由して石垣空港まで延伸された。空港から川平へ直接アクセスできる路線になったわけである。
◎吉原線 1日に一本だけ
 名蔵まで海岸でなく内陸を走る。川平も経由して米原の西の吉原まで行くが、これも本数が少ないので、観光客向きではない。だが、鍾乳洞やヤイマ村に行くときには使えるかも。
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◎西回伊原間線 1日に一本だけ
 これも鍾乳洞やヤイマ村を経由して川平、米原からさらに北上して平久保の半島の付け根にあたる伊原間まで行く。西回一周線と合わせて使う。
◎西回一周線 平日は1日に二本だけで休日は一本だけ
 バスターミナルから川平→米原→伊原間までと、伊原間→白保→大浜→バスターミナルで、時計回りに一周りする。
◎東回一周線 1日に一本だけ
 しかも早朝なので、観光客は使えない。東回り一周線(下り便)というのが白保→伊原間へ行き、伊原間から川平経由でターミナルへが(上り便)らしい。
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◎平野線 1日に三本だけ
 島の東海岸を、平久保半島先端の平野まで行く。朝の便がなく一番がお昼前、最後の便は夕方なので、使い方がむずかしい。しかし、なにしろ島の最北端平久保灯台へ行くのはこれしかないので、他の路線と組み合わせてうまく利用すること。
 そのほか川原線というのもあるが、これはほとんど使えないので、ざっとこんなところが、石垣島の路線バス。
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 便利とはとてもいいがたいが、これでも新空港のお陰で路線とダイヤが大幅に変わった結果で、島を一周りできなかった従来とは大違いなのである。
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また石垣島に戻ってきて今度は石垣島の情報についてのあれやこれやから(41) (石垣島だより シーズン2) [石垣島だより]

 与那国島から、またRAC機で石垣島に戻ってきた。石垣と与那国の間はフェリーも運行しているのだが、これだと片道4時間以上かかるうえに週2便の運航。だから、たいていの場合、毎日3往復飛んでいる飛行機を使うことになる。ネット情報には案外古い情報がそのまま残っていることが多い。JTA(日本トランスオーシャン航空)も飛んでいると書いてあるものもまだ散見されるが、その路線はすでにないので、RACのみである。RACは石垣便よりも座席数の多い与那国から那覇の路線も一日1往復ある。
 でんでんむしがまずは石垣島まで戻ってきたのは、このあと宮古島へ移動する予定だからなのだが、その前に今度は石垣島の落ち穂ひろいも…。
 八重山の玄関口の役目を果たしている石垣島では、観光情報が非常に充実している。これは、本土のどんな観光地よりも優れていると思うくらいである。
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 フリー(無料)の観光情報誌が4誌もあって、それらが空港、船やバスのターミナル、ホテル、飲食店などに置いてあるのだ。
 もちろん、フリーペーパーだから広告主の情報が主にはなるが、これを入手してチェックしておけば、たいてい困ることはない。インターネットもいらないくらいである。4誌競合する部分もあるが、マリンレジャー情報に重きをおいているもの、飲食店や土産物店がメインのものなど、多少は特色もあるようだ。
 実は、玄関ではあっても、いわゆる観光ポイントには乏しい感のあった石垣島では、近年マリンレジャー基地としての性格を強くしているのだ。
 石垣島と表紙に記してあるものも、石垣だけでなく八重山の各島々の情報をネットしている。石垣でこれらの情報を検討して、みんなそれぞれ島めぐりのプランを考えるのが、なかなか楽しい。
 でんでんむし流は、この情報誌の必要な地図だけ切り取って、それとバスや連絡船のダイヤ(これらもターミナルで手に入る)をたたんでポケットに入れて出かける。それだけあれば、iPad mini さえも必要でない。
 ついでに言うと、宮古島にも同様の情報誌がひとつあるが、こちらのほうはきれいなおねえさん方の写真もたくさん入った夜の盛り場情報が充実している。この違いはなんだろう。おもしろいねえ。
 テレビは、NHKのほか東京のキー局系列の民放が3つか4つあるが、見るべきものが何もないという点で、本土と変わらない。沖縄独自の放送は少ないようだ。でんでんむしが毎日音を消してつけてチェックしていたのは、CSのお天気チャンネルだけ。
 毎日飛行機が飛んでいるおかげで、離島でも新聞が一日遅れということはない。だが、沖縄では本土の全国紙の影も薄くなる。その代わりに幅を聞かせているのが、那覇から飛んでくる「琉球新報」と「沖縄タイムス」。
 この新聞も特徴的で、政治的主張が鮮明で先鋭的である。よくネトウヨのみなさんがしきりに叩いている「朝日新聞」どころではないような気がする。沖縄という地域の特殊な政治性、変わりつつもあるようだが、それをちゃんと残しているのがこれらの新聞ということなのか。
 ちょうど、沖縄県知事が辺野古容認を表明した後で、それを批判する見出しが、数面を費やして踊っていた。
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 八重山にも地元の地方紙があって、それが「八重山毎日新聞」と「八重山日報」。でんでんむしが石垣滞在中によく見ていたのは、6ページ建ての「八重山日報」だった。その理由は単純で、この新聞は毎朝ホテルのフロン前においてあるのが、“ご自由にお持ちください”になっていたからである。
 柳田国男の歌を創刊号に載せた「八重山新報」と、関連があるのかどうかは不明だが、「八重山日報」は“右派”の立場を鮮明にしていて、紙面にもそれが明確に表れている。ときには那覇の新聞をも批判し、「八重山毎日新聞」ともどうやら対立しているところがあるらしい。
 八重山の教科書問題の資料はないかと、石垣市立図書館で調べてみたところ、本としては一冊だけあったのが、「八重山日報」が石垣市の中山市長や玉津教育長を支持する立場から出した本だった。
 あ、そうそう。「琉球新報」「沖縄タイムス」と「八重山毎日新聞」と「八重山日報」全部見たいときには、ユーグレナモールの石垣公設市場北東側にある無料休憩所「ゆんたく家」に行くとよいでしょう。
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思ひやる八重の汐々…石垣島の柳田国男の歌碑は三度目の正直でやっと“発見”(40) (石垣島だより シーズン2) [石垣島だより]

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 写真はイメージです(^-^;。場所は白保からは20キロ北へ行った明石の海岸で、ヤシの実はその砂浜にあった本物ですが、海寄りに移動させています。
 柳田国男(これも“國”が正しいのだろうが、これまで国できたので)が石垣島に滞在していたのは、1921(大正10)年の1月末の一週間程度でしかない。それは、長い官僚生活から足を洗い、朝日新聞の客員として九州南部から南西諸島や沖縄をめぐった一連の旅の終わりであった。
 そのとき、朝日新聞に連載した旅の記録が後に『海南小記』にまとめられて発表される。そのなかでも、石垣島についての記述はそう多くはないが、それから40年後、没年の直前年になって発表したのが、日本人と稲作の渡来に他界の考察で彼の名を不動にしたといってもいい『海上の道』(1961(昭36)年)なのだ。
 それ以前に、まだ学生だった1898年(明治31)年の夏休みに、滞在した伊良湖岬の恋路ヶ浜 で拾った椰子の実の話を、同行できなかった友人島崎藤村にしている。藤村がその話から詩人らしい想像の翼を広げてつくったのが、それから3年後に発表したかの有名な『椰子の実』である。このエピソードは、『海上の道』の冒頭部分を飾ってもいるが、ヤシの実から海上の道に至るまで63年かかっている。実に息の長いあたためかただ。
 その経緯と展開については、前の「石垣島だより」の「白保のサンゴ礁は有名だが見つからない柳田国男の歌碑も海上の道に没したのか(27)」 でも多少触れた。
 問題は、そのときにも白保で発見できなかった柳田国男の歌碑のことだ。それが気になっていたのは、そのふたつの著作でも旅のメモをときおこした資料にも、石垣島の白保での歌のことなど、どこにも出てこないので、どこでどうしてその歌が詠まれたのか、どんなことで歌碑ができたのかも、さっぱりわからないからだ。誰に聞いてみても、知っているという人や情報にもまったく出会わない。
 今回もまた、確かにあることだけは確認したので、しつこく白保の海岸を行ったり来たりしてみた。そして、白保訪問二日目にして、やっと海岸で知っている地元の人に出会うことができ、ついにそれを“発見”することができた。
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 珊瑚の白い砂浜が急な傾斜で盛りがった先に、アダンやトベラやモンパノキなどが密生するところに、わかりにくい踏跡がある。そこを入って行くと意外に大きな石組みの台座に、ごっつい石の歌碑が鎮座していた。台座の周囲だけは木が茂らないよう空間ができていたが、回りを大きく木々が覆っているので、浜辺からはまったく見えないのだ。
 これじゃ何度行ったり来たりしても、なかなかわからないわけだ。
 しかし、歌碑はあったが、歌の生まれた経緯や白保での行動などが明らかになったわけではない。
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 歌碑の裏にある説明によると、これができたのはそう昔のことでもなく2001(平成13)年の暮で、「柳田國男歌碑建立既成会」とあるだけでその実態も想像しがたい。石碑の脇には白い杭が立てかけてあるが、それは愛知県渥美町(現:田原市)観光協会が平成14年に行なったらしい、“やしの実投流記念”のものだとわかるくらいだった。
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  あらたまの まさごにまじる たから貝
      むなしき名さへ なほうもれつつ

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 この歌は、柳田が石垣島を去った翌日2月1日の地元紙『八重山新報』の記念すべき第1号に掲載されたところまではわかっているが、どういう形でどういう発表がされたかなど、それ以上のことは不明。歌碑は確かに見つかったが、あいかわらずうやむやの世界であった。
 タカラガイは、主に宮古島北部の八重干瀬(やえびし)あたりで大量に産していたという。でんでんむしも、白保や明石の海岸で光沢の見事なこの貝をいくつか拾って帰ったが、これを貨幣にしたところは多く、中国でも始皇帝の銅貨鋳造までは珍重されていた。大陸から流れ着いて来た人が、このおたからに惹かれる形で家族と稲作の種籾と技術をたずさえてきて、定住したという仮説はたいへんおもしろく、また説得力もある。
 『海上の道』のなかで、柳田はこのように書いている。

 籾種ばかりを只ひょいと手渡しされたところで、第一食べて見ることすらできない。単に栽培者が自ら携えてきたという以上に、父祖伝来の経験が集積調和して、これを教訓の形をもって引き継がれなかったら、この作物の次々の改良はさておき、外部の色々の障碍にすらも、対抗することができなかったろう。
すなわち最初から、少なくともある程度の技術とともに、あるいはそれ以外に米というものの重要性の認識とともに、自ら種実を携えて、渡ってきたのが日本人であったと、考えずにはおられぬ理由である。

 確かに、たとえ稲の籾だけが渡ってきたとしても、それが稲作にすぐに結びつく可能性は極めて低い。池をつくって水を溜め水を引く灌漑技術と、水田で稲作を営む技術をもった指導者がいなければ、とうてい成り立たなかっただろう。
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 そして、そう考えると、八重山に伝わるさまざまな祭りや祭祀の意味もまた、無理なく理解できるのだろう。
 「私の導師は柳田国男と折口信夫であった」という谷川健一は、その著書『柳田國男の民俗学』(岩波新書 2001)のなかで、次のように書いている。
 
 江戸時代の国学者の他界観の研究は、常民を視野に入れることがなかったために、発展を望むことができなかった。それが可能になったのは、国学を継承して新国学を提唱した柳田と折口が、南島民の生きた世界観にもとづいて日本人の他界観念を考察したからである。しかしこの二巨人のあと民俗学者がそれを深化させたかといえば、そうでもない。南方熊楠や宮本常一も日本固有の他界観に何ら触れるところがない。これは、彼らが南島民の世界観に触れて啓発されることがなかったためと思われる。ここにおいて今さらながら沖縄を知ることの重要さを痛感する。
 
 南島民は、遠くに白い礁線を描くところまでを、自分たちの生活する日常空間と捉え、その白い線から先は海神(わたつみ)の支配する他界、非日常空間として理解していたという。
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▼国土地理院 「地理院地図」
24.357682, 124.247785
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大浜信泉記念館から亀甲墓まで飛び飛びながらつながっていくように(39) (石垣島だより シーズン2) [石垣島だより]

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 “しんせん”しんせんと勝手に読んでいたが、正しくは“のぶもと”という。苗字の方も“大浜”で通っているがこれも厳密には“大濱”らしい。大浜信泉は石垣島の登野城に生まれ、早稲田大学の総長を14年も勤めあげた。1954年に総長在任中から故郷沖縄の本土復帰運動に力を注ぐ。
 東大の茅誠司・大河内一男という総長ラインで「沖縄問題を話し合う会」を結成し、これが発展した沖縄問題解決促進協議会では代表委員を努めた。いわば、率先して沖縄の本土復帰に尽力した人である。その結果が、いわゆる「核抜き本土並み」の沖縄返還であった。
 この人の記念館が、離島桟橋にも近い登野城漁港のそばにある。前から気になっていたけど行く機会がなかったので、今回は散歩がてら訪ねてみた。
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 いろんな記念館にも行ったことはあるが、この記念館は展示内容も極めて個人的な記念品的なものばかりで、取り立ててどうということもないものばかりだ。この記念館がどういう経緯で、どこからお金が出てできたのかもよくわからなかったが、早稲田の塔を模したという時計塔がついた建物は、その一部屋が記念館になっているだけで、あとはいろいろな催しや会合に使われる会議室などが主で、教育研究所という看板もある。
 隣に広がる庭には銅像があって、その台座には「人の価値は、生まれた場所によって決まるものではない。いかに努力し、自分を磨くかによってきまるものである。」というこの人が後生に残したという言葉の一部が刻まれていた。
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 記念館そのものと展示物には、格別の感銘をもよおすようなものはなかったし、わざわざ訪れる人も稀なようで、記名帳には一か月も記帳がない。だが、ここを訪問して思ったのは、沖縄の八重山の人々の郷土愛というか、そんな気持ちの強さであった。これも、ちょっと形は違うが、それを発展させていけば先輩や年寄りや先祖を思う心などに、十分無理なくつながっていくように思われた。
 石垣島で個人の名を冠した記念館といえば、あとは新川にある具志堅用高記念館くらいだろう。チャンピオンベルトをした彼の黄金色の立像は、離島ターミナルの桟橋にも立っているくらいで、これも郷土の誇りなのだろう。
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 八重山(沖縄)では、なにも有名人でなくとも、年寄りや先祖を大事にする。それは、核家族ばかりの都会ではおよそ想像がつかないほどである。家族の老人の数え年61歳の還暦祝い、73歳の古希祝い、85歳の八十五祝い、88歳の米寿・トーカチ祝い、95歳のカジマヤーなどには、一家眷属集い盛大なお祝いの宴を開くという慣わしがある。余裕のある家では、島で一番高級なホテルとされるANAインターコンチネンタル石垣リゾートの宴会場に盛装して集い、派手な祝宴を開くのである。最初、そこでその現場に遭遇したときには、ちょっとびっくりしたものだ。
 これには、年寄りでなくとも、生まれた干支の年を祝う生年祝い(トゥシビー)というのがあることも関係する。数え年での13歳(十三祝い)から始まるが、年を取るごとにその行事も重みを増すようだ。
 それはとりもなおさず、単なる敬老の枠を越えて個人の歴史をも大切にすることにつながるので、その蓄積は家の歴史や伝統を守り重んじることにもなっていく。それがまた、先祖の祀りや地域のさまざまな祭祀にも脈々と受け継がれていると思える。
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 石垣市の市街地の北寄りには、二列くらいの墓地の帯がある。そのうちの内側の一列については、もうすっかり住宅街のなかに取り込まれてしまって、ところどころに残っているだけになっている。
 沖縄の墓地は独特で、元々は大きな亀の甲羅のような形をした亀甲墓だったものが、長い間に徐々に変形しながら、今に至っているようだ。亀甲墓そのものは、与那国には多く残っているが、石垣ではだんだん少なくなるようで、最近の墓は屋根の上に本土の墓石を載せたようなものが多い。
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 共通しているのは、墓前にちょっと広い空き地が設けられていることで、宮古島ではここに軒や屋根があるのが特徴である。清明(シーミー)と旧盆、旧正月の先祖供養には、ここでまず掃除をして、シートなどを広げてみんなが座れる場所をつくり、用意してきたお供え物を供え、重箱料理を広げるのが慣わしである。
 先祖供養をする料理の内容にも、ちゃんと決まりがあって、なんでもいいわけではない。かまぼこ、揚げ豆腐、天ぷら、田芋、昆布、ごぼう、こんにゃく、皮付き三枚肉の9品を奇数だけと決まっているのだという。シーミーでは、年配者は必ずお墓に入っている先祖の話をして聞かせる。そうして、先祖から受け継いだ命を大事にしなければならないこと、家族親族一族のつながりと結びつきを再確認させる。 
 なんか、うらやましいような、めんどくさいような…。いやいや、やっぱりおおいにうらやましいです。
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市役所や図書館や離島ターミナルのある埋立地には市民会館もあって(38) (石垣島だより シーズン2) [石垣島だより]

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 クラシックもオールディーズも好きだけど、演歌も聴くでんでんむしは、NHK-BSの『BS 日本のうた』を観ることも多いが、地方へ行っても各地にそれぞれ立派な大ホールがあることに驚かされる。各自治体が競って進めてきたハコモノ行政の成果ということもできそうだが、われらが石垣市にもあまり立派とはいえないにしても、『BS日本のうた』が来るとしたら、やはりここしかないという会館がある。
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 市役所通りから西側にある美崎町、新栄町、浜崎町の一角は、港湾施設のほか石垣市役所や竹富町役場、市立図書館、農協、広い公園、ホテル、バスターミナル、それに市民会館などが集まっている埋立地である。地図で三角に見えるところが、最初の埋立地だと思われるが、市民会館はその西にあって、ピアノやバレエの発表会をはじめ、あらゆる催しの場となっている。
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 2014年2月初めの土曜日には、八重山地区学校音楽発表会が開催された。八重山の小中学校の各学校が次々と登場して、合唱や演奏をする。児童生徒も出番が済んだら客席に戻り、わが子の出演が目当ての父母は出番が済んだらさっさと引き上げるので客席も入れ替わりが激しい。
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 もしかしたら、俵万智さんも見にきているかもしれないと思ったが、むろん知り合いではないしすれ違ってもわからない。俵万智さんとこの学校もそうだが、八重山では、児童生徒の数が少ない学校も多い。うちの孫の小学校も、全校で14人しかいない。
 統廃合の話は前からあるが、やはり学校がなくなるのは困るという地元の意見が強く、実現はむずかしいらしい。八重山地区音楽教育研究会が主催し石垣市・竹富町・与那国町の教育委員会が共催するこの音楽発表会、これが60回というのが驚きである。それはすごい。しかし、石垣島以外の離島から毎年参加するのは負担なので、どうやら回り持ちらしい。今回は小浜島の小中学校がやってきた。
 でんでんむしは、午前の小学校の部が終わったあと、午後の中学校の部まで全部見て聞いてしまったが、こどもたちがいきいきと歌い演奏する姿は見ていて気持ちがいいものだった。
 こどもたちと父母もたくさん集まってくるこの日、市民会館の周辺は大賑わいだった。
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 その翌週の夜には、陸上自衛隊中央音楽隊のやいま特別演奏会が、同じ市民会館で開かれたので、それも聴きに行った。
 自衛隊が石垣島で演奏会を開くのは、これが初めてで、会場は後ろには立ち見が出るという大盛況、市民会館が満席になるのはめずらしいという。無料だが整理券は入手しておかなければならない。わざわざ地方事務所まで貰いに行った。
 開場前には長い列ができ、後ろのほうで大阪のおばちゃんのノリで、あらそういうのが要るの、タダだから来たんだけど、まあ入れてくれるよね、とか言っている声が聞こえた。入れたかどうか見てやろうと思っていたのに、入場のときに忘れていた。
 モギリからなにから、会場の空席案内まですべて制服の自衛隊員がやっていて、こども向けにシールなどを配ったりしている。
 演奏はさすがに日本一と言われるだけあって、たいしたものだった。二部のほうは沖縄向けサービスの選曲で、最後にはアンコールで隊員も通路にまで出てきて踊り、客席からもステージに上って踊りだすおばちゃんもいたりして、これもさすが沖縄。
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 海自の歌姫はすっかり有名になったが、陸自のこのやいま特別演奏会では、沖縄の第15音楽隊からボーカル男女三人も帯同してきていた。
 折から、与那国では自衛隊通信部隊の配備をめぐって、用地でもめているところだ。おっ、それもあっての自衛隊PRなのか。なるほど。あとで、与那国島に行ってみてわかったのだが、その前の日曜日にちゃんと与那国島でも中学校の体育館で演奏会を開いていて、その後石垣にやってきたようだ。
 それも、自公が後押しする右寄りの市長になったからこそ、できたことかもしれない。730交差点の角のビルが自民党の支部になっていて、その市長の名前と日本を取り戻すおじさんの顔がでかく迫っている。そのうちに、通り向きの壁に「日本一幸せあふれるまち石垣市」という大きな垂れ幕がかかった。市長の周りに集まっている人は別にしても、石垣では働く人の多くがワーキングプアというのが現実だと聞いた。
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 それからというもの、やけに街が騒々しい。その騒音源のひとつ、スピーカーでうるさく走り回る車も、そのそばの空き地(この島いちばんの一等地も来るたびにずっと何年も空き地のままだ)に止めてある。市長選挙が近い石垣市では、前市長も今度は市民党だとかで対抗して立つ予定だとか、公示前からもう選挙戦まっただなかなのである。
 この角から山手に向かって桟橋通りが伸びていく、これが730交差点でやいま大通り(通称:市役所通り)とクロスしている。中国(おそらく台湾だろう)からの観光客が台の上のシーサーと並んで写真を撮ったりしている交差点の記念碑の向かいは、なぜか来るたびに工事をしている。期末が近いので、石垣島でも島じゅう至る所を掘り返している。
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 市民会館の隣にある立派な市立図書館は、前にもリサイクル本をもらってきたりしていた。今回は、図書館にも近い市役所通りにあるホテルに滞在しているでんでんむしも、ご近所なのでよく利用させてもらった。
 市役所通りと730交差点の道から西の埋立てが始まる以前の写真を、ホテル近くの喫茶店「海坊主」で発見した。石垣佳彦さんという人が撮った、昭和28年頃の石垣中心部の写真を何枚か大きなパネルにして、店内の壁に飾ってある。
 モノクロだが、かつてここに軒を連ねていた寄棟の赤い瓦屋根(柳田国男が旅のメモにヘタクソなスケッチを残しているように、曲がり家風になっている屋根もはっきりわかる)の風景が、まざまざと蘇ってくる。店の人に断って写真の写真を撮らせてもらったが、室内照明の関係もあって、それにもちろん撮影技術の問題もあって、あまりうまく撮れなかった。
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 それでも、昔の海岸線(それが市役所通り)に沿って赤屋根の家が並び、かつての港と長い桟橋と海にはサバニ(写真に印刷された文字はハーリー)らしきものがちゃんとあり、白い道を数人の人が歩いている光景がよくわかる。
 もう一枚は、石垣の市街から新川方面、遠くに前勢岳(現在では石垣島天文台がある山)をとらえた写真。
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 その頃、中学生だったでんでんむしは、石垣のことなど頭にもなかったはずなのに、妙に懐かしく暖かく感じられる。なんとなくだが、取り戻すべきは、インフラも不充分でみんな貧しかったはずの、この頃の人々の素朴な笑顔だったのかもしれないと思ったりするが、そういうのを単なる感傷というのだろう。

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島では街路樹が道の風情をかもしだし学校の校門花壇もすばらしいよ(37) (石垣島だより シーズン2) [石垣島だより]

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 石垣市は、街路樹の設置になかなか積極的なようで、だいたいにおいて島じゅうどこへ行っても道路脇に並木がある。県道は沖縄県の役目なのかどうか、またたった一本だけある国道も担当は市ではないのかどうか、それは知らないが、とにかく美しい街路樹が多い島と言ってもいいだろう。
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 同じ八重山では、西表島も集落のあるところの一部ではがんばっているようだが、そのほかの島では、そもそもあまりそれが必要でない。宮古島でもそれなりに街路樹はあるが、やはり石垣島のほうに一日の長がある。
 その町の木というものがあって、それが植えられることもめずらしくはない。地方都市では、ひとつの町にその町の木がたくさん揃って植えられているのも、悪くはない。けれども、そこまで統一してしまうと、かえってうるおいがなくなってしまうかもという弊害もある。
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 石垣市の街路樹は、場所ごとにたくさんの違う種類の木が植えられていて、それもがまたよい。樹木の名前もできれば知りたいところだが、知ったからどうというものでもないし、知らないから困るということもない。
 ただ、ホームページなどでも、知りたい人にはそれがわかるようにしておけば、もっといいのではないか。
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 市役所の前には、修景街路樹の説明がある。こういう情報があると、市がどんなことを考えてまちづくりをしようとしているかがよくわかる。こういうのも含めて、もっと情報提供すればいいのにと思うが、市の公式ホームページは広告はたくさん入っているが、市の木についてもわからず、いまひとつアピール力がない。
 市街地の修景に街路樹を植えるのは、どこの町でもやっていることだが、石垣市の場合は、市街地だけではない。郊外にも主な道路沿いにはすべて、できるだけ木を植えていこうとしているように感じられる。
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 こんな周囲は山で人家もなく、緑はもういっぱいあるじゃないか、というような場所や、畑のなかの道にまで街路樹が植えてある。これがなかなかすばらしい。
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 道の表情が街路樹の並木があるのとないのとでは、まったく違うようだ。道を歩いたり走ったりするにも、気分が違う。
 街路樹がせっかくあっても、管理が不十分で枯れたり抜けたり倒れたりすると、そのあとが歯抜けになってしまう。そういう場合も、そのままにほおっておかれることが多いが、これは情けない景色になってしまう。ここでも、そういうところもあるにはあるが、さほど目立ってはいない。
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 街路樹もなにも両脇に揃っていなくてもいいわけで、この島では片側だけのも多い。それでも、街路樹があるということはどういうことかというと、歩道があるということであり、あるいはグリーンベルトで車と人の分離ができているということである。
 こういうところは、首都圏ではなかなか少ない。それをガードレールでごまかしている。あの、ガードレールというヤツ、あれがあると安全かというとそうでもないうえに、あれがあると歩道部分がえらく狭くなって歩きにくい。
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 そういえば、石垣島ではガードレールというものをあまりみない。どこにあったかな。730交差点にあったかな。730交差点でもフラワーベースがその代わりをしていたし…。
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 それともうひとつ、沖縄電力は東京電力のように電柱や電線が威張っていない。これがあると街路樹も形無しになるが、電柱を街路樹から離して立てているところが多い。
 ま、土地に余裕がある日本の果てだからできること、と言ってしまえばそうなんだろうけどね。
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 でも、コスモスが今咲いている石垣の街を歩いていると、それだけではない、なにかやさしい気持ちも感じることがある。
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 道端に花が咲いていたり、学校の前を通ると必ず鉢やフラワーポットが並べられて、きれいに花が咲いている。先生やあるいは業者が入って管理しているところもあるのかもしれないが、やはりこどたちで「いきものがかり」が世話をしているのだろう。
 中心市街の住宅地域にある石垣小学校では、通りがかったときこどもたちが一生懸命になにやらそのなかで作業をやっていた。写真は、帰りに誰もいなくなった時に撮った。(この頃は、こども写真はうかつに撮れない。)
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 学校の校門付近を花で埋めようという申し合わせでもあるのか、どの学校でも同じようで、竹富町でも竹富小・中学校の校門はみごとだった。
 漁港に近い新川小学校などは花もたいへん美しいが、校門の上にハーリー舟が飾ってあったのにはちょっと驚いた。地域の伝統を学習し、誇りをもってこどもたちが、それを受け継ぎ守っていってくれるのは、とても喜ばしいことだ。後で考えたのだが、この校門のハーリー舟は、櫓が組んであったのでどうも祭りかイベント用のためだったらしいが、ちゃんと中央花壇のなかにも本物の舟が置いてある。
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追記:ハマコウさんから、コメントをいただきました。学校花壇の写真は小さくまとめてしまったので、先生のために改めて大きくしてご紹介します。
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 石垣小学校と新川小学校は、いずれも住宅街と市街地のなかにあります。
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 これは竹富の小中学校の校門です。

dendenmushi.gif沖縄地方(2014/01〜02 訪問)

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