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1407 弁天崎=敦賀市二村(福井県)気比神宮から芭蕉には無視された松原を経て敦賀半島の西海岸へ向かう [岬めぐり]

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 前項でふれた、杉原千畝関連の本などが盛んに出始めたのは、1994年のスピルバーグの『シンドラーのリスト』公開以降のような気がするのは、例によって個人的な印象と感想によるもので、とくに調べたわけではない。弁天崎とは関係がないのだが、ふと思い出したのでついでに…。
 敦賀港の南に続く市街地は、枝分かれして支流を広げた二本の川が湾に流れ込むことで、運ばれてきた砂州の上に広がっていったと思われる。三方を山に囲まれたその奥行は深く、湾最南部の岸壁から、その名も“山”という山際の地域まで5.8キロもある。古墳群もこの山が描くUの字の線に沿って点在していると思われる。
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 敦賀港から敦賀駅までは1.8キロと接近していて、その間に気比神宮がある。敦賀から若狭路へ向かうJR小浜線は、北陸本線と並走しながらひたすら南へ走る。西敦賀の駅を過ぎてからおもむろに西へ向かい、粟野駅まで大きく南側へ回りこんでいる。
 これも想像だが、こういう場合は地盤が確かなところを選んで線路を敷設したので、砂州でできた軟弱地盤のところを避けたからではないか。市街地の北の海岸線も、松原を含めて、もっと南だったのではないか。おそらく、気比神宮の北あたりがもう海岸だったのではなかろうか。
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 松尾芭蕉が「奥の細道」の旅でやってきたルートは、「湯尾峠を越ゆれば、燧が城・帰山に初雁を聞きて、十四日の夕暮れ、敦賀の津に宿を求む。」とあるので、福井から南下して今庄からの峠越えで敦賀に入ったようだ。その頃にはもう“敦賀の津”として、湊で栄える町の性格を明確にしていたわけだ。
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 その日の夜に「気比の明神に夜参す。仲哀天皇の御廟なり。社頭神さびて、松の木の間に月の漏り入りたる、御前の白砂、霜を敷けるが如し。」として、宿の亭主からは、大願発起して道普請をし、神前に真砂を敷いた遊行二世の上人の話を聞いている。
 つまり、参詣道も非常な悪路で、「草を刈り土石を荷ひ」する必要があったわけだ。また、その夜は「月殊に晴れたり。『明日の夜もかくあるべきにや』と言へば、『越路の習ひ、なほ明夜の陰晴はかりがたし』」と亭主は言う。翌日は「亭主の詞にたがはず雨降る。」というわけで、二句を残している。

     月清し遊行のもてる砂の上
     名月や北国日和定めなき

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 芭蕉が「気比の明神」というように、応神天皇ほか6柱もの祭神をもつが、その建立は飛鳥時代とされるほど古い由緒をもつ。「1405 田結崎」の項で述べたような渡来人の来着などに、その起源があることは確かなことなのだろうと、門扉の菊の紋章をみながら思ったものだ。
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 2016年のNHK大河ドラマは、三谷幸喜創作の
真田丸』。なんとなく三谷劇場につきあうのがめんどくさくなってしまったので、最近はごぶさただが、これに大谷吉継が石田三成の朋輩としてほぼ出ずっぱりに出ていた。敦賀は、このこのドラマの主人公の義父になる、大谷吉継の城があったところだ。
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 駅前には吉継の幟などもはためいていたが、彼の敦賀城は後に一国一城令で取り壊されてしまうので、遺構などは何も残っていない。三成を諌め押し留めるのには失敗しても、三成への心情がついには病をおしてまで関ヶ原で命運を共にするところまでいってしまう。さほど地元と吉継の関係が長く深いとも言えないのだが、ひとつ気になったことがある。
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 大谷吉継は敦賀城主としてある間に、大工事をして城を海城につくり変えたといわれているのだが、その場所は気比神宮の並びで、830メートル西へ寄った敦賀西小学校のある付近ではないかとされる。
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 バスはその西小学校の横を過ぎ、松原の南を回って湾の西岸を北上する。この道も前に来たときに通っているが、浜からこの道まで430メートルある。公園となっている松林を含めると分厚い松原なのだが、芭蕉の眼にはとまらなかったのだろうか。松原のことにはまったく触れぬまま、舟で色ヶ浜へ向かっている。
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 あるいは、昔はもっと海が迫っていたなら、松原も薄く印象も薄かったのかもしれない。
 以上、気比神宮・吉継の海城・松原の三点をつなぐと、昔の敦賀の海岸線が浮かんでくるのだが…。
 敦賀湾西岸の最初の岬は、弁天崎である。西岸は立石へ行くバスに乗って往復したので、行きにはうまく見られなかった岬も、帰りで再確認するということができる。
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 弁天崎は何の変哲もない岩が残した出っ張りで、二村という集落のはずれにある。その名からすると、地図には記号はないが弁天社でもあるのだろう。車窓からはよくわからなかったが、帰りには朱塗りの欄干も見えたし、ふたつの岩島を結んで縄も貼ってあったので、確かに弁天さんはあるのだろう。
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 火力発電所やセメント工場や、金ヶ崎や鴎ヶ崎や、敦賀の港や街や松原の海岸が、その向こうに見えている。
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▼国土地理院 「地理院地図」
35度40分13.65秒 136度2分29.68秒
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dendenmushi.gif北越地方(2016/07/18 訪問)

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タグ:福井県 歴史
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