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1940☆『思い出の索引』★でんでんむし@アーカイブス☆わたしたちが生きてきた時代とは… [年表]

 われわれはどこから来て、どこへ行こうとしているのだろうか…? 
  そういう時代のなかで、そのとき自分の親や祖父母は、どこで何を考えて、どう生きていたのだろうかと、いつも考えていた…。ただ、でんでんむしの場合には、記録がほとんど残っていないので、それもわずかな記録から想像をめぐらせてみるしかない。
 やはり、歴史年表と個人の関係は、あまりにも遠すぎる。遠い昔のことはわからないが、それでも近世のことであれば、自分の祖先の誰かもそこに生きてきたというつかみかたも、まったく不可能ではあるまい。『思い出の索引』というのは、読む人見る人によって、さまざまな想いがあふれてくる(かもしれない)…そんな程度のことである。

❖年表の元ネタ主な参考資料:
三省堂『コンサイス世界年表』三省堂編修所編。河出書房新社『昭和・平成 家庭史年表』下川耿央・家庭総合研究会編。小学館『昭和・平成 現代史年表』神田文人編など。

1940mark.jpg昭和15年 庚辰(かのえたつ)
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◯ソ連・フィンランド講和。カレリア半島をソ連が軍事基地に。
◯独、デンマークとノルウェーに最後通牒。デンマークは受諾、ノルウェーは拒否。
◯独、ノルウェーを攻撃し、デンマークを占領。(ノルウェーは、ロンドンに亡命政権。後にノルウェーは降伏)
◯独、ヒトラーが西部戦線での攻撃開始を命令。
◯独、ベルギー、オランダ、ルクセンブルグに最後通牒、奇襲攻撃。
◯英、チェンバレン首相が辞職し、チャーチルの挙国連合内閣成立。
◯オランダ、独に降伏。(ロンドンに亡命政権)
◯独軍がセダン付近でマジノ線を突破。
◯独軍、ダンケルクを包囲。英仏軍はダンケルクから撤退開始。
◯ベルギーが独に降伏。(ロンドンに亡命政権)
◯独軍、ソンムの大攻勢。
◯伊、英仏に宣戦布告。仏領に侵攻。
◯仏、政府がパリからトゥールに移る。さらにボルドーに。
◯独軍、パリに無血入城。
◯仏はペタン内閣へ。ペタン政府が独に降伏。
◯ソ連、エストニア、ラトビアに最後通牒、侵入。
◯仏ド・ゴールがロンドンに自由フランス委員会、レジスタンスを呼びかけ。
◯独・仏休戦協定(伊・仏も)
◯ソ連がルーマニアに最後通牒。一部占領。
◯バルト三国でソビエト共和国。
◯独、英本土への昼間空襲を開始。
◯伊、エジプト侵入を開始し、ギリシャへも侵入。
◯独、ルーマニアに侵入。
◯独ヒトラーが対ソ戦準備を指示。
◯北アフリカで、伊独・英軍が攻防。

◯日独伊三国同盟に、ハンガリー、ルーマニアが参加。
◯仏ヴィシー政権でペタン元帥が国家主席に。(第三共和政の終了)
◯米でルーズベルト大統領が三選。炉辺談話でアメリカは民主主義国の兵器庫となると強調。(その前から国防力強化のため、科学者動員令を発令してレーダーや裨益の開発を進めていた。)
◯仏のラスコー洞窟、遊んでいた近くの村の子供たちによって洞窟壁画が発見される。

◯蒋介石が「全国民に告げるの書」を発表。汪兆銘の勧告を拒否。
◯汪兆銘、南京で親日政府樹立(南京政府)。
◯重慶で国民参政会第五次大会。左右の対立が表面化。
◯◉共産党指導下の八路軍、華北で日本軍に対して大規模な遊撃戦(百団大戦)。
◯重慶政府が米から7500万ドルもの借款を受ける。
◯重慶政府が黄河以南の共産軍に対し、黄河以北への移動を命じる。
◯汪兆銘が正式に南京政府の主席になり、日本が新政府を正式承認。
◯英が1000万ポンドの蒋援借款を提案、ソ連も1億元の蒋援バーター借款。
◯重慶政府が各地の共産党諸機関の閉鎖を命じる。

◉房総沖で英国軍艦が浅間丸を臨検、ドイツ人船客21名を引致(浅間丸事件)。
◉衆議院で民政党斎藤隆夫が軍部の中国での戦争政策を批判。(反軍演説)
◉戦争政策を批判したと衆議院が斎藤隆夫を除名処分に。
◉米穀強制出荷命令を発動。
◉聖戦貫徹議員連盟が各党党首に解党を進言。
◉近衛文麿が枢密院議長を辞し、新体制運動推進の決意を表明。(以後、軍部と右翼の米内内閣打倒、近衛擁立運動が活発化)
◉英大使に、ビルマ・ルート、香港経由の蒋援行為の停止を要求。
◉英、ビルマ・ルートの1か月閉鎖を回答。
◉陸軍首脳部の勧告により陸相畑俊六が辞職により、米内内閣総辞職。
◉近衛文麿、松岡洋右、東條英機、吉田善吾が会談。(首外陸海の四相候補による荻窪会談)第2次近衛内閣成立。
◉閣議で大東亜新秩序、国防国家建設の基本国策要綱を決定。
◉社会大衆党、政友会、民政党の各政党が解散。(議会制民主主義が実質上停止状態に)
◉日本労働総同盟解散。大日本農民組合解散。
◉内務省が町内会、隣保班、市町村常会整備要綱を府県に通達。
◉文部省が中等学校教科書の検定制を廃止、指定制とする。
◉小林一三を特使として、蘭印(オランダ領インドシナ)と会商。
◉日・仏印(フランス領インドシナ)軍事協定成立。
◉日本軍、仏印北部に進駐。
◉米がくず鉄の対日禁輸措置。(仏印進駐への対抗措置)
◉第三回国勢調査。総人口1億522万人余(うち内地7311万人)。
◉総力戦研究所を設置。
◉日独伊三国同盟の締結。
◉大政翼賛会発会式。
◉政府と大政翼賛会が文化思想団体の政治活動禁止を決定。
◉皇紀2600年(紀元二千六百年)祝典を皇居前で開催。
◉御前会議で支那事変処理要綱を決定。
◉日華基本条約に調印、日華共同宣言を発表。
◉所得税法施行規則改正施行(勤労所得の源泉徴収開始)。

・この年に亡くなった人にはこんな人も…。二世市川左団次。初代根津嘉一郎。本因坊秀哉。曾我廼家五九郎。種田山頭火。西園寺公望。パウル・クレー。フレデリック・クック。レフ・トロツキー。ネヴィル・チェンバレン。

◎奈良橿原神宮の正月三が日の参拝者が125万人と、前年の20倍。(2600年ブーム)
◎津田左右吉の『古事記及び日本書紀の研究』など発禁。(記紀批判は皇室尊厳冒涜の大逆思想であると攻撃さる。出版法違反で起訴)
◎東京市で外米6割混入米を配給。
◎拓務省が満州開拓団員の花嫁1万人募集。各婦人団体が花嫁探し行脚。女子拓務訓練所などでは合同結婚式も。
◎6大都市で米、味噌、醤油、塩、砂糖、マッチ、木炭など10生活必需品目の切符制始まる。(マッチは一日一人5本などと割り当て)
◎東京府が食堂・料理屋などでの米食使用を禁止。

◎国民服令が公布される。紀元二千六百年の式典にあわせ、式典、儀式に男子国民服は着用可。
◎国民精神総動員本部、「ぜいたくは敵だ!」の立看板1500枚を東京市内に設置。
◎静岡市で大火(焼失5121戸、死亡4名)。約12時間にわたって燃え続け、鉄筋コンクリートの建物も焼け落ちたが土蔵だけは残った。
◎北海道西岸に津波、漁船1300余が流失。
◎暖房電熱器、家庭用冷蔵庫などの電気器具の使用禁止。

◎小西六が国産初のカラーフィルムを発表。
◎全国で紀元二千六百年の各種式典、奉祝記念行事、提灯行列、旗行列などが行なわれる。赤飯用の餅米も特別配給。
◎11月15日に行事が終わると、こんどは「祝い終わった、さあ働こう」の立て看板に代わる。
◎東京朝日新聞と大阪朝日新聞の題号を『朝日新聞』に統一。
◎帝室博物館で正倉院御物特別展開催(初の一般公開)。
◎人口問題研究所、女子に20歳前後の結婚を奨励など4項目の人口政策大綱を決定。
◎文部省、中学校の制服を男子はカーキ色の国防色、女子は紺色に決める。

◎敵性語追放でタバコも改名(バットが金鵄、チェリーが桜)。
◎ダンスホールを閉鎖。最後の日は超満員。
◎東京隅田川最下流の橋となる勝鬨橋が開通。(中央が船の航行時には跳ね上がる。)“かちどき”の意味は日露戦争勝どき。ここにあった渡しにつけられた名前で、それが橋の名にもなった。
◎内務省が芸能人の外国名、ふざけた芸名禁止を通達(ミスワカナ、ディック・ミネ、バッキー白片、ミス・コロンビア、藤原釜足ら16名が槍玉にあげられる)。
◎講談落語協会、艶笑物、博徒物、毒婦物、白波物などの口演を禁止。

■流 行:女子のなぎなた
■映 画:邦:支那の夜・小島の春・燃ゆる大空・西住戦車隊長。洋:民族の祭典・駅馬車・大平原
■ 本 :織田作之助/夫婦善哉・高見順/如何なる星の下に・会津八一/鹿鳴集
■ 歌 :紀元二千六百年・誰か故郷を想はざる・湖畔の宿・蘇州夜曲・隣組・月月火水木金金。童謡:リンゴのひとりごと
■ことば:新体制・大政翼賛・八紘一宇・バスに乗り遅れるな・贅沢は敵だ・あのねおっさんわしゃかなわんよ

dendenmushi.gif(2014/09/13 でんでんむし蛇足の記)
 ヨーロッパの戦争では、はやくもドイツがフランスのパリまで占領してしまう。日本の大陸での戦線は膠着状態が続く。南京政府を承認はするものの、それが完全に中国を代表していないところに問題があったわけだが…。
 だが、軍部はあらゆる批判を封殺して、仏印への進出をはかり、これで対米関係の悪化は決定的となる。
 神武天皇から仲哀天皇までは実在しないという津田左右吉の『神代史の研究』などの著作を発禁にするというのも、天皇の神格化をはかり、それで国民を戦争へ引っ張っていこうとする明確な意図のもとに行なわれる。
 生活の端々までが管理統制され、監視され、すべての贅沢を排す、そういう社会的雰囲気のなかで、生まれてきた赤ん坊は、あちこちからもらった誕生祝いも、一件一件几帳面に記録(これらと数冊の過去帳(葬儀記録)だけが、仏壇の中に入っていて疎開していたため、原爆で焼けなかった。)されていて、その数は80件を越えていた。それは、祖父の仕事によるつきあいが多かったのだろうと思われる。
 端午の節句にも、この当時としてはかなり“贅沢な”初節句を祝ってもらっていたようだ。幸い、まだ誰かに密告されるというようなことはなかったらしい。(冗談ではなく、もう少し後にはそういうことになっていた可能性があった。)
 親戚の家にあって焼け残っていた祝いの宴席の写真からは、床の間いっぱいに鎧兜に座敷幟、旗指し物、弓矢、刀、鯉のぼりに張り子の虎、その他鍾馗さん、五月人形などが、所狭しと飾ってあったことがわかる。
 “贅沢は敵だ”もそうだったのかどうか、この時代に活躍したコピーライター、いや、広告宣伝文案考案作成者は、確か花森安治だったと、何かで読んだ記憶があるが、同時に彼は陰では“贅沢は素敵だ”と言っていたとかなんとか…。
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