1086 岩崎=石垣市平久保(沖縄県)平久保半島の東側は道もないのでなかなか行けそうにないが… [岬めぐり]
平久保の岩崎は、浦崎からは南に2キロほど下ったところにある。といっても、浦崎にも入れなかったくらいだから、岩崎にも行く道はない。
おそらく、まったくないわけではないのだろう。地理院地図にも点線の二重線で示された道が、平野の集落の東から放牧場の山裾寄りを通って南に下っている。その点線の道も岩崎には行かず、ひたすら南に向かってどこまでも続いているようである。
オフロードの車高の高い車ならなんとか走ることができるとか、トレッキングで歩くとかはどうにかできそうなのだが、それはまた別の機会の楽しみにしておこう。
いずれにしろ、この道は入口さえわかれば勝手に入って歩ける道なのだろうか。このあたりは一面、放牧場となっていると、地理院地図の表記でわかるが、ほかに集落もなければ人家もないようである。
平久保の半島は、フライパンの把手のように、石垣島の野原崎と浦底湾を結ぶ線から、北北東に19キロも飛び出している。この把手には途中でくびれている箇所が二か所もあり、今にも折れてしまわないかと心配なほどである。このくびれをもって島と島がつながった陸繋島だとする説もあるようだ。陸繋島というのは、島と陸地が波浪や海流の影響などで砂州でつながるというものだが、このくびれ、地図でみる印象とちがっていて、実際には結構高度もあって、その陸地は砂州でできたようには思えないほど背骨の凹みくらい頑丈そうだ。つながったとしても、それは隆起によるもののような気がする。
まずひとつのくびれは、玉取崎と野底石崎を結ぶ線の北側で、伊原間の東海岸と伊原間湾の切れ込んだところの間は、290メートルもないくらいである。もうひとつは、明石(あかいし)の集落のところで、ここでは730メートルくらいの幅になっている。
ふたつのくびれのところだけは、山が切れているが、半島の背骨は200〜300メートルの山並みが筋のように連なっている。
その山並の北端が、どう読んでいいのかわからない山当山(246メートル)を中心とする山塊である。その山は、50メートルくらいの高さからはなだらかな広い斜面になって東の海に落ちている。
この斜面が、すべて放牧場になっているようだ。平久保崎のところにもあった放牧場は、平野の浦崎から岩崎、安良崎を経て明石までと、トムル崎から南も伊原間にかけて、平久保の半島のとくに東海岸のほとんどは、この放牧場なのである。
八重山の歴史でもふれたが、石垣島の牧場経営の歴史は古い。オヤケアカハチとほぼ同時代に、この平久保で勢力をもっていたのが、平久保加那按司という人物がいた。彼はこの平久保でウシやウマを数百頭も飼育していたと、「慶来慶田城由来記」という記録にあるらしい。
この慶来慶田城(けらいけだぐすく)自身は、西表島の豪族である。西表島の豪族の由来記に、なぜ平久保の按司が登場するのか。慶来慶田城は、石垣島越しに宮古島の仲宗根と結託していたようで、そのためその間で途中に出っ張っている平久保がなにかと目障りである、というのでこれまた策を弄してこれを攻める。それで攻め滅ぼした相手として、慶来慶田城の記録に残ったのだと推測できる。
しかし、15世紀後半にこの平久保で、大量のウシやウマを飼って、どこにどういう需要があって、牧場の意義があり経営が成り立っていたのだろうか。それも考えてみると、いささか不思議でもある。
琉球のグスク時代は、本土では鎌倉・室町時代の頃で、琉球王朝による統一以前は各地に豪族が跋扈していた。按司(あじ)というのはその支配地の名を冠して使われた敬称のようでもある。それが王朝の位階にも使われてきと、というのが正解に近いのだろうか。ちなみに、琉球王朝の位では、按司は王子の次に位するというのだから、その身分は決して低くなかった。
だが、それにしてもと、素人の疑問は続く。なぜ、平久保加那按司だけが按司で、オヤケアカハチや長田大主や仲間満慶山はそうでないのだろうか…。
岩崎は、現在の地名表示では石垣市平久保ではなく、石垣市伊原間に含まれる明石の海岸からの遠望だけである。明石海岸の南端のほうは岩場になっていて、地元ではアーサーと呼ぶアオサ取りに余念のない女性がひとりだけいた。
▼国土地理院 「地理院地図」
24.587652, 124.340567
沖縄地方(2014/01/28訪問)
タグ:沖縄県
コメント 0