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番外:十和田中央=十和田市稲生町(青森県)なんにも知らなくってちょっと驚いたけど十和田はこんなところだった [番外]

 十和田という街は、まずたいていの人にとっては、盲点になってしまっているのではなかろうか。湖のほうは知らない人はないくらい有名だが、現在は市になっている十和田についてはどうだろうか。もちろん、でんでんむしにとっても、そうであった。地図でだいたいこのへんにあるはずといった程度の、ごく漠然としたイメージしかなかった。
 実際には、1910(明治43)年以来町制を施行し、三本木町と称していた。それが十和田市に改称するのは1956(昭和31)年で、その後2005(平成17)年に十和田市と上北郡十和田湖町が新設合併し、そこで初めて湖の東半分までその市域に取り込んで、現在の十和田市になっている。
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  現在の地理院地図でみても、奥入瀬川の表示はあるが、十和田の文字がどこにもない…。
 これは縮尺と表示の関係で、たまたまそうなっただけか、市名の表示位置が中心部からずれているからではあろうが、十和田の中心部を中央にしてみてもこんな感じなのでは、はなはだ存在感が希薄である…というと申し訳ないが。
 この地図でいうと、国道102号線がカギに折れている辺りが市の中心部なのだが…。ついでに気がついた。国道4号線は、十和田の中心部を避けて迂回している。これはいったいどうしてだろう。どうも見た感じでは、台地の上の市街地を横断するのは避けたようだ。
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  この地図をもう一段階拡大してみると、こんな感じ。だが、街の中に入って行くその前に、逆に少し戻ってもっとロングに引いて、この街までのアプローチから見直してみよう。この地理院地図で三段階引いてみると、やっと十和田の文字が表われた。十和田湖から流れ出る奥入瀬川の中流域で、川の北側に位置していて、三沢・八戸と湖の中間くらいにある。
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 新幹線は八戸を通っているが、市の中心部からは西にかなりずれたところにある。三沢には青い森鉄道が通っているが、その駅も市の中心からは南に大きく外れた場所にある。盲点といえば、三沢の北にある小川原湖もそうで、開発地の名称としてよく出てくる名前ではあるが、なかなか縁がない。今回も、そこへ寄ることも考えてはみたものの、交通が著しく不便で、計画が立たなかった。
 昔から計画だけはしていて、結局長い間行けずにいた十和田湖なので、そのアプローチとしては、三沢から電車で十和田に行き、そこからバスで湖に行くというルートくらいは記憶にあった。
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 そう、以前はここでは十和田観光電鉄という電車が走っていたはずだが、それももうなくなっている(なんと、電車がなくなったのはつい5年前だった)。東北新幹線には「七戸十和田」という駅があるが、そこは上北郡七戸町ではあっても十和田市ではないし、湖からはさらに遠い。そこからのバスは存在証明程度にあるだけなので、あまり役に立たない。現在、十和田湖へ行くときの一般的なルートとしては、青森からまたは新幹線八戸駅からバスというのが主流のようだ。この長いバス路線がJRバスなんですね。
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 今回の十和田湖行きに際しては、むつ市からの流れで行くことになったので、そのどちらでもない三沢→十和田から入るルートにした。長いことバスに揺られるよりは、やっぱりこっちから行くのがいいかな…というのもあったけれど、昔からのルートをなぞってみようと考えた。
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 そんなわけで、大湊からの直通快速で、夜の真っ暗な青い森鉄道の三沢駅に降りた。写真は帰りの日の朝、三沢高校など通学の高校生が行き交う明るい時間に撮ったものだが、もうすぐ三沢恒例行事の航空祭もあるらしい。飛行機の標識もある三沢駅前のそばにあるのが、2012(平成24)年に廃線になった十和田観光電鉄線の三沢駅だったところで、ここから十和田中央行きのバスに乗ってやっと十和田の街に入る。看板にはまだ「電車」の二文字が残っている。
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 泊まったホテルがあるところは、バスの終点十和田中央と同じ稲生町。大きな通りとアーケードがまっすぐに走っているここが中心街。では、市街地の地図を拡大して眺めてみよう。
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 すると、まず街が都市計画でもあったかのように格子状(正方形の区画は少ないのであえて碁盤目状とは書かない)に仕切られているのが目につく。さては城下町かと思って城か城跡を探すも、それらしきものはない。市役所や美術館などが集まった地域があるので、ひょっとしたらそこらにあった城は何らかの理由で城は廃却されたのかもしれない。そういえば、ここは今は青森県だけれども、元々は南部藩領だった(青森県はなぜ青森県かを考えてみる:参照)ところだが…。
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 そんな勝手な妄想は全部的外れで、城下町などではなかった。それどころか、南部藩でもずっとはずれのほとんど人が住めない荒野だったのだ。十和田市のサイトでは、その歴史の始まりをこう記している。

十和田市は安政6年(1859年)に新渡戸傳翁によって拓かれた「若いまち」で、青森県東南部、秀峰八甲田の裾野に拓けた緑の三本木原台地の中央部に位置し、国立公園「十和田湖」の東玄関として知られています。

 十和田湖の東、奥入瀬川の流れ下る八甲田の裾野が広がっていた台地は、三本木原と呼ばれていた荒れ地だったのだが、南部藩士だった新渡戸傳(つとう・つたう)が、藩にも家にもいろいろな事情があって後、この荒野の開拓に取り組んだ。市のサイトで言う安政6年というのは、台地の北側に奥入瀬川を堰き止めて引き込んだ稲生川の第一次引水に成功した年で、それこそが街を拓く基礎となったというのであろう。
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 実際の関連工事が始められたのは、1855(安政2)年からで、水のない荒野は奥入瀬の流れからははるかに高かったので、それを上流で堰き止めて台地の北に通水することから始まった。人工河川と堰堤とトンネルで引きこまれた奥入瀬の水は台地を潤し、耕地も可能になる。引水が成功すると、藩主自ら盛岡からやってきて、その川を稲生川と名づけた。当時の人々にも荒野が沃野に変わる期待とイメージが明確だったのだろう。今も街の北側を一直線に流れる稲生川沿いには桜が植えられ、橋の袂には命名の碑もあるという。
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 その後、街づくりは傅の長男である新渡戸十次郎にみごとにその意志が伝えられ引き継がれ、1855(安政2)年には格子状の都市計画が立案され実現されていった。札幌での開拓使による近代都市計画の実現は、1869(明治2)年だから、それより14年も早い日本で初めてとなるものだった。
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 その一端は、稲生町のアーケード通りを挟んで、東一番町・西一番町から順に六番町までが並行して並び、その外側には今度は東十一番町・西十一番町から十六番町まで並ぶ現在までそのまま生きている住所表示が示している。
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 そして、なんとなんと! この街を拓いた新渡戸傳の孫にして十次郎の子が、新渡戸稲造(そんな人知らないなあという人は5000円札を見てねと書いてから気がついたが、もう一葉さんに変わってる!! それじゃ1000円札でお釣りがくる『武士道』でも買って読んでね!!!)だったのだ。その名も三本木原開拓地域から収穫された初穂を祝ってつけられた名(幼名稲之助)をもつ稲造は、父祖の功績を伝えるため、新渡戸記念館をこの市街地の台地の先に建てて残している。(三本木原開拓などに関しては、この新渡戸記念館のサイトに詳しく公開されている。)
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▼国土地理院 「地理院地図」
40度36分50.64秒 141度12分50.37秒
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dendenmushi.gif東北地方(2017/09/06 訪問)
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タグ:青森県
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