SSブログ

1967☆『思い出の索引』★でんでんむし@アーカイブス☆わたしたちが生きてきた時代とは… [年表]

われわれはどこから来て、どこへ行こうとしているのだろうか…? 
 
2015年は「戦後70年」…。さまざまにやかましくにぎやかになりそうだが、
やはりそういうくくりでは、どのようにして戦争の道へ入っていったかが
またしても曖昧になってしまう。
 100年のまとめて通して理解すべきではないか。
この年表を始めたのは、そういう思いもあったからなのだが…。
 
1967mark.jpg昭和42年 丁未(ひのとひつじ)
_------.jpg

◯ベトナム参戦の米軍は47万3000と国防総省が発表。
◯英ソ両国首脳が、ベトナム和平への道は北爆の停止が先決との見解で一致。
◯ギリシャ陸軍のクーデターで軍事政権。
◯英、EEC加盟申請を発表。
◯米、デトロイト市で最大の黒人暴動が発生。非常事態宣言、連邦政府軍派遣、各地に波及。
◯米、ワシントンで反戦集会に10万人参加。デモ隊が国防省前に座り込む。
◯米、マクナマラ国防長官が辞任。

◯北京で反ソデモ。モスクワで中国外交官暴行事件。
◯インドネシア国会がスカルノ解任決議。スカルノはスハルトに全権委譲。
◯上海市、北京市に革命委員会。
◯米軍・南ベトナム政府連合軍が非武装地帯南半部に侵攻。
◯アラブ連合ナセル大統領がアカバ湾の封鎖を発表。
◯アラブ諸国とイスラエルが開戦。中東動乱始まる。
◯アラブ連合がスエズ運河を封鎖。イスラエルはガザを占領。シナイ半島を攻略。
◯ソ連がイスラエルと国交断絶。
◯香港で反英デモ。越境乱入。英政庁が香港国境を閉鎖。
◯北京の英大使館にデモ隊が放火。
◯南ベトナム大統領にグエン・バン・チュウ、副大統領にグエン・カオキ。

◉第二次佐藤内閣。
◉日本航空が世界一周線の営業開始。
◉青年医師連合がインターン制度に反対して医師試験をボイコット。
◉東大宇宙航空研の人工衛星第1号ロケット打ち上げに失敗。
◉東京都知事に、社共推薦の美濃部亮吉が当選。
◉閣議で資本取引自由化の基本方針を決定。
◉佐藤首相が韓国の朴正熙大統領の就任式典に出席。
◉佐藤首相の南ベトナムを含む東南アジア歴訪に反対する学生デモが羽田で警官隊と衝突。学生一人死亡。(第1次羽田事件)
◉吉田茂の死。戦後初の国葬。
◉沖縄那覇で沖縄即時無条件返還要求県民大会開く。
◉佐藤首相の米訪問で全学連が抗議デモ。(第2次羽田事件)
◉日米共同声明、沖縄返還は時期を明示せず、小笠原の1年以内の返還。

・この年に亡くなった人にはこんな人も…。広川弘禅。鮎川義介。山本周五郎。柳原白蓮。窪田空穂。轟夕起子。山下太郎。壺井栄。新村出。吉田茂。笠信太郎。ラダ・ビノード・パール。ロバート・オッペンハイマー。コンラート・アデナウアー。アーサー・ランサム。ヴィヴィアン・リー。ジョン・コルトレーン。ルネ・マグリット。ヒューゴー・ガーンズバック。チェ・ゲバラ。愛新覚羅溥儀。ジュリアン・デュヴィヴィエ。オーティス・レディング。

◎東洋工業が初のロータリーエンジンのマツダコスモスポーツを発表。
◎自動車保有台数が1000万台を突破。
◎新宿駅構内で米軍タンク車と貨車が衝突。国電1100本が運休。
◎国鉄上越線の新清水トンネル開通。
◎残っていた都電の銀座線など9路線が廃止に。これにより荒川線(三ノ輪=早稲田)のみが残る。
◎テレビ受信契約者数が2000万台を突破。普及率は83.1%。
◎果汁なしのレモン飲料、乳分の少ないコーヒー牛乳など「うそつき食品」が問題化。
◎タカラがリカちゃん人形を発売。
◎西日本各地で豪雨被害。死者行方不明者371人。
◎手塚治虫の「火の鳥」が「COM」で連載開始。
◎新潟北部と山形・福島で豪雨被害。死者行方不明者146人。
◎東京新宿にフーテン族。これに続いて、アングラ族やヒッピー族も。
◎TBSが日本の放送局で初の北ベトナム取材のドキュメンタリー番組「ハノイ=田英夫の証言」を放送。政府・自民党が問題化して、田はTBSを退社。
◎四日市ぜんそく患者9人が石油コンビナート6社を相手取って提訴。初の大気汚染公害訴訟。

■流 行:グループサウンズ(GS)・ミニスカート・占星術。
■テレビ:ハノイ=田英夫の証言・スパイ大作戦。
■邦 画:小林正樹/上意討ち・岡本喜八/日本のいちばん長い日・大怪獣空中戦 ガメラ対ギャオス。
■洋 画:セルジオ・レオーネ/夕陽のガンマン・ジッロ=ポンテコルヴォ/アルジェの戦い・ノーマン=ジュイソン/夜の大捜査線。
■ 歌 :ザ・タイガース/僕のマリー・ジャッキー吉川とブルーコメッツ/ブルー=シャトー/ザ・ピーナッツ=恋のフーガ・美空ひばり/真赤な太陽・佐良直美/世界は二人のために・森山良子/この広い野原いっぱい・ダーク=ダックス/銀色の道・中村晃子/虹色の湖・伊東ゆかり/小指の想い出・ザ=フォーク=クルセダーズ/帰ってきたヨッパライ。
■ 本 :大江健三郎/万延元年のフットボール・有吉佐和子/華岡青洲の妻・多湖輝/頭の体操・宮崎康平/まぼろしの邪馬台国。
■ことば:フーテン・アングラ。

❖年表の元ネタ主な参考資料三省堂『コンサイス世界年表』三省堂編修所編。河出書房新社『昭和・平成 家庭史年表』下川耿央・家庭総合研究会編。小学館『昭和・平成 現代史年表』神田文人編など。

dendenmushi.gif(2015/01/03 でんでんむし蛇足の記)
 この年表をつくり始めた動機には、だんだんあやふやになる記憶を整理しておこうというのもあった。印刷所のことを書いておかなければと思って、雑誌編集部での仕事の内容を思い起こそうとしても、西成区の教科書会社に印刷を依頼していたその頃の出張校正の実態がどうだったのか、全部やっていたのか担当記事だけだったのかどうもぼやけていてはっきりしない。
 広島では広島でいちばん大きな印刷所で印刷をやっていて、その最後の下版までをチェックするのも自分の仕事だった。その当時は雑誌一号分にまるまる全部最終的に眼を通して印刷に回していた。発行日を厳守しなければならない雑誌では、この出張校正がすべての編集作業の最後のまとめになる。
 この時代の印刷は活版印刷が主流で、簡単に言うと鉛の活字を原稿に従って一字一字拾って、それを本の形にまとめ一ページごとに版に組み上げ、その版を機械に載せ、インクをつけて紙をその上に通して印刷するというしくみになっていた。
 今では、社外の人間が印刷所の工場現場に入ることも許されないということもありそうだが、当時は編集者と印刷所の現場担当者とは直接やりとりをしていた。工場長だとか職長だとか各現場の担当者のところへ行っては、指示や確認をするから、だんだん顔見知りになり、親しくなる。工場で印刷の進行を見守るのも、たいへんおもしろかった。
 そうした現場には、年季を積んだ職人さんたくさんいて、たまに「ここおかしいんじゃ…」と、若い編集者に控えめに教えてくれる人もいた。
 いったん下阪して印刷を始めている刷り出しを見ていて、そこで重大なミスを発見したりすると、文選の現場に飛んで行って活字をもらい、印刷機のところにとって返すと「すみません!」と機械を止めてもらい、版を緩めて活字を入れ替えてもらう、というような芸当もやっていた。
 広島で雑誌を印刷していた頃の工場長が、ぜひ工場を見に来いとわざわざ特別に呼んでくれたことがあった。それはドイツから最新鋭の印刷機が搬入されて、向こうから技術者が来て運転を始めたときのことだった。広島では初めてだと得意そうなうれしそうな、工場長の顔が今も浮かんでくる。
 それが活版輪転機ではなかったかと思えるのだが、このあたりの記憶はマダラボケではっきりしない。その大きな印刷機には「HEIDELBERG」の文字が、これ見よがしに光っていたものだった。
 活版印刷も活字に直にインクをつけて印刷する方式から、紙型と鉛版をとって輪転機にかけるようになったり、印刷機もどんどん進歩していく。しかし、いわばハンコにインクをつけて、それを紙に押しつけるという印刷方式で、グーテンベルグ以来その基本が変わることなく、長い間世界中で使われてきた。印刷=活字というイメージはかなり広く定着していたのである。
 初めて印刷所の中に足を踏み入れたのは、中学生の頃だったが、薄暗くてなにか油のようなものが染みこんだ板の床にスリッパに履き替えて上がると、鈍く光る小さな活字が収まった小箱が、斜めになった棚にぎっしりずらっと並んでいて、裸電球がぶら下がっている。その間を小さな箱と折りたたんだ原稿らしい紙を見ながら、文選工と呼ばれていた人たちが活字を拾って行ったり来たりしている。
 活字は字母といわれる雌型に、鉛を鋳込んでつくられている。本文用の小さな活字は、常に新しいものが鋳込み直されて供給されるが、大きい活字は印刷後版を解いて、また活字棚に戻されている。
 その棚に隣り合う作業台が植字(ちょくじ・しょくじ)工の領分で、文選が拾ってきた活字を、編集者が指定した割付レイアウトにしたがってページに組んでいく。作業者ごとに小さなブースが棚に仕切られていて、木の腰掛け椅子に小さな座布団などを敷いている人もいる。大小さまざまのインテル(詰め物)に囲まれたそこに座って、1ページごとに組むと、それを糸でぐるぐる巻いて木のお盆のような箱に載せる。これが“ゲラ”といわれるもので、それにインクをつけて刷りだしたものをゲラ(校正刷り)と呼ぶようになった。
 最初の広島の映画団体機関紙をやっていたときには、現場の人がやってみろと言ってくれたので、自分で活字をページに組む作業をやってみようとしたことがある。本や雑誌の活字を読んでいる人が、その活字と活字の間の空間を意識することは、まずないだろう。だが、その空白部分には、活版の場合には何十種類というさまざまな大きさのインテルが、ぎっしりと隙間なく組み合わせられ埋め込まれている。
 これをきっちり組み上げることができるのは緻密な計算があってのことで、シロウトが見よう見まねでやってみてもうまくいかないことがよくわかった。
 印刷にしても、ただ機械がやるというようなものでなく、非常に細かな職人技が、印刷工程の至るところに積み重ねられていて、そこにも確かなプロの技が息づいていた。きれいな印刷に仕上げるには、たとえば印圧やインキのかすれなどを調整するために、小さな紙片をローラーに貼り付けたりもしていた。
 今現在、そうした活版印刷の現場は、実稼働設備としてはほぼ存在していない。あるとしたら、せいぜい大手印刷会社の歴史的・博物的保管としてその一部があるくらいだろう。大きな流れとして、このあと急速に進行する電算化とオフセット印刷への移行によって、活版は姿を消してしまうからだ。
 活字の現場がなくなってしまったのは、ひとつには活字やインテルという鉛を扱う作業が、人体に有害として規制ができたことがあるが、やはり技術の歴史的な変遷によるところが大きい。そのなかで、でんでんむしには忘れられない機械がある。正式な名前があったのかどうかも知らないが、自動鋳造文選機とでもいうべきその人間大のロボットのような機械があったが、それが活躍した時期は非常に短かったように思う。
  原稿データを入力した鑽孔テープをこれに連動させ、原稿の並びにしたがって逐次活字を鋳造して並べて打ち出していくのである。それは、活版からオフへの移行の谷間に咲いて、すぐに絶滅してしまう花のようであった。
_----.jpg
タグ:年表
きた!みた!印(29)  コメント(2)  トラックバック(0) 
共通テーマ:地域

きた!みた!印 29

コメント 2

えんや

想い出します、ベトナム戦争反対、沖縄を返せ、、、美濃部都知事誕生、
、、、、生生しい田英夫さんの報告、、、。
いろんな意味で日本は活気がありましたね、、、特に若い人々には、、、。
by えんや (2015-01-04 15:17) 

dendenmushi

@えんや さん、そうですねえ、なんかこの頃はまだ日本人の多くにとって、ベトナム戦争は遠ーい国のできごとでしかなかったんですよね。
それにおやっと思わせたのが、開高健や田英夫や小田実などのような人々だったのでしょうかね。
by dendenmushi (2015-01-05 07:22) 

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:[必須]
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

トラックバックの受付は締め切りました