1282 遭崎=珠洲市三崎町寺家(石川県)須須神社を中心としたこのあたり全体が三崎であり珠洲岬であり… [岬めぐり]

前項の「金剛崎」のところでは、珠洲岬という表記も地理院地図では併記してあることにふれていた。それも、縮尺を大きくして半島の東端をみるときには、珠洲岬の名だけしか出てこないという、手の込んだことがされていたので、これにはきっと訳があるのだろうと思っていたら…。
訳は、やっぱりあったのである。

Wikipediaによると、珠洲岬にも諸説あって、金剛崎のことだとするものから、金剛崎と遭崎を合わせた、さらに禄剛崎まで含めて、長手崎までも包含した広い範囲を珠洲岬とする説まで、いろいろあるという。
要するに、狭義には金剛崎の別名とし、広義では能登半島東端部全体を指して珠洲岬と呼んだというのだ。
さらに、「角川日本地名大辞典」では、寺家村の金剛崎・遭崎、高波村の宿崎を合わせて三崎と称するという「文化六年郡方書上帳」の記述を取り上げ、地元においてもこの三崎を総称したものが珠洲岬であるという考えが主流であるとしている、ともいっている。
この「高波村の宿崎」というのは、現在の地理院地図では岬名表記がないが、遭崎から南に4.2キロにある丸い飛び出しをいうのであろう。確かに現在の住所表示に残る「三崎町」は、金剛崎の寺家から長手崎の南西、三崎町雲津まで、南北8.2キロに及んでいる。

金剛崎を避けるようにして、山伏山寄りのほうを走る県道は、なかなか海岸に出て行かない。やっと海岸と思ったら、そこはもう遭崎のすぐ手前の上野というところで、海も岬も家の間にちょろっと見える程度である。写真もこんなのしかない。
遭崎の沖には姫島という岩島の列もあるのだが、それも見えない。小高い丘になった遭崎の海側は、絶壁が取り巻いているようだが、それもまた見えない。

岬の内側を抜けて、寺家の漁港に出てきたときに、バスの車窓から振り返ってみると、その南端が見える。漁港はこの断崖の端を利用して防波堤を築いている。
漁港の南のもうひとつの出っ張りを回ったところが寺家集落の中心で、ここを山寄りに入ったところに、市名の「珠洲」の名の由来にかかわる須須神社がある。そこには地理院地図では「∴ 」史跡マーク付きで「須須神社社叢(しゃそう)」とある。これは神社の裏山一帯が天然記念物に指定されている照葉樹林帯のことで、おそらく初期の頃の指定であろう。

もとは山伏山にあったのが里近くに降りてきたという須須神社でも、ちょうど秋祭りのシーズンとあって、県道の鳥居にも祭礼の幟が立っていた。

能登の歴史への登場は、きわめて古い。源平の伝説などはずっと新しいほうで、神話時代からの記録がある。先には「鰐崎」の項で“因幡の白兎”の話を出したのは、単に名前からの連想に過ぎなかったが、“国引きの神話”には能登が出てくる。

「出雲国風土記」の国引きでは、この三崎を引き寄せて美保の岬をつくったということになっているのだ。神話にいちいち突っ込むのもどうかとは思いながらも、この堂々たる国土の奪取によれば、現在の能登の三崎一帯は、出雲にその先っちょを引き割かれて残ったところ、ということになる。
元の三崎は出雲へ持って行かれたのだから、その割かれた後に残ったギザギザが、金剛崎であり遭崎であり、現在は地図からも名が消えている宿崎であり、長手崎であるということか。
須須神社に伝わるとされる縁起では、高倉宮・金分宮の二社からなるが、高倉宮の主神であるニニギノミコトが来臨したときに、鈴を以てこの地を鎮めたという。須須=鈴=珠洲であり、能登半島の東端は珠のような洲であるという形容がくっついて、現在の地名に残って物語りしているのも、考えてみればすばらしいことだ。

遭崎の付近から、海岸の南には、細長く叩いてならしたように平らな岬が見えてくる。それが、宿崎のあたりになる。
こういった風景は、外浦では見られない、内浦独特のものといってよい。

▼国土地理院 「地理院地図」
37度30分13.14秒 137度21分1.01秒




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