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1956☆『思い出の索引』★でんでんむし@アーカイブス☆わたしたちが生きてきた時代とは… [年表]

われわれはどこから来て、どこへ行こうとしているのだろうか…? 
 
1956mark.jpg昭和31年 丙申(ひのえさる)
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◯東独がワルシャワ条約機構に加盟。
◯ソ連共産党大会で平和共存路線を採択。フルチショフ第1書記が秘密会でスターリン批判。
◯ロンドンで英ソ、モスクワで仏ソの首脳会談。
◯米、ビキニで水爆の投下実験。
◯ポーランドのボズナニで反政府暴動。
◯ポーランド統一労働者党ゴムルカ第1書記を選出。(10月革命〜)
◯ハンガリーのブダペストで学生労働者の反政府暴動。(ハンガリー事件)
◯ナジがハンガリー首相に就任。ソ連軍が鎮圧に出動。
◯ハンガリー、ワルシャワ条約脱退・中立を宣言。
◯再びソ連軍がハンガリー介入。ブダペストを砲撃。
◯ガダル首相の新政権誕生。ナジ元首相がポーランド大使館に亡命。
◯カストロ率いる革命軍がメキシコからキューバに上陸。
◯ハンガリー全土に戒厳令布告。国連総会でソ連非難決議。

◯仏、モロッコ、チュニジアの独立を承認。
◯パキスタン・イスラム共和国が発足。
◯朝鮮派兵16か国が休戦監視委員会の韓国撤退を決定。
◯英、スエズ運河基地から撤退を完了。
◯エジプト共和国、ナセルが初代大統領に就任。
◯ナセル大統領がスエズ運河会社の国有化宣言。
◯アルジェリア人民解放軍が攻勢。
◯イスラエル軍がエジプト侵攻。スエズ戦争開始。
◯英仏のスエズ進軍要求をエジプトが拒否。英仏軍がエジプト攻撃。
◯エジプト、英仏と断交。
◯国連緊急総会で、英仏イスラエルの即時撤退を要求。(AA諸国決議案採択)
◯英仏軍エジプトから撤退。

◉自民党大会で初代総裁に鳩山一郎を選出。
◉河野一郎農相が訪ソ、日ソ漁業交渉、調印。
◉小選挙区法案、教科書法案を提出。(大混乱を招き不成立)
◉小選挙区制反対の国民大会開催。自民党に有利な案で“ハトマンダー”と批判。
◉参議院内に警官隊出動で教育委員会法を可決。教育委員会は公選制から任命制へ。
◉第四回参議院議員選挙で、革新系が3分の1を超える。
◉重光外相モスクワで日ソ交渉再開。歯舞色丹の二島返還というソ連案に対し、政府は国後択捉を含む四島返還を求めて拒否。
◉日ソ交渉が領土問題で行き詰まり難航。領土問題は棚上げで収拾へ。首相が交渉全権団を率いてモスクワ入り。
◉日ソ国交回復共同宣言、通商航海について議定書交換、批准書調印。(平和条約は継続交渉とし条約締結時に歯舞色丹を返還)
◉砂川町第二次強制測量で衝突流血。測量中止。
◉文部省が教科書調査官をおく。
◉自民党大会で、石橋湛山が総裁に就任。
◉国連総会で、日本の加盟が全会一致で可決される。
◉鳩山内閣が総辞職、石橋内閣が誕生。
◉沖縄米民生府がプライス勧告で軍用地を無期限に拡大接収。反対運動高まり島ぐるみ闘争に発展。
◉沖縄・那覇市長に人民党の瀬長亀次郎が当選。

・この年に亡くなった人にはこんな人も…。石田一松。緒方竹虎。高村光太郎。梁瀬長太郎。宮城道雄。三木武吉。溝口健二。会津八一。ミスタンゲット。A・A・ミルン。マリー・ローランサン。ベルトルト・ブレヒト。アルフレッド・キンゼイ。

◎槙有恒隊長の日本登山隊がマナスル初登頂に成功。
◎中央気象台が気象庁として発足。日本道路公団も発足。
◎佐久間ダムの竣工。
◎「興安丸」がソ連からの最後の集団帰国者1025人を乗せ舞鶴港に入港。
◎第1次南極観測隊が観測船「宗谷」で東京港を出港。(翌年南極到着)
◎国鉄東海道本線の米原=京都間の電化。東海道本線全線電化が完了。
◎オリンピック、メルボルン大会。体操で4種目に優勝。
◎コルチナダンペッツオの冬期大会では、猪谷千春が男子回転で銀メダル(冬期大会初のメダル)。
◎新潟・弥彦神社の初詣で福モチまきに参拝客が殺到。124人圧死の大事故。
◎医薬分業の実施始まる。
◎売春防止法を公布。翌年の施行を前に特殊浴場に衣替えをはかる業者も。
◎熊本県水俣市の新日本窒素付属病院が、原因不明の中枢神経疾患多発を保険所に報告。(会社が初めて水俣病を確認)
◎住宅公団が千葉・稲毛、大阪・金岡などで初の入居者募集・入居を開始。(ステンレス流し、水洗トイレ、シリンダー錠つきの団地スタイル)
◎愛媛県教委が勤務評定の実施を決定。

◎新潮社「週刊新潮」創刊(新聞社ではなく出版社による初の週刊誌)。週刊誌ブーム。
◎中野好夫「文藝春秋」に、“もはや戦後ではない”と書き、戦後論が盛んになる。「経済白書」にもこの文言が使われ、流行語に。
◎吉本隆明・武井昭夫「文学者の戦争責任」刊。戦争責任論が盛んになる。
◎テレビに料理番組が登場。
◎「主婦の友」がB5判に。婦人雑誌の大型化進む。
◎映画館新設のブーム。全国で7,000館。東京では敗戦時の4倍にあたる452館。

■流 行:ホッピング・挽歌スタイル・カリプソスタイル。
■テレビ:チロリン村とくるみの木・お笑い三人組・東芝日曜劇場。
■邦 画:市川崑/ビルマの竪琴・小津安二郎/早春・溝口健二/赤線地帯・古川卓巳/太陽の季節。
■洋 画:ヴァレンタイン=デイヴィース/ベニイ=グッドマン物語・ルネ=クレマン/居酒屋・ウォルト=ディズニー/わんわん物語。
■ 歌 :三橋美智也/リンゴ村から・哀愁列車・鈴木三重子/愛ちゃんはお嫁に・曽根史郎/若いお巡りさん・ペギー=葉山/ケ=セラ=セラ・小坂一也/ハート=ブレイク=ホテル。
■ 本 :石原慎太郎/太陽の季節・五味川純平/人間の条件・三島由紀夫/金閣寺・原田康子/挽歌・谷崎潤一郎/鍵。
■ことば:一億総白痴化・もはや戦後ではない。
 
❖年表の元ネタ主な参考資料三省堂『コンサイス世界年表』三省堂編修所編。河出書房新社『昭和・平成 家庭史年表』下川耿央・家庭総合研究会編。小学館『昭和・平成 現代史年表』神田文人編など。

dendenmushi.gif(2014/11/28 でんでんむし蛇足の記)
 年表に出てくるようなことが、直接かかわってくるようなことは、ほとんどまったくなかった。だが、最後のシベリアからの帰国者を乗せた「興安丸」が舞鶴に帰って来るというニュースは、少ない親戚一同の大事件となった。別姓の従弟たちの父親が、それで帰ってくると知らせがあったのだ。
 1937年の項で、満州に渡ったきり帰ってこなかった“おばさん”がいたと書いていた。“おばさん”は満州で亡くなって、残されたこどもたちだけが艱難辛苦の末に命からがら奇跡的に帰国できた。その夫が、最も長く厳しい抑留生活を強いられたのは、終戦時の肩書きや立場もあったのだろう。
 従弟たちは舞鶴まで出迎えに行き、みんなも大喜びで広島駅に迎えることになったのは当然だが、叔父が「むりに行かなくてもいいぞ」というのだ。
 父親の遺骨すらも帰ることもなかったでんでんむしのことを、気遣ってくれたのであろう。
 出迎えに行くことはなんの抵抗もなかったが、これが契機となって、自分の父親はどうして亡くなったのだろう、と具体的に考え始めた。それから1943年の項で書いたように、高校の図書館で戦記物を読みふけったのである。
 帰国した叔父さんは、祖父のところにも挨拶に来たし、何度か会うことはあった。抑留生活のことを聞くのはなぜかためらわれたが、革のブーツを履いていたのが印象に残った。。
 高校へ自転車通学をしていた頃で、帰りに的場の交差点を自転車で渡ろうとするとき、親族の仕事を手伝い始めていた叔父さんがバタンコの助手席に乗って、偶然に通りかかって名前を呼んでくれ声をかけてくれた。互いに走りながら「やあ」「こんにちは」というのがやっとであったが、それがその叔父さんとの最後の接触になった。喜びの後に突然の普通でない死には、従弟たちへの悔やみの言葉も探せないでいた。
 まだまだ、戦後は終わっていなかった。
 高校では就職コースのクラスは呑気なもので、島倉千代子の「りんどう峠」や三橋美智也などの流行歌の歌詞を回して口ずさんだり、午後の授業を抜け出して映画を観に行ったりもしていた。どうしてそんな映画を観に行ったのかもよくわからないが、映画の中でたいした脈絡もなくクラブかダンスホールのような場面が出てきて、そこへデビューしたての島倉千代子が「この世の花」を歌を歌う。(この頃の邦画では、こうした劇中挿入歌がひとつのお約束のようになっていた。)
 彼女が同じ高校へ行っていれば上級生にいたくらいの、ほぼ同世代として、ははあこういう世界もあるのかという素朴な驚きもあった。
 切手を集めていたおかげで、年表項目にも直接は関係ないまでも、できごととして把握できていたことはたくさんあった。たとえば、この年でいえば、マナスル初登頂・佐久間ダムの竣工・第1次南極観測隊・東海道本線全線電化などのできごとは、だんだん多色刷りできれいになっていく切手の絵とともに親しみ深いものだった。
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タグ:年表
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