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1406 鴎ヶ崎=敦賀市金ヶ崎町(福井県)杉原千畝や信長とともに名だけは周囲をすっかり埋め立てられてもかろうじて… [岬めぐり]

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 敦賀港は湾奥の東にあり、そこは天筒山の山塊が171メートルと標高は低い割に、大きな存在感を持って敦賀市外の東を仕切っている。天筒山から西に小さく張り出した尾根が金ヶ崎の山で、その尾根の南に金ヶ崎宮や北に金ヶ崎城の城跡などがある。鴎ヶ崎は、この金ヶ崎の山の西に端に、ちょっと膨らんでいるところである。
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 けなげにも、今も岬の名は残っているが、実情は周囲がすべて埋め立てられ、敦賀港の北岸壁からさらに西に広い造成地が続いていて、もはや岬としての実態もイメージもすっかり失なわれている。海からは遠くなってしまった小山の尾根の先っちょで、今もその名が消えることなく保存されている理由はわからない。
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 だが、かつてはこの岬が、敦賀港のシンボルのようになっていたはずだ。
 今はもうないのだが、敦賀駅から北陸本線と分かれて北へ伸びる線路があった。その線路が天筒山の西麓に沿うようにして金ヶ崎に伸びていき、鴎ヶ崎の下で何本もの引き込み線レールが分かれていた。
 そこに着いた貨車や列車に、すぐ南の敦賀港の岸壁に横付けした船から荷物や人が激しく行き交っていたときもあったのだ。
 それは、現在の地理院地図上には残っている(前から気にはなっていたけれどもwebの地理院地図はかなりデータが古い?)が、現実にはもうそんなものはない。だが、それを消し去るときには、どうも鴎ヶ崎の名もついでに消されてしまいそうな予感がする。
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 ここに貨物列車が入ってこなくなったのは、2009(平成21)年のことである。それからは“敦賀港オフレールステーション”と名前だけはかっこつけたが、トラックで運ぶコンテナ便を扱うだけだ。
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 第二次大戦中、リトアニア領事代理だった杉原千畝が発給した「命のビザ」の話は、ずいぶん昔になにかの本で読んでいたが、ここ近年になって本はバタバタとたくさん出るわ、デレビではドキュメンタリからドラマ化までして、“日本のシンドラー”はちょっとしたブームをつくっていた。
 それは、大戦中のできごとで日本人が胸を張ることができる、数少ない事例のひとつ(ほかになにがあったっけ? すぐに思いつかない)だったからだろう。
 だが、それにしても、それまではほとんど無視に近い状態だったのが、ここへきて急に盛り上がっている感じがするのはなぜだろう。
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 杉原千畝がいたリトアニアのカナウスからペテルブルグまでは、約550キロ。彼のお陰でビザを手にし、シベリア鉄道に揺られてはるばる極東のウラジオストクまでやってきて、そこから船で日本海を縦断し、ついに“東洋の波止場”敦賀へ上陸したユダヤ人難民の数は、1940年から1941年にかけて約6000人だったという。
 鴎ヶ崎の手前、コンテナヤードの手前、公園の一角には三角屋根の建物がある。そこはそれを記念した、“人道の港 敦賀ムゼウム”(ムゼウムはポーランド語で資料館や博物館の意)である。このムゼウムが開館したのも2008年だから、歴史的にはつい最近といってもいいことなのだ。
 この日はやたら暑い日で、とても炎天下をウロウロする気にもなれなかったので、これも遠望のみ。
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 田結崎から鴎ヶ崎は、1.7キロ南に下ったところになるが、その間には火力発電所のほかに敦賀セメントの工場もある。天筒山の北側は、石灰岩の山である。その下を国道8号線は上り下りに分かれて4つのトンネルで通り抜けている。
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 琵琶湖のところでふれたのは、撤退ルートについてだけだったが、1570(元亀元)年の金ヶ崎の戦いでは、信長の軍勢は、朝倉勢の金ヶ崎城を攻め、その城攻め自体にはほぼ成功していたにもかかわらず、ここから撤退を余儀なくされることになる。単なる撤退ではなく、後に“金ヶ崎の退き口”とか、“金ヶ崎崩れ”とも呼ばれるように、敵方を追撃をかわしながらの命からがらの撤退となったのは、北から朝倉、南から浅井の挟み撃ちにあう危難にさらされることになったからだ。
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 信長の戦でも少ない負け戦的要素が多分にあったため、とくに語られるフシもあるが、信長自身これが相当悔しかったらしいことは、幾多のドラマなどで取り上げられてきたその後に続く挿話によっても想像がつく。
 このとき、挟み撃ちの危難を豆を小さな袋に詰めるという暗号(なぞかけ)でいち早く信長に知らせたのは、浅井長政に嫁いでいた妹のお市の方だという話も、ドラマでは好んで使われるが、この情報源(史料)は朝倉側にしか伝わっていないのだという。とすると、朝倉側が惜しい勝利をのがしたのは自分たちのせいではなく、情報漏れにあったからだと弁護するためのつくり話とも考えられる。
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 琵琶湖のところでも、この撤退戦の殿軍(しんがり)を、このときはまだ木下藤吉郎だった秀吉と家康が務めたと書いていたのだが、どうも家康にそんな危険なむずかしい任務を与えるだろうか、という疑問は大きい。務めたとしてもそれは名目で、追撃の表面にたって殿軍の損でむずかしい役はやはり秀吉だったのだろう。
 しかしまあ、いろいろありますが、とにかく(なにがとにかくじゃ)敦賀といえば、気比神社と気比の松原ですよね。
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▼国土地理院 「地理院地図」
35度39分51.81秒 136度4分23.08秒
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dendenmushi.gif北越地方(2016/07/18 訪問)

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タグ:福井県 歴史
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