1179 鎌崎=釜石市大平町3丁目(岩手県)人知は及ばず大観音の慈悲をもってしてもなんともならんものでしょうか [岬めぐり]

31年の歳月と1,200億円をかけた防波堤が、津波の被害を防ぐうえでどの程度の効果があったのか。それを検証するのは、おそらく専門家でも困難なのだろう。それは、効果を測る基準がどこにもないままに計画が立てられ、誰ひとりその成否をもって責任を問われることのない官僚的しくみのなかで、ことが決まったとなればあとはただ“粛々と”、考えるということも修正するということもないまま、最後まで運ばれていくからであろう。
およそ、巨額の税金が投入される公共事業の大方は、大なり小なりそういうところがある。外部からはなにもわからないし、シロウトがみてもわかるような情報も公開されているわけではない。まして、当の工事の担当者や責任者が、それを後から反省して検証することもない。もし、後からなにかあったとしても、決定し推進した当事者はとうに異動したりしていないし、トップのほうは勲章などお手盛りでゆうゆうとしているだろう。
釜石湾口の防波堤については、港湾空港技術研究所というところが、被災直後から分析をした、とWikipediaの情報はいう。
それによると、その研究所の分析ではこの“ギネスもの”の防波堤は、「浸水を6分遅らせたほか、沿岸部の津波高を(推定)13メートルから(実測)7〜9メートルに低減させたという効果」があったという試算を出した。
しかし、津波は防波堤の土台を崩しそれを乗り越えて、釜石の市街に流れ込んだわけで、被害を防げたわけではない。釜石市全体での死者・行方不明者は、1,000人以上にのぼった。
それを、防波堤があったからそのくらいで済んでよかった、効果はあったといえるのかどうか、そこが問題だ。浸水を6分遅らせることができたという評価をすれば、その間に避難できて助かった人もいただろう。13メートルのところが7〜9メートルになったとすれば、確かに流されずに済んだ家も多くあっただろう。
それはそうかもしれないが、その費用対効果の判断は、おそらく誰にもできまい。

過去からの度重なる津波の教訓が、防波堤をつくれということだったのかどうか。もしそうなら、今度はまた13メートル以上の津波を防ぐ防波堤を、海岸中にめぐらせるということになるのだろうか。
どんなにコンクリートを積み上げてみても、所詮ハードの構築には限界があると、鎌崎の大観音もそういって湾を見下ろしているのではないか。
20メートル以上のところに広がる大平町の住宅地から、東に岬のような飛び出た地形がふたつある。南のほうの出っ張りに鎌崎という名前がついていて、62メートルもあるそこには巨大な観音像が立っているのだ。

釜石湾を見渡す展望台には、なんと日本の海図第1号が、1872(明治5)年の釜石港のものだったという記念碑があった。なぜ、釜石湾が海図の一番目になったかといえば、当時ここにできた官営製鉄所などで船舶の出入りが重視されていたからだろう。

その向うの釜石湾には、左手に少しだけ残った北堤と、右手には200メートル以上は残ったかにみえる南堤がある。そこに工事用の船かなにかが接っしているので、また次の工事が始まっているのだろう。前項の作業場も今度は復興工事で役に立っているのだろう。
釜石湾の風景は、すべてここから眺めたものなのだが、どういうわけか観音さんの写真がまったくない。しかも、岬の上に上ってみると、肝心の立っている岬の足元がまったく見えない。


翌日に、釜石駅から乗った三陸鉄道南リアス線の平田(へいた)駅付近を通るとき、後ろ姿の観音さんと鎌崎の遠望を撮っていたので、それで間に合わせることにしておこう。


それにしても、この釜石大観音、長い参道の登り口に門前町のように土産物屋などが数十軒両側にならんでいたのだが、これが全部シャッターを降ろし戸を閉めたまま廃虚になりかけていた。これが震災と関係があるのかないのかはわからない。
観音さんのお慈悲をもってしても、地域の衰勢は止められないのか。

鎌崎から釜石市街まで歩いてみたが、甲子(かっし)川周辺はまだ全部流された後の土地の整備が進んでいる最中だった。駅前の新日鉄住金の釜石製鉄所があるあたりは、なにごともなかったかのような風情で、港町付近はもともと民家が少なかったせいで工場などは稼動をしている。


その一角には大型ショッピングセンターもできていて、復興も進んでいるかに見えるが、津波から残った家もあったらしい大町付近も、通りに面したところは新しい建物も目立つがその傷跡は隠せない。


▼国土地理院 「地理院地図」
39.256859, 141.902136




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