SSブログ

1954☆『思い出の索引』★でんでんむし@アーカイブス☆わたしたちが生きてきた時代とは… [年表]

われわれはどこから来て、どこへ行こうとしているのだろうか…? 
 
1954mark.jpg昭和29年 甲午(きのえうま)
_------.jpg
◯米、世界初の原子力潜水艦ノーチラス号が進水。
◯米、ビキニ環礁水域で水爆実験を実施。
◯ソ、モスクワで東欧8か国の経済会議を開催。
◯米最高裁が公立学校における人種差別を違憲とする判決。
◯米、オッペンハイマー博士を休職処分、原子力委員会が危険人物と認定。
◯仏、マンデス・フランス急新社会党内閣が誕生し、インドシナ即時休戦を公約。
◯ソ連で世界初となる原子力発電所が運転操業、送電開始。
◯インドシナ休戦協定(ジュネーブ協定)が成立するも、米は調印せず単独宣言。
◯米上院が、共産党非合法化案を可決。マッカーシー非難決議案も可決。
◯西独の再軍備、NATO加盟、主権回復を認めるロンドン協定に、西側9か国が調印。
◯国連総会が原子力平和利用決議を採択。

◯エジプト首相にナセルが就任。大統領を罷免して実感を握る。
◯アルジェリア、民族解放戦線が闘争宣言を発表。
◯ベトナム、ディエンビエンフーが陥落。
◯仏軍がトンキン=デルタ南部全域を放棄。
◯周恩来がホー・チ・ミンと会談。
◯南ベトナムにゴ・ディン・ジェム政権。
◯北ベトナム、ホー・チ・ミンが大統領就任、ハノイを首都と定める。

◉衆議院が造船汚職容疑の有田二郎議員の逮捕を許諾。
◉同じく逮捕許諾請求の出た自由党幹事長佐藤栄作について、犬養法相が検事総長に対し指揮権を発動し、逮捕を阻止。法相辞職。
◉ビキニ水爆実験で、第五福竜丸が被災。久保山愛吉が死亡。
◉日教組が教育二法案反対の一斉休暇闘争。
◉衆議院本会議で警官隊導入。
◉国家地方警察と自治体警察を都道府県警察に一元化。
◉防衛庁、自衛隊の発足。
◉鳩山・重光ら6者が会談、反吉田新党結成で一致。
◉財界首脳5者会談も、吉田引退保守合同で一致。
◉自由党の新党準備派と改進党、日本自由党が合同し、日本民主党結成。総裁鳩山一郎。
◉自由党議員総会で吉田総裁引退、後任に緒方竹虎。
◉吉田内閣総辞職。鳩山内閣成立。

・この年に亡くなった人にはこんな人も…。本多光太郎。相馬愛蔵。岸田國士。伊東忠太。来栖三郎。福井英一。初代中村吉右衛門。御木本幸吉。尾崎行雄。吉田茂。オーギュスト・リュミエール。ロバート・キャパ。アラン・チューリング。シドニー=ガブリエル・コレット。アンリ・マティス。ライオネル・バリモア。ヴィルヘルム・フルトヴェングラー。

◎皇居参賀38万の群衆が将棋倒しで混乱、17人が死亡。
◎青函連絡船「洞爺丸」が、台風15号の函館湾で転覆沈没。死者1155人。
◎私鉄総連が賃上げスト。
◎近江絹糸、人権争議でスト。日鋼室蘭争議でロックアウト。
◎国鉄、青函海底隧道(青森三厩=北海道吉岡)起工式。
◎帝都高速度交通営団(東京メトロ)、戦後初となる地下鉄(池袋=お茶の水)開通。
◎築地市場でマグロから強い放射能が検出され、400トン以上を廃棄処分。
◎日航、わが国初の国際線、東京(羽田)=サンフランシスコ線開設。
◎円未満の小額通過の廃止。
◎武田薬品が「アリナミン」を発売、ビタミンブームの引き金に。
◎大阪東区法円坂町で難波宮跡発掘発見。
◎広島、平和記念公園が完成開園。
◎国立東京第一病院に、人間ドックを開設。
◎プロパンガスが家庭に普及し始める。
◎ヒロポン中毒患者20万人、と厚生省が発表。
◎日光のいろは坂が開通。

◎ロンドンの世界卓球選手権大会で日本が男女とも団体優勝。男子シングルスでは荻村伊智朗が優勝。卓球ニッポン。
◎光文社「カッパブックス」の刊行開始。
◎蔵前国技館の国際プロレス、力道山・木村組対シャープ兄弟の試合をNHKと日テレが中継放送。
◎マリリン・モンローが来日。
◎洋画の日本語吹き替えの第1号、ディズニーの「ダンボ」封切。
◎東京・六本木に俳優座劇場が開場。
◎文藝春秋「漫画読本」を創刊。
◎「暮しの手帖」が、誌上商品テストを開始。
◎日本ビクターがEPレコードを開発。45回転録音機も登場。
◎NHKテレビで、竹越美代子・小池幸の美容体操を放送開始。

■流 行:Hライン・美容体操・プロレス・ヘップバーン=スタイル。
■テレビ:今晩はメイ子です・こんにゃく問答。
■邦 画:黒沢明/七人の侍・木下恵介/二十四の瞳・本多猪四郎/ゴジラ・河野寿一/里見八犬伝。
■洋 画:ウィリアム=ワイラー/ローマの休日・アンソニー=マン/グレン=ミラー物語・ウィリアム=フリードキン/恐怖の報酬・マルセル=カルネ/嘆きのテレーズ・ルネ=クレマン/しのび逢い。
■ 歌 :岡本敦郎/高原列車は行く・旗照男/愛の賛歌・春日八郎/お富さん・菊池章子/岸壁の母・原爆許すまじ。
■ 本 :伊藤整/文学入門・女性に関する12章・三島由紀夫/潮騒・中村武志/目白三平。
■ことば:死の灰・三種の神器。

❖年表の元ネタ主な参考資料三省堂『コンサイス世界年表』三省堂編修所編。河出書房新社『昭和・平成 家庭史年表』下川耿央・家庭総合研究会編。小学館『昭和・平成 現代史年表』神田文人編など。

dendenmushi.gif(2014/11/24 でんでんむし蛇足の記)
  家の回りに若干の畑が広がっていたが、祖父の“にわか百姓”も結構忙しかったようで、よく手伝いをさせられていた。“にわか百姓”のくせに(あるいは“だからこそ”なのか)ずいぶんいろいろな作物をつくっていた。麦や小麦や蔬菜の類は言うに及ばず、サツマイモ・ジャガイモ・コイモ(里芋)の芋類、大豆や小豆の豆類からカボチャやスイカ・ウリ、粟やサトウキビからゴマまでつくっていたが、いつも同時にそれら全部をつくるわけではない。祖父にはそれなりの思惑があったのだろうが、種まき・植えつけ、草取りから始まって収穫まで、作物が違えばそれぞれによっていろいろな作業がある。
 田んぼも少し奥まったところに一枚だけもっていたので、苗代づくりから脱穀まで、米づくりの一通りをそばでちょろちょろしながら経験したのは、今考えてみれば大きい。そのほかにも、タケノコの採れる竹やぶもあり、もっていたのか借りていたのかよくわからないが、柿の木が何本もある山もあった。
 最初は、広かった畑も、だんだんと切り売りしていったので、後にはでこぼこの変な形の畑しか残らなくなってしまうのだが、最初の頃手伝いさせられるのがどうもイヤだったのは、近所の家から下肥を集めてくる作業だった。汲み出すのは祖父がやるがそれを木の桶に入れて天秤棒の片方を担いだり、あるいは手押し車に載せて運ばなければならない。
 ときどきは遠くの肥料工場まで荷車を引いて、魚カスなどの金肥を買いにいくこともあった。そのうち、化学肥料も多少は使うようにはなるが、作物だけをつくっていたのでは自分のところで消費するだけで金にはならない。いくらか、市場に運んでいってわずかなお金をもらってきたこともあるが、相当量がまとまらなければ市場への出荷はあまりメリットもなかったのだろう。
 そこで祖父が始めたのは、キュウリやナスやネギなどの苗を育てて、種苗店に卸す仕事であった。これは硫安を溶いた水をきちんとやらなければ、いい苗には育たない。その水やりも大変な作業だったが、成育の早い作物を毎日見ていると、なにか不思議な元気が湧いてくるような気もした。
 はじめは、いやいややらされていた畑仕事の手伝いも、少したつと自分からの興味も湧いてくるようになる。
 高校生になる頃には、畑の一角に自分の花壇をつくって草花を咲かせたり、ある年などは目の前の小川から川砂を取ってきて、刺し芽からはじめて大輪の菊を咲かせたこともある。
 引退はしたが、祖父のもともとの本職は左官である。だが、祖父の場合は多少は大工もできる。そうした技能を活かすこともあった。前にあった借家も畑もだんだんと手放したが、現金収入のない家はやっていけないと考えてのことだろう。
 畑を潰してそこに借家を建てた。人の力も借りなければならないが、だいたいは自分で差配し自分でやる。どこからか売りに出た古家を買ってきて解体して運んでもらって、また組建て直すのだが、昔の木造家屋はだいたい壁は竹を割って網代に組んだ芯をつくり、土を練って塗り固める。だから、解体しても使えるのは柱などだけで、外壁や内塗壁などは全部新しくしなければならない。だが、それは専門なのだから問題ない。ほとんど一人で家一軒仕上げてしまう。
 これは壁土を祖父のそばまで少しずつ運ぶくらいしかほかに手伝うことはあまりないので、なかなかえらいもんだなあと、感心してみていた。ずっと後のいつだったか、上越国境に近い谷川温泉の有名な一軒宿に泊まったことがあった。そこでは近頃みない立派な塗り壁が、近代建築の中に芸術的にうまく使われていて、その壁をみて祖父を思い出してひそかにジーンとしてしまった。
 戦後はやがてすぐに広島の復興という時期が到来することは、誰の目にも明らかであったはずだから、仕事に復帰してまだまだ活躍もできたはずなのに、どうしてそれをしなかったのだろう。その疑問は、自分が大人になってから改めて抱いた。だが、少し長い目で見れば、土壁塗りの木造住宅という建築様式自体が、急速な変化のなかでしだいに衰退していくことになり、やがて戦前からのそういう建築も、だんだんとすべて新建材をぽんぽんと張り合わせる建て方に置き換わっていくので、将来性があるとはいえなかった。しかし、“総合建築業”に転換していく道もあったわけで、後年には自分がその頃中学生ではなく大人であったなら、祖父を扶けて仕事ができたかも知れないと夢想したこともある。
 中学では、演劇好きの先生が二人もいて、その先生に引っ張られる形で何度か文化祭などの舞台に立った。ブレヒト劇は広島市の旧広島市民球場があったところにあった児童文化会館で演じ、3年の秋にはそこで「夕鶴」の与ひょうをやることになって、猛練習をした。先生が「これなら、山本安英にみてもらえる」とか言うところまでやったのに、なぜかその舞台は突然中止になってしまった。
_----.jpg
タグ:年表
きた!みた!印(28)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:地域

きた!みた!印 28

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:[必須]
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

トラックバックの受付は締め切りました