SSブログ

1960☆『思い出の索引』★でんでんむし@アーカイブス☆わたしたちが生きてきた時代とは… [年表]

われわれはどこから来て、どこへ行こうとしているのだろうか…? 

1960mark.jpg昭和35年 庚子(かのえね)
_------.jpg

◯仏がサハラ砂漠で初の原爆実験に成功し、第4の核保有国に。
◯ソ連最高会議が領空侵犯した米偵察機U-2を撃墜と発表。
◯米原子力潜水艦トライトン号が、世界一周潜水航海に成功と発表。
◯ソ連が人工衛星船第一号の打ち上げに成功。
◯東西首脳によるパリ会談で、ソが米のスパイ飛行を非難し、会談は流会。
◯仏ド・ゴール大統領が、アルジェリア停戦を提案。
◯米、キューバ糖の輸入を禁止。
◯ソが米に対し、キューバへの干渉にはロケットでキューバ支援すると警告。
◯中国に派遣中のソ連人専門家1300人を1か月以内に引き揚げると中国に通告。
◯米潜水艦からのポラリス・ミサイルの水中発射に成功。
◯キューバが、米資産の接収を宣言。
◯ソ人工衛星船第二号、犬2匹を乗せて打ち上げ。引き続いて犬のほか昆虫や植物を載せた三号機も。
◯フルシチョフが米訪問、国連総会で全面完全軍縮など提案演説。
◯米、原子力空母エンタープライズ号が進水。
◯米大統領選挙で民主党のケネディが当選。
◯ローマで第17回オリンピック開催。

◯南ア連邦各地で、人種差別反対の暴動が多発。
◯韓国で選挙不正抗議に次いで李承晩大統領辞任要求デモが激化、流血。李承晩は辞任しハワイへ亡命。
◯ラオスでクーデターの後、中立政府ができるが、右派の将軍が決起し内戦が本格化。プーマ首相はカンボジアに亡命。
◯キプロスの独立に次いで、この年はアフリカ植民地が多く宗主国から独立を果たす。(カメルーン、コンゴ、ガーナ、ダオメー、ニジェール、オートポルタ、象牙海岸、中央アフリカ、マリ連邦、ナイジェリア連邦)
◯コンゴ全土に非常事態宣言、ベルギーと国交断絶。大統領と首相が相方を追放。国連で緊急総会開く。
◯南ベトナムで民族解放戦線(ベトコン)が結成される。

◉貿易為替の自由化根本方針で3年間での達成を目標。
◉岸首相らの安保調印全権団が渡米。全学連などが羽田空港に座り込み。
◉新日米安保・行政協定に調印。
◉民主社会党結成。委員長西尾末広。
◉三井鉱山三池鉱業所で全山ロックアウト。無期限スト闘争。
◉社会党大会で委員長に浅沼稲次郎選出。
◉安保阻止国会デモで、全学連と警官隊が衝突。
◉政府・自民党が警官隊を国家に導入して、安保条約・会期延長の単独採決を強行。国会は空白状態になる。
◉連日国会周辺をデモ隊が取り巻く。
◉米大統領来日の先触れに新聞係秘書ハガチーが来日。羽田で一時デモ隊が包囲。
◉安保阻止のデモ隊を右翼が襲撃。全学連デモ隊が国会内に入り、この混乱時に東大生樺美智子が死亡。
◉閣議で米大統領アイゼンハワーの訪日の延期を要請することを決定。
◉社会党顧問の河上丈太郎が、右翼少年に刺され負傷。
◉国会包囲のデモ隊が膨れ上がり、一説では周辺で33万人とも。
◉新安保は自然成立。岸首相は辞意を表明。岸内閣総辞職。
◉池田勇人内閣の成立。石田労相が三池争議の職権斡旋。
◉浅沼社会党委員長が日比谷公会堂の演説会壇上で、右翼少年山口二矢に刺殺される。
◉三池争議が解決。
◉ソニーが江崎玲於奈らの発明エサキダイオードの特許取得。
◉宮内庁と右翼が雑誌中央公論の深沢七郎の小説「風流夢譚」に抗議、中央公論社が陳謝。
◉総選挙で自民党の単独過半数は変わらず、第二次池田内閣。
◉池田首相、所得倍増計画を発表。

・この年に亡くなった人にはこんな人も…。火野葦平。藤原銀次郎。賀川豊彦。樺美智子。浅沼稲次郎。吉井勇。和辻哲郎。アルベール・カミュ。クラーク・ゲーブル。ボリス・パステルナーク。

◎ソニーが世界初のトランジスタ・テレビを発売。8インチ6万9800円。
◎三陸地方にチリ地震の津波が押し寄せ、死者139人、4万6000戸が被災。
◎東京・山谷のドヤ街で3000人がマンモス交番を襲撃。
◎オリンピック・ローマ大会で、体操ニッポン、個人団体で金。
◎石川島播磨重工業が発足。
◎皇太子妃、浩宮を出産。
◎カラーテレビの本放送開始。
◎国勢調査で、総人口は9,341万8,501人。
◎大和銀行が住宅融資を開始、三和・東海・三菱の各行も続く。
◎東洋工業が「マツダ・クーペ」を発売。(いちばん安い小型四輪車で三輪メーカーから四輪メーカーへ)
◎積水ハウスが本格的なプレハブ住宅を発売。
◎グアム島のジャングルから二人の元日本兵が発見され、帰国。
◎初のロングサイズ煙草「ハイライト」発売。デザインは和田誠。
◎東京芝浦電気がわが国初のカラーテレビを42万円で発売。各社も続く。
◎日航が同社初のジェット機DC-8型機でサンフランシスコ便就航開始。
◎都営地下鉄の押上=浅草橋間が開通。京成と相互乗り入れ。地下鉄と郊外電車の乗入れの始まり。
◎川崎球場を本拠地とする三原監督の大洋ホエールズが日本シリーズV。
◎四日市市でぜんそく患者が増加。公害診断を開始。
◎日本人の年間労働時間は2400時間で過去最高に。
◎女子の平均初婚年齢は、24.4歳。
◎女性の平均寿命が70の大台を超えて70.19歳、男性は65.32歳。
◎小型農業用トラクターが初輸入され、農業の機械化が始まる。
◎タカラがビニール人形「ダッコちゃん」発売(180円)。大ヒット。

■流 行:即席ラーメン・ダッコちゃん・ホンコンフラワー・ヌーベルバーグ。
■テレビ:ブーフーウー。
■邦 画:堀川弘通/黒い画集・大島渚/青春残酷物語・市川崑/おとうと。
■洋 画:ルネ=クレマン/太陽がいっぱい・マルセル=カミュ/黒いオルフェ・ウィリアム=ワイラー/ベンハー・スタンリー=クレイマー/渚にて・アルフレッド=ヒッチコック/サイコ。
■ 歌 :松尾和子和田浩とマヒナスターズ/誰よりも君を愛す・西田佐知子/アカシアの雨がやむ時・橋幸夫/潮来笠・守屋浩/ありがたや節・藤島恒夫/月の法善寺横丁。
■ 本 :黒岩重吾/背徳のメス・高木彬光/白昼の死角・謝国権/性生活の知恵・北杜夫/どくとるマンボウ航海記・松田道雄/わたしは赤ちゃん・アダムソン/野生のエルザ。
■ことば:声なき声・レジャー・インスタント・私はウソは申しません。
 
❖年表の元ネタ主な参考資料三省堂『コンサイス世界年表』三省堂編修所編。河出書房新社『昭和・平成 家庭史年表』下川耿央・家庭総合研究会編。小学館『昭和・平成 現代史年表』神田文人編など。

dendenmushi.gif(2014/12/06 でんでんむし蛇足の記)
 この当時は、青山の墓地下にシナリオ作家協会がシナリオ会館をもっていて、そこで研究生を募集して半年の講座を組んでいた。オリンピックのときだと思うが、墓地下から麻布霞町、広尾、青山高樹町、六本木の周辺が道路拡張工事で様変わりしてしまったので、その頃にはもうなくなったのだろう。シナリオ作家協会が後進の指導育成をやるというのも、言ってみれば自分たちの競争相手・商売敵を養成しようというようなものだから、随分余裕をかましているような話だ。が、協会の貴重な収入源でもあったし、そうそうカンタンにはプロになれるわけがない、そんなにヤツがいるわけはないということもわかっていたのだろう。
 とにかく、そこの入所試験を受けて合格通知をもらい、事務局を辞して喜び勇んで上京したものだ。
 今思うと、シナリオ作家になりたいというよりも、大学代わりの東京遊学のような気持ちのほうが強かったのかもしれない。
 麻布霞町のお茶屋さんに借りた四畳半から、週5日の講座に通った。科目があって、それぞれいろいろな先生(作家協会の会員が主)の講義はそれぞれおもしろかった。たまにはテレビドラマ作法の講義もあって、その講師は志賀信夫氏であったが、この当時からぼつぼつ映画人もテレビを無視できなくなっていることがわかる。
 けれども、当時のテレビはビデオ以前なので、場面転換のところではたいした意味もなくテーブルの上の花瓶と花を映し、そこでカメラが引くところへ前のセットから役者が移動して入る…といったことをやっていた。やっぱり、テレビにはあまり魅力を感じなかった。
 週一回は映画評論家の登川直樹氏が選んだフィルムをもってきて、それを上映しながら話をしてくれる。そこでは、当時すでに名画の仲間入りをしていた古い作品ばかりなのだが、ここではじめて観た映画ばかりでこれもいい経験だった。
 そのなかで印象に残る作品は、ジャン・ギャバンとエリッヒ・フォン・シュトロハイム、ピエール・フレネーが好演した、ジャン・ルノワールの「大いなる幻影」であった。脚本はルノワールとシャルル・スパークが共同で執筆した1937年公開のこの映画は、日本では翌年に輸入されたときには、検閲にかかって上映禁止となっている。反戦的な内容が当時戦争につき進む権力の気に入らなかったらしい。日本での公開は戦後の1949(昭和24)年になってからだった。
 そのほか研究所では、テレビ局や撮影所の見学などもあったり、シナリオ梗概のプレゼンなどが経験できたのもおもしろかった。
 研究所が休みの日は、東京に出てきた三四郎が、あちこち歩き回るようなもので、とにかく東京中を隅から隅まで(といっても、まあだいたい)、とくにこれという目的もないがふらふらするのである。
 そんなでんでんむしに声をかけてくれ、親しく東京を教えてくれる、奇特な人がいた。
 「キミねえ、あそこへ行ったかい」「これはみておかなきゃダメだよ」と田舎モンを指導するだけでなく、「キミ、明日の朝は4時上野集合だよ」とか言って、不忍池のハスが開くときの音を聞きに行こう、などといろいろ連れ回し世話を焼いて言うのである。早稲田の演劇博物館へ行くと言うと、「あそこにはね、浮世絵の版木が一式あるからね、見といたほうがいいよ」などという。
 思えばそのJさんは、会社に行っているわけでもないし、店をやっているのでもない、実に不思議な人で、まさに奇縁というべきであった。
 同期の研究生の中ではいちばんの年嵩で目立っていたそのおじさんは、いかにも江戸っ子気質の人で、家に呼ばれてご馳走してくれたりするようになったりした。どういうわけか、気に入られていたらしい。同期の研究生では、最年少であったからだろうか。
 理由のひとつとしてかんがえられるのは、でんでんむしが毎月歌舞伎座に通っていると知って、若いのに感心感心、ういヤツじゃと思ったのかも知れない。その世界にもやたら詳しく、いっしょに木挽町へ行ったときには大向こうからの掛け声も、堂にいっていた。
 奥さんが銀座でバーをやっていて、一度はそこにも画廊回りのあとで昼間ちょっとだけ寄ったことがあるが、まあ言ってみれば髪結いの亭主か高等遊民なのであろう。が、この変わったおじさんにこの頃連れて行ってもらった場所や教えてもらったコトやモノなどは、間違いなくでんでんむしの貴重な財産となった。
 修学旅行できたときにはなかった、東京タワーができたばかりで、お上りさん丸出しで、展望台に上った。世はまさに「三丁目の夕日」そのままだったのである。
 銀座通りを歩けば、浩宮誕生を祝うアドバルーンやまん幕、旗が風になびいていたが、このあとの夏前から、政治の季節となり、大デモが首都を覆い尽くすことになる。
_----.jpg
タグ:年表
きた!みた!印(23)  コメント(2)  トラックバック(0) 
共通テーマ:地域

きた!みた!印 23

コメント 2

ハマコウ

人との出会い
その時会うべき人に会うと言われますが
出会いの大切さを思いました
by ハマコウ (2014-12-07 05:40) 

dendenmushi

@「忘れ得ぬ人々」とでもいうのでしょうかね。たくさんの人々と出会ってきたので、とても全部とはいきませんが、その年その頃で幾人か思い出していくことになるでしょうか。
by dendenmushi (2014-12-07 15:58) 

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:[必須]
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

トラックバックの受付は締め切りました