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1964☆『思い出の索引』★でんでんむし@アーカイブス☆わたしたちが生きてきた時代とは… [年表]

われわれはどこから来て、どこへ行こうとしているのだろうか…? 

1964mark.jpg昭和39年 甲辰(きのえたつ)
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◯パナマ運河地帯で、学生と米軍衝突、騒乱。
◯仏が中華人民共和国を承認。
◯キプロスでギリシャ系とトルコ系の住民が衝突。国連安保理が警察軍派遣を可決。
◯ブラジルで軍部によるクーデター。カステロ将軍が大統領に。
◯ニューヨークで白人警官が黒人少年を射殺。争乱が続発。
◯米月ロケット、チャレンジャー号が月面の近接撮影に成功。
◯トンキン湾事件勃発。米が国籍不明の魚雷艇と応戦と発表。
◯米議会がジョンソン大統領の東南アジア軍事措置を支持。
◯米、ケネディ暗殺に関するウォーレン報告を公表。
◯英総選挙で労働党が勝利、ウィルソン内閣成立。
◯ソ連でフルシチョフが首相兼第一書記を解任され、コスイギンが首相に。
◯米、民主党ジョンソンが大統領選挙で当選。

◯南ベトナム軍部クーデター。グェン・カーン将軍が首班に。
◯ラオスでは右派軍のクーデター。
◯韓国で朴政権打倒デモ。ソウルに戒厳令。学生デモ各地に波及。
◯駐南ベトナム米大使が辞任し、テーラー統合参謀本部議長が後任。
◯トンキン湾事件を受けて、米軍機が北ベトナムを報復攻撃。
◯独裁政権に反政府運動が拡大し、グェン・カーン大統領辞任。
◯コンゴ内戦。反政府軍が人民共和国を宣言。
◯中国が初の原爆実験。
◯民族解放戦線が南ベトナムのビエンホア米軍基地を奇襲。
◯コンゴ、スタンレービルにベルギー降下部隊が降下し、人質救出。
◯南ベトナム若手将校団が政治家を逮捕、国家評議会を解散。
◯アフリカで、タンザニア共和国、マラウイ共和国、ザンビア共和国、ケニア共和国が誕生。

◉吉田茂元首相が台湾を訪問。蒋介石総統に池田親書を手交。
◉米大使館前でライシャワー大使が少年に刺され負傷。輸血が問題化。
◉国際通貨基金(IMF)8条国に移行。自由化率93%に。
◉総評の太田議長らが池田首相と会談。公労協ストは中止。
◉戦後初の戦没者叙勲を決定。
◉東京地裁、三無事件に破防法を初適用して有罪判決。
◉原子力委員会が原潜寄港は安全性に問題なしと結論。政府は原潜寄港受諾を米に通告。
◉サブロック積載の原潜は事前協議の対象とする政府統一見解。
◉池田首相入院。

◉第18回オリンピック東京大会開催。
◉自民党議員総会で、佐藤栄作を後継首班に指名。
◉池田内閣総辞職、全閣僚再任で佐藤内閣誕生。
◉原潜シードラゴン号が佐世保に寄港。
◉全日本労働総同盟結成。
◉公明党の結成大会。
◉日本特殊鋼が会社更生法適用を東京地裁に申請。
◉第7次日韓会談開始。
◉琉球立法院が日本復帰、施政権返還要請決議を満場一致で可決。
◉日銀が日本共同証券に400億円の特別融資。
◉粗鋼生産高が、3979万トンで世界第3位に。

・この年に亡くなった人にはこんな人も…。八波むと志。尾崎士郎。高碕達之助。辰野隆。太田垣士郎。三好達治。朝倉文夫。堤康次郎。佐藤春夫。大野伴睦。金山平三。佐田啓二。3代目三遊亭金馬。三木露風。2代目広沢虎造。アラン・ラッド。エルンスト・クレッチマー。ダグラス・マッカーサー。レイチェル・カーソン。ジャワハルラール・ネルー。コール・ポーター。ノーバート・ウィーナー。

◎国鉄、電子式座席予約装置を開設。
◎新潟地震で死者26人、全壊全焼2250戸。昭和石油の原油タンク爆発。昭和大橋賀崩壊。液状化が初めて確認される。
◎東京の水不足が深刻化。第四次の給水制限。
◎東京モノレール、浜松町=羽田空港間で開業。
◎東海道新幹線開業(東京=新大阪間4時間)。
◎海外渡航が自由化。ハワイが渡航先人気のトップ。
◎東京オリンピックで、重量挙げ、体操、女子バレーボールなど18種目で金。

◎野球留学中の村上雅則が大リーグ・ジャイアンツに入団。初の日本人大リーガー。
◎東京でホテル・ニューオータニ、東京プリンスホテル開業。
◎カルビー製菓、かっぱえびせん発売。
◎大関酒造がワンカップ大関を発売。
◎十條キンバリー、クリネックスティッシュを発売。
◎東京・上野の国立西洋美術館で、朝日新聞社主催「ミロのヴィーナス展」開催。フランス国外で初。
◎東京12チャンネル開局。
◎「平凡パンチ」「ガロ」創刊。
◎石森章太郎「サイボーグ009」、藤子不二雄「オバケのQ太郎」・白土三平/カムイ伝などマンガ週刊誌などで連載開始。

■流 行:シェー!・みゆき族・プレタポルテ。
■テレビ:ひょっこりひょうたん島・大河ドラマ/赤穂浪士・木島則夫モーニングショー・ミュージックフェア。
■邦 画:今井正/越後つついし親不知・今村昌平/赤い殺意・斎藤武市/愛と死をみつめて。
■洋 画:突然炎のごとく・アメリカ=アメリカ・マイ=フェア=レディ。
■ 歌 :美空ひばり/柔・坂本九/明日があるさ・都はるみ/アンコ椿は恋の花・水前寺清子/涙を抱いた渡り鳥・ペギー葉山/学生時代・岸洋子/夜明けのうた・ザ・ピーナッツ/ウナ・セラ・ディ東京。
■ 本 :北杜夫/楡家の人びと・大仏次郎/パリ燃ゆ・大江健三郎/個人的な体験・柴田翔/されどわれらが日々。
■ことば:おれについてこい!・ウルトラC・太った豚になるより痩せたソクラテスになれ。
 
❖年表の元ネタ主な参考資料三省堂『コンサイス世界年表』三省堂編修所編。河出書房新社『昭和・平成 家庭史年表』下川耿央・家庭総合研究会編。小学館『昭和・平成 現代史年表』神田文人編など。

dendenmushi.gif(2014/12/14 でんでんむし蛇足の記)
 結婚して間もなく、本社の移転にともなって広島から大阪へ転勤になったが、その大阪で最初に住んだところは門真。引っ越し荷物の送り先には「大阪府北河内郡門真町」とあった。会社が探してくれたアパートは6畳1間でトイレは共同、タンスが入口からも窓からも入らない。しかたがないので、その日のうちに近所に建っていた文化住宅を自分で探して入居した。
 “文化住宅”というのは「文化」のレベルを押し下げているとしか思えないような住宅だったが、玄関(ドアではなくガラス障子の引き戸)の三和土と台所が並んでいて、その向うに4畳半と6畳の和室が続き、狭いテラスとトイレがくっついている。それが6〜7軒くらい1階と2階にズラーっと並び、それが道の両側に向かい合っている。玄関につながる2階の通路はアーケード式になっていて、これがなんとなく西部劇に出てくる開拓の町のような印象があった。道路もまだ舗装が完成していないところが多くて、そこへ根無し草が丸まって転がってくればまさにピッタリという光景である。
 2階と1階は別々で、うちの下は開店したばかりのお寿司屋さんだった。新しい街には、若い駆け落ち者やそれらしい者などが住んでいたりして、そこは大阪らしくすぐに声を掛けあい内輪の話も筒抜けになる。うちにテレビがないと知ると、若い夫婦者の奥さんが「そんなん今時かわいそうやわ」といって要らなくなった古いテレビを旦那に運ばせてむりやり置いていった。うちは別にテレビなんかいらんのやけどなあ。
 だが、それをつけてみるとちょうど衛星中継が始まったところで、飛び込んできたのがアメリカのケネディ大統領が暗殺される映像だったので、それは1963年のことだった。
 引っ越してすぐに、門真町は門真市になるが、そこは松下電器の本社があるところだった。有名な話だが、最初この地は大阪の東北で鬼門に当たるという反対論を、松下幸之助は日本中が東北に向いているじゃないかと押し切ったというが、要は地代がいちばん安い低湿地帯だった。
 水田や蓮田が広がるなかに、それをつぶしてどんどん文化住宅が建っていた。始めは天神橋に近いところにあった会社まで通勤するには、京阪電車は比較的便利な線だったのが、門真になった主な理由だったのだろう。この京阪電車がすごい! 初めて体験する都会の通勤(痛筋)電車は、古川橋から京橋まではとにかくギュウギュウすし詰めの超満員。当時の京阪は天満橋が終始点駅で、そこから天神橋筋まで中之島を横切って通っていた。
 文化住宅は大阪の周辺では、門真に限らずあちこちでバンバン建っていた。新聞の不動産広告では“文化”の文字がぎっしり並んでいた。だが、これはおそらく関西(京阪神)だけの特異な現象だっただろうと思う。
 風呂はないので、京阪電車の古川橋駅付近の銭湯まで、石けんかたかた鳴らして通った。夫婦で行って、どちらかが出て来るのを待つという門真の“神田川”だったが、その歌はまだ生まれていない。銭湯はその名も“幸福温泉”で、駅前には“幸福市場”があった。各商店のにぎやかな呼び声は、いかにも大阪らしさを感じた。
 水田は見慣れているけれど、こんなに広い一面のレンコン畑を見るのは初めてだった。青青と葉を広げ、きれいな花も咲く時期も冬枯れの時期も、それぞれ味わいがある。とくに、冬場の寒い時に行なわれるレンコン掘りは、体半分近くまで泥田に浸かりながら、舟を浮かべて探り出し掘り出したレンコンを収穫していく大変な作業だと感心した。(今ではもうそんなことはしないで、エアポンプで空気を送り込んで掘り起こす。)
 こどもが産まれて、今度は近鉄大阪線の法善寺駅付近に自分で貸家を探してきて、住んでいた。近鉄大阪線のラッシュ区間は京阪電車ほど長くはなかった。門真は山が少し遠い。やっぱり山のそばに住みたいなあと考えて、生駒信貴の山並みが南の大和川で切れそうになる手前のところ(柏原市)を選んだのである。
 イチゴ畑やブドウ畑が広がる河内平野の山裾は、古い歴史を秘めたところでもあって、なかなか趣があった。近鉄大阪線は、当時は上六が終点だったので、そこからはバスに乗り換えて後に東梅田に移った会社まで通っていた。地下鉄はまだ御堂筋線しかなかった。
 この頃から、ちょっと凝りはじめたのが古寺巡礼で、日曜日にはよく奈良や京都のお寺を訪ね歩いた。和辻哲郎の「古寺巡礼」はだいぶ古いけれど、中村直勝の本などもとてもよいガイドになって、多少は仏のこころに添うことができたような気もしていた。
 古代史への興味が湧いてきたのも、そこいらじゅうに古墳があるこの地域の環境に触発されたことが大きい。
 借家はブドウ農家が古い集落に隣り合う畑に建てたもので、少し高いところからは広い河内平野を見渡すことができ、夏ともなると河内音頭の囃子がブドウ畑を越えて流れてくる。
 後になってから、そうだ本場の河内音頭を一度くらい見に行けばよかったと思ったりもするが、当時はやはり新参の流れ者として、そういう余裕はなかったのだろう。
 東海道新幹線ができて、東京オリンピックが開かれたこの年、会社ぐるみで新幹線に乗ってオリンピックを観に行った。といっても、総務の担当者や開設して間もない東京事務所の連中は入場券を取るのに大変な苦労をしたらしいが、競技もなにも選んでいるような状態ではなかったので、とにかく手に入った入場券で、各自バラバラにだけどある程度はまとまって、順番に五月雨式に行くことになった。でんでんむしが当たった券は、駒沢競技場でのあまり聞かない国どこやらとどこやらの男子バレーの試合であったから、もっぱら新幹線に乗りに行ったようなものだった。
 広島から始まり、西日本が中心だった出版社も、出版社としてはいずれは東京に進出しなければ勝負にならなかった。それは一部では以前から自明のビジョンでもあったらしい。社内預金制度の会の名もそれを示していたし、非公式には「第二社歌」(第一はない)というのがあるといい、それがなんと村田英雄の「王将」だというのだ。
  「明日は東京へ出て行くからは なにがなんでも勝たねばならぬ…」
  大阪への本社移転は、そのための中継点であり、東京オリンピックへ全社員が行こうというのも、その布石であったかもしれぬ。
 
 (これからまた、しばらくの間、平常運転で隔日更新に戻ります。12/15)
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