1175 長崎・御箱崎=釜石市箱崎町(岩手県)高台移転と一口に言ってもその困難も想像できるが先例の教訓はあった [岬めぐり]
根浜海岸がそれなりの景勝の地であったのだろうということは、前項でふれたが、鵜住居付近を通る国道45号線には、“根浜海岸”という大きな看板標識が立っている。
それを見ると下にはさまざまな施設の名を記した看板も表示されているが、これが震災後に立ったとは考えられない。おそらく震災以前からあるものだろう。
現在の地図では、根浜海岸は北に向いて突き出た100メートル足らずのピークをもつ尾根の東海岸を中途半端に指している。そこから東に、根浜の集落と港があり、その東が早障子崎である。早障子崎と平磯崎の間の入江に箱崎の集落と漁港があるが、これは当然ながら見えない。
そして、平磯崎から3.2キロ東に長崎があり、長崎からまた3.3キロ東北東に御箱崎がある。この御箱崎が、箱崎半島の先端である。
鵜住居川の河口から御箱崎までは、直線で8.7キロ。長く飛び出した箱崎半島は、長崎の南にカモメ森山という325メートルの最高点をもっている。
早障子崎から先端の御箱崎までが全部、釜石市箱崎町となっているが、半島の北海岸で集落があるのは、長崎の手前の箱崎白浜までである。そこから東へは、“東北自然歩道”と名のついた細い山道がうねうねと先端の灯台がある御箱崎まで続いている。
だから、その気さえあれば長崎を見ながら御箱崎まで歩いて行くことは可能なのだろうが、あいにくとその気がわかない。やはり、歳のせいか以前なら平気で歩いていたこういう山道も、敬遠したくなってしまう。
そこで、これもバスの車窓から遠く眺めたところでOKとする。
御箱崎については、船越湾岸を通っているバスの中からもわずかに見えていたし、長崎も大槌からの遠望も援用しながら、まとめることにしておこう。
三陸海岸という地域が、これまで何度か津波に襲われてきていたことは、よく知られている。なかでも、1896(明治29)年の明治三陸津波と1933(昭和8)年の昭和三陸津波のデータを拾って、鵜住居村だった片岸と箱崎について比較してみると、死者数は0になり、流失倒壊または浸水戸数も昭和では激減している。
それは、明治の津波の教訓から、人々が自発的に個々後方高地に移転したためだという。
片 岸(鵜住居村) 箱 崎(鵜住居村)
●(1896) 波高:6.4m 波高:8.5m
死者:1045人 死者:1045人
流失倒壊戸数:227戸 流失倒壊戸数:227戸
●(1933) 波高:5.5m 波高:4.4m
死者:
流失倒壊戸数:28戸 浸水家屋:33戸
●(2011)鵜住居地区 最大波高: 15.4m(大槌湾)
死者: 583人
被災住家数:1,690戸
2011年の大震災のデータは、鵜住居地区の人口も6,630人と増えているので、過去とは同列同条件には比べられないが、釜石市災害対策本部の発表によると被災状況は大きく増えることになった。
明治の教訓を活かした昭和初期の再現は、ならなかった。
箱崎半島の付け根は、恋ノ峠で越える。この峠にはいったいどんな物語があるのだろうか。
鵜住居を後に両石湾に降りていくところでは、国道45号線が曲りながら谷を越える。そこでは、上をバイパスが通り、下には恐らくは復旧の見込みの立たないJR山田線の鉄橋が空しく谷を渡っている。
▼国土地理院 「地理院地図」
39度20分24.86秒 141度57分35.27秒 39度21分0.11秒 141度59分42.42秒
東北地方(2014/11/05 訪問)
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