1176 黒崎(浪板崎・小間倉崎・オイデ崎・鐙崎)=釜石市箱崎町(岩手県)連なっているはずの岬は手前のひとつだけしか… [岬めぐり]
箱崎半島と釜石半島(そういう表記は見当たらないが、そのほとんどが“釜石市釜石第1地割”となっているので、仮にそう呼んでおく)に挟まれた両石(りょういし)湾は、湾口が大きく開いていて湾奥が狭まっている。
いわゆるV字谷になっているわけで、この地形は津波エネルギーが集中しやすい地形と言われている。明治三陸地震津波と昭和三陸地震津波では湾奥にある集落ほぼ全滅という被害を生じた。
箱崎半島南側の付け根にあたる両石町は、細い谷のようなところに狭い平地があるだけで、両側に山が迫っている。湾に面してわずかに開いた海岸いっぱいに両石漁港がある。
ここから東に向かって、でこぼことわずかに北へ振りながら連なる箱崎半島の南海岸には、黒崎・浪板崎・小間倉崎・オイデ崎・鐙崎と5つもの岬がほぼ等間隔に連続している。
ところが、両石から見えるのは黒崎のみで、ほかは見えない。これは、海岸線がわずかに北へ向いて延びているので、いちばん手前の黒崎以外は全部陰になってしまうのだ。
そのことは、地図からみても想像がついたので、当初計画では湾の南の水海海岸まで出てそこから見ようと思っていたのだが、バス乗りっぱなしではそれもできないことになってしまった。
黒崎は、5つのでこぼこが連なっている細い出っ張りで、その先端は小さな島になっている。
そのずっと手前には、漁港の目印と岩礁の注意のためか、中根と地図に記載された岩と燈標がある。
両石では、漁港のすぐ上を国道45号線が走り、その少し西寄りの山際をJR山田線が通っていた。谷は狭く深いため、峠の北隣の鵜住居のように高台に集落が移転しようにも、移転する場所さえない。そのため、明治三陸地震津波の後にも高地移転ができなかったらしい。
昭和三陸地震津波で、またしてもほぼ集落全滅という被害を出してしまうが、その後で山を切り崩して移転用地をつくったのだそうだ。
チリ地震津波でも、今回の大震災でも、またまた大きな被害を出してしまうのだが、それは家が増えるにしたがって、それらは低地に広がることになり、再びいったんは移転した跡地に人々が定着し始め、集落ができていったからだという。
三陸には各地にあるが、両石にもその津波の記憶を刻んだ「海嘯(かいしょう)記念碑」の類いが3つもある。東日本大震災の津波は、これまでの津波を超える浸水範囲を越えて、恋ノ峠(恋ノ峠は前項の末尾でもふれた)近くまで達した。バスが恋ノ峠の下で、カーブする国道とバイパスと旧山田線が重なりあっていることろの国道の下にそれがある。
写真では小さくしか写っていないが、バイパス高架橋の大きなコンクリート支柱の右脇に並んでいるのがそれである。
津波の被害を後世に語り継いで被害を除けるための標石、目印としての役割がある“記念碑”は、今回の地震の後、ここに集められたようだ。
東北大学が調査しまとめた「三陸沿岸の津波石碑」というpdf資料には、そのことも收められていて、明治35年に建てられた碑の碑文の意訳というのがあった。なかなか、印象深かかったので、それを紹介しておこう。
・両石海嘯記念碑(碑文の意訳)
この碑が滅しようとも、この恨みは消えない。たとえ雨に洗われ、苔に蝕まれ、文字が摩滅しようとも、明治29年6月15日の津波災害を昔からの言い伝えとして子孫に伝えよ。
当時、津波災害を受けた所は三陸沿海百里の地に及んだ。両石一村においてもやはり荒れ狂う大波の中で790人が命を落とし、生き延びた者はわずか204 人という痛ましいものであった。強い石弓をもって海水を射ても海の神の力を封じることは難しく、今もって死んだ者の恨みを減ずることはできない。
涙にくれて生き残った者は、文を刻んで弔うことで冥福を祈る。石は小さいけれど大きな功徳である。恨みは消え去ってもこの碑が消えることはない。
一切のものは掃き尽くされ、あちらこちらに青い波が広々と広がり、墓にはちょうど良い。
生死の岸を離れ 底なしの船に棹差し
土塊(つちくれ)は暗く 月は明るく海は果てしない
黒崎の向うにあるはずのオイデ崎などは、南の水海からなら見えるのかと期待もしてみたが、やはりだめ。黒崎の向うに見えたのは、三貫島というオイデ崎から900メートル沖にある島の一部だった。
▼国土地理院 「地理院地図」
39.303556, 141.918069
東北地方(2014/11/05 訪問)
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