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1183 松倉崎・長茂崎・小壁崎(首崎)=大船渡市三陸町吉浜・越喜来(岩手県)吉浜湾岸で大津波の被害が少なかった理由 [岬めぐり]

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 大船渡市三陸町吉浜は、吉浜村と言っていた頃から、地域共同体としての意識が高いところだったらしい。昔の田舎はみんなそうだったという意見もあるだろうが、吉浜は同じこの地域の他の湾岸の集落と比べても、際だっているところがあるようなのだ。
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 東日本大震災による大津波は、吉浜湾にも押し寄せ、海岸を洗い流したが、吉浜地区の被害は全半壊4戸、犠牲者1人と他の地域に比べても非常に軽微であったという。
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 三陸鉄道の南リアス線の吉浜駅で何人かの乗客が降りた後は、車内はがらんとしてしまったが、再び動き出した列車は吉浜湾奥の南に広がる田畑へと降りて行く。
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 吉浜川の河口には谷の間に平地が広がり、どこでも同じようにそういう場所に人は集まり、集落ができる。吉浜でも、かつてはこの平地部分が集落の中心地であったが、それが1896(明治8)年の明治三陸大津波当時には吉浜村の6割以上の家がここに集まっていて、被害が集中し、村民の2割の犠牲者をだした。
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 そこで、当時の村長が中心となって、村ぐるみでの高台移転を実行に移している。別に国から補助が出るわけでも指導があるわけでなく、自力で決めて自力でそれをやったというのがえらい。
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 そのため、1933(昭和8)年の昭和三陸大津波ではこの地区ではほとんど被害がなく、村内他地区での被害を契機に行政の施策もあってさらに高台移転が進んだ。現在のような県道から上を主な住居地とする町づくりは、このときに形成されているらしい。
 かつての集落があった低地は、農業用地としてきたので、2011年の津波でも田畑が流されるだけですんだ。そこにも重機が入っていて、工事が進んでいた。
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 低地は農業や漁業の仕事場で、住居は津波も届かない高台において暮らす、そういうスタイルを自らの意思でいちはやく取り入れ、実践してきたのが吉浜地域なのだ。
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 前の項でもところどころでふれたように、高台移転を実施していたところは、ほかにもたくさんある。しかし、そういうところでも今回の被害を防ぐことができなかったのは、年月が経過するとともに、新しい住居が平地にだんだん増えてきて、元に戻ってしまうからだ。
 そんな新しい家というのは、分家だとか次男三男の家などが多かったらしい。なるほどそれもよくわかる話だ。
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 それでも、吉浜では多少の不便を伴っても、高台での暮らしを守り、それを後世に伝え引き継いできた。それができたということこそが、この地域の誇れるところなのだろう。
 前項で、高いところにブイなどの漁具が見える、と書いていた。それもこのことを象徴しているのかもしれない。
 実は、ブイなどが高いところに集められている光景は、被災地でもよく見かけていた。しかし、それは海岸の漁具などが津波で高いところまで持ち上げられ運ばれていたのだ。
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 松倉崎、長茂崎、小壁崎と、3つの岬が重なりながら過ぎていくが、吉浜湾南岸の東端にあたる首崎は、吉浜からは見えない。松倉崎と長茂崎までは三陸町吉浜だが、小壁崎と見えない首崎は三陸町越喜来である。
 南リアス線は、今度は羅生トンネルをくぐる。

▼国土地理院 「地理院地図」
39度8分27.16秒 141度50分53.42秒 39度7分40.19秒 141度52分21.64秒 39度7分9.14秒 141度53分55.88秒
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dendenmushi.gif東北地方(2014/11/05 訪問)

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タグ:岩手県
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