SSブログ

1968☆『思い出の索引』★でんでんむし@アーカイブス☆わたしたちが生きてきた時代とは… [年表]

われわれはどこから来て、どこへ行こうとしているのだろうか…? 
 
2015年は「戦後70年」…。さまざまにやかましくにぎやかになりそうだが、
やはりそういうくくりでは、どのようにして戦争の道へ入っていったかが
またしても曖昧になってしまう。
 100年のまとめて通して理解すべきではないか。
この年表を始めたのは、そういう思いもあったからなのだが…。
 
1968mark.jpg昭和43年 戊申(つちのえさる)
_------.jpg

◯チェコ、ノボトニー大統領が辞任、後任にスボボダ。
◯米、ウエストモーランド南ベトナム援助軍司令官を解任。
◯米ジョンソン大統領が大統領選不出馬と北爆の一方的停止を発表。
◯国人指導者キング牧師がメンフィスで暗殺される。各地で暴動。
◯仏、パリで学生デモが激化。凱旋門を占拠。ゼネストも。
◯北ベトナムと米のパリ会談始まる。
◯チェコ領内にソ連軍戦車部隊が侵入。東欧5か国軍も参加。
◯米、ロバート・ケネディ上院議員がロサンゼルスで暗殺。
◯米、ワシントンに黒人貧者の行進10万人集会。
◯チェコ、ドプチェク第一書記が自由化の一時的制限を発表。
◯米オリンピック委員会が表彰式で抗議の意思を示した黒人2選手を追放。

◯北朝鮮が米情報収集鑑プエブロ号の捕獲を公表。
◯南ベトナム、ソンミ村で米軍による虐殺事件。
◯イスラエル軍がヨルダン領に侵入。緊急安保理開催。
◯南ベトナム、民族解放戦線がサイゴンに猛攻撃。
◯イラクで無血クーデター。
◯イランで大地震。1万人が死亡。
◯中国共産党が、劉少奇国家主席を除名。
◯第1回の拡大パリ和平会談が南ベトナム政府の出席拒否で延期。
◯イスラエル遊撃隊がベイルート空港を奇襲。

◉原子力空母エンタープライズが佐世保に入港。今後の継続入港を認めると政府統一見解。
◉アンガー沖縄高等弁務官が行政主席の直接公選制を認めると言明。
◉倉石農相が現行憲法は他力本願で軍艦や大砲が必要と発言。
◉成田空港建設に反対する農民・学生が警官隊と大衝突。
◉米と小笠原返還協定に調印。小笠原の施政権が返還され東京都に帰属。
◉反日共系学生が東大の安田講堂を占拠。警官隊との攻防。
◉第8回参議院選挙でタレント議員(石原慎太郎・青島幸男・今東光ら)が多数当選。
◉文部省が学指導要領を改定。神話教育も復活。
◉日大紛争で大衆断交。会頭が辞職を表明。
◉東大のストが拡大、全学ストへ。
◉国際反戦統一行動デーに総評・中立労連が実力行使。新宿駅西口広場を学生デモが占拠。(騒乱罪を適用)
◉明治百年の記念式典。
◉最高裁が八海事件の4被告に無罪判決。
◉全共闘系と民青系の両派学生が東大で集会デモ、
◉自民党臨時党大会で佐藤総裁を三選。改造佐藤内閣。
◉日本のGNPが西独を抜いて自由主義圏第2位。
◉いざなぎ景気。

・この年に亡くなった人にはこんな人も…。円谷幸吉。奥野信太郎。柳家三亀松。藤田嗣治。万城目正。子母澤寛。広津和郎。村岡花子。中村天風。佐藤千夜子。マーティン・ルーサー・キング。ヘレン・ケラー。バージニア・リー・バートン。ジョン・スタインベック。

◎金嬉老がライフル銃をもって静岡県寸又峡温泉で籠城。
◎東名高速道路の一部開通。
◎富山県のイタイイタイ病は神岡鉱業所による公害と厚生省が発表。
◎郵便番号制度と交通反則通告制度が始まる。
◎和田札幌医大教授が心臓移植手術。
◎水俣病の原因は新日本窒素水俣工場の排水と厚生省が断定。
◎川端康成がノーベル文学賞を受賞。
◎府中市で現金輸送車の3億円が、白バイ警官を装う犯人に強奪される。
◎大塚食品が初のレトルト食品「ボンカレー」を発売。
◎福岡・カネミ倉庫の米ぬか油による中毒事件。熱媒体のPCBが原因で死者28人。
◎東京都千代田区に36階147メートルの霞ヶ関ビル完成。初の超高層ビル。
◎北海道十勝沖でM7.8の地震。死者30人、被災家屋3000余戸。
◎神奈川県横須賀市の自衛隊少年工科学校内の人工池で、渡河訓練中の生徒13人が死亡。
◎兵庫県有馬温泉の観光旅館「池之坊満月城」で火災、死者30人。違法建築で問題に。

■流 行:パンティ=ストッキング。
■テレビ:夜のヒットスタジオ・連想ゲーム・巨人の星。
■邦 画:熊井啓/黒部の太陽・岡本喜八/肉弾・今村昌平/神々の深き欲望。
■洋 画:フランクリン・J・シャフナー/猿の惑星・スタンリー・キューブリック/2001年宇宙の旅・アーサー・ペン/俺たちに明日はない・マイク・ニコルズ/卒業。
■ 歌 :千昌夫/星影のワルツ・ピンキーとキラーズ/恋の季節・鶴岡雅義と東京ロマンチカ/小樽のひとよ・ザ・タイガース/花の首飾り・ザ・テンプターズ/エメラルドの伝説・伊東ゆかり/恋のしずく・青江三奈/伊勢佐木町ブルース・ヒデとロザンナ/愛の奇跡・小川知子/ゆうべの秘密・島倉千代子/愛のさざなみ・黛ジュン/天使の誘惑・森進一/盛り場ブルース・都はるみ/好きになった人・ロス・プリモス/たそがれの銀座・いしだあゆみ/ブルーライトヨコハマ・高石友也/受験生ブルース。
■ 本 :司馬遼太郎/竜馬がゆく・羽仁五郎/都市の論理。
■ことば:昭和元禄・ハレンチ・サイケ・ノンポリ・タレント候補。

❖年表の元ネタ主な参考資料三省堂『コンサイス世界年表』三省堂編修所編。河出書房新社『昭和・平成 家庭史年表』下川耿央・家庭総合研究会編。小学館『昭和・平成 現代史年表』神田文人編など。

dendenmushi.gif(2015/01/09 でんでんむし蛇足の記)
 東京への転勤命令が出たのは、総務・経理関係の雑誌編集から販売・マーケティング関係の雑誌編集に異動して、1年も経たない急なものだったが、この年から本格的に東京進出体制が具体化し始めたからであったろう。
 東京事務所では、雑誌の連載記事を集めた単行本などの出版も始めてはいたが、そのてこ入れに本社から編集長が異動することになり、それと同時での転勤であったが、でんでんむしの役目は単行本ではなくて、3つある雑誌編集部全体の東京駐在員としてであった。
 昔とはずいぶん違ってきたなと思うことはたくさんあるが、なかでも荷物の配送は身近なだけに顕著に感じられる。それまで、東京へ行ったり、また広島へ帰ったりするときには、チッキという手荷物と貨物の中間のような扱いで切符を買って手続きをしなければならなかった。荷造りも自分でしなければならず、たいへんやっかいなものだった。
 東京転勤に際しては、東京事務所が借家を探してくれて、そこへは日通のトラックで荷物を運び、新幹線で移動して上野かどこかの旅館で一晩過ごし、翌朝現地へ行ってトラックが着くのを待った。まだ、引越便などというものはなく、日通にもそんな意識はなかった。
 新しい住家は、埼玉県の越谷であった。当時の東京事務所が築地にあったので、日比谷線が東武線北越谷まで乗り入れを始めていたこの沿線は、通勤に便利だったのだ。だが、ここでまた大阪の京阪電車に輪をかけたような通勤ラッシュをイヤというほど味わうことになった。とくに北千住から上野の間が最高にひどかった。この当時の日比谷線の車両は、銀色に光るジュラルミンのような金属板にラインが入った角の丸い車体だった。
 越谷は今ではマンションもたくさん建っているが、その頃にはまだまだ田圃や畑も多く残っていて、その間を水路が縦横に走っていて、漁業組合まであった“水郷”だった。そういえば聞こえはいいが、門真に続いて会社が選んだ場所は、鬼門ではなかろうがまたしても低湿地帯だったわけで、家は小さいがいちおうは一戸建てで、広い敷地の農家が母屋の裏に4戸並べて建てた貸家であった。そこから東武線の駅までは、雨でも降ろうものなら長靴なしではとうてい歩けないような道を15分くらいも歩いただろうか。
 大阪から東京へ転勤になるというときに、ひとつの決断をした。もうまた大阪へ帰ることもないだろう。どこか腰を据える場所を探したほうがよさそうだ。
 関東平野のなかにある越谷の家では、夏などは朝の4時にはもう朝日が差し込む。平野のない広島育ちには、どうにも落ち着かない。やっぱり、住むなら川や海があって、山もそばにあるところがいい。いくつか分譲地なども見て回ったが、結局最終的に関東の地図を見ながら選んだのが、横須賀線が走っている三浦半島周辺だった。他の私鉄沿線と違って、ここはもう先に開発の余地がないので、通勤電車で座れなくなるということはなかろう。
 広島の土地を売っても、首都圏ではその何分の一かの土地しか手に入らないが、なんとか土地を買い、銀行から借金をして翌年には自分で設計して小さな家を建てた。
 住宅ローンや大型の分譲地開発や住宅展示場なども、まだ本格的に始まるちょっと前だった。
 東京駐在員の仕事は、さほど忙しいことはなかったが、週に3晩は市ヶ谷にあったエディター・スクールの夜間講座に通い、そこでの内容を毎月本社に帰って、編集部の若手たちに伝えるという任務もあった。
 出版界ではときどき、やたらむずかしくてごつくて価格も高い本、あまり一般的とは思えないような本がバカ売れすることがある。新しいところでは2014年末から話題のトマ・ピケティの「21世紀の資本」がそうだ。ちょっと遡れば、一見してあまりいいタイトルとは思えなかったジャレド・ダイアモンドの「銃・病原菌・鉄」があり、もっと前にはダグラス・ホフスタッターの「ゲーデル、エッシャー、バッハ - あるいは不思議の環」などがある。この年の羽仁五郎の「都市の論理」もまあそうだったと言えるだろうか。
 もう何度も書いたような記憶もあるが、スタンリー・キューブリック監督の「2001年宇宙の旅」が初公開されたのもこの年で、やっぱりこれは1968年の忘れられないできごとだったので、重複してもここで書いておかないわけにはいかない。
 この頃、東京事務所では細々とやっていた単行本の編集出版を担当する部門を兼ねていたので、納品や返品の処理をする業務があった。細々やっていても返品は膨大で、毎月その再生作業を総動員でやっていた。組織的には、いちおう別であるが同じ部屋にいる雑誌編集部所属の自分も、当然それを手伝う。
 この再生作業の終わった後で、部署のレクリエーションとして映画鑑賞に行くというので、その幹事役に、「それならこれ、これ観に行こうよ!」と強力にプッシュしておいた。みんなで行かなくても一人でも行けたのだが、なにかそのときは自分の興奮をみんなにも分けたい、という気持ちが強かった。
 根回しが功を奏して、作業後にテアトル東京(銀座一丁目の高速道路脇にあった)の大画面で公開されたばかりのこの映画を観に行った。ところが、広い映画館内は客の入りも悪くがらがらで、連れて行った連中も、作業の疲れから途中からほとんどが居眠りをしはじめる始末。
 後でも、「ああ、なんかお猿さんがたくさんでてましたねえ」「よく眠れました」というような案配で、すこぶるその評判はよくなかった。
 でんでんむしはひとり感動して、いよいよこういう映画が現われるようになったかと、アーサー・クラークの作品を思いながら感慨にひたっていた。とくに、お猿さんが空へ投げ上げた骨がくるくるとまわると、宇宙を行くパンナムのシャトルに切り替わって、「美しく青きドナウ」が流れてくる…。スローテンポでワルツを踊るステーションにシャトルが向かう。その音楽と映像の融合に一大エポックをつくった名場面では、胸が震えたものだ。
 この年のロードショウは興行的には惨敗で、早々に打ち切りとなってしまったが、年末の「キネマ旬報」の年間ベストでは、第1位に上げられていた。しかし、この映画が、広く一般に支持を広げるのは、10年後のリバイバル上映で行列ができるまで待たなければならなかった。
 すっかりその陰になってしまったが、SFファンとしては「猿の惑星」にも、注目しておかなければならないのだが…。
_----.jpg
タグ:年表
きた!みた!印(29)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:地域

きた!みた!印 29

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:[必須]
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

トラックバックの受付は締め切りました