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1395 船木崎=高島市安曇川町北船木(滋賀県)琵琶湖畔でいちばんでっかい出っ張りのその先っちょがここ [岬めぐり]

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 おそらく、高島市と聞いてすぐにこの場所の位置がピンとくる人は少なかろう。もっとも、この頃では合併でやたらめったら市が増えているので、それはここだけに限ったことでもないのだが、でんでんむしも、安曇川(あどがわ)やマキノや今津や朽木は知っていても、それらがひっくるめて高島市になっているとは意識になかった。
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 船木崎のあるところは、“びわ湖こどもの国”という大型施設の中にあるので、入場券を買って中に入るつもりでやってきたら、入場はフリーでゲートもなにもない。駐車場からいけいけで誰でも入れるここは、滋賀県立の児童館と公園なのだ。
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 園内には乗り物や遊具などもあるが、そこは県立の児童館(児童福祉法による児童厚生施設)だから、そこらのなんとかランドとは一線を画している。虹の家という中央の円形の建物が児童館本体で、その中でもいろいろなイベントが企画されているようだが、季節柄水泳場とそのそばに開かれたテントの森が人気のようだった。
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 ただし、ここの水泳場は砂浜が広がっているというわけでもなく、湖畔の一部をそれにあてたということだろう。船木崎はその水泳場の北側の芦の茂るちょっとした出っ張りで、地理院地図ではその向こうにも水流を描いていて水門のようなゲートもあるらしいのだが、そこは水処理施設かなにかのように囲まれていて、近づくことはできない。
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 船木崎とこどもの国があるところは、南北ふたつに分かれて流れる安曇川に挟まれた大きな中州で、湖西線の安曇川駅は西に5.3キロも離れている。また、その安曇川がつくりだしたと思われる堆積地は、北の新旭町饗庭から南の高島まで、10キロに及ぶ。
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 いうなれば、川の堆積が琵琶湖に突き出た岬をつくるという、この地域の特色にここもそのまま当てはまるわけで、その規模は琵琶湖沿岸随一の大きな出っ張りとなっているのだ。それにしては、岬はちょっとこじんまりしていて目立たな過ぎだが、それも安曇川の河口自体が広くいくつにも分散してしまったからではないか…。安曇川南流の橋の上から、琵琶湖を眺めていると、そう思わずにはいられない。
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 安曇川駅とこどもの国を結ぶのは、江若交通が運行する安曇川町循環バスで、広い水田の間にぽこぽこと固まって点在する集落を拾いながら走っている。“江若”の意味は、近江と若狭ということだろう。近江もこの辺りまでくると、北に山一つ越えた若狭との関係(鯖街道など)が色濃くなる。
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 新幹線中心にものごとを認識しがち(そーいえば、北陸新幹線の延伸をこっち側にするとかいう話もあったね)な現代では、ともすると忘れそうになり、また実際に忘れているが、昔から琵琶湖の北西ルートの重要性は大なるものがあった。それは、戦国時代のエピソーなどによっても、知ることができる。朝倉攻めの織田軍が、浅井氏の裏切りによって挟み撃ちの危機にあい、そのときのこの撤退ルートで家康と秀吉が殿軍を務めたことはとくに有名である。
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 朽木氏(くつきし)はその時の朽木越え支援の功を最大限活用してのしあがり、関ヶ原では当初西軍についたものの東軍に内応している。そのため江戸幕府成立後も大名の立場を維持して、後もその子孫は明治維新まで小大名として永らえた。
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 これに対して、近江源氏佐々木氏の流れをくみ一帯の有力者であった高島氏は、六角氏、京極氏などに分かれたひとつであった。朽木氏も古くは高島からの分かれであったが、高島氏は朽木氏ほど世渡りがうまくなかったのか、六角氏の滅亡とともに次第に没落していく道をたどっている。
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 2005(平成17)年に、高島郡マキノ町、今津町、新旭町、安曇川町、高島町の5町と高島郡朽木村の5町1村が合併して市制施行、高島市は誕生した。このときの当初合併協議会が用意した新市名は“西近江市”というものだったが、住民アンケートの結果を尊重して高島市に改めたという経緯がある。(2016年の高校野球滋賀大会の決勝は、雨で1日伸びたが「近江VS高島」の琵琶湖対決(もっとも滋賀県ではどこでもそうなる)で行なわれ、対岸側彦根の近江高校が優勝している。)
 そのほかにも、百貨店「高島屋」の屋号は、創業者である飯田新七が義父の出身地である近江国高島郡からとった、なんてトリビアもある。
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 安曇川駅前のバスのりばの脇には、こんなものが…。また政治家の銅像かよと思ったが、確かに政治家には違いないものの、この安原仁兵衛という人は、湖西の鉄道建設に尽力した人で、その銅像は高架になった湖西線と安曇川駅南のほうを向いている。1920(大正9)年に江若鉄道株式会社を設立し、1931(昭和6)年に線路は浜大津から今津まで開通したが、その年に雄琴駅付近で機関車に接触し急逝した。
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 ええっ、“藤樹先生”ってもしかして中江藤樹のこと? ここへくるまで、中江藤樹とこことはまったく結びついていなかった。反対側駅の東口には中江藤樹の銅像もあったんだけど、銅像めぐりではないんでどうぞ許して。
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 帰りのバスが通る“藤樹書院”は出版社でも書店でもなく、中江藤樹の記念館らしかった。
 今回もいくつかの計画案があって、そのなかには若狭から近江今津へ福井・滋賀の県境を越えるというのもあったのだが、諸般の事情からこのまま西湖岸を北東へ進むことに。
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▼国土地理院 「地理院地図」
35度19分16.76秒 136度4分40.92秒
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dendenmushi.gif近畿地方(2016/07/16 訪問)

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タグ:歴史 滋賀県
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