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1979☆『思い出の索引』★でんでんむし@アーカイブス☆わたしたちが生きてきた時代とは… [年表]

われわれはどこから来て、どこへ行こうとしているのだろうか…? 

1979mark.jpg昭和54年 己未(つちのとひつじ)
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◯米中国交回復。台湾とは断交。
◯カンボジアのポルポト政権崩壊。ベトナムの支援によりヘンサムリン政権。
◯ホメイニ師主導によるイラン革命。
◯エジプトとイスラエルが平和条約に調印。
◯米スリーマイル島原発で放射能漏れ事故。
◯英総選挙で保守党が勝利、サッチャー政権が誕生。
◯米ソが第2次戦略兵器制限条約(SALT2)に調印。
◯西独、ナチスを含む殺人罪の時効を撤廃。
◯韓国釜山で反政府暴動。
◯朴大統領が暗殺される。
◯イランで学生が米大使館を占拠。
◯韓国、粛軍クーデター。
◯ソ連、アフガニスタンに侵攻。

◉国際石油資本が対日原油供給の削減を通告。(第2次石油ショック)
◉統一地方選挙で「地方の時代」のフレーズが氾濫。
◉第5回先進国首脳会議が、東京で開催。各国別の石油輸入抑制目標を決めた東京宣言。
◉第35回総選挙。自民248、社会107、公明57、共産39、民社35、新自ク4、社民連2、無所属19で、自民「安定多数」に届かず。
◉宮本共産党委員長が社会党の右傾化を批判。
◉飛鳥田社会党委員長、全野党共闘を維持しつつ社公中軸志向を表明。
◉竹入公明・佐々木民社の両委員長が中道政権構想協議会の発足を決定。
◉東条英機などA級戦犯14人が、ひそかに靖国神社に合祀されていたことが判明。
◉大蔵省が土地取得融資の自粛を金融機関に要請。
◉政府が省エネ運動。ノーネクタイを提唱。半袖スーツの省エネルックは売れず。

・この年に亡くなった人にはこんな人も…。大田黒元雄。保利茂。成田知巳。藤浦洸。近藤日出造。安藝ノ海節男。小畑実。蕗谷虹児。巌本真理。藤本真澄。大下弘。荒正人。中島健蔵。朝永振一郎。猪俣勝人。瀬田貞二。中野重治。竹鶴政孝。石田退三。椎名悦三郎。初代水谷八重子。平櫛 田中。初代引田天功。ニーノ・ロータ。朴正煕。

◎東京で第1回国際女子マラソン開催。(公式フルマラソン)
◎初の国公立大学共通1次試験実施。
◎奈良田原町で、太安万侶の墓誌が発見される。
◎江川卓が阪神入団の即日に小林繁とトレードで読売へ移籍。(コミッショナー要望)世論が沸騰する。(“江川る”の新語も)
◎ビル暖房は19度以下にするなど、石油消費削減対策を政府が発表。
◎ECの対日基本文書で「ウサギ小屋に住む働ききちがい」と日本人を表現していることが判明。
◎ガソリンスタンドも日曜祝日の全面休業。
◎環境庁のカラ出張が問題に、郵政省や総理府でも。
◎木曽の御岳山が初の噴火。
◎ソニーがヘッドフォンステレオ「ウオークマン」発売。
◎スギ花粉症患者が友の会を結成。
◎松下電子が真空管の製造を中止し、日本での生産はなくなる。(IC時代へ)
◎喫茶店のインベーダーゲームが全国で28万台
◎日本電気がパーソナルコンピュータPC8001を発売。?
◎滋賀県議会が琵琶湖富栄養化防止条例を可決。
◎ティッシュペーパーの生産量がチリ紙を上回る。

■流 行:天中殺・激写。
■テレビ:3年B組金八先生・必殺仕事人・西部警察・ズームイン!!朝!。
■邦 画:今村昌平/復讐するは我にあり・りんたろう/銀河鉄道999。
■洋 画:マイケル=チミノ/ディアハンター・フランシス=コッポラ/地獄の黙示録。
■ 歌 :渥美二郎/夢追い酒・ジュディ・オング/魅せられて・さだまさし/関白宣言・八代亜紀/舟唄西城秀樹/YOUNG MAN (Y.M.C.A.)・小林幸子/おもいで酒・サザンオールスターズ/いとしのエリー・甲斐バンド/HERO・海援隊/贈る言葉・松坂慶子/愛の水中花・沢田研二/カサブランカ・ダンディ・ゴダイゴ/銀河鉄道999・アリス/チャンピオン・千昌夫/北国の春・BORO/大阪で生まれた女・オフコース/愛を止めないで・円広志/夢想花・牧村三枝子/みちづれ・チューリップ/虹とスニーカーの頃・久保田早紀/異邦人。
■ 本 :加賀乙彦/宣告・五木寛之/四季=奈津子・和泉宗章/天中殺入門・エズラ=F=ヴォーゲル/ジャパン=アズ=ナンバーワン・講談社/昭和万葉集。
■ことば:ナウい・ダさい・ウサギ小屋。

❖年表の元ネタ主な参考資料河出書房新社『昭和・平成 家庭史年表』下川耿央・家庭総合研究会編。小学館『昭和・平成 現代史年表』神田文人編など。

dendenmushi.gif(2015/02/26 でんでんむし蛇足の記1979)
 今となっては正確な日付がわからないのだが、ある研究所を訪問してコモドールのPETと初めて出会ったのは、この前年1978年の秋頃だったろうか。一目見るなり、「これだ!」と思ったのは、デモ用に画面に描かれていた縦棒グラフに惹かれたのかもしれない。こんなことができる機械こそ、自分が中学生の頃からぼんやりと夢にみ、そろばん実務に音を上げながら待ち望んでいたものであり、これからのビジネス業務を大きく変えるのではないか。そう直感した。
 輸入品で当時のお金で80万円を超えていたので、とても個人では買えない。理由やらなにやら説明して、それをわかってもらうのはむずかしい。まして社内稟議して物品購入の手続きを踏んでいては、とても買えない。そこで一計を案じた。「とにかく、何も言わずに80万円わたしにください!」と社長に直訴したのだ。社長がえらいと思ったのは、ほんとうに何も言わず何も聞かず、それを承知してくれたことだ。
 そんなことが社長に言えたのも、この年から取締役の端くれに加えられ、役員会などなにかと社長と直接話ができる機会も増えていたからだ。
 コモドールのPET 2001の「PET」は、Personal Electronic Transactor(個人用電子実行機)の略で、パーソナルコンピュータとしては世界初のものとされている。カナダやアメリカの教育市場でよく売れたらしい。
 キーボードは四角いマス目になっていて、その横にカセットレコーダが組み込まれていて、モノクロディスプレイの黒い画面には40桁×25行でキャラクタが薄い青文字で表示。全体が鉄製のカバーですっぽりと覆われていて、まるで“白いダースベーダー”のような格好をしていた。
 OSは Commodore BASIC であったから、まずはBASICの勉強から始めなければならない。「トラ技」の定期購読者で、秋葉原へ行って部品を買ってきてテレビでピンポンゲームを作ったりしていた中学生の息子に、コマンドを教わりながら、創刊された「ASCCII」にまるまるその画面が掲載されていたプログラムを写しながら入力して、カセットテープに記憶させる。
 そんな作業を繰り返しながら、なんとか BASICによるプログラムづくりを覚えていった。
 コンピュータというものがぼつぼつ一般に意識されるようになってきた1979年はそのようにして始まり、初めてのコンピュータ入門書も出した。だが、この頃のコンピュータは、実際に触ったていた人はごく少数の専門家やマニアだけで、一般にはまだ単にお話だけの世界だった。
 この頃のBASICマシンには、コモドールだけでなくタンディ・ラジオシャック社のTRS-80やアップルのApple IIもあったのだが、たまたまPETから入ったのも、不思議な縁があった。東洋工業で広島カープの王シフトをコンピュータで計算したとW氏が書いた本で知っていたが、その人がカタカナを載せたPETを販売する会社を始めていたのだ。
 1978年から、日立のベーシックマスターやシャープのMZ-40Kという4ビットマイコンのトレーニングキットなど、BASICマシンは国産でもいくつか発売が始まっていたが、まだまだ一般には広がっていない。
 実は、「国産マイコン」としては、さらに遡ることができる。1976年には日本電気取締役だった大内淳義が書いた確か新書判スタイルの本が廣済堂から出ていて、一部ですごく売れて話題になったことがあった。それがTK-80という8080マイクロプロセッサのトレーニングキットの解説書だったのだが、このときにはBASICではなくマシン語だけで、マニアの間で売れただけだった。画面もなく、8つか6つくらいの数字が出る窓(まだ液晶ではなく赤く光る線)があるだけだった。
 その日本電気も、PETを買った1年後にあたる1978年の秋になって、8ビットのNEC PC8000を発売する。この頃になると、ずっと他社の動向をみて量産量販に自信がついたか、価格もずっと下がって定価は168,000円に設定されていた。
 最初にその言葉を使い始めたのは日立のベーシックマスターだったが、「パーソナルコンピュータ」という言いかたがぼつぼつ普及し始めたのもこの頃のことである。
 さて、それでなにができるか、となると、少ないメモリとBASICでは、たいしたことはできない。簡単なゲームを入力しては遊んでいるくらいだった。
 だが、これを何か仕事に役立てなくては、何も聞かず何も言わずに80万出してくれた社長にも申し訳がたたない。
 BASICで実用的なプログラムをつくることを目的とした本を企画して、お話から一歩も二歩も踏み込んだ内容の本をつくることにした。
 幸い防大の先生で、当時まだ少なかったBASICに詳しい人があったので、横須賀は走水の丘に訪ねては打合せを重ね、執筆してしてもらった。
 出版できたのは1980年になったが、これが日本では二番目のマイコンビジネス書となった。一番目になれなかったのは、その十日ほど前にマイコン入門の本が別の版元から出てしまったからだ。その本は、すぐに店頭では見なくなったが、「くわしくなる本」と銘打ったこちらの本は、大方の外野予想に反して増刷に次ぐ増刷を重ねた。
 BASICでの簡単なデータの入力、計算処理、出力、記録保存といった一連の事務的な処理ができるようにした基本プログラムがついているので、読者がこれを参考にして自分である程度実用的なプログラムができるようにしてあるのが、その後しばらく間を置いて続々出てくることになる、後続のありきたりの入門書とはちょっとひと味違うところだった。
 自分でも、この原稿をチェックする意味も兼ねて、住所録のデータベースプログラムをつくってみた。
 カタカナだけど、宛名の印刷もできるようにした。この頃定期購読で送られてくる雑誌の宛名は、カタカナだった。つまり、まだ漢字が使えなかったのだ。DMなども、カタカナで印字したラベルを貼り付けて出しているのが普通になっていた。
 年賀状は、PETでキー入力できるキャラクタだけを細かく並べて、アラレちゃんの顔を描いてつくった。宛名はもちろんカタカナでコンピュータにつくった住所録から印字。これ以降、毎年の年賀状では、その年ごとに新しく出た機種や機能やソフトなどを使って表現していたのだが、受け取るほうにはその意味がわからない。ヘンなヤツのヘンな賀状だと思われていたのだろう。
 この年に出した用語事典には「意味がわかる」というタイトルをつけた。これもタイトルとしてはまだどこにもないユニークなものだったが、別に奇をてらったわけでもなく、素朴にその本の用途・効用をそのまま表したつもりだった。
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タグ:年表
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