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1957☆『思い出の索引』★でんでんむし@アーカイブス☆わたしたちが生きてきた時代とは… [年表]

われわれはどこから来て、どこへ行こうとしているのだろうか…? 
 
1957mark.jpg昭和32年 丁酉(ひのととり)
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◯英イーデン首相がスエズ戦争責任で辞任。後任はマクミラン。
◯仏・西独・伊・ベネルックス3国がEEC(欧州経済共同市場)条約。
◯西独が徴兵制による連邦軍を組織。
◯英、クリスマス島で第1回水爆実験。米ソも核爆発実験を強行。
◯ソ、共産党中央委員会でマレンコフ、モロトフらを反党グループとして追放。
◯ソ、大陸間弾道弾ICBMの実験成功と発表。
◯米、国防省がIRBMの実験成功と発表。
◯ユーゴ・ポーランドが、オーデルナイセ国境を承認する共同宣言。
◯アーカンソー州知事の命令により州兵100人が出動し、黒人9人の高校通学を阻む。リトルロック高校事件。
◯ソ連が人工衛星スプートニク1号の打ち上げに成功。年末には続いて犬を乗せた2号も。
◯フルシチョフが東西首脳会談を提唱。
◯共産党代表者会議で平和共存、軍拡競争停止、核実験即時停止など宣言。
◯米、人工衛星打ち上げに失敗。

◯国連総会でAA25か国提案のイスラエル撤退決議案を可決。
◯イスラエル、ガザ地区からの撤退を表明。
◯アルジェリア、民族解放戦線が全土で軍事行動。
◯マラヤ連邦が英から独立。
◯米スパイのシリア政府転覆の陰謀が発表され、両国関係悪化。
◯インドネシア、オランダ人所有全プランテーションの接収、ロイヤルダッチシェルの接収、オランダ領事館の活動停止を要求。
◯カイロで第1回アジア・アフリカ人民連帯会議開催。

◉群馬県相馬ヶ原射撃場で、薬莢拾いの農婦が米兵に射殺される事件が発生(ジラード事件)。
◉石橋湛山首相が病気のため、岸外相が臨時首相代理。翌日内閣総辞職、岸信介内閣が全閣僚留任で発足。
◉衆議院本会議で原水爆禁止を決議。
◉公労協争議が激化。佐賀県教組の人員整理反対休暇闘争で幹部12名逮捕。
◉核武装について「攻撃的兵器は違憲」との政府統一見解を発表。
◉岸首相は「自衛権の範囲内なら核兵器保持も可能」と参議院で答弁。
◉岸首相、蒋介石との会談で、「大陸反攻に同感」と言明。
◉日本原子力発電の設立。
◉岸首相訪米で日米新時代、安保委設置、米地上軍の撤退を共同声明。
◉日教組が勤務評定反対集会を全国で開催。愛媛県教組のピケに警官隊出動。
◉瀬長那覇市長が追放。
◉改造岸内閣、外相に藤山愛一郎。
◉この年下期から翌年下期にかけて「なべ底不況」続く。

・この年に亡くなった人にはこんな人も…。牧野富太郎。志賀潔。小林一三。重光葵。小林古径。羽仁もと子。川田晴久。川合玉堂。久生十蘭。徳富蘇峰。愛新覚羅慧生。マキノ光雄。大川周明。ヴィクトル・スタルヒン。ハンフリー・ボガート。アルトゥーロ・トスカニーニ。ジョン・フォン・ノイマン。ジャン・シベリウス。クリスチャン・ディオール。

◎山形県油戸炭坑(三菱鉱山)が閉山。大手石炭会社の炭鉱閉山第1号。
◎名古屋地下街が開業。東京の渋谷地下街、大阪でも初の難波地下センターが誕生。
◎住宅公団の千葉県柏市光ケ丘団地で“ニュータウン”の名称が初めて使われる。
◎トヨタ自動車が995CCの小型車「コロナ」を65万8500円で発売。
◎東京通信工業が世界最小のトランジスタラジオ「ポケッタブルラジオ」を発売。
◎東京通信工業の江崎玲於奈が、エサキダイオードを発明。
◎日本ヘリコプター輸送が全日本空輸と改称。
◎糸川英夫らが秋田県道川海岸で、国産ロケット1号機カッパー4C型の発射に成功。
◎南極観測隊がオングル島に上陸、昭和基地を設営。
◎日本石油化学川崎事業所にわが国初となる石油化学プラント。「コンビナート」の用語もここから始まる。

◎インフルエンザが大流行。学童だけで50万人、休校も相次ぐ。
◎東京・八重洲の大丸が主婦や若い女性のパートタイマーを募集。初めてこの言葉が使われる。
◎電気釜が急速に普及。
◎元満州国皇帝の姪、愛新覚羅慧生が学習院大学の同級生と天城山中で心中。
◎東京湾で夢の島のごみ埋立てが始まる。
◎東京・数寄屋橋ショッピングセンターが開店し、この工事で「君の名は」の数寄屋橋という橋はなくなる。
◎東京高円寺の商店街が、夏枯れ時の客寄せに“阿波踊り”を始める。

◎NHKと日本テレビがカラーテレビの実験局を開局。
◎そごう東京店(有楽町そごう)が開店。初日30万人以上の来店者。
◎チャタレー事件の最高裁判所大法廷判決で、訳者出版社等の被告人有罪が確定。
◎日本初の女性週刊誌「週刊女性」が河出書房で創刊、後に主婦と生活社から発行。
◎松本清張の「点と線」が雑誌「旅」に連載開始。これが後の推理小説ブームのきっかけとなる。
◎ダークダックスが結成され、初めての演奏会を開催。
◎熱海にモーテルの第1号。
◎美空ひばりが国際劇場で公演中に塩酸をかけられ負傷。
 
■流 行:ロックンロール。
■テレビ:私だけが知っている・ダイヤル110番・名犬ラッシー。
■邦 画:黒沢明/蜘蛛巣城・渡辺邦男/明治天皇と日露大戦争・川島雄三/幕末太陽伝・木下恵介/喜びも悲しみも幾歳月。
■洋 画:道・ビリー=ワイルダー/翼よあれがパリの灯だ・デビット=リーン/戦場にかける橋・ヴァイダ=ラースロー/汚れなき悪戯・ヴィンセント=ミネリ/炎の人ゴッホ。
■ 歌 :島倉千代子/東京だよおっ母さん・浜村美智子/バナナボート・三波春夫/チャンチキおけさ・フランク永井/有楽町で逢いましょう。
■ 本 :深沢七郎/楢山節考・宇野千代/おはん・三島由紀夫/美徳のよろめき・井上靖/氷壁。
■ことば:よろめき(よろめいちゃう)・グラマー・ストレス・デラックス・ナンともうしましょうか。

❖年表の元ネタ主な参考資料三省堂『コンサイス世界年表』三省堂編修所編。河出書房新社『昭和・平成 家庭史年表』下川耿央・家庭総合研究会編。小学館『昭和・平成 現代史年表』神田文人編など。

dendenmushi.gif(2014/11/30 でんでんむし蛇足の記)
 今頃のように家族でどこへでも行く、海外へでも平気で行く、そういう時代ではなかった昔は、修学旅行というのは、こどもの見聞と経験を広める、ほとんど唯一の機会であった。小学校では別府へ行き初めて海底トンネルを通って九州へ行った。中学の修学旅行で初めて尾道より遠く、京阪奈に行った。高校の修学旅行は、ちょっと変わっていて、定番だった日光をはずした代わりに、静岡の登呂遺跡と日本平、鎌倉と江ノ島、大船の松竹撮影所、横浜大桟橋そして東京へというコースだった。
 でんでんむしが、初めて箱根を越え、関東へやってきたわけだが、鎌倉を歩いて波枕の江ノ島の旅館でも、まさか自分がこの近辺に長いこと住むことになろうとは、夢にも思わなかった。
 それから3年後に、今度は一人で夜行寝台急行の「安芸」に乗って箱根を越えたときには、朝の通勤時間が始まる大船駅のホームに並ぶたくさんの人をみて、この一人一人が仕事を持っていて、それが待つ横浜や東京の会社や仕事場に通うのだと思ったとき、妙に感動したものだ。
 人が一生の仕事を見つけるのは、なかなかむずかしい。そのむずかしさを避けるために、「とにかく大きな有名な会社に入る」という選択が可能ならばそれがいちばんの理想とされてきた。あるいは、「公務員ならば安泰で先々は年金も有利だから食いッパぐれがない」というのも、親がよく言いそうなことだ。
 でんでんむしには、そういうことを言ってくれる親もいなかったが、有名な会社にはいるというのも、公務員になるというのも、「何を自分の一生の仕事にするか」という設問に対する答えとはなり得ないように思った。
 大学の4年間もあれば、そのうちにいろいろ見えてきたりするのだろうが…。
 高校も卒業が迫ってくると、就職クラスでは誰がどこに受かったというような話が出てき始める。自分も、なんか考えなければならないのだが、どうにも切迫感がない。ただ、ボーッとしていたというのが実情だった。というのも、具体的にどこそこに就職してどんな仕事をするか、ということが、まったくリアルに思い浮かべることができないのである。
 前任の図書委員長だった先輩は、地元の銀行だかに就職したとかいう話を聞かされても、自分が同じようにそういう広島の会社のどこかに入るという、入らなければならないというモチベーションがさっぱりなかった。
 ただ、漠然と自分のような中途半端な人間は、広島では生きていけないような気がしてはいたが、それを公言するのもはばかられる。とにかく、祖父を安心させることが当面必要なことだった。
 寝たきりになることも多くなっていた祖父は、隣に住まわせていた叔父を頼りにしていたようで、就職先の世話を頼まれていたらしい。その叔父が「映画が好きならちょうどその関係の仕事をしている戦友がいる」と紹介してくれたのは、当時全国各地で広がっていた映画の職域サークルの団体事務局であった。
 就職先としては極めて不安定で零細で、頼りになるようなところでもなければ、一生をゆだねるようなところでもないとは思っていた。だが、当時の自分にとってはこれ以上は望めないような気がして、おおいに気に入った。幸い、先方にも気に入ってもらったらしいので、事務局長以下わずか4人がきりもりするその事務局の仕事をすることになった。
 ちょうど人手が足りなかったところだというので、卒業の前から学校帰りには事務局に寄って雑用を手伝ったりしていた。
 会員は広島市内の官公庁・民間企業の大中小を問わず、映画好きが集まるグループで、事務局にはそれぞれの代表者が出入りする。当然、会員になれば映画料金が割引になるというメリットもあるので、当時はまだ娯楽の王様の地位を守っていた映画のファンは多かったのである。
 テレビの影響という歴史的マイナス要因は、この頃はまだ顕在化してはおらず、折から邦画も洋画も後にも先にもない黄金時代を迎えようとしていた。
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タグ:年表
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きた!みた!印 19

コメント 2

だいだらぼっち

いつも楽しみに読ませていただいております。このコーナー、いよいよ目がはなせません。
by だいだらぼっち (2014-12-01 16:19) 

dendenmushi

@だいだらぼっち さん、ありがとうございます。こちらも、勉強させてもらっています。
by dendenmushi (2014-12-02 06:20) 

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