1139 関岬=佐渡市矢柄(新潟県)暗く寂しい外海府わが身の不幸を嘆くとき云わば語らば浄瑠璃平家 [岬めぐり]
調べてみると、佐渡の人形芝居でこの人が泣きながら語る文弥節『山桝大夫』の「母子対面の場」などの上演は有名だったらしい。元々は盲人だけが語ることで生活も保護されていた佐渡の文弥節は、江戸亨保の頃から人形を伴うに説経人形として演じられていたという。
なるほど、今は少しばかり暗い印象(これは家が黒っぽいのとお天気のせい)もあって、寂しい感じのする外海府の海岸は、昔からずっと寂しかったわけではなさそうで、いろんなことがみんなつながっているのだ…と改めて驚く。
田草川みずき氏の「佐渡文弥節の伝承に関する一考察 付・早稲田大学演劇博物館蔵 佐渡古浄瑠璃録音資料目録」という論文から拾ってみると、以下のようなこともわかった。
佐渡の文弥節は盲人によって伝承されてきたために、いわゆるフシハカセのついた正本がなかったので、1978年からまとめられた『文弥節浄瑠璃集』は、役節に忠実であるとされている北村宗演太夫の語りを参照して新たに記譜された。
早稲田大学芸能研究会が、1972年に行なった佐渡古浄瑠璃の調査で採集した、北村宗演らと矢柄中学校が所蔵していたテープの複写などの録音資料が早稲田大学に残されている。
佐渡でも、表芸としての平曲(平家琵琶)は根強く語られていたようで、佐渡の海府地方の老人たちが、わが身の不幸を嘆くとき、近頃まで「云わば語らば浄瑠璃平家」ということばを使っていた。
上記にある“矢柄中学校”は、今はもうない。その跡地だったとおぼしきところには、外海府活性化センターとかいうものがあった。ここにも中学校(おそらくは小学校も併設)があった時代があったのだということが、夢のように感じられる。皮肉とかではなく、矢柄の活性化はどのように図られているのだろうか。
宗演の生まれた矢柄の海は、三島や大島という小さく低い島や、蟹ガ瀬という岩礁もあり、打帆ガ浦という名まであるところをみると、それなりになにかありそうだが、現在の情報からはなにもわからない。
なくなってしまうのは、中学校ばかりではない。あらゆる伝承や記録も、よほど意識して残す・伝えるという努力がない限り、どんどん消えていくのだ。
関岬は、大船ヶ岬の出っ張りの先端部分についた名である。しかし、矢柄からは大船ヶ岬の向こうになるので見えない。
バスで禿の高トンネルを越えて行くと、この岬の東側に出るのだが、そこからもやはり見えない。見えているようにみえる?のは、烏帽子形岩とこれまた立派な名前をもつ絶壁である。関岬は、その陰に隠れている。
禿の高の台地をもつ大きな出っ張りは、佐渡島の全図でもその飛び出しが目立っているほどだが、この西側からの景色と東側から見たところでは、ずいぶん印象が違う。
これは、灯台から下、北東方向に伸びて関岬と烏帽子形岩に落ちるところが、大船ヶ岬のような急傾斜の断崖絶壁ではなく、ゆっくりとしたスロープになって下っているからだ。しかも、大船ヶ岬と烏帽子形岩の間も、直線距離で800メートルも隔たっている。
烏帽子形岩は、それでも高さ40メートルはある。
西側からも東側からも、関岬は見えないとなると、これももっと北へ行ったところからの遠望で…。
遠望の写真に目立っている三角錐の山は…?
▼国土地理院 「地理院地図」
38.198104, 138.325953
信越地方(2014/05/17訪問)
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