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番外:再び「鹿折唐桑」へ=気仙沼市新浜町(宮城県)打ち上げられていた船も解体されてなくなっていたが… [番外]

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 誤解のないように前項に付け加えておくが、先に「1202 恵比須鼻」の項 で紹介したPDF情報には、住民が実施したアンケート調査の結果も詳しく述べられている。それによると、住民がみんな県の防潮堤計画に反対しているわけではない、ということだ。「位置や構造の話し合いには応じるが、高さは絶対に変えられない」という県に対し、打開のために住民が自ら意見集約をはかろうとしたアンケートの結果は…。
 意外にも、3分の1もの住民は、県が計画する9.9メートルの防潮堤を支持していることがわかったのである。アンケートに回答した住民564人のうち県の計画支持は35%、震災前と同じ1.2メートルでというのが6%、中間の5メートルでが20%、防潮堤は不要というのも17%あったという。
 このアンケート結果が発表されたのは2013年3月のことで、でんでんむしが初めて被災地を訪れたのはその4か月後のことだった。
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 そのときには、南三陸町から気仙沼市を歩いたのだが、鹿折唐桑(ししおりからくわ)の印象も深いものがあった。そこをバスで通ったときの記録は、「991 神明崎2=気仙沼市(宮城県)たくさんの船が流され陸に置き去りにされたが最後まで残った“第十八共徳丸”も…」 に書いているが、大きな漁船の船体が、鹿折唐桑駅(駅ももちろんなくなっていたが)の前付近の道路脇にどーんとあった光景が眼に焼き付いていた。
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 この船の処置をめぐっては、その後も全国ニュースで報じられたので、よく知られることになった。
 今回の山田町から釜石、大船渡、陸前高田、気仙沼までの岬めぐりの最後に、再びこの地を訪れたのは、BRTから唐桑半島に入る路線バスに乗り換えるためだった。
 この被災地訪問の最後に、あえて1項目を設けて、その後の鹿折唐桑付近を記録しておきたい。
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 陸に上がった漁船は解体されてすでになく、流された建物の土台の間に草が生えていた気仙沼市みなと町から新浜町にかけての一帯では、土盛りが盛んに進められ、復興商店街なども新しくできた盛り土の上に引っ越していたのだろう。
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 前のこの地の写真と見比べてみれば、とても同じ場所とは思えないほどだ。
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 コンビニなども店開きをしていたが、まだまだ基盤整備の最中であった。全体に地面の嵩上げをして、市街地の復興を図ろうという計画も、考えてみれば大変なことだ。
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 再びまたJR気仙沼駅にやってきた。前回と同じコースで大船渡線に乗り、一ノ関駅から新幹線に乗り換えて、帰ってきた。
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 直接被害を被ったわけでもない部外者が、被災地や復興計画についてあれこれいうことは、なかなかむずかしいところがある。
 願わくば、多くの国民が同じようなおもんばかりの気持ちをもって、被災者に寄り添いたいと願っていることが、すみやかなよりよい復興の応援になることを祈るばかりである。
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▼国土地理院 「地理院地図」
38.915467, 141.581042
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dendenmushi.gif東北地方(2014/11/07 訪問)

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タグ:宮城県
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