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1916☆『思い出の索引』★でんでんむし@アーカイブス☆わたしたちが生きてきた時代とは… [年表]

 われわれはどこから来て、どこへ行こうとしているのだろうか…。この言葉の初出は、バルザックとかカーライルの『衣服哲学』とかいわれるが、はっきりしない。有名なのはゴーギャンの「我々はどこから来たか 我々は何者か 我々はどこに行くのか」と題する絵(1897年制作)。そのゴーギャンも『衣服哲学』を読んでいた可能性が大きいというので、カーライル説が有力らしい。
 ただ、ここまで広く人口に膾炙して有名になると、元々が基本的・根源的な問いでもあるので、誰が言ったかを問題にすることもない、ともいえる。
 そういうことで、まあ臆面もなく使えるわけで…。

1916mark.jpg大正5年 丙辰(ひのえたつ)
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◯連合軍がガリポリから撤退開始。
◯ツェッペリンがパリを初空爆。
◯ヴェルダンの攻防戦(仏軍がベルダン要塞を独軍の猛攻から死守。守将ペタン。35万の犠牲をだす)。
◯袁世凱が帝位につき洪憲元年を宣言するが、日本は再度帝政の延期を勧告。
◯各地に反袁の動きが表面化、袁世凱が帝制を断念。
◯独立宣言が各地で起こるなか、袁世凱は死去。
◯アイルランドのダブリンで武装蜂起。共和国を宣言するも鎮圧(イースター蜂起)。
◯米海兵隊がドミニカ共和国に侵攻し、軍事占領。ハイチでも軍政を敷き軍事占領を継続。
◯英仏露がアジア・トルコ分割の秘密協定。
◯英仏間でサイクス・ピコ協定を密約(オスマン帝国領分割)。
◯独ブルガリアがマケドニアのルーベを占領。
◯ユトランド沖で英独の艦隊が衝突。(ユトランド沖海戦)
◯ソンムの戦いで英仏軍が総反撃。英がこの戦線で初めて新兵器“タンク”を投入。死傷者は英40万、仏20万、独45万。
◯露と協定したルーマニアが独に宣戦。独もこれに対抗。
◯伊が独に宣戦。ギリシャも独ブルガリアに宣戦。
◯東部戦線ブルシロフ攻勢開始。
◯露ペトログラードで反乱水兵の裁判に反対する労働者3万人がスト。
◯米が大戦和平会議の斡旋に乗り出し、独が交渉の意思を米大統領に伝達。
◯ボーイング社が自社製飛行機の初飛行に成功。
◯露黒竜鉄道(シベリア鉄道)開通。
◯第6回ベルリン・オリンピックは世界大戦のため中止。
◯アルベルト・アインシュタインが一般相対性理論の定式化を発表。
◯チャップリンが世界最高額のギャラで映画会社と契約。

◉鄭家屯で日中軍が衝突、日本軍の死者11人。新家口でも日中両軍が衝突。
◉横須賀に海軍航空隊。
◉加藤高明、原敬、犬養毅の三党首が会談、元老排斥・政党政治確立を約す。
◉西尾末広らが大阪で職工組合期成同志会を結成。非知識階級による組合活動をめざす。
◉全国記者大会で閥族・官僚政治排撃を決議。
◉日独戦争で元老・大臣・外交官・陸海軍人に論功行賞。続いて貴衆両院議員・各省文官など、総数12万人にものぼり、濫賞の非難起こる。

・この年に亡くなった人にはこんな人も…。上田敏。桃中軒雲右衛門。夏目漱石。大山巌。袁世凱。ヘルムート・ヨハン・ルートヴィヒ・フォン・モルトケ。

◎横浜に入港した船でコレラが発生。この年の死者7482人。
◎大杉栄と伊藤野枝、三角関係のもつれで神奈川県葉山村で神近市子に刺され重傷。(葉山・日影茶屋事件)
◎女性の写真だけで結婚してアメリカに移住する写真結婚が1407人。米議会に禁止法が提出される。
◎今村大平治が東京菓子(後の明治製菓)創立。
◎丸善が墨汁に続いて、万年筆用のアテナインキ発売。
◎函館で大火。
◎福岡若松で定員オーバーの渡船が沈没。130人が死亡。
◎呉海軍工廠で、初めての国産潜水艦完成。
◎長崎・端島(後に軍艦島と呼ばれる)に、初の鉄筋コンクリート高層集合住宅建造。海水を利用した水洗便所も。
◎北海道の丸玉鈴木商会が、ベニヤ板の製造を開始。ベニヤ工場が多数誕生する。
◎京都電灯が日本初となる家電店「電気の店」を開店。電灯、電熱器具、扇風機などの最新電化製品を販売。
◎東京の“渡し”は13。このうち“月島の渡し”と“勝鬨の渡し”は市営で無料。
◎東京・隅田川のシラウオが姿を消す。

◎竹久夢二美人が人気。
◎タゴールが来日。
◎男性の帽子、前年までの鳥打帽子に代わって中折れ帽子(ソフト)が流行。
◎中央公論社『婦人公論』創刊。
◎『中央公論』に吉野作造が「憲政の本義を説いてその有終の美を済すの道を論ず」、大正デモクラシー運動を開始。
◎倉田百三『出家とその弟子』。
◎森鴎外『高瀬舟』。
◎河上肇『貧乏物語』(大阪朝日新聞)。
◎夏目漱石死去(50歳)で連載中の『明暗』188回で終わる。
◎「自来也」忍術映画が人気。

dendenmushi.gif(2014/07/27 でんでんむし蛇足の記)
 第一次大戦の特徴は、開戦の複雑さ不可思議さと、大量消耗戦を続けたということにあると思う。この年の、海上でのユトランド沖海戦と、陸上でのヴェルダンの攻防戦やソンムの戦いでは、どうしょうもなく無能な戦争指導者のせいもあって、無益な消耗が繰り広げられていく。
 ユトランドでは独艦隊にはるかに勝る英艦隊が、独を上回る犠牲を出して、どちらが勝ったかの議論まで巻きおこる。
 塹壕線が飛び出していたヴェルダンに目をつけた独軍は、これに三方から猛攻を加えるが、第二次大戦でも出てくるペタンがとった縦深陣地戦術で、なんとか守り切るものの両軍とも大きな犠牲を払う。
 ソンムの戦いでは、一日の戦死者19240人、行方不明者2150人、負傷者57470人という最高記録をつくってしまう。
 新兵器が続々と生み出され、人が人を大量に殺戮するのが平気で行なわれる時代になっていく。
 日本が国庫破綻寸前まで追い詰められた日露戦争では、100万発の弾薬が消費されたというが、ヴェルダンとソンムでは実にその20倍の2000万発の弾丸が飛び交っている。
 前の1915年の項で、祖父の結婚を“できちゃった婚”か、と書いたのだが、この頃は現在のように結婚式当日に婚姻届を役所に出すという習慣はなかった。戸籍上の手続きは、ずっと後に行なうこともめずらしくはなかったのである。父はこの第一次世界大戦が始まった翌年に生まれているのだが、その長男のでんでんむしは第二次世界大戦の始まる前の年に生まれている。
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タグ:年表
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