SSブログ

1492 白根崎=東津軽郡平内町大字土屋(青森県)そんなこたあシラネヒラナイなんて言わないで青森県はなぜ青森県かを考えてみる [岬めぐり]

shiranezaki-4.jpg
 真ん中で北に向かって三角に飛び出している夏泊半島は、野辺地湾と青森湾とに陸奥湾をさらに東西に分けている。この半島の出っ張りと付け根に食い込んだ山地を含めて、丸ごと一帯が東津軽郡平内町(ひらないまち)となっている。東津軽郡はこの一町のみで、浅虫の善知鳥崎が津軽と南部の境界だったとする「吾妻鏡」の時代はともかく、ここまでが津軽の領域だったという証拠にもなっている。
 平内は、アイヌ語の「ピラ・ナイ」からで、ピラは崖を意味し、ナイは川を意味するので、峡谷を流れる川という意味の名であるという。川というのは、半島付け根の東に流れ込む小湊川・盛田川と清水川のことであろう。とくに清水川は、町内最南部の三角岳753メートルの山ひだのなかに源流を発し、確かに長い渓谷を刻んでいる。
 清水川の河口と、半島付け根の反対西側には、白鳥の渡来地として天然記念物に指定されている。
shiranezaki-1.jpg
 青森市の裸島から東へ500メートルしか離れていない白根崎は、ぎりぎり平内町という境界線近くに位置していて、その沖にある鴎島(ごめじま=ここのゴメは、ちゃんと「鴎」だ)の付近も「∴ 小湊のハクチョウおよびその渡来地」として地図に特別天然記念物の表記がある。
shiranezaki-8.jpg
 浅虫からまっすぐ国道を通って、平内町に入り、ほたて大橋の袂までやってきた。平内町内バスが、浅虫温泉駅前にバス停を設けることができず、ずっと離れた北側にあるのは、この境界線を南に越えて、青森市の領域に食い込むことを避けた(遠慮した)、あるいはそうせざるをえないなにか理由があったのだろう。だが、ここからは堂々と平内町の領域に入る。
 白根崎は漁港の外れで建物が密集しているところだが、国道からは下に降りることができない。土屋番所や港のほうに行くためには、八大龍王の交差点まで戻ってから、東の脇道に入って降りていかなければならないらしい。
shiranezaki-6.jpg
 白根崎は、この橋の上からでないと、このようには見えない。それでも建物で半分隠れてしまう。
 「ほたて大橋」というのも、そのものずばりの名だが、橋の下の向こうには「ほたて広場」もあるらしい。なぜ、そんな名がここにあるのかというと、平内町こそが今では有名な陸奥湾におけるホタテ養殖の発祥地だから、ということらしい。すると、白根崎の港の岸壁に積み上げてあった青い網もホタテ養殖用なのだろうか。
shiranezaki-2.jpg
 浅い入江の上をかすめる「ほたて大橋」も、そのとっかかりだけで渡らず、「ほたて広場」にも歩を踏み入れないが、白根崎はその記念すべき小さな漁港を西に張り出して守っている。「ほたて広場」のサイトを見ると、そこにはほたて観音やほたて供養塔まであるらしい。それらの記述と並んで、実際に番所跡に立っている案内板を写した「土屋御番所由来」という記述があった。
 それによると、1656(明暦2)年、ここ平内領域の西口に当たる場所に領地境界警備のため番所を設けたのは、黒石藩初代藩主であるという。黒石藩というのは、津軽氏の弘前藩(津軽藩)の支藩で同じ津軽一族の支配下にあったが、八甲田の西南西にある黒石藩領とは地続きではなく、飛び地になっていたことになる。飛び地ならではの番所の重要性もあったのだろう。
shiranezaki-7.jpg
 この土屋番所も、明治の廃藩置県で廃止されたが、狭い谷間を抜ける道は、番所を置くには適した場所だ。
 明治4年の廃藩置県では弘前県とともに黒石県もあったが、2か月ちょっとで青森県になっている。弘前にあった県庁も、旧藩の影響の強い弘前から海辺の青森に移された。この青森県の成立の背景は、なかなか複雑だがおもしろい。
shiranezaki-3.jpg
 津軽と南部は仲が悪いという話は前にもしたが、その仲の悪い弘前藩と盛岡藩は戊辰戦争に際しては、ともに奥羽列藩同盟に属し官軍に対抗していた。ところが、戦争の途中から弘前藩は官軍に寝返ったのだ。このため戦後の処遇も弘前藩にはお咎めなしで廃藩置県までほぼ藩体制をそのまま維持したが、盛岡藩のほうは大変なことになった。石高は大幅に減らされたうえ、会津藩仕置で領地を斗南藩に割かれ、おまけに明治元年には弘前藩と盛岡藩・八戸藩が争う野辺地戦争で消耗するなど、踏んだり蹴ったりで、仲の悪さに拍車をかける事態が相次いだ。
 青森県の成立は、この両者の領域(旧津軽氏領の弘前藩・黒石藩と、旧南部氏領の七戸県・八戸県)と因縁の斗南藩をまとめて、一つの県に統合したことになり、しかもこの後全国で進む旧藩を統合しつつ新たな県にするという新政府の政策実現の第一号にもなっている。
 こうしてみると、単に陸奥湾に飛び出た出っ張りにすぎないと思っていた夏泊半島と、それを中心とする平内町の位置付けと意味付けも、少しばかり見えてくる。
 国道から土屋番所跡のほうに降りる階段くらいはあるだろうと思って、ほたて大橋まで歩いてきたが、それがまったくないのは誤算だった。
shiranezaki-5.jpg

▼国土地理院 「地理院地図」
40度54分14.78秒 140度51分34.39秒
shiranezakiM-1.jpg
dendenmushi.gif東北地方(2017/09/04 訪問)
@このブログは、ヘッダー、サイドバーをも含めた、全画面表示でみることを大前提としています。

にほんブログ村 その他趣味ブログ
その他珍しい趣味へ 人気ブログランキングへ

タグ:歴史 青森県
きた!みた!印(29)  コメント(0) 
共通テーマ:地域

きた!みた!印 29

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:[必須]
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。