番外:狩俣=宮古島市北部の集落(沖縄県)大きな石門のあるそこには独特の歴史が刻まれていた [番外]
現在の地名表示では、一律に「平良」とされているが、宮古島の北部は「狩俣」という地域である。池間大橋が架かる前の地図で見れば、そこはちょうど、でんでんむしが二本のツノを出してそろりと首を伸ばしたようにも見えたであろう。
それくらい、細長く北西方向に伸びた半島は、広いところでも幅1キロ程度で、北東側の海岸線に沿う50メートル足らずの小高い丘が、これまた細長く続いている。南西側はほとんど平地といっていいくらいの緩やかな斜面が海に落ちる。狩俣の集落は、そのほぼ中央、東の丘を背にするようにして固まっていて、そのほかは整然と区画された農地が広がっている。
集落の間を通る県道を走り抜けてしまえば、比較的新しい家や建物も並ぶとくになんということもない、人影もない静かな集落である。
いちおう池間島まで渡って、雨と風の吹き始めた池間大橋を戻って、帰りのバスを待つためにバス停のある狩俣まで、てくてく歩いてきた。その距離およそ4.5キロ。
雨はまだら模様で、途中降ったかと思うと、集落に着いたときにはまださほど激しくはなかった。それが、だんだん激しい雨になっていき、バスに乗るだいぶ前からは、ガレージの軒先を借りて雨宿りをしなければならないほどになった。
しかし、狩俣の集落内は、雨がひどくなる前に、ひとめぐりめぐってきた。そこで、思いがけないものに遭遇したのである。
具体的には、集落の東南の入口付近にあった、道路にまたがる大きな石の門であり、集落の歴史を語る古い昔の井戸と遺跡と立て看板である。
まったく、予想外のことで、これにはいささか驚いた。
それをちゃんと咀嚼して紹介するには、あまりにも材料が不足しているうえに熟成もしていない。
そこで、それぞれに立っていた案内の立て看板の記述を、そのまま紹介しておくことにしよう。
その看板だが、通常はこういうものは市の教育委員会とかが立てるものが多く、それが普通でもあるのだが、ここのはそこからして異なっている。立てたのは集落の住民みずからで、黒地に白い文字の看板には、“狩俣自治会”とあった。
まずは“自治会指定文化財”という「東の大門(あーぬ ふじゃー)」の紹介文から。
自治会指定文化財
東の大門(あーぬ ふじゃー)
狩俣集落は古い時代に系統の異なる三つの小集団が渡来し定住した。時代がすすみ住居が増えると、散在していた人々は暮らしの便や安全をはかる上から集落をつくり、まわりを石垣で囲い東、西、北に石門を設け居住区域を限定し外敵に備えた。こうして島内では他に例のない「城郭集落」が形成されたのである。
人口が増加すると居住区は前方に広げられ、門の場所も約五十メートル先(現位置)に移された。(写真)。この石門は「あーぬとぅーりゃ(東の通門)」とも呼ばれ、集落の表門にあたる主要な出入口で、昔から村の伝統的な祭事と深くかかわってきた。戦後集落内の交通事情により撤去され、その後コンクリート製になったが老朽化したため、今回建てなおすに当たり、元の形に戻すべく旧来の工法で地元の石材を用い一回り大きめに復元した。
伝承によれば「城郭集落」を構築した中心人物は、十四世紀ごろ中国からやってきて狩俣で一生を終えた「くばらぱあず」という人物で、神通力をもつ占いの名人、預言者であったという。中国の陰陽道に通じ、風水や易学の知識を有し、石工・木工の技にも長けていたようである。「くばらぱあず」は狩俣では「すまぬぬす(島の主、村の守護神)」として崇敬されている。石の大門は狩俣集落の発生と変遷を知る上で貴重な存在である。歴史民俗文化財として後世に遺したいとの思いからこの度建立した。
2010年4月 狩俣自治会
この、1923年、鎌倉芳太郎氏撮影の写真に、写っている人の姿…。
歴史民俗文化財
ナーンミ・ムトゥ(仲嶺元)
ナーンミとはこの付近の里の地名である。狩俣には昔から大小五つの祭祀集団があって、それぞれの先祖神を祀る祭事行事が古式にのっとって行なわれてきたが、伝統的なこれらの祭事・神事は社会の変化にともなってほとんど途絶えてしまった。ここナーンミ元は村落の神事ではウプフム元、ナーマ元、シダディ元に次いで四番目に格付けされる。祭神はミズヌヌス(水の主・水の神)で水に関する祭神はこのナーンミ元を中心に行なわれた。伝承によれば、この元の祭神はシダディ元の農耕神・鍛治神と同じ系統の渡来人といわれている。大神島を経由して今の狩俣集落南西海岸のターヌビータ(田の浜)から上陸した渡来人の一行は、 アーヌカー (東の井戸、ズーガーともいう。東の石門に近い自治会指定文化財)の水源を発見し定住を決める。この水源を守るためにおかれたのがナーンミ元の水の主であると伝えられている。水資源の乏しい狩俣には、生活用水の確保に苦労した人びとの長い歴史がある。天を仰ぎ、ひたすら降雨を祈り、雨乞いのクイチャーを踊った人びとの姿は、戦後上水道が普及するまでよく見られたものである。狩俣の「暮らしと水」の歴史を考える上で この地は大切にしたい。
なお、拝所周辺にはテリハボク、フクギなどの古木が多く見られる。村の保存木としてこれも大切に見守りたい。
2012 (平成24)年 10月 狩俣自治会
民俗文化財
アーヌカー (東の井戸)・ズーガー
水資源に乏しい宮古島、なかでも狩俣地区は三方を海に囲まれた岬状の地理的環境にあって水事情は厳しく、古くから人々は水の確保に苦労した。
伝承によれば狩俣地区の発生は渡来人による泉の発見(ウプグフムトゥの始祖神)によって始まるが、ここの水源も大神島を経由して狩俣に渡来した人々によって発見された。この水源を見つけて村立てを決めた渡来に一部は現在のナーンミムトゥの地に住み、ミズヌヌス(水の主・水の神)として水源を守り、他は背後丘陵下方のシダディムトゥの地に定住し、ユーヌヌス(豊穣神・農業神)となった。
狩俣地区の地形は小規模の起伏が多く、v字形の地形では表面水流と地下水が合わさって泉ができる。初めは足場の悪い自然の傾斜を水口まで降りて汲み上げたが、やがて石段を設け取水の便をはかる。この井戸は1920年ごろまで20段の石段のあるウリガー(降り井)であった。その後、水口の底部から円形状に石を積み上げ、周りを埋めて現在の形になった。このような井戸の構築法は狩俣地域で他にも多くみられる。家庭の生活用水の確保はもっぱら婦女子の務めで、渇水期には未明から順番待ちで汲まなければならなかった。集落に上水道が引かれたのは1965年。それまでこの井戸は村に生命の水を恵みつづけ、時にもはンマリミズ(生まれ水・産湯)、また末期のスニミズ(死に水)として用いられるなど暮らしと深くかかわってきた。アーヌカー(東の井戸)ともズーガー(地の井戸)とも呼ばれているこの井戸は狩俣の歴史民俗を知るうえで貴重な遺跡である。
2012/3 狩俣自治会
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24.913713, 125.268059
沖縄地方(2014 /02/19訪問)
タグ:沖縄県
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