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1970☆『思い出の索引』★でんでんむし@アーカイブス☆わたしたちが生きてきた時代とは… [年表]

われわれはどこから来て、どこへ行こうとしているのだろうか…? 
 
2015年は「戦後70年」…。さまざまにやかましくにぎやかになりそうだが、
やはりそういうくくりでは、どのようにして戦争の道へ入っていったかが
またしても曖昧になってしまう。
 100年のまとめて通して理解すべきではないか。
この年表を始めたのは、そういう思いもあったからなのだが…。
 
1970mark.jpg昭和45年 庚戌(かのえいぬ)
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◯米中、ワルシャワ会談再開。
◯東西両独首相が初めて会談。西独が東独の承認を拒否。
◯米英仏ソ、ベルリン問題で11年ぶりに会談。
◯米軍、南ベトナム軍とともにカンボジアに侵攻。米国内で侵攻反対の反戦デモが激化。
◯米ワシントンで平和大集会開催。
◯英総選挙で保守党が勝利。ヒース内閣。
◯英、EC加盟交渉を開始。
◯チェコ共産党が、ドプチェク前第一書記を除名。
◯ブラジルとウルグアイで、都市ゲリラが西独大使、米大使館員を誘拐する事件が続発。
◯伊が中国との国交樹立を声明。
◯国連総会で中国代表権問題を表決。中国招請・国府追放のアルバニア案が過半数を得る。
◯ノーベル文学賞に、ソ連のソルジェニーツィン(「収容所群島」など)。

◯イスラエル機がスエズ地区を爆撃。カイロを無差別爆撃。
◯米、中東停戦四大国会議を提案。
◯アラブ連合とイスラエルが米提案を受諾。90日間の停戦。ニューヨークで和平協議開始。
◯米軍がベトナム北爆を再開。
◯カンボジア、シアヌーク殿下が王国民族連合政府の樹立を発表。
◯カンボジア、民族統一戦線がアンコールワットを占領。
◯ヨルダンで軍事政権、シリアが内線に介入。
◯アラブ連合、ナセル大統領が急死。サダトが後任。
◯ニクソン米大統領がインドシナ和平五項目を提案。北ベトナムは拒否。
◯カナダが中国と国交。国府はカナダと断交。
◯米軍がハノイ近郊の捕虜収容所で救出作戦。失敗。

◉第三次佐藤内閣。防衛庁長官に中曽根康弘。
◉繊維対米輸出自主規制。日米繊維交渉は決裂。
◉自動車の排気ガス(一酸化炭素)規制拡大を閣議で了承。
◉沖縄復帰準備委員会が発足。
◉日本万国博覧会が大阪千里丘陵で開催。77か国が参加、期間中に6421万人が入場の史上最高。
◉羽田発福岡行きの日航機よど号が、赤軍派にハイジャックされ金浦経由で平壌へ。
◉松村健三が中国周恩来首相と会見。
◉日米安保条約、自動延長へ。
◉佐藤首相を本部長とする中央公害対策本部が発足。
◉汚水排出の届出義務など河川法施行令の強化を閣議決定。
◉戦後初めて沖縄を含む国勢調査。人口1億466万人。
◉日中国交回復促進議員連盟、379人が参加して発足。
◉新華社通信が尖閣列島は中国領と報道。
◉沖縄コザ市でMPの交通事故処理に怒る市民5000人が米憲兵隊と衝突。
◉愛知外相が米石油会社の尖閣列島油田調査に国民政府が許可したことに抗議したと答弁。
◉公害対策基本法、“経済との調和”条項を削除して成立。

・この年に亡くなった人にはこんな人も…。榎本健一。2世花柳壽輔。円谷英二。鈴木茂三郎。小桜葉子。岡晴夫。内田吐夢。西條八十。月形龍之介。川島正次郎。大宅壮一。三島由紀夫。2代目桐竹紋十郎。バートランド・ラッセル。ジミ・ヘンドリックス。ジャニス・ジョプリン。シャルル・ド・ゴール。

◎東大宇宙航空研究所、ラムダ4S型5号機の打ち上げに成功。「おおすみ」と命名される初の人工衛星。
◎山陽新幹線の六甲トンネル(16250m、日本最長、世界3位)の開通式。
◎銀座・新宿・浅草・池袋で歩行者天国の試行。
◎八幡製鉄と富士製鉄が合併し、新日本製鐵に。
◎三島由紀夫が盾の会と市ヶ谷の陸上自衛隊総監部でクーデターをアジって割腹自殺。
◎都心の主要交差点でスクランブル方式採用。
◎シャープが液晶LSIの電卓を発売。この年、電卓の生産100万台突破。
◎政府が日本の呼称を「ニッポン」に統一。
◎大阪天六の地下鉄工事現場でガス爆発。79人死亡。
◎米の生産調整開始。150万トンを減産。
◎学校給食に米飯提供の実験を開始。
◎交通事故死者が1万6765人で史上最悪を記録。1日平均で死者49.5人。
◎住宅ローン緩和、住宅金融専門会社も。金融公庫は民間マンションにも適用。
◎東京晴海で初の住宅産業展「グッドリビングショー」開催。
◎建設省第1回の地価公示価格発表。全国最高は銀座と新宿東口の1平方m220万円。

◎米ぬか油中毒事件でカネミ社長らを福岡地検が起訴。
◎東京都が光化学スモッグ警戒発令体制。
◎厚生省がスモン病発病の疑いでキノホルムの使用と販売中止を通達。
◎チッソの株主総会で一株株主が企業の責任を追及し混乱。
◎静岡県田子の浦港でヘドロ追放の住民大会。
◎家永教科書裁判で東京地裁が教科書検定は教育への国の不当介入で違憲と判断。
◎藤原弘達の「創価学会を斬る」への創価学会による出版妨害表面化。
◎公明党、出版妨害事件を受けて政教分離を決定。
◎ケンタッキー・フライドチキン、万博で日本初登場。
◎東京で唯一の畳敷き寄席末広亭が経営難で閉場。
◎「あしたのジョー」主人公の死を悼む読者からの投書が多数。講談社で追悼式。
◎NHKのテレビ契約者が2200万突破。うち400万弱がカラー契約。
◎国鉄が「ディスカバー・ジャパン」の観光キャンペーン。
◎キヤノンが初めてとなる普通紙コピーPPC複写機を発売。
◎三和銀行が、預金の受入・払出できる現金預け払い機を設置。

◎「anan」「non・no」が創刊。アンノン族。

■流 行:SLブーム・ちり紙交換屋・自然食。
■テレビ:樅の木は残った・時間ですよ・日本史探訪・細うで繁盛記。
■邦 画:山本薩夫/戦争と人間・山田洋次/家族。
■洋 画:イージーライダー・明日に向かって撃て。
■ 歌 :菅原洋一/今日でお別れ・藤圭子/圭子の夢は夜ひらく・ザ・ドリフターズ/ドリフのズントコ節・由紀さおり/手紙・・ベッツィ&クリス/白い色は恋人の色・ちあきなおみ/四つのお願い・いしだあゆみ/あなたならどうする・渚ゆう子/京都の恋・ヒデとロザンナ/愛は傷つきやすく・トワ・エ・モワ/空よ/誰もいない海・岸洋子/希望・和田アキ子/笑って許して・長谷川きよし/別れのサンバ・ソルティー・シュガー/走れコウタロー・加藤登紀子/知床旅情。
■ 本 :イザヤベンダサン/日本人とユダヤ人・塩月弥栄子/冠婚葬祭入門・石牟礼道子/苦海浄土。
■ことば:ハイジャック・ウーマンリブ・ヘドロ・鼻血ブー・スキンシップ。

❖年表の元ネタ主な参考資料三省堂『コンサイス世界年表』三省堂編修所編。河出書房新社『昭和・平成 家庭史年表』下川耿央・家庭総合研究会編。小学館『昭和・平成 現代史年表』神田文人編など。

dendenmushi.gif(2015/01/21 でんでんむし蛇足の記)
 築地のはずれのビルにあった東京事務所への通勤は、越谷からだと日比谷線の築地で降りればすぐだった。しかし、横須賀線で通勤となると、新橋で乗り換えて有楽町から歩かないといけない。会社の規定では地下鉄は通勤費が出ないのである。銀座通りと昭和通りを横切って、築地二丁目から築地橋まで往復2.5キロくらいを毎日歩いて通っていた。
 その当時はまだ築地橋の通りには、晴海通りの京橋郵便局の前から水天宮行きの都電が走っていて、前々年には爆破事件があった横須賀線も当然現在のように地下ではなく、一部で東海道線と同じ線路を分け合いながら地上を走っていた。
 当初の住居地選定のもくろみ通り、座って通勤できるので本も読めてよかったのだが、車内禁煙でもなくご丁寧に座席の壁側には吸い殻入れまでついていたので、混雑にも構わずに煙を盛大に吐き出す人も多かった。
 当時定期購読していた「暮しの手帖」が、70年4月刊行の「2世紀5号」に「たばこをのみはじめた息子に与える手紙」という特集記事を掲載した。これは、喫煙の健康被害をデータで示していたが、同時に受動喫煙の害にふれた初めての一般的な記事だったのではないかと思ったが、ほかにもあって知らなかっただけだろう。
 当時、小さな所帯だった東京では、みんな一部屋に集まっていて、一日中たばこの煙にいぶされていてくんせいにになっているタラのようだったので、この記事をコピーして社内に回覧した。なにしろ、家に帰って風呂に入るとき下着に染みこんだニオイがものすごかった。
 あまり感心した用語とは思えないが、「嫌煙権」という言葉が使われ始めるのは、このときからまだ8年も後のことになる。
 築地には電通もあって有名なうなぎ屋もあって、ごくたまにそこへ行くと、それらしい人がいたりした。銀座を横切って通う通勤路は、ただ通り過ぎるだけだったが、それでもいろいろ観察するのがおもしろい。
 後にApple Store Ginza ができるサエグサビルの裏には、文祥堂のショウウィンドウがあった。おそらくそこでも見ていたような気もするのだが、この頃タイプライターで遊んでいた。英語はダメだからカナタイプである。
 おそらく、イタリアの本社はその当時経営の苦境にあったはずなので、日本法人のオリジナル企画だったのかも知れないが、オリベッティのolivetti Lettera32というものである。英文タイプのこの型は1963年に発売されていたが、カタカナで使いたいというニーズは、そう多くはなかったはずであろう。日本人でもこんなものを買うのは、よほどヘンである。
 タイプライターで原稿を書くというのに憧れていたというだけで、これを買ってしまった。電動ではない旧式の手動なので、下手に早く打とうとするとアームがからまってしまうヤツである。もちろん、なんの実用にもならなかったが、タイプを打つという体験はできた。この機械はデザインが洒落ていて、スタイルとして完成していると思った。
 今でも、そこらに置いとけばインテリアになるくらいのものだが、未だにそういうのが似合う住環境にないので、ケースに入ってホコリをかむっている。
 実用になっていた日本語のタイプと言えば、邦文タイプがあった。その発明者・杉本京太が亡くなるのは、この翌年になる。そういえば、中央線が万世橋の上を過ぎるとき、いつも向かいのビルの窓に「和文タイプ」の看板文字があったが、あれはタイピスト学校だったのだろう。邦文タイプは、大企業の社長室や秘書室の近くにあって専門の技能を持ったタイピストが、要するに文書の清書をする役割を担っていた。
 東京事務所は東京支社になって、築地から三崎町へ引っ越すことになった。やっと、ビルの1階に倉庫と出荷と返品受入の作業場が持てることになったが、商品管理・総務経理はもうお役ご免になってしまっていて、税法法令集を手伝いながら霞ヶ関回りをしたり、耐用年数表の単行本を手がけたりしていた。
 新しい通勤経路は、東京駅で横須賀線から中央線に乗り換え、お茶の水から総武線で水道橋まで行く。その頃も横須賀線は東京駅の13番線だったかどうか、はっきり覚えていないのだが、松本清張がトリックに使った時よりははるかに列車の本数も増え、もうホーム越しに15番線の「あさかぜ」を見ることもできなくなっていたのではないか。
 大阪の万博にも、全社員が行くことになっていた。ところが、その頃はまだ体調が戻らず、横須賀線の電車に乗っていることができなくなってしまう。戸塚くらいまでが限界で、心臓があえぐようにどきどきして、気分が悪くなる。とても満員の車内に座っていられなくなり、途中で降りてしまうようなことがしばしばだった。退院後日赤で診てもらうと胆嚢炎ではないという。倒れた病因はよくわからないままだったが、自律神経失調だろうといわれていた。
 そんな状況で、万博へ行くというその当日も、横須賀線で横浜まで行けないで降りてしまい、万博には行けなかった。こうして、大阪の万博に行っていない数少ない?日本人の一人となった。
 水道橋には、少年画報社や秋田書店、それに線路の向こうには芳文社があった。「少年画報」には、忘れられない思い出もある。こどもの頃、盆と正月に入るこずかいでこの雑誌を買っていたのは、付録がおもしろいのが多かったからで、法隆寺のパノラマなどをつくっていたのをよく覚えていた。
 ご近所さんともいえたあちらはみなマンガ雑誌が受けに入っていて大儲け、こちらはあいかわらず地道に赤字を積みあげているという状態で、同じ出版社とはいええらい違いだった。(ところが、さしものマンガブームにも陰りが見えはじめており、「少年画報」はこの翌年には休刊となってしまうが…。)
 だが、もともと出版という世界は格差世界なのである。この年、山本書店という小さな個人出版社が出した本が、あれよあれよという間に数百万部のベストセラーになっていく。そんな意味では、この格差はあっという間に逆転できるくらいの格差とも言えるが、それはほんの一時のことに過ぎないので、少々のことでは格差は変わらない。
 そんな世界で同じ編集者といっても、まさにさまざまでピンからキリまで…というのはちょっと当たらないのだが…。
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タグ:年表
きた!みた!印(32)  コメント(2)  トラックバック(0) 

きた!みた!印 32

コメント 2

右左あんつぁん

この年こそが、戦後の日本が栄華を極めた年であったと思います。
by 右左あんつぁん (2015-01-23 14:49) 

dendenmushi

@そういうことになるんでしょうかね。個人的な実感は、もう少し後になるんですけど…。
by dendenmushi (2015-01-24 04:20) 

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