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1405 田結崎=敦賀市鞠山(福井県)そもそもの敦賀と『大敦賀行進曲』が歌われた時代の敦賀港に思いをはせてみる [岬めぐり]

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 江良の南の赤崎は、字地名で岬はないので、その南の田結(たい)から西にぽこぽこと連続する尾根の先、鞠山というところに小山がふたつある。鞠のように丸い山という意味だろうか。
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 西の小山の先に、田結崎という名が付いているが、この岬の西側と南側がしっかり埋め立てられている。その南側は敦賀火力発電所の広大な敷地になっていて、田結崎から西へはまっすぐな長い防波堤が、その内側にフェリー発着所を囲っている。
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 ここから出るフェリーは、どこへ行くのだろうか。現在は、新日本海フェリーの、舞鶴・敦賀から新潟・北海道を結ぶ航路が発着している。taizaki-5.jpg
 日本海側でこれだけの地理的条件に恵まれた港があれば、それは当然北前船の往来発着も盛んであっただろう。もっと言えば、海は外へ開かれた通路であり、港は出入口であるから、日本海側で京阪にも近い敦賀が、古から幾多の変遷を経ながらも、常に半島や大陸との船による往来が続いてきたことは、動かしがたい事実である。
 そもそも、「敦賀・つるが」という名前からして、もとは角鹿(つぬか)というこの地域の古名からきていたというのは、昔は広く認識されていた。
     ふるき名の 角鹿や恋し 秋の月    芭蕉
 「日本書紀」にはツヌガアラシト(都怒我阿羅斯等)という人物が海を渡ってこの地にきたとされ、「古事記」にも“意富加羅国”の王子である都怒我阿羅斯等が“笥飯(けひ)浦”に来着したが、その額に角があったのでこの地を角鹿と称した、というような記述があるという。これらは応神天皇と結びつき、気比神社の祭神ともされている。
 そして、律令体制に組み込まれたときに、“畿内七道の諸国郡郷の名は好字をつけるようにせよ”ということになり、そこで初めて「敦賀郡」が登場した。
 この地が古代日本史のなかで、ことさら脚光を浴びることは少ないが、敦賀湾の東西両岸と市街地が山に行き当たる南部東部の山には、数多くの古墳群があることからも、一大勢力がここにあったことを示している。
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 “東洋の波止場”も、大元から質せば、渡来人にも行き着くわけだが、もっとずっと近いところに戻してみると、北前船の後でやってきた明治という新しい時代の到来とともに、近代の芽生えが胎動し始め、敦賀は港を中心に活発な活動を始めることになる。その経緯を、前出の「敦賀の歴史」サイトなどを参考に、キモだけあらあら抽出して理解してみよう。
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 まずは、巨大な山塊によって隔てられている福井県内の嶺北と嶺南を結ぶというニーズが先行して、敦賀=三国航路が開設(明8)され、続いて北前船と同じく北海道航路が定期便として運航(明9)され、長浜から敦賀までの鉄道の敷設(明17)によって、敦賀は船から鉄道へ、鉄道から船への積み替え集積地として大いに発展する。
 やはり船による物資の輸送というのは、一時に大量に安く運べるという点で、昔も今もそのメリットに変わりはなく、敦賀の海運事業も、その地の利を活かして近海航路も拡充されていく。
 ところが、鉄道がトンネルとスイッチバックで峠を越え、福井へ金沢へと延伸されることになると、たいそうな港湾施設がいらなくて小回りのきく貨車輸送のほうがより便利ということになる。そうなると、北陸線からは盲腸のように引き込み線を通って敦賀港まで行く必要がなくなり、敦賀は通過して流れていくことになってしまう。
 各地で歓迎される鉄道は容赦なくどんどん伸びていき、北陸線が富山まで開通(明32)すると、日本海側の北海道を含む新潟以北からの荷物は、富山の伏木港まで船できても、そこからは貨車に積み替えられて運ばれるということになり、ついに北前船の伝統とメリットも諦めなければならなくなる。
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 そして、いよいよ敦賀の海運が衰退する道がはっきりして、敦賀港が選んだのは、“国際港”としての可能性に活路を見出そうとするものだった。
 つまり、“東洋の波止場”、“異国の星の下”、“国際列車”、“青い眸”といったことばを詰め込んだ『大敦賀行進曲』の歌詞は、それに合わせたものだったわけである。
 日露戦争後は、敦賀=ウラジオストック間に定期航路が開設(明40)されて、シベリア鉄道を経て欧州へもつながる国際貿易港となる。
 そして、さらにこの欧州へのルートは敦賀から東京へ伸び、東京=敦賀=ウラジオストック=ペテルブルグというルートで、船と連絡列車で日本海を渡り、大陸縦断して欧州と結ぶ、日本では初めてのボート・トレインの長大なラインが完成(明45)するのである。だから、“花の東京へ一走り”で、『大敦賀行進曲』の歌詞は終わるわけだ。
 でね、その頃の敦賀港の岸壁は、次の岬のあるところで、ここじゃないんですね。このもっと奥。
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▼国土地理院 「地理院地図」
35度40分45.53秒 136度4分34.20秒
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dendenmushi.gif北越地方(2016/07/18 訪問)

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タグ:福井県 歴史
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